第2話 別離の朝

「はぁ~~~……。ムニャムニャ……」


 カーテンの隙間から差し込む曙光が、目蓋に優しく降り注ぐのを感じる。


 それが分かっていながらも、私は枕を抱きしめたまま意識を浮上させようとはしない。


~……それはだめぇ……。続きはホーカゴに……」


 微睡みの世界は、他に代えがたい程の心地よさがある。いつまでも揺蕩っていたい至福の時間……。


「置きなさい、シッスル。もう朝ですよ」


「ふにゃっ!?」


 穏やかながらも有無を言わせない調子の声がしたかと思うと、部屋のカーテンが一気に開け放たれ、眩しい朝の日差しが全身を包み込む。俄に強い光に晒された私は、たまらずベッドから跳ね起きた。


「あ、し、師匠……!」


 寝ぼけ眼をこすりながら見上げた先には、私の師匠――魔術師サレナ・バーンスピアがいたずらっぽい目でこちらを見つめて佇んでいた。


 私はゆっくりと周りを見渡してみる。すっかり私物の乏しくなった自分の部屋が、全開になった窓から差し込む朝日で照らし出されている。昨夜あのスリの自首を見届けた後、深夜になってようやくこの家に帰ってきて、くたくたのままどうにかカーテンだけ閉じて倒れるようにベッドに沈み込んだことをぼんやりと思い出した。


「はい、おはよう。今朝は随分とねぼすけさんですね。もう鐘が鳴る時刻ですよ」


「え!? もうそんな時間……!?」


「そんな時間です。耳を澄ましなさい。……ほら、聴こえてきました」


 ――ゴーン……! ゴーン……! ゴーン……!


 師匠の声を継ぐように、南の彼方から大気を震わす重厚な音色が流れてきた。毎朝、毎夕、毎夜、全て決まった時間に打ち鳴らされる大教会の鐘の音だ。マゴリア教国の首都アヌルーンの街から北へ向かう風流に乗って、それはこの街外れにひっそりと建つ“魔女の家”にまで運ばれてくる。朝の鐘は一日の始まり。普段のスケジュール通りなら、もうとっくに支度を終えている頃だ。


「あちゃ……寝坊した、ごめんなさい師匠!」


 気まずさが込み上げて、私は師匠に頭を下げた。さっきまで何か夢を見ていたような気がするけど、思い出せない。それくらいに“やってしまった”という感覚が強まっている。


「良いのですよシッスル、怒ってはいません。けど、折角の朝食が冷めてしまいますから。頭が冴えたら、服を着替えて食卓に来なさい。今朝は貴女の好きな小麦のパンに、ブラックベリーで作ったジャムが添えてありますよ」


 優雅な微笑みを残して師匠は、スカートの裾を翻してさっさと部屋を去ってゆく。いつもながら無駄がない。


「は~い、すぐ行きます! ……あふあふ」


 元気良く返事をした直後に、何故か再び睡魔が忍び寄り、あくびが込み上げる。未だ続いている鐘の音のせいだ。規則正しく一定の間隔で打ち鳴らされる鐘は、一突きごとに発生する余韻もひとしおで、街から離れた所に位置するこの家の中だと絶妙な塩梅になって子守唄にも近い効果を発揮する。この感覚はそう、あれだ。師匠の駆使する幻術を浴びた時のような開放感や倦怠感に近い。もっとも、実際には比べるのもおこがましいくらい、師匠の幻術は規格外なのだが。


「って、いけないいけない。二度寝なんてしたら、今度こそ師匠に怒られますよっと。それに今日は……」


 眠りの誘惑に頭を振って耐えながら、私は傍らに畳んであったブラウスとスカートを無造作にひっつかみ、そそくさと身支度を整える。


「師匠と一緒に過ごせる、最後の朝なんだから……」


 次第に明晰になってゆく頭と共にどうしようもなく湧いてくる感傷を、ぽつりと呟きと一緒に吐き出して――。




◆◆◆◆◆




「ごちそうさまでした!」


 師匠が用意してくれた朝食を残さず完食した私は、両手を合わせてごちそうさまの挨拶をした。


「お粗末様でした。いつもながら良い食べっぷりね。ふふっ」


「……? なんですか師匠?」


 食後のコーヒーを啜る私を、師匠は目を細めて見つめていた。


「いえ、具合が悪くなったりしてたらどうしようかと心配だったけど、杞憂だと分かって安心しただけ。昨夜は随分とお疲れみたいだったからね」


「あ~……」


 少しバツが悪くなった私は、うつむいて視線をあちこちに彷徨わせる。


「……その、どうでした? 昨夜の、最終試験は?」


「概ね合格よ。【捷疾鬼オーガ】まで見せたのはやり過ぎだけどね」


 上目遣いに昨夜の首尾に関する評価を問うと、師匠は飾らない口調で答えてくれた。


「うぅ、やっぱりですか……」


「【黒犬ブラック・ドッグ】だけでも掏摸スリを懲らしめるには十分だった筈よ。【アンダー・ピープル】の姿まで使って、もし他の誰かに見られでもしたら、今頃は街中大騒ぎだったでしょうね」


「そ、それは大丈夫だった筈です! あの場には他に誰も居ませんでしたし、あの男の記憶だって、衛兵の詰め所に着く前に【捷疾鬼オーガ】の部分を曖昧にしておきましたから! 【黒犬ブラック・ドッグ】の他に何に怯えていたか、彼は自分でも分からない状態だった筈です!」


 私が見せた幻に関する記憶であれば、ある程度は自在に解像度を操作出来る。【黒犬ブラック・ドッグ】はともかく【アンダー・ピープル】が地上に出てきたと知れ渡った日には、すぐさま戒厳令が布かれ、街の冒険者ギルド全体もさぞかし勇み立つだろう。


「出来れば【黒犬ブラック・ドッグ】も記憶から消してた方が安全確実ではあったわね。けれども昨夜、貴女が寝た後に衛兵隊長のアダンさんから報せを受けとったわ。確かに、そのスリは錯乱しきっていて、罪の自白以外は何を喋っているんだか分からないって言っていたわね」


 私の師匠こと【幽幻の魔女】サレナ・バーンスピアは、首都アヌルーンで名前を知らない人は居ないとまで言われている程の著名人だ。マゴリア教国では、魔法を扱える人というのはすべからく要監視対象であるというのに、彼女だけがこうして街の外れにぽつんと一軒家を建てて自由に暮らすことを許されている。私も詳しくは教えてもらえなかったのだが、何でも国政に多大な功績があったとかで特例という扱いにされているんだとか。そのお陰で、弟子の私もそれに準ずる待遇を享受出来ていた。


 ……昨日までは。


「うん、まあとにかくそういうことで満点は上げられないけれど、16歳の独立試験はこれで全て完了。無事にこなしてくれて嬉しいわ、シッスル。立派になったわね」


 師匠が、眩しそうに目を細めて私を見つめる。私も胸が熱くなった。


 そう、私は先月で16歳を迎えた。もう大人として扱われる年齢だ。だからもう、これ以上師匠と一緒には暮らせない。そういう風に、師匠が決めたから。


「全部、師匠のお陰です。道端に棄てられていた赤ん坊の私を、拾ってくれただけでなく弟子にまでしてくれて……。師匠が居なかったら、今の私は居ません。本当に、ありがとうございます」


 物心ついてから今日までの日々を脳裏で回想して、胸だけでなく目頭も熱を帯びてきた。笑顔でいようとは思うのだが、これまでの思い出に加えてこれからの日々を思うと、どうしても止めどない感傷と一抹の不安が同時に心に溢れて、自然と顔が歪んでしまう。ともすればぼやけそうになる視界を、懸命に目元を拭って耐える。


「そのような情けない顔をしないの。幽幻の魔女サレナの一番弟子の名が泣きますよ?」


「し、ししょおぉ~……!」


 母親を求めて追いすがる幼子のような声を上げると、師匠はやれやれと困った風に微笑んで肩をすくめた。それから手を伸ばして、さらさらと私の髪を梳くように撫でてくれる。昔から、私が躓いたり上手く行かなかったりで落ち込んだ時に、良くしてくれる仕草だ。


「この家を出ても、貴女は私の弟子であり、娘です。それは、何処に居ても変わりません。それに、今日貴女を迎えにくる騎士団の方は、貴女のお友達ではありませんか。気のおけない仲間と共に過ごし、世間を知るのも勉強ですよ」


「ううぅ~! 確かに、シェーナは私の親友ですけどぉ~……!」


 サラサラな新緑色の髪をストレートに伸ばして、いつも自信に満ち溢れた長耳碧眼の親友が脳裏に浮かぶ。エルフでありながら、【守護聖騎士団】への加入を志したシェーナ。その願いは、目出度く叶えられた。そして今日から、私の付き人として共に歩むこととなっている。


 彼女が迎えに来るまで。それが、私と師匠がこうして二人きりで過ごせる最後の時間だ。


「シッスル」


 つい弱音をこぼす私を、師匠は静かに制した。


「子供は、いずれ一人前になるものです」


「…………」


 私は、吸い込まれるように師匠に釘付けになった。


「貴女は、才能に偏りはあるものの、非常に優れた魔法使いです。昨夜の試験で、他ならぬ貴女自身がそれを証明しました。もう私が教えることは、何もありません。これからはひとりで立ち、広い世界に立ち向かっていかねばなりません」


「師匠……。でも、私は……」


 ――幻術しか使えない。その言葉を、私は飲み込んだ。


 親身な指導を受けながら、ありとあらゆる課題に取り組みながら、決して他の魔法は使えなかった。本物の火を生み出すことも、地脈に干渉することも、水流を操るすべも得られなかった。一般的な魔術士なら誰でも可能なことに対して、私はてんで芽が出なかった。


 出来ることと言えば、せいぜい人を騙すだけ。昨夜のスリのように、幻を見せて心を揺さぶるくらいしか自分には出来ない。それも、まだ完璧さとは程遠い。


 師匠の元を離れて不安になるなと言っても、無理があった。


「幻術だけで十分です。貴女のそれは、既に並大抵の相手なら太刀打ち出来ない程に洗練されています。後は、貴女自身がその術をどう扱い、どのように自分の人生に役立てていくか」


 師匠は、全く揺らぐことのない瞳で私を見据えていた。


「貴女は自由です、シッスル。自由に生き、自在に腕をふるいなさい。そして、自分が行動した結果、あるいは何もしなかった結果を、責任を持って受け入れなさい。……私が最後に貴女に望むのは、それだけです」


「自由に……」


 何処までも広がり、何処までも暗闇が支配する風景。自由という言葉に私が感じるものがあるとしたら、そんなところだ。


 それでも、もうひさしの下に留まることは許されない。幼かった雛は今や羽毛も生え揃い、そろそろ巣立ちの時間だ。


 ――ドンドンドン!


 と、玄関の扉をノックする音が聴こえた。次いで、外から入ってくる名乗りの声。


「失礼致します! 【守護聖騎士団】第二隊、シェーナ・クイです! 聖命により、シッスル・ハイフィールドの御身柄を拝受しに参りました!!」


 謹厳な軍人の声を作ったシェーナが、扉の向こうから呼びかけてきた。しかし、もう少しマシな言い方は無いのだろうか?


「さあ、貴女の守護聖騎士さんがお出迎えですよ」


 イタズラっぽく笑い、師匠はおもむろに椅子から立ち上がる。私も慌ててその後について行く。


「いらっしゃいシェーナ。お勤めご苦労さま」


「バーンスピア様。わざわざのお出迎え、かたじけなく存じます。今しがた申し上げました通り、本日よりお嬢様の護衛としてお側に侍ることとなりました。何卒、ご理解とご協力をお願いします」


 師匠が扉を開けて挨拶すると、綺麗な刺繍の入った青いサーコートの上に白いマントを羽織ったシェーナが、右手の拳を胸に当てて軍人の礼をする。緊張の為か、トレードマークのひとつである長い耳がピーンと張り詰めていた。


「……相変わらず師匠には硬いね、シェーナ」


 コテコテの余所行きの態度に、私は苦笑いを浮かべながら言った。


「当然だろう、シッスル。バーンスピア様は聖下がお認めになられたこの国の重鎮なのだ。万が一にも礼を失するなど、あってはならぬ」


 キリリと形の良い眉を吊り上げ、生真面目そのものな顔で私に答えるシェーナ。騎士団の教育の成果がきちんと表れていた。


「それより、もう出られるのか?」


「あ、うん、それは……」


 私が言い淀むと、ためらいを断ち切るように師匠が口を挟んだ。


「ええ、もうお別れも済ませたわ。シェーナ、シッスルをお願いね」


「はっ! 騎士の誇りに懸けて、必ずやお弟子殿を護り抜きます!」


「し、師匠!?」


 思わず抗議しかけた私の背中を、師匠がトンと押す。軽い力だったが、それだけでは片付かない得も言えぬ威圧感のようなものに打たれて、私はたたらを踏みながら扉の外へ押し出された。


「シッスル・ハイフィールド。只今をもって、貴女の修行は終わりです。これからは一人前の魔術士として、シェーナと共に歩みなさい」


「し――!」


 必死に振り向いた私に、扉に手をかけた師匠は慈しむような笑顔を浮かべた。


「貴女の人生は貴女のもの。好きに生きなさい、私のシッスル――」


 それが、私が聴いた師匠の最後の教えだった。

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