第17話 死闘
頭上に陰りが差した時、私は反射的に地を蹴っていた。考えて理解した上での行動ではない。本能が身体を突き動かして生き延びようとしたのだ。
そして、その甲斐はあった。
寸前まで私の身体があった場所に、オーガが勢い良く落下してきた。耳を聾する凄まじい轟音と共に着地し、土埃を跳ね上げながら膝を曲げて衝撃を流した。
「くっ!?」
着地の余波で飛んでくる細かな土砂の礫を、私は不自然な体勢で身を捩ることで防ごうとした。ビシッ、ビシッ、と土塊の粉粒達がローブの衣を叩き、編み込まれた鋼線の鎧に弾かれ、いくつかはそれらをも搔い潜って下のベストを殴りつけた。微細ながらも連続した痛みが神経を刺激し、私は思わず顔をしかめた。
転びそうになりながらもどうにか体勢を立て直し、私は必死でその場から距離を取る。
あ、危なかった……! 一瞬でも躊躇っていたら、私は今頃オーガの足に踏み潰されてしまっていただろう。
――グアアアア!!
私を仕留め損なったオーガが、雄叫びを発して再び攻撃態勢に移ろうとする。
「させるかァァァ!!」
怒号と共にシェーナが動いた。守護のオーラの形成をカティアさんひとりに託し、腰から光刃を滑らせて刀を抜く。怒れる彼女を包み込む青色の光。専属にして親友である頼れる守護聖騎士が、リョス・ヒュムの《スキル》を開放して一直線にオーガへ肉薄する。
「シェーナっ!」
私は短刀をかざして黒犬達へ指令を伝える。私の意を受けた四頭の幻体が、二手に分かれてオーガを追う。シェーナと視野が重ならないように、大きく円を描くように迂回させて黒犬達を動かした。
三方から己へと迫る影。オーガが足を止めたまま左右に首を振ったのが分かった。どれに対処するか迷ったのなら、こちらの狙い通りだ。
「うおおおおっ!!」
渾身の気合を込めたシェーナが刀を水平に倒しながら突進する。《スキル》を使っているだけあって、彼女の方が黒犬よりずっと速い。瞬く間に間合いを詰め、オーガの懐に踏み入った。
残像を描きながら、刀身の切っ先がオーガの腹部に打ち込まれようとする。私から見ても完璧な軌道、無欠の位置取りだった。今度こそオーガには躱すすべも無いと思ったのだが、やはり現実はそう甘くなかった。
――シャアッ!
オーガの発する短い気合のような声と共に、固い金属同士がぶつかり合う反響音が室内にこだまする。シェーナの突き出した刀の刺突は、オーガの手から禍々しく伸びているサーベルのような爪によって事も無げに防がれていた。
「まだまだッ!」
必殺の一撃をいなされたシェーナは、それにめげず次々と二の手三の手を見舞う。勢いに乗って繰り出される刀の攻撃を、オーガも負けじと爪を振り回して迎え撃つ。
そこへ、遅れて到達した私の黒犬達が左右から躍りかかった。
が、ここでもやはり彼らの攻撃が届く前にオーガが身を引き、獲物を捕らえ損なった黒犬達の牙は虚しく空を噛む。
「逃がさんッ!」
すかさずシェーナが敵の後退を許すまじと追いすがったが、彼女が間合いに入った時には既にオーガも体勢を整えていて、新たに放たれた刀の一振りを余裕をもって受け止めた。
そしてまた、激しい剣戟が繰り広げられる。至近距離で互いの武器を打ち合わせるエルフと魔族の戦いは、いつ果てるともなく延々と続きそうな気さえ起こさせるくらいに重厚だ。
「すごい……!」
刀と爪がかち合う度に生じる刹那の火花に目を細めながら、私は魅入られるようにその戦いを凝視していた。
まさに《捷疾鬼》の名の通り。間近で見る本物のオーガは、《スキル》を開放したリョス・ヒュムのシェーナにも負けない素早さと力の持ち主だった。まるで分身でもしているかのように儚い残像を残しながら各々の武器を振るう双方の姿は、それ自体が一枚の絵画に収まりそうな程に華やかさがある。これが魔族、魔法の本家大本たる魔界の住人なのか……!
戦いでは、シェーナは決して負けていない。こうしている間にも、あのオーガと互角に斬り結び続けている。両者のタイマンは見事な均衡で展開されており、いつ果てるともなくこのまま延々と続くものとも思われた。
「何ぼけっとしてるのよ!」
いきなり腕を掴まれたことで我に返る。振り返ると、余裕をなくした表情のカティアさんが傍に立っていた。そのすぐ後ろにはミレーネさんを負ぶったデイアンさんも居る。
「今の内に逃げるわよ!」
「逃げるって、シェーナを置いて!?」
何てことを言うのか。戦っている同僚を後目に自分達だけ助かろうなどと、名誉を重んじる騎士の口から出た言葉とはとても思えない。私は呼吸すらも忘れてカティアさんを見た。本気で言っているとは、思いたくない。
「仕方ないでしょ! このままじゃ全滅よ! シェーナがあいつを引き付けている隙に、私達だけでも撤退しなきゃ!」
「冗談でしょう!? 友達を棄てて逃げるなんて出来ません! そんなことを考えるより、シェーナに加勢して――」
「今の私達じゃ、あいつには勝てないっっ!!」
カティアさんは喉が裂けんばかりに訴えた。そのまま彼女はシェーナとオーガの戦いを指差す。
「分かるでしょう!? 拮抗しているように見えても、実態はシェーナがどうにか持ちこたえているだけだってことが!」
「え……!?」
私はもう一度目を凝らしてその指先が示すものを見た。
シェーナは、今もオーガと豪快な乱舞戦を演じ続けている。まるで身体の一部であるかのように刀を縦横無尽に操り、オーガが振るう爪の攻撃を尽く弾いている。
が、よく見れば攻撃を放っているのはオーガの方ばかりで、シェーナは防戦一方に陥っていると分かった。《スキル》の影響で発せられる青い光も、心なしかくすんで薄まっているように見える。
押されている……! カティアさんの言う通り、シェーナはオーガに圧倒されつつあるのだ。
「躊躇している場合じゃないわ! シェーナがやられたら、次は私達よ! その前に……!」
言葉で促しながら、カティアさんは強く私の腕を引く。その両方に込められた力から、彼女が本気なのだと嫌でも分かった。
「だ、ダメですよ! カティアさんだって守護聖騎士でしょう!? 逃げるよりも、シェーナと一緒に立ち向かうべきです!」
「さっきの攻防を見て悟らなかったの!? 私とシェーナの二人がかりでも、あのオーガは無理! 私達程度の聖術じゃ、あいつを撃退することは不可能なのよ! 私達が四人だけで先に進んだ理由は何!? 無理に反撃すれば、デイアン達だって危険に晒すのよ!」
「――!?」
私は目を見開いてデイアンさん達を見た。デイアンさんは苦渋の表情で目を伏せている。ミレーネさんは、どうしたら良いのか分からないと言いたげに私とシェーナの方を見比べている。
そうだった。私達の最大の目的は、ミレーネさんの救出。その為に、ブロムさんの意に逆らってまで先を目指した。四人だけでオーガと戦うなんて無謀だって、最初から分かり切っていたことじゃないか。ミレーネさんと、その兄であるデイアンさんさえ無事なら当初の目的は達せられたことになる。シェーナも、カティアさんも守護聖騎士だ。彼女達が何よりも優先すべきは、一般人の安全確保。その覚悟があるからこそ、カティアさんはこうして撤退を口にしている。
シェーナも、覚悟があるからこそ、ひとりでオーガに――!
「……行ってください」
「え?」
カティアさんは、私の言葉の意味を考えあぐねたように首をかしげる。
そんな彼女に、私は強い眼差しを向けた。
「カティアさんはデイアンさんとミレーネさんをお願いします! 私は此処に残って、シェーナを助けます!」
「な、何を言うのよ!?」
カティアさんは動揺しつつも私の腕を離そうとしなかったが、私は逆にその手を掴んで自分の身体から引き剝がした。
そしてそのまま彼女に背を向け、前に視線を戻す。その先では、シェーナとオーガによる熾烈な一騎打ちがまだ続いていた。
「あんた正気!? このまま残っても殺されるだけなのに!」
背中にぶつけられる苛立ちの言葉に、私は振り向かないままきっぱりと返した。
「専属騎士を見捨てたんじゃ、魔術士失格です!!」
啖呵を切ると共に強く一歩を踏み出す。引き絞った弦から放たれた矢のように、私はそのまま一気に駆け出した。
「バカっっ!!」
――ええ、知ってます。カティアさん、どうか二人をよろしくお願いします。
心の中だけでカティアさんに詫びつつ、私は所在なさげに佇んでいた【
『再度散開してオーガに接近、そのまま左右及び後方から飛び掛かれ!』
黒犬達が、心で念じた命令通りに動きの軌道を変える。たちまち遠ざかる獣の後ろ姿を見送りながら、私は短刀を構えた。
オーガが黒犬達の攻撃を受けるにせよ躱すにせよ、あるいはカウンターで蹴散らすにせよ、彼らの対処に時間を割く分僅かながらではあるが隙が生まれるに違いない。そこをシェーナが衝けるならそれで良し。
シェーナが無理なら、私がやる。
短刀を握る手に力が入る。幻体による攻撃は虚でも、この刃物は実物だ。精神ではなく、肉体を深く抉り得る武器。幻術に紛れ込ませて、その一撃を届けてやる。
心の中で意を決したと同時に、黒犬達が間合いに入る。
「――っ!?」
シェーナも、そしてオーガも、忍び寄る黒犬の気配に気づいたようだった。間断なく響いていた剣戟の音が一瞬止み、火花が途絶える。
左右の黒犬達がオーガに飛び掛かる。さっきもやった動き、しかも失敗した攻撃だ。オーガは『またか』と言いたげに難なく飛び退って今度も二頭の牙を躱した。
しかし、その背後から残った一頭が迫ってきていることに気付いていない。完全に視界の外、オーガの死角を衝いた黒犬がそこには居る。
私はシェーナの横を駆け抜ける。咄嗟に、彼女と視線があった。
――任せて。目だけで意図を伝える。長年の付き合いだ。シェーナも交差する一瞬で全て察したようだった。軽く頷き、そのまま弧を描くように回り込もうとする。
私はそれを後目に直進する。眼前に大写しになるオーガの体躯。ギラギラと怪しく光る両の眼が、私に焦点を合わせた。迎え撃とうとこちらに向けられる爪先。
――今だ! 私の心の声と同期して地を蹴る黒犬と、右斜め前方で刀を構えるシェーナ。
無論、オーガは彼女の姿をも視界と意識の中に収めているだろう。だが、背後はノーガードだ。なまじ前と左右の三方からの攻撃が続いただけに、背面にまで回り込んでいる存在が居たとは気付いていない。それこそが、こちらの付け入る隙。
搦め手ではあるが、相手を騙す幻術使いのやり口に他ならない。これが、私の戦い方だ!
――グァッ!?
困惑に彩られたオーガの声が上がる。背後の黒犬が、奴の脚に牙を突き立てたのだ。
無論、幻体なので実際に噛まれてはいない。しかし、オーガの脳がそうと認識し、奴自身の身体を縛る。
そこへ、シェーナが再び間合いに踏み込んだ。
「そこだ!!」
必殺の掛け声と共に振るわれる刀。ほぼ同時に、私も短刀を突き出した。切っ先にあるのはオーガの胴体。このまま突進し、そこを貫く!
息の合った連携。勝った、と心の中で叫ぼうとした。
ところが――
「はっ!?」
目は逸らしていない。瞬きもしていない。
それなのに、視界からオーガが消えた。
代わりに、先細る悲鳴を上げながらくるくると宙を舞う黒い影があった。目を凝らさずとも分かる、あれは私が召喚した黒犬だ。オーガのふくらはぎをしっかりとその牙で捕まえていた筈のあの子が、なんで?
「っ!? シッスル!!」
シェーナの悲鳴が聴こえる。なにか、世にも恐ろしいモノを直視したかのような響きだ。その叫びに釣られるように、私は顔を動かした。
「あ――」
喉から漏れたのは、そんな間抜けな声。
宙返りの姿勢で私の頭上に移動したオーガが、今にも私の首に爪を打ち込もうとしている。
その現実を頭で認識しつつも、何処かぼんやりとした心持ちでいる自分が居た。
今度は、どうあがいても間に合わない。私の身体は短刀を突き出した姿勢で伸びきっていて、今から回避行動を取ろうとするには遅すぎた。素晴らしく見事なカウンター。《
これで、完全に終わり……
「シッスルさんっ!!」
野太い声と共に私の身体が突き飛ばされる。衝撃にぶれる世界の隅で見たのは、さっきまで妹を背負っていた兄の姿。
「デ、デイア――!?」
「うおおおおおお!!!」
私の声を掻き消す気合が彼の口から迸る。二振りの短剣を逆手に持って、上から迫るオーガの爪目掛けて振りかざす。
「兄さんっっ!!」
絶望に染まった妹の悲鳴が上がる。
肉を引き裂く鈍い音がして、鮮烈な赤い飛沫が私の視界を横切ったのは、その直後だった。
「――!」
声のない叫びが、私の喉から込み上げる。眼前に降り立ったオーガのシルエットが、奇妙な形に変形している。
だらんと垂らされた腕の先端に装着された奇妙なオブジェ。重力に則って、海老ぞりのように全体をのけ反らせている。
ポタリ、ポタリと端から何かが滴り落ちる。鼻を衝く鉄錆にも似た臭いがそこから漂ってくる。真下は、既に水溜まりのようになっていた。
「あ……あ……!」
私の震え声に応えるように、オーガがゆっくりと姿勢を伸ばす。それに伴い、手先に着いたオブジェが微かに揺れて二つの白い球体がこちらに向いた。
瞳孔から光の消えた、デイアンさんの目が――。
「貴様ァァァ!!!」
怒りを爆発させたシェーナが、再び刀を構えてオーガに肉薄する。私はそれを、馬鹿みたいにただ棒立ちで眺めるしか出来ない。目から、耳から、鼻から、肌から、あらゆる五感から入ってくる情報は鮮明なのに、脳が理解を拒んでいた。
「デイアン!」
悲痛な声と共に私の隣を駆け抜けたのは、きっとカティアさんだろう。自らの聖術で、デイアンさんを治そうとしているに違いない。
ああ、良かった。治癒騎士の彼女が一緒で。デイアンさんはきっと大丈夫。オーガに腹を串刺しにされたことなんて、取るに足らない怪我に違いない。カティアさんの治療で必ず良くなる。必ず……。
――ゴーン……! ゴーン……! ゴーン……!
何処かで、鐘が鳴っている。一体何の鐘? ……ああそうだ、これは大教会で鳴らされる時報の鐘だ。朝に一回、夕方に一回、夜中に一回。ということは、もう日没なのか。
ダンジョンなのに、鐘の音が聴こえるなんて変なの。あっちのオーロラからかな? そう言えば、オーロラがあるのもおかしな話だ。普通ならあり得ない。
そうだ、この冒険はあり得ないことだらけじゃないか。きっとこれは、現実じゃ無いんだ。だから、あそこでだらりと脱力しているデイアンさんも、本物じゃない。
すぅぅっ、と身体が柔らかい水の中に沈み込むような感覚がした。ひどく眠い。段々と、シェーナやカティアさんの姿が遠ざかる……。
「シェ……ナ――」
親友の名を呟いたのを最後に、私の意識から世界が切り離された。
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