ピクトグラム

オオツキ スミ

Lesson-01《彼の名前はジョンです》

 中学生になって初めての夏休みが終わるのと同じくして、わたしの恋も終わったのかもしれない。


「彼と本当に付き合ってるんだよね? 本当に夏休みどこにも行ってないのっ?!」


 嶋村香苗しまむらかなえは小学生のときからの友だちだ。遠慮なく、痛いところをぐさぐさと突いてくる。


「だって、部活が忙しかったみたいだし」

「それでも日曜日とか、お盆休みとか、色々あったでしょ?」

「全部、自主練だってさ。あーあ、夏休み終わっちゃったな」


 海にも行けず、花火もできず。何ひとつ彼との楽しい思い出が作れなかった。


 長期休暇が明けたばかりの教室に、クラスメイトが続々と登校してきている。

 教室の後ろのほうで友だちと馬鹿笑いしているのが坂下 健人さかしたけんと――小学校の卒業式のあとに、わたしが告白した相手だ。


「何よ、わたしのことをほったらかしにして」

 あの焼けた肌は、わたしを代償にして手に入れた汗と涙の結晶に違いない。

「まぁまぁ。遊べなくても連絡は取り合ってたんでしょ?」


「毎日おやすみって言ってくれてる」

「なんだ、仲いいじゃん」

「全然だよ。それだけだもん。もっと情熱的な、もっとドラマチックな恋がしたいのに」


 始業のチャイムが鳴って、担任の斎藤先生が教室に入ってくる。

 変わらない先生の顔。わたしと同じように肌はあまり焼けていなくて、夏休み前に時間が巻き戻ったようだった。本当に巻き戻ってしまえばいいのに。

 

「みんな、席について」


 授業を始めるときのように、先生は手を叩いた。香苗かなえは自分の席に戻っていった。


「今日は、皆さんに新しいお友だちを紹介します。《さぁ入って来て!》」


 斎藤先生がいきなり英語を話し出して、教室にピリッと緊張が走る。

 雑談がすべて消えて、クラス中の視線が入り口に集まっている。あまりじろじろと見ないようにと思っていても、やっぱり気になる。


 ドラマのような突然あらわれる王子様。

 金色の髪に高い鼻。瞳は宝石のように透けていた。


 みんなの視線を釘付けにしたまま、堂々とした足取りで歩み、彼は黒板の前に立った。彼がはにかむだけで、クラスメイトからは悲鳴のような、嬉しさが爆発するような、心からの叫びが漏れてくる。


「《簡単に自己紹介してくれるかしら?》」

 斎藤先生は授業のときよりもすらすらと英語で彼に話しかける。


 彼は流暢な英語で自己紹介を始めた。かろうじて聞き取れたフレーズは冒頭の『わたしはジョン』の部分のみだった。


 呆気あっけに取られて静まり返った教室に、ぽろろん、と電子音が聞こえた。手に持った彼のスマートフォンからだ。彼の言葉は、なぜか女性の声で、発音のアクセントが控えめな日本語に通訳された。


「《こんにちはみなさん。わたしはジョンです。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国から来ました。趣味はサッカー。この国の文化を学びに来ました。よろしく》」


「ジョンはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国から来たのよ」

「先生、それってどこですか?」

「イギリスよ」


 イギリスの正式名称、長っ。


「日本に来たばかりで日本語がまだ話せないけど、通訳アプリがあるから大丈夫よね。何かあったら私にもすぐに言って。みんなも色々と教えてあげてね。はい、では拍手っ」


 わざわざ見に来ていた他のクラスの生徒までが涙を流し手を叩き、ハリウッド俳優の来日を目の当たりにしたファンのようにふるえていた。

 わたしは映画のワンシーンでも眺めているような気分だった。自分とは住む世界が遠すぎる存在。何もかもが違いすぎる。自分には関係のない出来事なんだと思っていた。なのに。


「渡辺さんの隣の席は、空いてるよね?」

「へ?」変な声が出てしまう。


 香苗がさっきまで座っていた窓際の机。そういえば夏休み前にはなかったような。

 あんなイケメンがわたしの隣っ!? イケメンの過剰摂取で死んじゃうって。


 わたしの隣の席までやってきたジョンはリュックを下ろし、席に着いた。日本の机と椅子は彼には少し窮屈そうだった。


「《初めまして、ワタナベサン》」


 真っ直ぐに見つめてくる瞳。差し伸べてくる大きな手。ちょこんと手を握り返し、たどたどしい英語で受け答えをする。


「《は、初めまして》」

「《調子はどう?》」

「《元気です。ありがとう。あなたは?》」


 英語の授業で散々、やり取りしてきたフレーズだ。


「《どう思う?》」


 ジョンの返答はテンプレートから外れていた。簡単な英語で、通訳がなくても意味は何となく理解できたけど、そのあとは『私も元気です』じゃないのかと考え込んでしまう。


 わたしが答えに困っていると、ジョンは言葉が通じないと思ったのか、スマホの画面に触れてからもう一度同じフレーズを口にした。ぽろろんと音がする。


「《あなたはわたしのことをどう思いますか?》」

「え? どうって、《とてもとても美しい》かな」


 わたしのなかの知っている英単語を駆使して気持ちを伝える。なんだこれ。顔が熱くなってくる。アテンションがプリーズしそうだ。

 格好いいを突き抜けて、ジョンは惚れ惚れするほど美しい。まるで絵のようだ。


「《あなたも魅力的ですね。まつ毛が長いです》」


 恥ずかしそうな表情をちっとも見せず、ジョンは追い打ちにウインクまでしてくる。致命傷だ。わたしには彼氏がいるのに。


「《あ、ありがとう》」


 ドラマのような恋がしたいと思っていたけど、まさか海外ドラマとは。


 ジョンはわたしに話しかけたように、今度は前の席の男子にも同じように話しかけていた。握手を交わし、調子をたずねている。

「《君もファインか》」


 圧倒的な美男子の存在はたちまち学校中に知れ渡り、学校中に季節外れの春がふたたび訪れようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る