中編
「ぅぅ……最悪だ。八重にあんな気を遣わせるなんて……」
お昼休みが終わる十分ほど前、お手洗いの個室で光は自己嫌悪に陥っていた。
「せっかくここまで支障が出ないように気を付けてたのに……もうっ」
周りに誰もいないと分かっているとはいえ、こうも悪態を吐く自分が少し苛立ちやすくなっているのを感じて余計に陰鬱な気分になる。
(原因はやっぱり睡眠時間が足りてないから……だよね)
注意力が散漫になる、怒りっぽくなる、両方とも寝不足からくる症状としては有名だ。
実際、ここ二週間、光の平均睡眠時間は三時間ほど、人間が健康に過ごす上での睡眠時間には全然足りなかった。
「……こんなんじゃ全然駄目だ。この程度乗り越えないと、今だって時間は足りないんだから」
圧倒的に時間が足りない。残業時間が長過ぎるのもそうだが、それ以前に慣れていない話作りにも時間が割かれている現状が問題だった。
(八重がお話を書いてくれれば……ううん、それは、それだけは駄目。今の八重にそれを頼むのは残酷だもん)
卒業式の日、八重から告げられた言葉に光は耐え切れないくらいのショックを受けた。
なんで、どうして、嘘つき、色々な感情が浮かんできて溢れそうになったのを光は今でもはっきりと覚えている。
しかし、それと同時に八重の言っている事も十二分に理解していた。
中学から一緒に漫画家を目指して卒業までの合間に結果を出す事ができなかったのは本当の事、取っ掛かりさえ作れなかった時点で叶うまでの道のりが険しくなったのは確かだ。
それに仕事が始まれば時間が無くなるというのも現状、光は身に染みて分かっている。
(たぶん、八重は疲れちゃっただけ……いつか戻ってきてくれる)
だからこそ光は一緒に働き始めてからも卒業式の日の出来事にはなるべく触れずに過ごしてきた。
お昼休憩にアドバイスを求めたり、冗談半分、本気半分で時々、お話を考えてくれるように頼んでみたりもした。
きっといつか八重がもう一度一緒に夢を追いかけてくれると信じて。
「私は絶対に諦めない……だって八重の創るお話が好きだから」
八重の心が回復するまでは自分が頑張る、たとえどんなに辛くても、苦しくても、また二人で漫画を描けるのなら。その決意を胸に光は仕事に戻っていた。
もらったお弁当のおかげでお昼からの仕事をどうにか乗り切った光は残業を終え、フラフラとした足取りでタイムカードを押してから帰り支度をして玄関へと向かった。
「――――お疲れさん」
部署によって終わる時間もまちまちだというのに、毎回、玄関で待っていてくれる八重の姿に思わず頬が緩んでしまうのを感じながら光は靴を履き替え、並んで歩き出す。
残業が始まってからの二週間、近い距離とはいえ、光は夜道を一人で歩くのは不安に思っていた。
だからこうして八重が一緒に帰ってくれるのは光としてはありがたい。と、思うと同時に悪い事をしてるなとも思ってしまう。
八重は優しいから可哀そうな自分に同情している……とまでは言わないが、優しさに甘えているという自覚が光にはあった。
「……お昼はありがとね。また今度、何かお礼をするから」
「……そうだな。ま、期待せずに待っとく」
そっぽを向いてそう言う八重を見て光はくすりと笑みを溢す。ここで別に気にするなと言わない辺り八重らしい。
(言葉一つ一つとっても優しい……だから私はそれについつい甘えてしまう)
本当に八重の事を想うなら何も聞かずにそっとしておくべきだ。
毎度毎度、お昼にアドバイスをもらおうとしたり、こうやって待ってもらったりするのを止め、普通に接するのが正しい……分かっていても光は止める事ができなかった。
(やっぱり私は八重に依存してるのかな……)
並んで歩く八重の横顔をチラリと盗み見ながらそんな事を考える光。
中学生の時からの付き合いで漫画を描くためにおおよそ青春と呼べるもの全てを賭けてきた二人だが、いつも一緒にいたせいで周りからはカップルだと思われていた事を光は知っている。
実際はそんな事実はなく、ただただ漫画を描くため一緒にいただけ……惚れた腫れたの浮いた関係ではなかった。
ただ、八重の方はともかく光にそういう感情がなかったかと聞かれると分からない。
当時……いや、正確には今もだが、光は家族から半ば放置されるような形で日々を過ごしている。
高校までの必要最低限のお金は出してくれたものの、それだけ。大学に行く費用はもちろん、最低限の衣食住以外で彼女に何かしてくれる事はなかった。
どうしてそうなったのか、理由は光自身も知らないし、知ろうと思った事もない。幼いながらに聡く、余計な事を聞けば最低限の生活すら送れなくなると理解していたのだろう。
だから光は自身の境遇に不満を覚える事はなかった。けれど、周りはそんな彼女を良くは思わず、小学校時代は友達と呼べる人もいないまま過ごした。
だから中学からの八重と過ごした日々は彼女にとって何にも代え難い幸せなもの。
単純な恋や愛ではなく、〝友達〟なんて一言では足りない大切な存在……そこに光にも分からない大きな感情があったのは確かだ。
故に、そんな状態で今日まで過ごしてきた光は八重に依存しているといっても過言ではなかった。
「……それじゃあここまでだな」
「あ……うん……それじゃまた……」
どうやら光が考えている内にいつの間にかいつもの別れ道に着いていたらしい。八重の言葉にハッとした光は名残惜しそうに手を振って後姿を見送る。
「…………どうかしたの?」
見送っている最中、不意に足を止めた八重に光が尋ねた。
「…………ああ……いや、その、なんだ。俺が言えた義理じゃないが……あんまり無理はするなよ」
「………………え?」
唐突なその言葉に目を丸くし、光は思わず声を漏らす。たぶん、ここ最近のフラフラした様子を心配して出た言葉なのだろうけど、八重の口からここまでストレートにそれが出てくるとは思わなかった。
「……この遅い時間でも帰ってからまた描くつもりなんだろ?それを止めろとは言わない。でも、倒れそうになるまで根を詰めるのは止めとけ。無理をしても碌な――――」
「……今の私に
心配する八重に対して光の口から無意識の内にそんな言葉が零れる。
諦めた貴方が、私の手を振り払った貴方が、それらを呑み込んで描き続ける私に、無理無茶をしなければ進めない私に、よりにもよってそう言うのか。その一言には光自身も気付いていない感情や激情が込められていた。
「何、を…………」
「だってそうでしょ?ただでさえ削られて時間がないし、それを補う程の才能もない。ずっと絵だけ描いてきてお話作りの素人の私が無理はしないでどう結果を出すっていうの」
一度溢れだした感情の波は止まらない。ただただ激情に任せて責め立てるような言葉を吐き続ける。
「私にはこれ以外に道はないって八重は分かってたのに……どうして、どうして私を捨てたの?結果が出なかったから?私の力が足りなかった?もし私がもっと上手かったら違ってた?」
「それは…………」
捲し立てるような疑問の連続。光自身もそれらが酷く子供染みてで我儘だという自覚をしながらも、言葉に詰まる八重へ感情をぶつけた。
「どうして?本当に諦めたっていうならなんで私の事をここまで気にかけるの?八重にとって私は一体なんなの……?ねぇ、答えてよ…………」
吐き出せるほどに吐き出した僅かな解放感とどうしようもない剝き出しの感情をぶつけてしまったという罪悪感から勢いは削がれ、次第に声は消え入りそうなものへと変化していく。
もう引き返せない。光の投げかけた問いに答えようが答えまいが、もう元通りには戻れなかった。
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