第1話 夢幻の宵闇

 幻節の月、十三日。マゴリア教国の首都、アヌルーンの街。


 別に、何か特別な式典がある日というワケでは無い。太陽が隠れ、宵闇が世界を満たそうとする刻限になっても、街は普段の顔を保ち続けている。


 西地区郊外、城門の外に設けられた城下町フォグバーン通りでは、今なお多くの人が賑やかに行き来している。仕事を終えて真っ直ぐ家に帰る者、何処かで一杯引っ掛けて自分にご褒美を上げようとする者、夜勤のためにこれから職場へ赴く者。通りを歩く人々の顔は様々だ。


 その活気溢れる大通りから逃れるように、ちろりと脇道に逸れる若い男。通りを満たす灯りを嫌うように、闇の濃くなった路地へと入ってゆく。


 私はローブの襟に手をやって着衣に乱れが無いか確かめつつ、おもむろに足を進めて同じ路地へ身を投じる。


 少し先に、男の姿は変わらずそこにあった。


「へっへっへ、ちょろいもんだぜ!」


 小さな革袋を手のひらで弄びながら、その男は低い濁声で野卑な歓声を上げる。此処からでは見えないが、顔にもさぞ下卑た笑みが浮かんでいることだろう。男の手の中で跳ねる度に、小さな革袋はジャラジャラと硬いものが擦れ合う音を響かせた。中身がお金であろうことは、容易に察しが付く。


 私は今、出来る限り足音を忍ばせながら、男を見失わないよう適度な距離を保ちつつその背中を追っている。


 見たところ、男の年の頃はおよそ二十代前半。『仕事』を成功させて気が大きくなっているからか、背後を尾行する私の存在には全く気付かない。いくら闇に紛れる紺色のローブで全身を覆っているとは言え、人通りがあまり無い場所で後ろを歩く人間の存在に気付かないというのは如何なものか。


 掏摸すり師であるならば、もっと他人の気配には敏感でなくてはならないだろうに。


 この事実からでも、あの男は大して手強くもない存在だと分かる。この場で仕掛けても良さそうだが、万が一にでも無関係な人を巻き込んではならない。もう少し、人の気配が完全に絶える機会を待つべきだろう。幸いにも、男はどんどん人気の無い方向へ進んでいる。このまま路地を進めば、フォグバーン通りから外れて完全に街の外に出る。そしてその先にあるのは、夜間は誰も立ち入らない小さな森だ。男もそこに入ることはあるまいが、森に沿って移動して遠くへ逃れるつもりということは考えられる。


 ――やるなら、その辺りか。


 胸中で段取りを組みつつ、私は男から目を離さないよう気を付けながら尾行を続ける。


 男の犯行を目撃したのは偶然だった。


 彼は先刻、夕暮れ深まる首都アヌルーンの中央市場で、夕食の献立を考えながら買い物をしているであろう人々の流れの中を縫うように移動して、杖をついた小柄な老婆の横に迫った。そして老婆が気付く間もなく、腰から紐で吊り下げていたお金入りの革袋に手を伸ばすとあっという間にスリ盗っていた。


 本来なら、その時点で彼を呼び止め、街の治安維持を司っている衛兵達に通報するのが筋だっただろう。しかし私はそうしなかった。少し考え、黙ってその男を追うことを選んだのだ。


 褒められない行いであることは百も承知だ。だが私は、これを好機と受け取った。そして、試みてみることにしたのだ。


 私の、術を。数々の修業を経て鍛え抜かれた、私の精髄を。


 誰に悟られてもならない秘術。それを試すには、お誂え向きの相手だ。


「…………」


 男に視線を固定したまま、そっと腰に提げてある短剣の状態を触って確かめる。……うん、大丈夫。何処にも不備は無い。


 師匠から課せられた最終試験に臨む準備は万端だ。


「――!」


 考えている間に、件の森の前に到達したようだ。


 案の定、男は森に入ることを避けて手前で左折した。如何に小さな森とは言え、夜間に相応の準備無しで入るのは危険極まりない。殊にこの付近は、【ダンジョン】からそれ程離れていない。【魔物】が潜んでいる可能性は、夜の森なら殊更高まる。だからこの時間帯なら、この付近には誰も近づかない。【ダンジョン】探索や【魔物】狩りに日々精を出している【冒険者】達ですら、夜には好んで近づかないだろう。男はそれを見越して利用した。


 そして私も、同じ理由でこの状況を利用する。


「……あ!?」


 私は地を蹴って、一気に男との距離を詰める。私自身はただの人間だ。隠行の技なんて修行していない為、走り出したら足音なんて丸わかりだ。実際、すぐに男に気付かれる。こちらを振り向いたその顔には、動揺の色が強く表れていた。まさか此処で人に遭遇するとは思っていなかったのだろう。


 だからこそ、私の存在を気取られても構わない。その心の乱れを誘うことこそが、私の狙いなのだから。


「――っ!」


 私は走りながらローブを大きく翻し、腰のベルトに差してある短刀を鞘から抜く。刃渡り僅か十五センチの、護身用にしても頼りなさげな武器。


 そして同時に、私の『術』の起点でもある。


 ローブをまくった時に、勢い余って頭を覆っていたフードまで捲れる。首のところで切り揃えた自分の黒髪が風にさらわれ、素顔が曝け出される。もしかしたら男に見られてしまうかも知れないが、構うことはない。男がこれから体感するであろう衝撃で、容易に記憶は上書き出来る。


 私は短刀を前に掲げ、柄を横に倒して刀身の腹を相手に向けた。


「あっ!? なっ――!?」


 短刀の刀身が輝き、白い光を発する。目眩ましに十分な威力のある、強い光。男がたまらず目を瞑り、腕で顔を覆ったのが分かった。


 ――掛かった! と、私は内心で勝ちを確信した。


 これで男の運命はもう、私の手の中だ。


「ぐっ……! なんだよ、クソッ!」


 毒づきながら、男は顔を振りながら逃れようと身を捩る。そうこうしている内に光が収まり、辺りには暗闇が戻ってくる。


「お、収まったのか……!?」


 男がうっすらと薄目を開ける。光を浴びた後遺症から脱しようと、不器用な仕草で頭を振って意識と視界をクリアにしようとしている。やがて、覚束ない様子ながらも男は目の前に視野の焦点を合わせたようだ。


 次の瞬間、その表情が恐怖に引きつったのが分かった。


「ひ、ひぃっ!?」


 喉を絞り出すような悲鳴。恐怖と驚愕に染まった彼の眼差しの先には、疾風のように大地を駆ける黒い四頭の獣が居る。ハッハッ、と弾むような息を吐き、四本の脚で力強く地を蹴りながら迫ってくる生き物の正体。それは――


「く、黒い犬ぅ!? そんなの、さっきまで――あぎゃっ!?」


 最後まで言葉を発する暇を与えず、黒い風と化した四頭の犬が一気に男に踊りかかった。両手両足にそれぞれ一頭ずつ噛みつき、またたく間に男の動きを封じる。


「い、痛えっ! ちくしょう、何だこれ!? は、離せっ!」


 男は必死にもがくが、力で敵う筈もない。逆に犬の体重に引っ張られ、どう! と地面に引き倒される。強かに地面に打ち付けられる尻や背中によって、乱暴に掻き乱された地面から俄に土埃が舞った。


「ぎゃああああっ!!」


 獰猛な獣の牙に肉を貫かれる痛みを、圧倒的な獣の力を押し付けられる重みを、男は文字通り全身で味わっていることだろう。体表を漆黒で染めた四頭の犬は、目だけをギラギラと赤く光らせて男を睨みつける。鮮血のように艶やかに彩られた八つの赤目が、決して貴様を逃しはしないぞと言わんばかりに男の精神を貫く。幾重にも重ねられた大型犬の体臭も、きっと男の鼻腔を刺激して恐怖を後押ししているだろう。


「う、ぁぁ……! や、やめて……!」


 男の声が懇願するようなものに変わり、目からは涙が溢れる。心身共に重大なダメージを負った男に、最早抵抗する気力は残っていないだろう。


 今なら頃合いかも知れないが、ダメ押しにもう一手仕掛けておくか。特大の一手を。


 私は短刀をかざし、再び男に光を当てた。男の方にそれを認識する余裕は無かっただろうが、問題は無い。


「――っ!?」


 ズシン、ズシンと。何処からともなく突如巨大な足音が周囲に鳴り響き、辺りの地面が揺れた。


 音がする方向は――森だ。


「あ……あ……!?」


 釣られるように音源の方へ向いた男の顔色は、既に絶望の域に達していた。




 ――グアアアアアアア!!




 そして男のすぐ傍で咆哮を上げる、二足歩行の巨大な魔物。赤黒い体色に筋骨隆々の四肢。力強く地を踏みしめる二本の脚にはただ腰巻きだけが巻かれ、人間のものではありえない盛り上がりを見せる上半身の筋肉には、並々と筋が浮かんでいた。


 街の冒険者達の間ではそれは、人喰いの【捷疾鬼オーガ】と呼ばれる。地底に棲まう者達、【アンダー・ピープル】の一体だ。


「ぁぅ、ぁぅ……!」


 流石に今度こそ良いタイミングだろう。言葉すらまともに継げなくなり、パクパクと呆けたように口を開閉させるだけになった男に私はおもむろに近付くと、その耳元にそっと顔を寄せる。


「助かる方法ならあるよ」


「――!?」


 我に返ったようにこちらへ顔を回す男。彼の目に映る私は、靄が掛かったように朧気な輪郭を持った得体の知れない姿を取っていることだろう。そういう認識を植え付けてある。念の為に、声の聴こえ方にも細工をした。


 そのせいか、彼はまだ私に話しかけられたという事態を理解出来ていないみたいだ。仕方ないので、もう一度言ってあげる。


「聴こえなかった? 助かる方法があるって言ったの」


「だ、誰だ!? 一体全体、何だってんだ!?」


 恐慌に駆られた男は、唾を飛ばしながら私に食って掛かる。……この怯え様、少しばかりやり過ぎたかも知れない。


 いや、反省は後にしよう。私は男の誰何に取り合わず、話を続けた。


「私のことなんてどうでも良いよ。このままだと死んじゃうよ? キミは生きたくないの?」


「い、生きたいっ!! 生きたいよ、俺はっっ!!」


 突き放すように言うと、ようやく男が私の言葉を飲み込んだ。よしよし。


「ど、どうすりゃ良いんだ!?」


「簡単だよ。今から急いで街に戻って、衛兵に自首する。盗った革袋をお婆さんに返す。これで完璧!」


「な、何言ってやがる!? そんなことで、この化け物どもから逃げられると……!」


「逃げられるよ。この子達はね、お兄さんが悪いことしたから懲らしめる為に現れたんだよ。お兄さんが反省して、きちんと罪を償う姿勢を示せばすぐに消えるよ。ほら、自分の足を見て」


「えっ……!?」


 男は自分の足に目を落として、何度目になるか分からない驚愕の声を上げる。


 四頭の【黒犬ブラック・ドッグ】の内、彼の両足に噛み付いていた二頭がいつの間にか居なくなっていた。噛まれた傷も無く、血も流れ出てはおらず、男の両足はどちらとも息災だった。


「な、なんで……!? さっきまで確かに……!」


「お兄さんがちゃんと自首出来るよう手加減してくれたんだよ。さあ、今から駆けっこの時間だよ。人喰いの【捷疾鬼オーガ】に追いつかれる前に、衛兵の詰め所に駆け込みなさい。お兄さんの自首を見届けたら、この子達は消える。でも、その前に追いつかれたら……」


 傍らに控える【捷疾鬼オーガ】が、男に向かって大きく口を開く。上下に並んだ人の腕ほどもある鋭い牙がキラリと光る。魔物をも凌駕する圧倒的な怪物の生暖かい息が、男の顔に容赦なく降りかかった。


「がぶーっ! っと、一息に丸呑みだ!!」


「ひ、ひ、ヒャアアアアアアア!!!」


 私の脅し文句を皮切りに、男のタガが外れる。


 喉が裂けるような悲鳴を上げ、飛び上がるように地面から尻を離すと、男は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら立ち上がりざまに無我夢中で駆け出した。未だ両腕に噛み付いたままの、二頭の【黒犬】がもたらす痛みや重量など物ともせずに。


 それも当然だ。そんなものは最初から存在しないのだから。


 【黒犬】も、【捷疾鬼オーガ】も。


 全てはこの私、【シッスル・ハイフィールド】の生み出した、まぼろしに過ぎないのだから。


「やった、大成功! ……って」


 思い通りの展開になって思わず快哉を上げようとした私は、すぐにまだ終わりじゃないことに気付いた。


「しまった! あの人がこのまま自首したら大変なことになっちゃう! 【捷疾鬼オーガ】の記憶だけはぼかしておかないと! ま、待ってぇぇぇ~~~!!」


 人気のない夜道に、情けない声が上がった。

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