第9話 忍び寄る影(SIDE:魔王軍)

 魔王の間のドアをノックして、イブが入って来た。


「魔王様、内々に、お耳に入れたいことがあります」

「ほう?」


 魔王はその義妹の表情を見て、ただならぬ様子を感じ取ったのか、すぐに人払いをして、魔王の間には、魔王とイブの二人きりになった。


「イブよ。内々の話とは?」


 尋ねられたイブは、周囲をはばかるように数歩前に出て、ヒソヒソと囁いた。


「姉上の件で……」

「パンドラの?」


 一瞬、魔王の太い眉がピクリと反応する。


「はい、姉上はゲイルフォンと――」


 イブは、姉の不貞を密告した。

 彼女の話を聞くうち、もともと青白い魔王の顔は、みるみる真っ赤に染まり、目は恐ろしい青白い光を放ち始めた。


「わかった。この件は私が預かる。お前は何もするな」


 話を聞き終えた魔王は、そう静かな口調でイブに言った。


「下がれ」

「はい……失礼します」


 あまりにも魔王の怒りの表情が恐ろしすぎて、イブ自身には何の非もないはずなのに、彼女は青ざめた顔で震えながら、逃げるように部屋を出て行った。


 廊下を出た彼女が扉を閉じた途端、魔王の間の中から獣のような咆哮が響いてきて、イブは目を閉じ、一目散に廊下を走り去った。







 一方、暗黒騎士ゲイルフォンは将軍として、魔王軍の第四から第十三までの小隊を率いて、人間族の王都テスタリアに向かっていた。


 彼の耳には、このところ、たびたび不穏な噂が届くようになっていた。


 それは『鬼族が反乱を起こそうとしている』という噂だった。


 鬼族は、ゴブリンやドワーフと並んで魔王軍の中では主に前衛の主力として重要な戦力だ。


 魔王軍の第一から第三までの部隊は、全員が魔族で構成されているが、第四以降、つまり今、彼が率いている部隊はすべて、いわば混成部隊。


 魔族だけでなく、各地で徴兵したエルフや獣人、ドワーフ、そして鬼族もかなりの数、含まれている。


 ただやはり、前衛の主力としては鬼族がもっとも戦闘力が高い(特に接近戦では)。

 もし今、この魔王城から遠く離れた場所で鬼族が反乱を起こすようなことがあれば、それを鎮圧することはかなり難しいだろう。


「その噂の根拠はあるのか?」


 ゲイルフォンが尋ねると、参謀は青ざめた顔で頷いた。


「おそらく、スズを追放したことが原因でしょう」

「なにッ! ……またスズか。本当に忌々しい奴だ! なぜ鬼どもが奴にこだわるのだ? あいつは所詮、半鬼半人……純粋な鬼ではないのだぞ?」

「それは、鬼どももわかっています。問題は、その半鬼のほう……つまり、奴の母親です」

「鬼の女王、か……そういえば、そんな噂もあったな。しかし、それこそ何の根拠もない、単なる与太話だろう」

「しかし、時に与太話が、現実を凌駕する時もあります。魔王軍の奴隷として抑圧された鬼族どもが、妄執にとらわれたとしても不思議はない……」

「貴様ッ、ふざけるなよ!!」


 ゲイルフォンは目を怒らせ、参謀の胸倉を掴み、その小柄な魔族を軽々と持ち上げた。


「ぐがっ……げ、ゲイルフォン様!? お、お許しを……」

「そんな……そんなバカなことが、あっていいはずがない! 奴はド田舎の山奥でコソ泥をしていた小娘に過ぎない。『鬼の女王』の娘などでは断じてないのだッ!」

「だ、助け……」


 参謀は、足をブラブラさせてもがいた。

 と、その時、一人の鬼族の兵士がゲイルフォンの元へやってきた。


「ゲイルフォン様!」

「うん? ああ、お前か……どうした?」


 ゲイルフォンは参謀の体を投げ捨て、その鬼兵士に振り返った。その兵士は、ゲイルフォンがまだ十三番隊の隊長だった時からの部下だった。


「伝令に伺ったのですが、ちょうどお話が聞こえたもので……ゲイルフォン様、鬼族の一人としてお伝えしておきたいのですが、我らにとって、彼女は『アイドル的な存在』だったのです」

「……アイドル、だと?」


 ゲイルフォンは不愉快そうに眉をしかめた。きっと、彼の中ではアイドルを崇拝するような男はゴミ以下の存在なのだろう。


 だが、鬼兵士はまったくひるむことなく、目を輝かせて頷いた。


「はい、彼女がいたことによって、我らがどれだけ勇気づけられ、士気を高められたことか……彼女が、今は亡き鬼の女王のご息女なのかどうかは、正直、わかりません。しかし、我ら鬼族にとって、それはもはや、どうでもいいのです。なぜなら、彼女という存在そのものが、我らの生きる希望になっていたのですから」

「ふん、何が生きる希望だ。くらだん……そもそも、奴はとうに死んだのだ。お前たちも、いい加減バカな夢は捨てて、現実を見たらどうだ?」


 ゲイルフォンが不機嫌そうに吐き捨てると、鬼兵士は一瞬、目の奥にキラリと青白い光を灯らせたが、すぐに従順な兵士の表情に戻って、敬礼した。


「はい、その件ですが、先ほど、ラクリマ山脈から戻った偵察隊の報告によれば、どうやらスズさんはまだ生きている可能性が高い、と……」

「なにッ!?」


 鬼兵士の言葉に、ゲイルフォンの表情は一気に血の気を失い、額に汗が浮かんだ。


「き、貴様……寝ぼけたことを言うな! 奴は死んだ! ぜ、絶対に……生きてなどいない! でなければ……俺は……」


 苛立った様子で、自分に言い聞かせるように叫ぶゲイルフォンを、鬼兵士は冷静に観察していた。


「寝言などではありません。偵察隊の報告によれば、彼女はラクリマ山脈で張り込んでいたアサシン部隊を全滅させ、その後、テスタリアに向かったとのことです」

「テスタリアに……? そ、そうか……くくく……なるほど……死にぞこないの化け物め……」


 ゲイルフォンの手が小刻みにプルプルと震えていた。

 彼は床でうずくまっている参謀を睨み、叫んだ。


「貴様、いつまで休んでいるつもりだッ! 今すぐ魔導部隊に伝えろ! テスタリアが射程圏内に入り次第、全魔力を集中させた合体魔法『ギガメテオ』を発動し、一撃のもとにテスタリアを壊滅させるとな! 絶対に……絶対に失敗は許されないぞ!!」

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