現実的ではないけれど、それでも彼、彼女たちはもがき続ける。
乃ノ八乃
前編
「――――もう疲れた。悪いが、俺はこれ以上原作を書けない」
高校最後の日、卒業式を終えた
「どう、して……だって……一緒になろうって……絶対に夢を叶えようって言ったのに…………」
信じられないと言った表情を浮かべて言葉を詰まらせる光に罪悪感を覚えながらも、八重は仮面を張りつけ、突き放すように言葉を続ける。
「そうだな……でもそう誓ってもう五年が過ぎた。その間、俺達は何か成果を上げられたか?賞に応募しても落選続き、編集者に持ち込んでも取り合ってもらえないままもう卒業だ」
「そ、それは、そうだけど……でも、まだ終わってないでしょ?卒業してからだって続ければいつか――――」
「俺もお前も家庭事情的に大学には行けないし、地元の縫製工場に就職が決まってる。学生だった今までと違って自由に使える時間もぐんと少なくなる。そんな状態で結果が出せると思うか?」
反論を圧し潰すように八重は言葉を並び立てた。きっとここで止めてしまえば、絆されて突き放せなくなるからと八重は心を押し殺す。
「…………なんで、なんで今になってそんな事をいうの?就職が決まったのは最近の話じゃないし、よりにもよって卒業式の……高校最後のこの日に」
「最後だからだ。今日ならもう引き下がれない……そうだろ」
問われ、光は唇を浅く噛んで黙りこくる。それは考えに詰まると無意識に出る彼女の癖だった。
(どうしてこんな事になったんだろうな……いや、分かっていてどうする事もできなかった俺のせいか)
高校三年生になった頃、あるいはその前、高校に入学したくらいからこうなる不安は目に見えていた。
一向に出ない結果、作品を重ねるごとに自分の話がつまらなく、彼女の絵がぐんぐん成長しているのを感じながらずっと迫るリミットを恐れていた。
もしもの話、彼が彼女に絵に負けないくらいの話を用意できていれば結果は変わっていたかもしれないが、たらればの話をしても意味はない。
つまるところ、現状取り得るのは自分というお荷物をこの卒業という区切りに切り捨ててもらう事だけ。
だからこそ八重は大切なパートナーである光を突き放してでも、コンビを解消させたかった。
彼女のため、なんて良いものではなく自分のため。これは才能のない凡人の故意に間違った夢を終わらせるための儀礼だった。
(……これで全部が終わる。大丈夫だ、不相応な夢から覚めて現実と向き合うだけ……アイツに俺の力は必要ない)
がやがやと式を終えた同級生達の楽しくも寂しい気な喧騒の響く中、黙ったままの光に背中を向けた八重は少し冷たい風の吹く廊下を早足で戻っていった。
その一月後、地元の縫製工場で働き慣れ始めていた頃、彼は卒業式での事を少し引きずりつつも、仕事へと目を向けて前に進めて……いなかった。
「――――さあ、八重。今日こそ首を縦に振ってもらうわよ」
その理由、それは就職してからも光が諦めることなく、毎日のように勧誘してくるからだった。
「……はぁ……毎日毎日、懲りないなお前も。俺はもう諦めたって言っただろ」
昼休み、お昼ご飯にと持ってきたインスタントラーメンを啜りながら八重は詰め寄ってきた光の言葉を受け流す。
「うん、それは何度も聞いたよ。でも八重が諦めても私は諦めないから」
強い意志の籠った瞳で真っ直ぐ見つめてくる光を前に耐えられなくなった八重は目を逸らして面を啜る。
同じ職場に就職した時点である程度、こうなる可能性は考慮していた八重だったが、突き放したにもかかわらず、ここまで食い下がってくるとは思っていなかった。
「……そうか、まあ、それはそれとして、早くお昼を食べないと休憩がなくなるぞ」
「え、もうそんなに時間?急がないと…………」
時計を見てから光は慌てておにぎりを二つ取り出し、大きな一口で頬張り始める。
実のところ、お昼を食べるだけなら時間に余裕があるのだが、光の場合、休憩時間の合間にネームや原稿に手を付けるため、少しでも時間を確保すべく、いつもご飯を急いで食べていた。
言ってしまえば短い休憩時間の間に描いたとしてもさして進まない。それでもなお、光が休憩時間に進めようとするのには理由があった。
「――ごちそうさまでした。よし、それじゃあっと…………」
あっという間におにぎりを食べ終えた光は早速、作業に取り掛かり、そしてすぐにネームを八重の方へと差し出してきた。
「ねえねえ、ここなんだけど、この場面での主人公の台詞ってこれでいいと思う?」
「…………いいんじゃねぇの。知らんけど」
光がここで作業をする理由、それは八重の目の前でする事でアドバイスをもらいつつ、しれっと原稿に携わらせようという魂胆からだった。
「……もう、適当言わずにちゃんと見てよ。私は話作りは素人なんだから」
「それを言ったら俺だって素人だよ……それに適当を言ったつもりもない。特におかしな部分もなかったからいいって言っただけだ」
無論、光の魂胆は八重からすれば見え見えだ。普段の様子とこれ見よがしに目の前で作業をされれば嫌でも気付く。
にもかかわらず八重があえてその魂胆に乗っているのは偏に光の独り立ちのため。
光は自分とは違い、夢を決して諦めないのを八重は知っている。たとえ八重が話を作らなくても前に進もうとするのが光だ。
なら八重が手伝わないにしても、多少なりアドバイスをして話作りを覚えてもらった方がいい。
八重自身が夢を諦めても光の夢まで否定するつもりはないのだから。
お昼休みも終わり、午後の仕事も
「――君達には明日から残業をしてもらう」
集められた新入社員へ告げられたのは残業の宣告。なんでも毎年新入社員は一月経って仕事に慣れた頃から残業を始めるのが通例らしく、それが明日から始まるとの事だった。
「ひとまず今日はそれだけだから。お疲れさま」
上司の言葉にお疲れさまでしたと返してこの場は解散し、それぞれが帰り支度を始める中、八重と光の二人もまた帰路に着こうとしていた。
「……残業、かぁ……薄々分かってた事だけど、嫌だなぁ」
暗い夜道を並んで歩きながら光が空を見上げて呟く。そこには誰が聞いても分かるくらいの憂いが込められていた。
「……だな。何が悲しくて定時過ぎてからも仕事をしなくちゃならないんだか」
その憂いに気付かない振りをして八重は戯言を吐き、誤魔化す。そうしなければきっと我慢できずに手を差し伸べてしまうと自分で分かっているからだ。
彼女の憂いはきっと漫画を描く時間が減ってしまう事への危惧、そして慣れないお話を作る作業への募る不安からくるもの。
残業というハプニングはあれど、ここで彼女に手を差し伸べてしまえば以前と変わらない。
いつまでも凡人に頼ってばかりでは彼女は停滞しまう。だから見ない振り、気付かない振りをしてでも八重は手を差し伸べない。
それが今の自分にできる事だと思い込んでいるから。
それっきり二人の間に会話はなく、帰路が分かれるその時まで気まずい沈黙は続いた。
そして次の日、時刻は日を跨ぐまであと一時間半といったところ。普通なら家で
そんな夜更けに未だ稼働している縫製工場で八重と光はまだ仕事に忙殺されていた。
「……いくらなんでもこれはブラックだろ」
一人、離れたところで作業をしている八重が誰にも聞こえないくらいの声量でぼやく。
あるとは言っていたが、いきなりここまで長時間の残業を強いられるのは予想外、それもたまたま今日だけなのかと思いきや、聞いた話によるとこの程度の残業は毎日らしい。
(求人票には残業なし、週休二日制って書いてあったはずなんだけど……まあ、全部を正直に書く企業の方が少ないか)
求人票に書いてある事を鵜呑みにするなっていうのは人生経験の浅い学生だって知っている。
だから八時十七時の八時間労働と書かれていても、忙しい時期になれば多少の残業だってある可能性は考慮していた八重だったが、それでもここまで酷いとは思いもしなかった。
この分だと週休休みの方も疑わしく、なんなら残業代がきちんと支払われるかも怪しい。
そもそも定時からすでに五時間半経った残業をこの程度毎日といっている時点で、労働基準法をぶっちぎりで無視している。つまり、ここの縫製工場がブラックないし、グレーな会社だという事だ。
「――――よし、今日のところはこの辺で切り上げるぞ」
所属している部署の上司が一人一人に声を掛けて回り、ようやく仕事が終わる。見渡せば光の方の部署も終わったらしく、帰り支度を始めていた。
「……アイツ、大丈夫か」
タイムカードを押す際にチラリと光の窺えた表情はどこか影が差しており、八重としては心配になってくる。
というのも、就職先を選んだ当時、重要視したのは就業時間だからだ。漫画に費やす時間を確保するために給与は最低限あればいいから、とにかく早く終わる仕事を選んだつもりだった。
実際、諦めた八重とは違い、光にとっては時間こそが重要なのにここまで遅いのが毎日続くとなると、その精神的負荷は計り知れない。
支度を終えた八重が玄関先で待っていると、少しフラフラした様子で光が歩いてくるのが見える。
「あ……八重…………」
「おう、お疲れさん。ほれ」
よっと手を上げてから八重は事前に社内自販機で買っておいたホットレモンを光に手渡し、歩調を合わせて歩き始める。
「……飲み物ありがとう。待っててくれたの?」
「ん、ああ。ちょっと寒かったからな。ついでだ」
自分用に買った抹茶ラテのキャップを開けて一口含み、ほっと一息。どう声を掛けたものかと頭を悩ませていると、光がぽしょりと口を開く。
「……まさかこんなに遅い時間に帰るなんて思いもよらなかったなぁ」
手先でホットレモンのペットボトルを弄びながら呟かれたその一言にはどれだけの感情が込められていただろうか。疲れ切ったその様子は何も長時間労働だけが理由ではないのだろう。
「…………そうだな。これが明日から毎日続くっていうんだから勘弁してほしいよな」
当たり障りのない返答、どう返せばいいのか分からない八重にとってはこう返すほかなかった。
「毎日……流石にそれは厳しいね。帰ったらもう十一時半か……」
「…………今日も帰ってから描くのか?」
空を見上げて困ったように笑う光へ八重が意を決して尋ねる。今から帰って着替え、ご飯、お風呂、洗濯などの雑事をこなせばすぐに日付を跨いでしまうのは想像に難くなかった。
「……うん、そのつもり。これが毎日続くっていうならこういう状況にも慣れないと」
「……慣れも何もないだろ。今から帰ってやるとしたら削るのは――――」
慣れないとなんて言っても、この状況では当然ながら漫画を描く時間なんて無いに等しく、それでも描く時間を確保しようと思えば睡眠時間を削るしかないのが目に見えている。
そして睡眠時間を削るという事は慣れ云々の話ではなく、健康に関わってくる話だ。
だからこそ八重は語気を強め、多少踏み込んででもそこに言及をしようとしたのだが、それを光が首を振って遮った。
「分かってるよ。それでも私はやる……だって他に方法がないんだから」
そう言い切る光の言葉には諦観と強固な意志が透けて見え、八重は何も言えなくなってしまう。
「……そう、か。分かってるならいい。まあ、その、ほどほどに、な」
「…………うん、気を付ける……それじゃあ、私はこっちだから」
月並みな言葉を吐く八重に一瞬、縋るような視線を向けた光だったが、すぐに首を振って別れを告げる。
「……ああ、じゃあまた明日」
別れを返し、暗い夜道を歩いていく光の背中を見送った八重は温くなった抹茶ラテを飲み干して踵を返す。
これからの事、光の視線、考えないようにしても浮かんでくるそれらから目を背け夜道を行く。
まだ肌寒く、少し冷たい夜風がびゅうっと八重の顔を吹き付けた。
残業が始まって早、二週間。残業時間は相も変わらず、酷い時は日を跨いでから仕事場を出るなんて事もあり、加えて土曜も出勤、実質的な休みが日曜しかないまま八重と光は日々を過ごしてきた。
「ふぁ……眠い」
お昼休憩、食堂でコンビニ弁当を温めている八重の口から思わず大きな欠伸とそんな言葉が漏れる。
いくら始業が八時で職場との距離が近いと言っても、毎日、毎日あんなに遅くまで仕事をしていれば必然的に睡眠不足になる。
実際、帰って家事をして寝るだけの生活がこの二週間続いており、休みの日曜は眠気に負けてほとんど寝て過ごす羽目になっていた。
「光の奴は……ああ、寝てるな」
いつも二人がご飯を食べる席、そこに
服装は言わずもがな、髪もぼさぼさで、腕の合間から覗く目元は薄っすら隈が出来ている。
(帰って寝るだけの俺でもこれだけ眠いんだからアイツの眠気は想像を絶するだろうな)
漫画を描くという行為は当然ながらかなりの時間を要する。作画だけでも時間が掛かるのに今の光は慣れない原作もしているのだから余計に時間を食っていると容易に想像できた。
「おい、寝るのは昼を食べてからにしとけ」
「……ふぁっ!?あ、え、う、うん」
寝かせてやりたいという気持ちは八重にもあるが、このままだとお昼を食べないまま休憩が終わってしまう。そうなると寝不足も相まって光の身体がもたない。
声を掛けられ、慌てて跳ね起きた光は寝ぼけ眼ながらも自分の鞄をごそごそ探ってお昼を取り出そうとする。
「…………あ、やばっ」
「……どした?」
青い顔をしてそう漏らす光へ反射的に聞き返すと、彼女は困ったように笑いながらお昼ご飯を用意するのを忘れたと答えた。
「朝、バタバタしてたから完全に忘れてた……どうしよう」
「…………はぁ……ほれ、とりあえずこれ食っとけ」
仕方ないなというため息を吐いた八重は温めたばかりのコンビニ弁当を光の前に置く。忘れずに箸も添え、傍らに飲み物もプラスで手渡した。
「え、で、でもこれは八重のお昼…………」
「いいから食っとけ。心配しなくても俺にはこれがあるから問題ない」
遠慮しようとする光に対して八重は自分の鞄から有名な某、携帯食料を取り出して見せ、大丈夫だと納得させる。
そもそもそこまで量を食べるわけでもないし、同じく残業があるといえど、帰ってから寝るだけの八重と違って光はそこから描かなければならない。
今の時点でフラフラの光に倒れられても困るし、なにより、ここで何もせずに放置できるほど、八重は薄情になれなかった。
「う……ありがと」
「……いいから早く食え。昼休憩が終わるぞ」
お礼をいう光へ早く食べるように促す八重。それはこんな事で礼を言われる後ろめたさから目を背けたかったから出た言葉だった。
(……本当ならここで描く事自体を止めるのが〝友達〟ってやつなのかもしれんが、別に俺とアイツはそういう関係でもないし、口で言ったところで止まりはしないのは分かりきってる)
八重をして、気持ちが分かるなんて高慢な事を言うつもりはない。けれど、光が漫画を描く事にどれだけ賭けているか、そして後がないのかを八重は知っている。
自分達の関係性なんて八重自身にも分からない。〝友達〟なんてもので括られるものでもなく、まして単なる恋慕の情で言い表すような関係でもない。
ただ、彼女が夢を諦めて折れる姿を見たくない。押しつけがましい
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