椿村、その由来

結城暁

第1話

 昔々、その昔。まだその村が椿村とは呼ばれていなかったころのことにございます。

 けれども、その村にはたくさんの椿が植っておりまして、冬でも緑が多く、雪が降る中に咲く赤い椿の花はたいそう鮮やかでありました。ですから、のちのち椿村と呼ばれるようになったのでございます。


「前回から二十年……。ついにこの日がやってきてしまったわけだが……」

「ああ……」

「うん……」


 村長の家に集まった面々は重苦しい空気の中、俯いていた。

 そのうちのひとり、捨吉はいったい何が始まるのだろう、とおどおどしていた。身寄りのない捨吉は村ぐるみで面倒を見てもらっていた。村のみんなはいつだって親切であったけれど、大事なことを決める場に捨吉を呼んだことは一度もなかった。ようやく大人たちの仲間入りをさせてもらえるのだろうか、と捨吉は周囲を窺う。誰も彼もが暗い顔をしていた。


「あー……、捨吉も十八になった。大きな病もケガもせず、働き者で、よく気がつく。上背もあるし、うん。……見目も悪くない、うん」


 周囲の村びとたちもそうだな、と小さく頷きあった。

 村長が捨吉の両肩に手を添え、沈重な表情で、すまない、と言う。捨吉はああ、と絶望がゆるゆると足もとから這い上がってくるのを感じた。

 捨吉という名前。身寄りのない子どもを養育するその意味。考えないようにしていたって、どうしても考えてしまう自分のいく先。

 自分は、生贄になるのだ。


「すまない、捨吉。真白ましら様の嫁になってくれ」

「……は?」


※※※


 真白は村近くの山一帯を縄張りにしている大猿で、雪のように白い毛皮の持ち主だった。時々、村から見える崖上に姿を見せることがあり、捨吉もそれを見たことがあった。

 遠目にもわかるほど上背の大きな猿が、おそらく陽の光を浴びていたのだろう、じっと座っていて、陽光に照らされた毛皮が輝いていたのを覚えている。

 年に一度の村の祭りにも人の姿で参加する気の良い、酒好きの神だとばかり思っていたが、まさか、人間の、しかも男を嫁にするような神だったとは。

 いや、と捨吉はかぶりを振った。

 もしかしたら捨吉が知らないだけで、真白は雌……女性なのかもしれないし。


「でも、そしたら婿って言うよなあ……」


 捨吉は頭を抱えた。親なしの自分が嫁を貰えるとは思っていなかったが、まさか、自分が嫁になる日が来ようとは。


「嫁って……、嫁って……家のことをするだけ……じゃない、よな? やっぱり……」


 真白は村の男の誰より縦も横も大きい。見上げるほど立派な体躯の持ち主だ。生半な女人では夫婦の営みを成すのは難しいだろう。


「だからって男を選ぶとか……。恨むぜ真白様……」


 しかし、と捨吉は再びかぶりを振った。十八年間育ててもらった大恩ある村だ。逃げ出す気はない。

 真白だとて、温和で気安く、山に入るときにはさりげなく見守ってくれるし、村が困っていればすぐ手を貸してくれる、やさしい、これ以上ないくらいの守り神なのだから。だから……。


「嫁になるくらい……! くらい……! でき……でき……できるかああ!」


 叫んで、己の未来に待っている事実を再確認した捨吉は板の間に蹲った。しばらく唸っていると、家の戸を叩く者がある。

 気分が沈んだまま捨吉が戸を開けると、そこにいたのは年が近く、親しい間柄の長次だった。捨吉と同じくらい沈痛な面持ちで、長次は気まずそうに小さな皮袋を差し出した。手のひらに収まるほど小さいが、中身が入っているようで長次の手のひらでわずかに形を変えた。嗅ぎ慣れた匂いに捨吉は小首を傾げた。


「これ、村長達から……」

「椿油だよな? 餞別か?」

「うん、まあ、うん……」

「油なんて貴重なもんをなんで真白様じゃなくて俺、に……」


 つう、と嫌な汗が捨吉の頬を伝う。長次がさらに視線を逸らした。


「その……真白様に嫁いでから…………夜に使うだろう、って……」

「ヨルニ」


 捨吉の眼から元より消えかけていた光が完全に消えた。長次の眼も澱んでいた。


「も、もちろん、餞別はこれだけじゃないぞ。これは持ち運びし易いようにって……うん、そういうアレだ。輿入れの時に壺で納めるし、祭りのときにも毎年納める予定だし……うん」

「そっか……。嫁入りの予定があったから、みんなあんな熱心に椿の世話をしてたのか……はは、ありがたいな…………」

「うん……そうみたいだな…………」


 二人とも口を噤んだ。なんとも言えぬ沈黙がしばし二人のあいだに垂れ込める。


「その……捨吉、俺はなんと言ったら、分かんねえんだけども……」

「おう……」

「真白様はおやさしいおかただから……。ご無体なことをなさるおかたではねえから……」

「おう……」


 俺、頑張るよ、と捨吉は目元を拭って力強く答えた。


「……誠心誠意、真白様にお仕えするよ」

「ありがとう、ありがとうな、捨吉……!」


 言って俯いた友が震わせた肩に捨吉は気付かないふりをした。自分も肩を振るわせていたから。


※※※


 嫁入りは捨吉の想像よりも随分とあっさりしていた。

 聞いていたように嫁入り行列も宴もなく、けれど真白がわざわざ村まで捨吉を迎えに来てくれて、人の足には辛いだろう、と長持ちを持ってくれさえした。

 捨吉は真白の頼もしい背中から眼を逸らした。

 こんなにやさしい、良い神様なのに、何故……!


「いやあ、君が来てくれて良かったよ。前の子は私の不勉強で体を壊してしまってね、それで村に帰したのだけれど、さすがにそんな体たらくですぐ次の子を、なんて図々しいだろう? きちんと人体のことを勉強してからじゃないと、わざわざ来てくれる村の子に申し訳ないし、何かあったら私も怖いしね。時間がかかってしまったけれど、ちゃんと君達のことは勉強したから、安心して欲しい」


 捨吉は蚊の鳴くような声で相槌を打った。


「そうそう、わざわざ私のところに来るために準備をしてくれたとか。気を使わせてしまって、すまないね。身ひとつで来てくれてもいいように、私のほうもいろいろ用意したけれども、不足があれば遠慮なく言ってくれ」

「は、はい……」


 や、やさしい。この上なくやさしい。はちゃめちゃにやさしい。

 捨吉はいよいよ腹を括った。こんなに善い神様のためになら、俺の尻のひとつやふたつ、喜んで差し出そうじゃないか! 大丈夫だ、村の女達が世話を焼いて教えてくれたあれやこれやと、やさしい真白がいればなんとかなる!

 とりあえず裂けませんように、とお守り代わりに懐に忍ばせている椿油入りの皮袋に祈った。


「今日は疲れただろうから、明日からよろしくね。くれぐれも無理はしないように。君達は神々わたしたちのように体が丈夫じゃないんだからね」

「は、はい」


 真白のやしろとその周辺を案内され、よく来てくれたと真白手製の夕飯をいただき、風呂を勧められ、用意されていた綻びがひとつもない着物に袖を通した捨吉は、寝所の布団の上で放心していた。

 それじゃお休み、と閉められた襖をしばらくぼう、と眺めたあと、捨吉は布団に倒れ込んだ。


「やっぱり……すげえやさしい……」


 その夜、捨吉は初めてのふかふか布団に感動しながら眠った。


 翌日からの捨吉は掃除に薪割り、炊事洗濯、真白に任された畑仕事にも精を出した。

 頼まれれば針仕事だってこなしたし、釣りや狩りに出たりもした。じっとしているのが苦手なものだから、機織りだけはうまくできなかったが、それ以外は大層頑張った。

 その甲斐あって、真白の機嫌はいつだって良かった。にこにこと笑って「ステキチに来てもらって良かった」と言うのだ。褒められれば嬉しいものだから、捨吉はより一層真白のために、と張り切るのだった。

 しかし。しかしである。

 夫婦らしいやりとりは一切なかった。昼も夜も真白の態度は変わらず、夫婦というより、主人と奉公人の間柄であった。

 この後に及んで尻込みしてしまい、初夜もそれ以降もないならないでいいかな、と思っているので別段、それは構わないのだが、餞別、嫁入り道具と称して貰った椿油の壺がまだ一滴も本来の用途で使われずに置いてあるのだ。

 捨吉や真白の髪を整えるのに少量を使わせてもらったが、本当に微々たるものである。このまま腐らせるのももったいないので、他の用途を考えているのだが、しかし、万が一、いざという時が訪れた時にないのでは困る。とても困る。

 捨吉は藪蛇になりませんように、と真白に尋ねることにしたのだった。


「あの、真白様」

「ん? 何かな」

「その………………俺が真白様に嫁いできて三月が経ちましたが」

「え?」

「はい?」

「い、今、なんて言った?」

「え、俺が真白様に嫁いできて三月が経ちましたが……」

「待って、ちょっと待って」

「は、はい」


 今までにない様子で狼狽える真白に捨吉も慌てて居住まいを正した。


「あの……あのね、あの……」

「はい」

「君が、私に嫁いだ、って……どういうこと?」

「えっ」


 捨吉も、それから真白もしばらく二人して困惑していた。

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