デビル ―楽園の追放者―

哀原正十

第1話 天使と悪魔【プロローグ】

 ガキン!

 刃と刃が交錯する。

 白い祭服にミトラを被った老戦士が、ガクリと膝を付く。

 老戦士の周りには十の屍と、夥しい血。全て老戦士の戦果だ。

 だが、代償も大きかった。切傷16箇所。裂傷5箇所。刺傷2箇所。

 大地を染める血には、老戦士の血も大分混じっている。いつ倒れてもおかしくない。老戦士が今尚戦い続けるのは、ひとえにその強靭な精神力の賜物だった。

 気合一閃。屍がまた一つ増えた。

 黒ローブの男たちがどよめく。老戦士、その背が覆う少女を狙う敵だ。

 少女が、叫ぶ。


「ロスチャイルド! もうやめて! 敵の狙いは私です。私の命を差し出せば、ロスチャイルドの命は助かるはず……」

「聖女。老いぼれの命にそこまでの価値はありません。それに、甘い。悪魔崇拝者サタニストは、そこまで有情ではありません。私も殺され、聖女も殺されるのが末路オチでしょう」

「ですが!」


 だが、このままでは老戦士――ロスチャイルドが凶刃に倒れるのも時間の問題だ。ロスチャイルドも少女にもそれが分かっていた。だから、少女はせめて自分の命を敵に捧げ、ロスチャイルドの命だけでも助けようとしたのだ。

 ロスチャイルドが、血に染まった唇をニヤリと曲げる。


「なぁに大丈夫。これしきの敵、手負いの私一人でも足止めぐらいは出来るでしょう。その隙に、聖女はお逃げください」

「ッ! ですが……」


 ブーメラン。投げつけられた刃が、少女の手前で弾かれる。

 少女へのサタニストの殺意を剣で遮り、告げるロスチャイルド。


「早く! 迷ってる暇はありません!」

「ッ……!」


 少女は走る。煌めく水晶の欠片を、血染めの大地に散らしながら。


 ロスチャイルドが、叫ぶ。


「さあ来い悪魔崇拝者共! 一人残らず地獄へ叩き落としてくれるわ!」





「そろそろ、予言の地に辿り着く、はずっ――――」


 息が切れる。少女は、絶望に呑まれそうな自分の心を叱咤し、それでも足を動かし続けた。

 どれくらい走っただろうか。視界が滲む。足が痛い。心臓は破裂しそうだし、肺はもう血にむせている。

 ロスチャイルド、エデン東教会の最強騎士。その彼が大丈夫といったのだ、きっと大丈夫に違いない。

 岩。つまづく。右膝が割れ、血が吹き出した。

 痛い。涙がまた溢れる。

 乱暴に腕で涙を拭い、右足を引きずり歩き出す。

 ロスチャイルドはもっと痛いのだ。これくらいのことで、涙を零す訳にはいかない。

 引き摺る足を、痛みを抑え込み、顔を振り上げた少女の瞳に逆さになったロスチャイルドの顔が映った。

 スローモーションで落下するロスチャイルド。首の断面が視界に入った時、少女は生涯最大の絶叫を上げた。


「あーあー、うるせぇなぁ。もう泣くなよ。少女なら何でも許されると思うなよ?」


 崖の上から、黒いローブに包まれた男が降ってくる。着地。30メートルはある高さの崖を、平然と飛び下りたのか?いや、そんなことはありえない。人間には不可能だ。ありえるとしたら――。


 そこまで思考を進め一つの答えに行きつく。瞬間少女は、口を手で覆い、岩壁に背を張り付ける。心が、絶望に犯された。


悪魔憑デアデビル……)


 そんな、ありえない。近隣のツァコルビトル教会に通じる道は、神官ロックフェラーー――智天使ケルビムの加護を受けた契印の燭眼ルーンアイの聖戦士が塞いでいたはず。


 慄く少女の心を読みとったか、はたまたただの露悪趣味か、崖から飛び降りてきた黒ローブの男は、ローブの内から、一つの眼球を取り出して見せる。

 金色の虹彩に刻まれた神代文字。刻印の燭眼。刻まれた文字は、ロックフェラーのもの。

 それを眼の前の悪魔崇拝者が持っているという事実。それは、智天使ケルビムとロックフェラーの敗北と必然の死を意味していた。

 黒ローブの男が、フードの闇に赤い光を煌めかせる。悪魔憑の証。赫印の赤眼ビーストアイ


「楽しかったぜぇ。あの糞生意気な金髪の坊やの生皮を剥いで、ナイフでグジョグジョにレイプしてやるのはよォ。ただ、命乞いしたら助けてやる(勿論助ける気はない。新鮮な恐怖が欲しかっただけ)っつーのに、流石は聖戦士ってことか、あの糞餓鬼内臓掻き回しても骨断ち切っても白目剥いても泡吹いても『神は正義だ……信仰は負けない……』とかのたまって俺に歯向かいやがるから、俺っちちょっちむかついちってよぉ――」


 黒ローブの男は、ククリナイフを腰のポーチから取り出し、縦にナニかをサクッと、裂くジェスチャーをする。醜悪なふくみ笑いを、被ったフードの内に洩らしながら、


「ペニスチョン切ったらあいつ痛みでショック死しちまったミ☆ 何でかな? 信仰は負けないんじゃ無かったのかな? あははははァ!!」


 哄笑を挙げる黒ローブの男は、しかし少女から期待した反応が返ってこないことに首をかしげる。見ると少女は瞑目し、胸元で両手を合わせて神に祈りを挙げていた。

 黒ローブは、白痴症でも見るかのような眼で少女で告げた。


「おい、何やってんだ手前ェ。おじけづけよ」

「可哀想に。ロックフェラー……。神よ。命を賭して戦った戦士の魂に、どうか安らぎをお与えください……」


 少女に覆いかぶさる。「キャ」っと短い悲鳴。祈る両手を脇に押しのけ、紺色のシスター服の胸元を切り裂き、黒ローブは少女の乳房を露出させた。

 ゆったりとしたシスター服の外側からは目立たなかったが、少女の乳房は以外なサイズで黒ローブを喜ばせた。右の手のひらを、右の乳房にうずめる。指の間から、肉がはみ出た。乳首を、ピアノをグリスするように指の腹でつま弾く。少女が、「んっ」っと可愛らしく呻く。


「はぁ、はぁ。少女に、信仰を植えつけるなんて悪い奴らだな。俺が今解放してあげるよぉ……ちゅ、んむ、れろれろ、むふぅー」

「はっ!? ん、ぅんっ、や、やめっ、んんーっ!!」


 これまで、性的な事象から一切遠ざけられて育った少女は、未知の快感を与えらるがままに受け取った。黒ローブが乳首をちゅうちゅう吸うと身悶えし喘ぎまくり、口も手も放して焦らしてみると、快楽の疼芽を貪るように身体を揺すり始める。

 黒ローブは下部を怒張させる。「ハァハア」腰のポーチから小型の魔法瓶を取り出す。唇にあてがい、中身を一息に少女の肉体に流し込む。唇から垂れた液体が、乳首を濡れそぼらせた。


「肉体の感度を100倍に高める超媚薬【ビッグXXイグゼクス】だ。俺が調合したんだ。漬物を塩漬けにするように、聖女を快楽漬けにするために。聖女の堕落。それが任務だからな」

「はぁー、はぁー、はっ!? あっ、あ、あぁあああああああああああああああああん!!」


 少女は、のけぞり痙攣する。舌をひきつらせる。涙が垂れ落ちる。怖い。少女は、痛みに心を折られることはないだろう思っていた。(何故なら信仰があるから)。だが、この魂を侵す感覚は、未知で、抗う術がなかった。快楽はどんどん膨らんでゆく。白いもやが、身体の中に渦巻いてゆく。破裂しそうなぐらいに、充満して――――


「ほら、逝きな」

「ッ!?」 


 少女のシスター服を無造作にめくり、黒ローブはためらいなく、手を下着の中に突っ込む。

 快感が、破裂した。


「ッ~~~~~~~~~~~~~~~~あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 少女が何度も何度も痙攣する。甲高い嬌声が絶え間なく、快楽のリズムに乗って垂れ流される。

 黒ローブは尚も手を下着の中で掻き混ぜる。うるさいくらいに、少女は泣き喘いだ。真っ赤に熟れたリンゴのように上気し紅潮する面貌。じっとりと湿り気を含んだ肌が熱を帯び、いやらしいまでに色気を醸し出す。突き破る勢いでローブが怒張する、挿入したい、と。だが、黒ローブはその欲望を抑え込んだ。代わりに、手の動きを速め、欲望分、少女の恥態を楽しむ。下卑た笑みを浮かべる。


(教祖様は怖ぇからな……少女は処女のまま連れてかないと……)


 だから黒ローブは、少女に恐怖を与えてドス黒い嗜虐心を満たすことにした。

 手を引っ込め、湿うるおう指に舌を舐め這わすと、黒ローブはあえて少女のために残忍な相貌を作った。少女は、怯えの色を目に浮かべる。快楽の波の中で。


「何が聖女だァ……薬一つで肉欲に溺れるただの少女じゃねえか……。神なんていませんって言えよ。これからお前を犯すからよ。いませんって言えたら純潔の聖母マリア様のまま楽に殺してやるからよォ……」


 地面に突っ伏し快楽にのたうつ少女の髪を、黒ローブが引っ掴む。少女は乱暴に髪を引っ張られ、黒ローブの顔と顔が向きあう高さに吊るしあげられた。ホワイトシルバーの銀髪が、根元からぶちぶちと音を立てて抜けてゆく。


「髪なんていりませんって言えよ。神なんていませんって言えよ。髪なんていませんって言えよ。神なんていりませんって言えよ。髪なんてぶち切れて死にさらしてくださいって言えよ。神なんて墜ちちぶれてミジンコのように引き潰されて死にさらしてくださいって言えよ。髪なんて――――」


 ぶつぶつと狂気的な怨じ言を少女の耳元に囁き続ける黒ローブの男。


 悪魔憑はその身に悪魔を宿すがゆえ、絶大な力と引き換えに常にその心を悪魔の毒に侵蝕される。ゆえに、大抵の悪魔憑は何らかの狂気に心を犯されている。この黒ローブの男の場合は、神と髪への異常な憎悪が、それだろう。ひょっとしたら、単に禿だから少女のホワイトシルバーの純麗な銀髪に嫉妬しただけなのかもしれないが。


 悪魔は基本的に神と天使を忌み嫌っている。神と天使だけではない。神聖なるものは何でも嫌う。不浄を好み、淫慾を好む。殺戮を是とし、救済を愚とする。美しいものを見れば犯すことを考え、人が堕すことを何よりの幸福とする永久なる愚蒙者。地獄の囚徒。教義は無教養。唯一の倫理はエゴイズム。特技は凌辱。趣味は嘲罵。


 力と支配。暴戻で狡猾。強欲な獣性。醜穢の権化。権力に従順。快楽を大食。高慢や憤懣。怠惰か酷情。哀憐も絶無。破壊が条理。

 地獄へ一直線。それが、悪魔である。ろくでもない存在だ。


 黒ローブの男がナイフをぶんぶん振って少女の髪を切り裂く。純麗なホワイトシルバーの、腰まで届く長さのロングヘアーが、肩口にようやく届く程度のショートヘアーになる。


「髪は死んだ。今は悪魔が微笑む時代なんだ」


 少女が涙を流す。いくら聖女であろうとも、信仰を抜けば何処にでもいる普通の少女なのだ。

 髪を切られると言うことは、女性にとって命を切られるも同然。少女は今、命を切り刻まれているのだ。

 バサリ、バサリ、と少女の髪が一房ずつ地面に落ちる。


「さっき殺った神の煎餅(尖兵)だか天使のドレミ(奴隷)だかは、まるで柔肌を切り裂くような手応えの相手だったぜ。神の信仰は、もはやその程度ってこった。この悪魔が跋扈する時代にあってはなあ! 少女、お前も信仰なんか捨てちまえ。お前は顔が良いから、特別に俺の生涯の肉便器にしてやろう。教祖にはまた殺っちまったとでも報告しとくからよォ」


 黒ローブの男の言うことは正しい。


 神や天使や悪魔などの霊的存在の物質界における力は地上に蔓延る信仰の量・質に作用される。ハルマゲドンを経て地獄と化した地上において、長らく悪魔的行為こそが生を保証する唯一の方法であり続け、神や天使に対する信仰はもはや金的紙幣(=便所紙)ほどの価値しか残されていなかった。


 悪魔信仰が地上に蔓延った背景というのは、こういうものである。神話は崩壊し、悪神を崇め奉る教団が各地に発生した。グノーシス中央聖教会では、これら悪神を【偽神(アルコーン)】と呼び、神罰を下すべき存在と定義している。が、前述の信仰の問題により、芳しい成果は上がらない。一例を除いては。


 少女は歯を噛み締め、キッ!と黒ローブの男を睨みつけた。快楽に犯されようとも、命を切り刻まれようとも、少女の信仰は少しも揺らぐことはなかった。聖女たる由縁である。


「さきほどから、私の心を折ろうと苦心しているあなたに、一つだけ言っておきましょう。心は、いかなる外的要因によっても折れることはありません。ただ自分自身の腐敗によってもろく崩れ堕ちるのみです。あなたにも、悪魔憑になどならなくても生きられる道があったはず。それを悪魔憑になる道を選んだのはあなた自身の心の腐敗が原因――」


 ナイフが一閃。少女の頬を切り裂いた。快楽が痛みを塗り潰し、少女は短く嬌声を上げる。


 紅い眼が、少女を射抜いた。少女はひっ!と。悲鳴を上げ、心肝をすくませる。


「聖女だか何だか知らねえがもういい。どうせてめえは死ぬからよぅ。今からてめぇは死ぬからよぅ。その前に俺のナイフでてめえの心が折れるまでぐちゃぐちゃにレイプしてやるからよオ……。泣いても叫んでも股開いてももう許してやんないぞ。気が、触れたからな。てめえは俺っちの唯一触れちゃいけねえ部分に触れたからな。逆鱗に、触れたからな。てめぇは殺さずにはいられない奴なんだ。聖女は、殺さないと――」


 赫印の赤眼が狂気に赤みを増してゆく。少女は、自分の発言が黒ローブの男の心の何かを刺激してしまったことに気付く。だが、原因が分からない。自分は当然のことを言っただけなのに……。


「殺さないと……」


 だが、傷つけたのなら謝らなければなるまい。少女は、心からそう思い、黒ローブに懺悔の文言を述べた。


「ごめんなさい。私はあなたを愛しているからこういうことを言うの。気に入らなかったなら、止めください。ナイフを振り下ろすのは、ちょっと待ってください。分かりあえます。あなたと私なら――」

「分かりあえるわけねぇだろ。てめぇみたいな綺麗事ばかり抜かすガキとはよォ。覚悟はいいか?」

「やめてっ!!」


 少女は、素で叫んだ。心が、熱い。怖い。殺されてしまう。歯の根が合わない。体が震える。

 地面を濡らす。黄色い液体が、太腿を伝い、すねを伝い、指を伝う。地面に、垂れ落ちる。また一滴、一滴と、流れ落ちてゆく。


「殺す」


 少女が、眼を見開く。黒ローブに対してではない、その背後にいる新たな人物に対してだ。

 体格からして、男。禿とは色・装飾を異にする黒ローブを纏っている。


「ッ!?」


 突如、背後に現れた得体の知れぬ男に対し、禿がナイフを振るう。少女が、地面に落ちる。

 新たに現れた男は、自らに振るわれた凶刃をこともなく素手で叩き割った。柄越しに伝わる感触に驚愕する禿の顔面に、拳が叩き込まれる。

 禿の大柄な体躯が、荒くれた大地に身体を擦り傷つけながら20メートル程吹っ飛び、岩肌に叩きつけられる。

 悪魔によって強化された肉体は僅かに擦過傷を負ったのみだが、禿の精神が受けた衝撃は肉体の比ではない。悪魔憑たる自分に生身で傷を負わせる人間などいるはずがない。  


 つまり――。


 禿は、視線を今しがた自分を殴りつけた男、特にその眼に注視する。忌々しげに、呟く。


悪魔憑デアデビルか――」


 赤く怪しく煌めく赫印の灼眼が、その問いの答えだった。男が、動く。


「かはっ――!?」


 20メートルの距離が一瞬で零となり、男の肘が禿の鳩尾を打ち抜いた。吐血。流れるような心臓への手刀を、禿はかろうじて右手で受け止める。手の平を貫通し、左の胸筋に指が突き刺さる。

 禿は苦悶の声を上げた。


「GWWWWW。貴様、良い気になるなよ。俺はかつて神と呼ばれしぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 男は、自由な左手で根こそぎ千切った陰茎をぽい捨て、そのまま未だ絶叫を上げ続ける禿の心臓に今度こそ左手の手刀を突き刺し、抉り取り、潰した。


 絶命。


 血と涙と糞を垂らしながら、禿が息絶えた。


 すると、禿の体から漆黒の煙幕のようなものが迸り、有形の気体と化した。その姿はまるで、悪意と憎悪と自己愛をごちゃ混ぜにして、そのまま生命を吹き込んだかのような醜悪さだった。


 その有形の気体が、いかつい声で叫ぶ。


「貴様の顔は覚えたぞ! いつか貴様を八つ裂きにしてぶち殺してやるからな! 禿よりもっといい寄代に取り憑いてな!」


 男は何も答えない。悪魔に背を向け、少女のもとへと歩みよろうとする。

 その男の足が一歩目で止まる。少女が、足にぶつかったからだ。少女が、よろめく。


「ちょっと、どいて、下さい。悪魔を、浄化しなければ……」


 少女は、言いかけて眼前の男も悪魔憑であることを思い出した。何故、無警戒にここまで近づいてしまったのだろう。絶体絶命の状況から救ってもらい、つい味方のように思い込んでしまっていたが、冷静に考えると危機が去ったという保証はどこにもないのだった。

 少女はたじろぎ、黒いローブの内側で赤い眼光を放つ男の顔色を上目遣いに覗ってみる。


(あれ)


 黒いローブの内側にあった顔は、少女の知るはずのない顔だった。それなのに、その顔を見ていると、何故だか胸の奥が痛くて、苦しくて、切なくて、そしてそれら全てを塗り潰すほどの愛おしさが湧いて溢れて止まらなかった。少女の顔が、紅潮する。


(何で、涙が……)


 少女の眼から涙が零れ落ちる。男はその涙を優しく拭った。何か、得体の知れない感情に突き動かされて。

 少女が、肉体に走った電流のような快感に、小さな疼きを口から洩らした。

 媚薬の効果がまだ残っているようだ。少女は羞恥に口を押さえ、聖書の一節を諳んじた。


「わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43章4節より。姦淫のような行いに快楽を見出す私のような罪深き存在にもキリストの愛は降り注がれるのだ、と自分を慰めるために口にした)」


「……………………………………ッ!?」


 男は、胸に手をやった。得体の知れない感情が、汚泥が水を侵す様に心に染渡ってゆく。危険を感じ、無言のまま一歩、後ずさる。少女は、言葉を続ける。


「あなたが、どういう人か、今それを問うことはしません。ですが、もしも私の命を奪う気ならば、少しだけ待って下さい」

悪魔祓いヴァニッシュか、手を貸そう」


 男は助力を申し出たが、それには及ばない、とでも言うように、少女は両手を広げ、そしてそのまま瞳を閉じた。


 少女の頭に光輪が浮かび、光の翼が幻出する。

 再び瞳を開いた時、少女の瞳は白く光り輝いていた。

 清廉なる唇が、息を吐く。


 少女が、悪魔祓いの呪文を詠唱し始めた。


「天に在す我等の父や。

 願は爾の名は聖とせられ。

 爾の國は來り。

 爾の旨は天に行はるるが如く、地にも行れん。

 我が日用の糧を今日我等に與へ給へ。

 我等に債ある者を我等免すが如く、我等の債を免し給へ。

 我等を誘に導かず、猶我等を凶惡より救ひ給へ。

 蓋し國と權能と光榮は爾父と子と聖神に歸す、

 今も何時も世々に。」


「ヤメロ! ヤメルンダァアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 悪魔が苦悶の声を上げる。気体状の身体が、星のような煌めきを纏いながら焦煙に巻かれる。

 少女は、聖母マリアのような神々しい姿で、呪文の最後の一節を、悪魔に向かって唱えた。


「地獄に堕ちろ(アミン)。」


「チッキショオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ! シンデヤルウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ! ブチコロシテヤルウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ」


 負け犬の遠吠え。悪魔は情けない断末魔を上げながら、その存在を魂ごと浄化させられ、永遠にこの世から消滅した。二度と復活することはないだろう。

 この世が、また一つ清らかになった。

 少女の力のお蔭だ。

 この世に舞い降りし、天使エンジェルのお蔭。


 聖女は、少女は、天使である。神を内に秘めている。悪をこの世から滅し尽くすまで、聖女は闘い続けるだろう。純潔の心で、クリスタルな精神で、永久のエレジーで、あるがままで。末法の世を滅し尽くすその日まで。少女は、救済の象徴としてこの世の光であり続けるのだ。


 悪魔祓いは成功した。


 聖女としての格が落ちると、こう上手くはいかない。この成功は、少女の霊格の高さを流暢に物語っていた。だが、天使の力は清らかな心を持った処女の乙女にしか宿らない。あの禿にレイプされていたら、少女の天使の力は失われていた。少女は、自分が未だ聖女でいられる事実に、聖上なる神様の慈愛に満ちた思し召しを感じずにはいられなかった。


 少女の瞳から光が失せる。それと同時に、光輪と光の翼が光の粒子となって消滅した。

 悪魔祓いの消耗が激しかったようだ。もう、何の力も残っていない。襲われても、抵抗ままならず少女は好きにされるがままだろう。


 疲れ、息を切らす、少女。


「はー、はー」

「…………」

「…………私の命が欲しいなら、好きになさい。悪魔祓いは、終わりました。もう、どうでも――」

「そうか」

「ひゃああああん!」


 男は、少女を無造作に肩に担ぎ上げる。媚薬で敏感になった肉体を男の大きくて熱い手で乱暴に扱われ、あられもない声をあげて少女は肉体を身悶えさせる。


「んっ、んふぅぅぅぅぅぅっ! あっ!? きゃんっ」


 歩く振動が伝わる度に、快感に神経を突かれるようだった。少女は、恥ずかしいので声を押し殺すが、逝く度に喘ぎ声が漏れ出てしまう。だがそんな事を繰り返すうちに次第に恥も薄れていく。

 そして、少女は襲い来る快感を、心中で神に懺悔しながら、せっかくの機会だからと貪り楽しんだ。

 まだ可愛らしい、処女で、少女の、聖女である。見た目から判断するに、年齢は14,15と言ったところ。快楽に溺れるのも、やむを得ないだろう。


(この人が、予言の人なの――?)


 少女は、自分を担ぐ男の横顔を、まじまじと見つめる。端正な顔立ちだと思った。少女は、赤くなる。

 男は、少女を担いだまま、自らの所属する教団への帰路を、歩み続ける。


【メフィスト教団】への、帰路を。


 道中、


「セイラ・ホリィ」

「…………」

「私の、んっ! 名前、です。あなたの、名前は」

「……………………黒死こくし焔山えんざんだ」

「こくし……えんざん……。かっこいい、名前ですね」

「………………………………………………そうだな」


 二人は、そんなやり取りを交わした。


 二人の前に、漆黒の荒野が、どこまでも広がっていた。

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