明月之朱-The Jewel of Sparkling in Darkness-

catloaf

第1話 夢のお告げ

 雷蔵は心地の良いまどろみの中にいた。緑の香りが混じる暖かい初夏の風が、柔らかなカーテンがするすると滑るように、頬を優しく撫でていく。まだしばらくこの心地よさに浸っていたかったが、まぶた越しに感じる光からは、すでに太陽が随分と高い位置にあることがわかる。平日だろうと休日だろうと、普段は薄暗い時間から起きだして境内の掃除をしているので、こんなに遅い時間まで眠っていることはない。徐々に覚醒し始めた意識の中で、そもそも自分が体を横たえている場所が、昨夜就寝した布団の中と肌触りが明らかに違っていることに気づく。


 そこでやっと目を開けると、見知らぬ草原に仰向けに寝そべっていて驚くとともに、ああついに迎えが来たのか、とも思った。よっこらせ、と掛け声とともに上半身をゆっくりと起こす。最近は体の節々が痛み、思うように動かなくなってきていて、日に日に老いを感じる。死んだ後くらい若い肉体に戻してくれても良いではないかと思いながらあたりを見渡す。


 果てしなく続いているかのように見える一面の草原。急に強い風が吹いてきて、どこからともなく薄いピンクの花びらを運んできた。桜、いや桃の花だった。風はやむことなく、むしろ強さを増していった。花びらが乱舞してあたり一面を埋め尽くすと、目も開けていられないほどだった。呼吸をすると一緒に花びらを吸い込んでしまいそうで、思わず上体を伏せて嵐が過ぎるのを待つ。


 ——すると、しばらくして突然風が止まった。


「ちりん、ちりん」


 鈴の音が聞こえる。恐る恐る顔を上げると、気づけば先ほどまでいた草原ではなく、満開の桃の木々に囲まれた水彩画の中のような世界にいた。風が吹きすさび、花びらが竜巻のように渦巻いていた場所には、突如として東屋が出現していた。


 東屋の中には妙齢の婦人がいて、背もたれつきの椅子にゆったりと座っていた。澄んで、しかしそれでいてよく通る声で、その名を呼ぶ。


「——雷蔵」


 とても懐かしい響きだった。雷蔵はスッと居住まいを正して、深々と頭を垂れる。

蘇芳すおうさま…」


 蘇芳と呼ばれた傾国の美女は、眼前にひれ伏す老齢の男性に視線を遣ると、目元をやわらげて言った。

おもてをお上げなさい」

「こちらに来て、もっと顔をよく見せて頂戴」


 雷蔵はびくっとして一瞬躊躇ちゅうちょしたあと、そろそろと顔をあげて立ち上がり、うつむきがちに東屋に続く階段を一歩、二歩と登って行った。

「こうしてあなたに会うのは久しぶりですね」

「はい、60年ぶりにございます」


 目の前にいる容姿端麗な女性は20代後半くらいの見た目をしていて、その美しさは最後に会った時から色褪せることはなかった。半世紀以上が過ぎ、かたや老いぼれてしわだらけになった自分と、いつまでも若く輝いていて煌びやかな服や宝飾品が良く似合う彼女。正直、年を取った姿を近くでまじまじと見られたくはなかった。


「立派に育ちましたね。遠くからですが、いつもあなたの仕事ぶりは見ていますよ」

蘇芳が、薄く白くなった雷蔵の頭を撫でる。まるで雷蔵が出会った時の子どものままであるかのように。こんなに対照的な二人が同じ空間にいるだけでも不釣り合いなのに、子ども扱いされるものだから、恥ずかしいやらいたたまれないやらで、雷蔵は年甲斐もなくもじもじしてしまうのであった。


「あの、どうしてこのような場所にいるのでしょう?私は死んだのでしょうか?」

「いえ、違いますよ」

驚かせてしまいましたね、と蘇芳が微笑む。


 少年時代、誰しも一度は年上の女性にあこがれを抱いたことがあるだろう。こと、彼女のような美姫びきに笑いかけられて、思慕の念を持たずにいられる男など存在しないだろう。そういうことで、雷蔵は初恋の女性を誰にも話したことは無かった。今ではもちろん、亡くなった妻一筋であるが。


「私の子供の真朱まそおを覚えていますか?」

「じつは、あの子に、月見神社の神使いを譲りたいと考えているのです」

「雷蔵、協力してもらえますか?」


 このように大切なこと、あなただから頼むのです。と言われて断る理由はどこにもなかった。

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