リメンバー・グリーン

綿雲

雨上がりの午後3時

「バイバイ、また明日!」

「う、うん、じゃあね」


仲のいい友達と一頻り手を振りあって、エディはひとり校門をくぐり抜けた。また明日、なんて言ってもらえる帰り道は、もうあと何回もない。水溜まりの中に傘を引きずりながら、小さくため息をついた。


つるバラが壁じゅうを這う花屋の角を曲がって、朝の騒がしさが鳴りを潜めた市場を通り過ぎる。その先にある住宅街に軒を連ねる、レンガ造りの一軒家がエディの家だった。

学校カバンを玄関に放り投げると、ママのどなり声にも構わずに、長靴のまま家を飛び出す。行先はいつも決まっていた。


住宅街を抜けた先、小高い丘の上の、小さな公園がエディのお気に入りの場所だ。公園とは言っても、ベンチとこぢんまりした花壇がある以外には何も無く、ただ大きなレモンの木が2本きり、寄り添うように生えている。

いつもならこの時間は貸し切り状態を満喫できるのだが、そのレモンの木の目前に、今日は先客がいた。


イーゼルに向かって座り込み、何か描いているみたいだ。画家なんて珍しくて、思わず覗き込んでいると、その人は無言でのっそりと立ち上がった。

思いのほか大きな背中にびっくりして、小さく息を呑む。画家は背後に気づきもせず、頭をがしがし掻きながら、1歩、後ろに向かって体を引いた。

慌てて横に退くと、がしゃん、と水の入ったバケツをひっくり返した。ぎょっとしてその場で硬直する。さすがに画家も気づいたらしく、音のした方向を振り返った。


「…何をしてる」「ご、ごめんなさい」


眉間に皺を寄せ、気をつけろ、とぶっきらぼうに呟くと、画家は定位置へと戻ってどすんと腰を下ろした。ひっくり返ったままのバケツと絵の具の染みがついたシャツの背中をおどおど見比べて、エディはその場に立ち尽くす。

…もっと怒られるかと思った。見かけの割に怒りっぽいわけではないらしいと判断して、胸を撫で下ろす。


画家は握った絵筆を黙々と動かし続ける。エディは目的のものに近づくこともできず、弱って二の足を踏んでいた。

手持ち無沙汰にそれを眺めていると、みるみるうちにカンバスが色を変えていく。青々と茂る草木や、零れる雨露のきらめきが鮮やかな色彩で布地の上に描き表される。エディはいつの間にか、食い入るようにカンバスを見つめていた。


「何か用か」「え!あ、いや、その」


顔を上げもせずに問いかけられ、声がうわずる。

ちょっと迷ってから、たたっ、とイーゼルを追い越して、レモンの木の袂に駆け寄った。そっと枝葉の間を探ると、垂れ下がった葉の上にお目当ての「彼」を見つける。


「こ、この子!に、会いに来たの」

「この子?その芋虫か」

「ただの芋虫じゃないよ!アゲハ蝶の子どもなんだよ」


初夏の青葉にも負けじと鮮やかな翠色をした胴体をちょんとつつくと、身をよじらせて黄色い触覚を覗かせる。ふっくらした体をよっこらしょとばかりに持ち上げるのがおかしくって、ごめんごめん、と笑って指を引っ込めた。


「ね、かわいいでしょ!」

「ふむ」

「…変な子だって思ってる?」

「まさか。人間誰だってどこかしらおかしいものだ」

「思ってるってことだよね?」「そんなことはない」


学校でも虫の図鑑ばかり読んでいるから、周りから多少奇異の目で見られているのはわかっていた。いいんだ、好きなものは好きなんだから。今のところ共感してくれる友達はいないけれど。


「この子はナミアゲハって種類なんだ。小さい時は黒っぽい色だけど、元気で大きくなるとこうやって綺麗な緑色になるんだよ」

「ほう、よく知ってるな。こいつはでかくて丸々肥っているし、健康そうで良かったじゃないか」

「うん!すごい食いしん坊でね、最近とくにたくさん葉っぱを食べてるみたい。レモンの葉っぱが好物なんだよ」

「そうか。そろそろさなぎになる準備をしているんだろうな」

「え?」

「なんだ、やけに詳しいくせに、知らないのか?芋虫はだいたい、大きくなったらさなぎになるものだ」


そんなことはエディにだってわかっていた。それでも今は、その事実を認めたくなくて、俯いてぎゅっと拳を握る。


「ねえ、さなぎになったら、芋虫のこの子はどこへ行っちゃうの?」

「どこへ?どこへも行かないさ、姿が変わるだけだ」

「うそだ!さなぎになったら、もう動かなくなって、そのうち蝶々になって、…ここじゃないどっかへ行っちゃうんでしょ?」


画家は、突然大声を出したエディに少し驚いた様子で、けれど何を言うでもなくレモンの木を眺めていた。顔を見なくたって、きっと呆れられているんだってわかる。


「何もかも、いつまでも同じ姿じゃいられないものだ」

「どうして?ずっとこのままでいてほしいよ」

「姿かたちが変わっても、こいつはこいつだろう。根っこは変わらない」


こちらを見もせずに喋る画家は、ただ訥々と、独りごちるように言った。

よく見ると黄色の絵の具をほっぺたにくっつけていて、大人のくせに小さな子みたいだ、と何故だか腹が立ってくる。大人なのに、子供のままなんて、そんなのずるい。


「でも、芋虫のこの子には、もう会えないんだよ!そんなのって、…かなしいんだもん」


どうしようもないことはわかっていた。けれども決まったことに納得できなくて、癇癪を起こして。これじゃ赤ん坊と変わりない。

いろんな寂しさややるせなさが混ざりあって溢れ落ちそうになって、目の前でつやつやした葉を齧る「彼」からぱっと目を逸らした。


どうしても変わっちゃうっていうなら、どうすればいいの?

会えなくなって、距離もはなれて、そしたらきっと僕のことなんて忘れちゃう。皆だってきっと。

茎から茎へ、懸命によじ登る翠色の「彼」の姿と、たくさん笑いあった友達の姿が重なって、胸が押しつぶされそうになる。エディはとうとう鼻をすすって泣き出した。


「そうさな。絵を描いたらどうだ」

「…絵を?」


突拍子もない提案にぽかんとして、思わず画家を見上げた。画家はすでにエディに背を向け、元々座っていた場所に戻っている。椅子の上に置いてあったパレットを拾い上げ、絵筆を掴んだ。


「おまえが好きなその芋虫の、今の姿を絵に描くんだ。それを大切に持っておけばきっと忘れることもないさ」

「…そうかな…でも、僕が忘れなくたって、この子は…きっとぼくのこと忘れちゃうよ」

「まあそうだろうなあ、芋虫だからな。そもそも俺たちを認識しているかも怪しい」

「うん…そんなのわかってるけど、」


それでも、寂しいものは寂しい。まごついているうちに、ほれ、と緑色の絵の具が着いた絵筆を目の前に突き出される。有無を言わさない態度につい受け取ってしまってから、筆の柄にまで絵の具がべったり付いていることに気づいた。手のひらが黄色や緑に染まってしまって、咄嗟に、ああ、レモンの木の色だ、と思い至り「彼」の住む木を振り返った。


「…絵にしたら、忘れないかな」

「うん。忘れられないさ」

「…ぼく…夏休みになったら引っ越すんだ。みんなと同じ学校に行けないの」

「そうなのか」

「会えなくなったら、そのうちにぼくもみんなも、背が伸びたり、髪が伸びたりしてさ…変わっていっちゃうでしょ。

そしたら、みんなきっと…ぼくのことわかんなくなっちゃう、ぼくのことなんか忘れちゃうよ」


画家はぽつぽつ独りごちるエディに、うん、と2、3回頷いて、でもやっぱりエディの顔は少しも見なかった。それがなんだかいやに安心した。

ほう、と胸につかえていた重たい息を吐いて、イーゼルに立てかけられたカンバスを見やる。この画家も、今日この日に描いたこの景色は忘れないのだろうか。


「そうだなあ。忘れられてしまうかもしれないな 」

「やっぱり、そうかな」

「でも、おまえが覚えていればいい。その芋虫の姿も、ともだちのことも」

「でも…ぼくだけ覚えてても意味ないよ」

「そんなことはないさ。おまえのなかの楽しかった気持ちやできごとがなくなるわけじゃない」


忘れて、忘れられてしまったとしても、なくなるわけじゃない。カンバスとレモンの木を交互に眺めると、すうっと爽やかな風が濡れた頬を撫でた気がした。


「それに絵を描くのは楽しいぞ。どんな絵にしても自由だ。カンバスの上はおまえの世界だ」

「どんな絵にしても?」

「ああ。黒いカラスを白く描いたっていい。おまえの描きたい気持ちに誰にも文句を言う権利などない」


白いカンバスの上の自由な世界。そう聞くと、現金なものでどんどんわくわくする気持ちが湧き上がってきた。今だけのあの子の姿を、僕はどうやって描き出せるんだろう。


「…ほんとう?」

「ほんとうだとも。それに絵を描けるやつは人気者になれるぞ、きっと新しい学校でもすぐに友達ができる」

「ほんとう!?」

「う、うん、まあそれは言いすぎかもしれんが、たぶんな、きっと」


さっきまで堂々としていたはずなのに、エディが詰め寄ると急に焦り始める。やっぱり大人のくせに子供っぽい。

エディはなんだか可笑しくなって、声を立てて笑った。雨上がりの湿った雲が覆う空に、柔らかな光のカーテンが差し込んでくる。


「うん、ぼく、描いてみるよ。この子のこと」

「そうか」

「おじさん画家さんなんでしょ?描き方教えてくれる?」

「構わんが、あまり期待するなよ。人に教えた経験がない」

「頼りないなあ、しっかりしてよ!ぼく道具持ってくるから!」

「小生意気なガキめ…」


もうすぐ日が暮れる。もうすぐ夏が来る。あの子がさなぎになるまえに、早く描かなくっちゃ。

浮き足立って鼻歌なんか歌いながら、淡いオレンジ色に染まり始めた小路を駆け出す。曲がり角で危うく誰かとぶつかりそうになって慌てて避けた。ごめんなさい、と口を開く前に、相手があれえ、と声を上げる。


「エディ!急いじゃってどこ行くんだよ?」

「あ、フレッド…!」


いつもかぶっているキャップのつばをぐいっと上げて、フレッドは嬉しそうに歯を見せた。

不思議なもので、つい先程、下校時まではまともに見られなかった彼の笑顔も、今なら正面から見ることができた。手のひらに握ったままの絵筆のおかげかもしれない。


「これから皆と広場で遊ぶんだ、おまえも来いよ!最近あんま来てないだろ?」

「う、うん。でもごめんね、今日は…」

「あ、やっぱダメ?なんか用事?」

「うん、その、絵を描きに」

「絵ー!?おまえ絵描けるんだ?すげえ!」

「い、いや、描けるってわけじゃ…」


今更ながら、本当に自分にも描けるのだろうか。

若干不安になってきたエディにも構いなく、それならもっと早く言えよー、とある種無敵の能天気さをもって、フレッドはがしっとエディの肩に腕を回す。まっさらなシャツの袖口から、ふわりとお日様のにおいがした。


「なあなあ俺も見に行っていい?絵描くとこ見たい!」

「え、うん、いい、けど…皆と遊ぶのはいいの?」

「うん、いいよ、広場はいつでも行けるし。それよりさ、これからなに描くの?」

「え、と、芋虫、みどり色のやつ」

「えー芋虫!?そういやおまえ虫とか好きだもんなあ」

「うん…かわいいんだよ、ぷにぷにしてて、もそもそ葉っぱ食べて」

「へー、変わってるよなあ!んじゃ行こーぜ!」


緑色の帽子の下で、にひひ、と少年らしく笑うフレッドを見ると、芽生えた不安もすぐに吹き飛んでしまった。

ぼくはきっと大丈夫。今から大切なものを描き留めるんだもの。それにいい事も思いついた。


「…ねえ、フレッドも、一緒に描かない?」

「え!いーの!?でもオレ、絵なんかちゃんと描いたことねーよ」

「大丈夫、ぼくもだよ。画家のおじさんに教えてもらうんだ」

「マジ!?すげーじゃん、なんて人?」

「あ、そういえば、名前聞いてないや」

「なんだよそれー!」「あはは!」



エディの新しい部屋には、少し不格好な、けれどどこか優しい翠色をした芋虫の絵が飾られている。

絵の隅には「フレッド」と、今にも駆け出しそうなサインが記されていた。

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