第二話 白き狭間にて


 追手を返り討ちにしてから二日ほど歩き続けた男は、ついに白霧の森へと辿りついた。


 あたり一体に立ち込める白霧には水気もなければ、風で飛んでいくこともないようだ。どう考えても、まともな霧ではない。


「水も食料も尽きた。だが、おれにはもう必要のないものだ」


 男の目の前には、ひときわ濃い白霧が壁のようにそびえ立っていた。


 まるで、あの世のこの世を隔てる境界にも見える。きっとその向こうが、男が最期を迎えるべき場所なのだろう。


 これまでの人生に未練がないとは言えるわけがない。だからといって、引き返す理由もない。


 半年前に光さえ見えぬ地下深き牢を脱し、執拗な追手たちを斬り続け、ようやく旅の終着点にたどり着いたのだから。


「……いくか」


 男は白き濃霧に身を任せた。


 一歩先の視界さえきかない真っ白な世界の中を、男は突き進む。


 徐々に身体が浮いていくかのような違和感が男を襲い、ついに五感さえもがあやふやになっていった。


 まるで、身体が雲にでもなったのかと思うほどに。


 そんな奇妙な感覚の中を歩き続け、ようやく男は厚い霧の壁を潜り抜けた。


「なんだ、これは」


 目に飛び込んできた光景に、男は思わず呟いた。


 いわおのような幹を持つ樹がまばらに生え、地面は枯葉の絨毯に覆われている。草木の新芽も、ねずみ一匹の気配もない。


 薄くなった白霧は辺りに漂い、遠くはぼやけてよくわからない。天を仰いでも、白霧が蓋となり空は見えなかった。


 この世界から命という概念が消え去り、生きている存在は自分しかいない。生命を喰らう白霧の森は、男にそう思わせるほどの雰囲気に満ちていた。


 得体の知れない恐ろしさを感じた男は、無意識に後ろを振り返る。


 だが、そこにあるはずの濃い霧の壁はなく、似たような風景がどこまでも続いていた。


「やはり、ただの森ではない。何らかの力が働いている」


 はるか昔より存在こそ伝わっているものの、この森が未だに未知に包まれている理由を男は身をもって思い知った。


 歩いてきたであろう方向を戻るも、いっこうに霧の壁は現れない。それどころか同じ場所をぐるぐると回っているような感覚さえある。


 太陽が見えないため方角もわからない。


 やがて歩き疲れた男は、岩のようにごつごつした樹にもたれかかるように座り込んだ。


「教会の影どもも、さすがにここまでは追ってこれないだろう。ようやく……おれは救われる」


 男は懐より短刀を抜くと、自身の左胸にあてがった。あとは革鎧ごと心臓を貫けばいい。


 だが、力が入らなかった。次第に手は震え出し、呼吸は乱れ、まだ血の赤い人間であったころの記憶が次々と湧き上がってくる。


 追われる身という緊張から解放されたいま、男をさいなむのは生への執着であった。


 両親にも、妹にも、切磋琢磨し合った友にも、もう会えない。


 自分を信じて死んでいった者たち、自分のせいで殺されていった者たちへ、なにひとつ報いることもできずにこの世を去るのか。


「情けない……この期に及んで、おれはそんなに死ぬのが怖いのか」


 込み上げてくる過去の記憶が、見えない力となり男の手を遮っていた。やがて根負けした男は、勢いよく息を吐きだし胸をわし掴む。


 そして記憶は、ある運命の日を男の脳裏に映す。


 災厄が空を舞い、街は炎と断末魔に包まれた。


 護国の騎士であった男は、死闘のすえにこれを打ち倒す。


 だが遅れて現れた教会の影により、瀕死であった男は抵抗むなしく連れ去られ、おぞましい儀式の果てに人外へとなり果てた。


「……ライオネル」


 その名は男の仇敵であり、教会の影があの御方と崇拝する首魁しゅかいであった。


 ――――そして、男を化け物へと変えた張本人だ。


 他の追随を許さない剣技に、半不死の身。それらがあったとしても、男は勝てないと本能で悟っていた。


 は人でも化け物でもない。この世に存在してはいけない、触れてはならざる者であった。


 そしてなによりも、復讐の道を選べば……今度は自分が罪なき者を殺す側にまわる。


 影は国の一部だ。いずれ、かつての同胞や兵も刃にかけることになるだろう。


 そしてときには、なんら関係のない民であっても。


 彼らにも、自分と同じように家族や友人がいる。死ねば、きっと悲しむだろう。


 だから男は逃げ出した。彼は、あまりに優しすぎたのだ。


 そして同時に、男はマルグ・エストリアという名前を失った。


 化け物に成り下がっただけではなく、復讐も果たせず、仇も討てない。そんな軟弱者に、騎士の名を名乗る資格などはなかった。


「忘れろ、忘れろ……死ねば全てが終わる。思い出すことも……なくなる」


 自分に言い聞かせるように呟き、男は再び短剣を胸にあてた。



 ――――それから幾日が経ったのだろうか。



 男はまだ生きていた。


 短刀は半ばまで刺さっているが、心臓に届くには至らない。


「飲まず食わずで、よく……死なないものだ」


 白霧の森であっても、昼と夜は訪れるようだ。五回くらい夜になったような気がするが、水の一滴すら飲んでいないのに男は生きていた。


「人間じゃないな、おれはもう……」


 だが限界が近づいてきていることは確かであった。飢えて死ぬか、自害して死ぬか。ここまで来たら、もう大した違いはない。


「……なんだ?」


 ざわり、ざわり。風もないのに、枝葉が揺れる。自分の息の音しか聞こえないこの無音の森で、何かが起ころうとしていた。


「樹が、動いている――――?」


 男の正面に生えている樹々が、左右へと寄っていく。まるで地面そのものが動いているかのように。


 やがてその奥より……ぎぎぎ、ぎぎぎと船がきしむような音が聞こえてくる。


 いや、船というそんな小さなものではない。その不穏な音は、木の城が嵐に飲み込まれたかのような音だ。


 白霧により遠くは見えない。だが軋音あつおんが近づいてくるにつれ、徐々にその全貌が明らかになってくる。


「なんなんだ、あれは」


 言葉にするのであれば、それはいわおの樹を怪物にしたかのような姿だった。


 幹には地獄の悪魔をおもわせる大口。その中には、裂けたいくつもの木片が凶悪な牙のようになっていた。


 そして左右に伸びる腕は丸太のように分厚く、手は人など簡単に握りつぶせるほどに大きい。


 槍のように尖った根を足の代わりにして、怪物は男に向かってぎこちなく歩いてくる。


「ヲ……ヲヲ」


 洞窟を吹き抜ける風のような声を、怪物は大口より響かせる。


 かの存在に目とおぼしきものはないが、怪物の意識は自身に向けられていることを男は漠然と理解していた。


 敵意も殺意も感じられない。しかしこれまで経験したことのない警告を、男の第六感は叫んでいた。


 あれに喰われれば、では済まないと。


 突き動かされるように男は胸より短刀を抜いて立ち上がり、十字剣を構えた。


「ヲヲヲ――――ヲヲ!」


 枯れ木の怪物は全身を揺らしながら、いきり立ったかのように男に向かって突進する。そして怪物は、太い腕でのなぎ払いを繰り出した。


 迫力こそあるが、速さはなく鈍重。跳躍か、ひきつけて屈めば難なくかわせるだろう。


「身体が、重い……!?」


 だが男の身体は限界まで衰弱しており、激しい動きなどできるはずもなかった。


「がは――――っ」


 男は棒立ちのまま怪物の一撃をくらい、血を吐きながら糸のきれた人形のように吹き飛んだ。


「これが、おれの最期か。ぐふっ、化け物にはお似合いの最後だな」


 もう立ち上がる力もない男は迫り来る怪物に目をむけた。黒い血が僅かに怪物の腕にかかっているが、苦しみ様子を見せるそぶりもない。


 命ある存在であれば、呪血は確実に対象を蝕む。効いていないということは、そもそもあの怪物は生きているというわけではないのだろう。


「ヲヲ……ヲヲヲ」


 怪物は男にむかってゆっくりと手を伸ばす。男はただ、その様子を虚ろな目で見ていた。……すべてを受け入れるかのように。


 そのときであった。


「――――氷槍よ」


 何者かの声が響き、風切り音が聞こえたかと思うと、突如として凄まじい轟音と共に怪物の腕が吹き飛んだ。


 いったい何が飛んできたかと男は驚き、目を見開いて辺りを確認する。


 すると、やや離れた場所には馬上槍ランスのように太く鋭い氷の塊が、地面に突き刺さっているのが見えた。


「氷牢よ、無数の柱をもって……かの異形を封ぜよ」


 男に状況を飲み込ませる時間も与えず、また声が響く。その声は、透き通るかのような少女のものであった。


「ヲヲ――――!? ヲヲヲ!!?」


 枯れ木の怪物の周囲より数え切れないほどの氷の柱が形成され、怪物は瞬く間に身動き一つ取れないほどに拘束されてしまった。


「あなた、こんなところで何をしているの?」


 状況を飲み込めぬ男が困惑していると、彼の頭上から声が聞こえた。身体を起こし、男は声のありかを仰ぐ。


 そこには、真っ白な少女がほうきに乗りながら浮いていた。


 奇妙な形をした帽子も、長い髪も。


 肌の色も、着ているローブでさえ。


 まるで白霧に溶け込んでしまいそうなほどに白い。


 色のあるものは、ルビーのように紅い双眸そうぼうと、濃い青色の光をまとう指輪。


 そのふたつだけであった。


「……見ての通り、ただの死にたがりだ。お前がどこの誰かは知らないが、邪魔をするな。助けなど……必要ない」


 こんな場所にまさか人がいるとは、男は思いもしなかった。いや、そもそも彼女は人間なのだろうか。


 まるで人形のような端正な顔立ちに、あまりに現実離れした神秘的な雰囲気。天からの迎えといっても、違和感がないほどであった。


 そしてなによりも、あの怪物を一蹴するほどの圧倒的な力を見せておきながら、まだ余裕が見える。


 少女が人の限界をはるかに超えた強者であることを、男は本能で理解した。


「ふうん……死にたがり、ね。あなたがどんな事情を背負ってこの場所に来たのかはわからないけど――――ねぇ、あなた、気がついている?」


「何をだ?」


 男に問いを投げかける少女の顔には、哀れみが浮かんでいた。


「あなた、泣いているわよ」


「なっ――――」


 男が咄嗟に目元を触ると、手には涙がついていた。


「やめろ、やめてくれ。おれを惑わさないでくれ。おれにはもう、どこにも居場所などはない。ここで死ぬ以外の救いなどないのだ」


 男は立ち上がり、少女に向かって両手を広げる。呪われた血に汚れた、己の革鎧を隠そうともせずに。


「おれはまともな人間じゃない、黒い血を流す化け物だ。人の世界に化け物の居場所なんてないだろう!?」


 黒い血を見た少女は確かに驚くが、それも一瞬のことであった。そして少女の表情は、より深い哀れみに包まれる。


「あなたは化け物じゃない。人間よ」


「……っ!」


 少女の見透かしたかのような慰めが、男の傷だらけの心に染み渡る。


 偶然か必然か、男がもっともかけて欲しい言葉を少女は言ってのけたのだ。


「わたしがあなたに居場所をあげる。行き先はこの世でもあの世でもない、小さな世界よ。救われたいなら、わたしの後ろに乗って」


 少女は高度を下げ、男の真横にまで降りてきた。


「ヲヲ……ヲヲヲ!」


 枯れ木の怪物は拘束から逃れようと力任せにもがく。ぱきり、ぱきりと、氷柱が折れる音が徐々に強まっていく。


「あらら、もう限界みたいね。ゆっくりと考えている時間はなさそう。どうする?」


「どうするも何も、おれは……」


「ひとつ忠告しておくけど、あれに食べられたら来世に期待は持てないわよ。だって魂そのものを喰らう、正真正銘の化け物だからね」


 男の顔がより一層青ざめる。


 悲惨な人生を送り、来世に希望さえ持てないとなると、さすがの彼も戸惑いを隠せなかった。


「……置いていけ、おれはここで――――うおっ!?」


 二の句を告げる前に男の身体は浮き上がり、否応なしに箒へと乗せられていた。


「強情な人ね。あなたの顔には、まだ死にたくないと書いてあるわよ」


 振り向き微笑む少女に、男は言葉が出なかった。


「こうしましょうか。わたしはとても気まぐれな性格なの。だから勝手に助けることにするわ、それならば悩む必要はないでしょう?」


 少女の微笑みが、不敵な笑みへと変わる。他者を巻き込むことを顧みない、そんな笑みであった。


「ヲヲヲ――――ヲヲヲヲ!!!」


 ついに枯れ木の怪物が氷の封牢を破壊し、脇目も振らずにふたりへと襲い掛かる。








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