今も腕が痛い

@byoooooooooooooo

ここ数週間、ずっと現実を感じられなかった。と言っても、手のひらには細かなしわがはっきりと見えるし、それで何か悪いことがあるとかそういうわけではない。ただ、現実だけが欠如したおれの日常は無重力の宇宙空間に漂う水滴のように、あるいは、レム睡眠の見せる幻覚のように、頼りなく心許なかったのだ。今日もおれはそんなぐらぐらとした地盤の上で、かろうじてバランスを取っている、もしくはすでに落下中なのかもしれない意識のなか暮らしていくのだと、そう思いながらベッドから起き出したんだ。

それからちょっと経って、ひどく腹が痛むことに気がついた。最初はただなんとなく鈍い痛みがあるだけだったのだが、次第にそれは耐え難いほどの激しさを増していった。でも、おれはそれが愉しかった。痛みだけが現実に存在していたんだ。おれの存在を肯定する激痛がおれは好きだった。だからおれはじっとそれに耐えた。生きる為に、痛みがいる。かつて洞窟の中で暮らしていた人類が生命の危機を知るためだけに持っていた本能だ。痛みを感じるのであれば、おれは生きている。おれは現実に生きている。そう思ったら痛みすら愛おしく感じられた。この痛みこそが現実の証なのだ。

しかし痛みは消えた。いつの間にかおれの部屋に入ってきていた母さんが痛みに喘ぐ息子を近場の病院へ連れて行ったのだ。そして死んだような医者はこう言った。「盲腸ですね」と。

その声は、やはり死んだようだった。眩しいほど白い天井に、死装束のような差し込む光に、おれは夢の片鱗を見た。夢はいつもこんな風に白く輝いているものなんだ。じっと手を見てみる。しわだらけの手。そこにあるのは確かにおれの手だった。これは現実なのだろう。ただ、現実感がない。

クオリアはどこか、地中の奥底へと潜ってしまったんだ。痛みのない天国のような世界は、無臭だった。細菌すら死に絶えた世界だ。そこはきっと楽園に違いない。そこでは、おれは呼吸をしているのかしていないのか、それさえもわからない。だから、唇を噛んでみたんだ。痛い。痛いんだ!これが現実だ!精液の香りが、じめっとした春が、眠っているときに攣ったふくらはぎが。ああ、よかった。おれはまだここにいる。

きっともう、二度とおれは現実をくっきりと見ることはできないだろう。なんの軛もなしに、ゆがみのない現実を見ることはできないのだろう。

かつて、小学校の水泳の授業で見たトンボのような現実や、夏の蒸し暑さの中、アイスクリームを食べている時の苦痛のない現実は、もはや失われてしまったんだよ。

けれど、俺は記憶の中に生きるなんてまっぴら御免だ。

この地獄のような現実にこそ、生命の足掻きを感じられるんだ。

手を見てみる。生きた手にはしわまみれの皮膚があった。ルビーのような血液が、この下には流れている。汗と消毒液と薬品の混じった匂いがこの病室には塗れている。

俺は少し、眠ることにした。

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