黒き呪血のクレイモア プロトタイプ

MS3

第一話 黒き道の果てに


 ――――ある曇り模様の日であった。


 人里から遠く離れた辺境の森。


 未開の地であるこの場所は、動物たちの楽園であるはずだが……この日は鳥がさえずる声さえも聞こえないほどに、静かであった。


 獣たちは声をはばかるほどに恐れていたのだ。招かれざる客の、その来訪によって。


 森の奥を目指し、道なき道をゆく男がひとり。


 その姿は異様であった。


 ぼろ布のような外套がいとうの下に覗かせるのは、酷使され擦り切れた黒い革鎧。


 そしてつかを合わせれば自身の身長ほどはあろう大剣を、鞘に納め背負っている。


 歳はまだ若い。だが彼の目に光はなく、どこかうつろであった。


 痩身そうしんであり灰髪、無表情かつやや白み帯びた顔立ちもあいまって、生気を感じさせない。


 遠めから見れば、彼の立ち姿は墓場より這い出てきた亡者のようであった。


 かといって、男は心ここにあらずというわけではない。彼が地を踏みしめる油断のない歩みが、研ぎ澄まされた武の持ち主であることを示していた。


 目指す先は森の最奥だ。その場所は遥か昔より、濃い白霧に包まれ続けているという。まさしく未知の神秘であり、その実態を知るものは誰もいない秘境だ。


 無論、男は富や名声を求める命知らずの冒険家でも、探求心に駆られた学者でもない。


 では、なぜ彼は森を孤独に突き進むのであろうか。


 彼が白霧の森に望むものはただひとつ、それはであった。


 しばらく森を歩み続けた男は、突然足を止めた。そして視界に広がる無数の木々に向かって鋭い視線を送る。


 しんと静寂が辺りを包むなか。ふいに吹いた風が、枝葉を揺らす。


 数瞬のざわめきが止んだとき……男は口を開いた。


「出てこい、いるのはわかっている」


 抑揚のとぼしい低い声。何者かに投げかけられた言葉は、しかし確信に満ちたものであった。


 男の呼び声に呼応するかのように、樹々きぎの裏から五つの人影が姿を現す。


 その誰もが黒ずくめの装衣をまとい、目元が隠れるほど深くフードを被っていた。そして手に握られているのは、使い古された短剣だ。


 唯一なる神を信仰する、正教国ジアティール。国の柱である正教会が暗部……それが彼らであった。


 男は、教会に追われる身であった。


「……さすがはマルグ・エストリア。完全に気配を消していたつもりだったのですが。我らから半年もの間、逃げ続けていることだけはありますね」


 一対いっついの短剣を持つ影が、感心したように男に称賛を送る。


 しかしその言葉は、マルグと呼ばれた男の気分を害した。無表情な顔が、僅かに怒りで歪む。


「――――その名でおれを呼ぶな。いまのおれに、名前などない」


 男は吐き捨てるように言葉を返すと、慣れた手つきで大剣を抜く。その剣の色もまた、ひたすらに黒かった。


 まるで、夜のとばりをかき集めて打ち据えたかのごとく。


 すらりと長い刀身、くの字に曲がった特別な形をしているつば。その出で立ちは聖なる神へ祈りを捧ぐ祈祷の道具、十字架にも見て取れる。


 十字剣クレイモア。それが男の半身とも言うべき剣の名であった。


「なぜあの御方から逃げるのです? なぜ、神の定めた運命より逃れようとするのです? その身にどれほどの価値があるのか、知らないわけではないでしょう」


 薄ら笑いを浮かべながら、影は男を問い詰める。丁寧な言葉遣いは崩さないものの圧の強い物言いは、狂気さえ感じられるほどであった。


「黙れ、狂信者め。その運命とやらが示すなら、平気で罪なき神の信者でさえ殺す貴様らの思い通りになど……おれは死んでもならん」


「我らの手にかかることが、神が定めた彼らの運命だったのです。ただそれだけのこと」


 弱者の運命はもてあそぼうが取るに足らない。傲慢ごうまんな物言いに、かつて騎士であった男の正義感に火がともる。


「あの御方に命を拾われ、人智を超えた力を授けられたあなたが、どうしてあの御方を拒絶するのです? あの御方は世のため人のため、そして平和のために腐心しているというのに」


「あの御方、あの御方とうるさい奴だ。あんな魑魅魍魎ちみもうりょうに助けてくれと頼んだ覚えはない。力が欲しいと懇願した覚えもない。すべてはあの度し難い愚か者が、勝手に押し付けただけであろう」


 崇拝するを愚か者と侮辱された影たちは、一気に殺気づく。


「マルグ・エストリア……あなたをあの御方の元へ連れていく。両足を斬り落とせば、少しは大人しくなるでしょう」


 五人の影は一斉に男へと襲い掛かる。地を滑るように走り迫るさまは、まるで影が蛇にでもなったのかと錯覚するほどだ。


 教会の影。そのひとりひとりが、限界まで隠密と白兵戦闘の技術を叩き込まれた殺戮人形だ。


 暗闇に生きる身でありながら、真っ正面からの斬り合いでさえ一国の精兵を優に凌ぐ実力を持つ。


 さらに死ねば神の身元へと行けると盲信する彼らは、死への恐怖心がない。


 それほどまでの強敵を前にしていながら、男に焦りはない。追われ続けていた男にとって、この程度はもはや日常であったからだ。


 男は十字剣を中段に構え、深く息を吸う。その構えは寸分の隙も見当たらない、いくつもの死線を潜り抜けた歴戦のものであった。


 影のひとりが飛び掛かりながら、男に向かって突きを繰り出す。走りながら跳躍することで速度を増した一撃は、常人ならば反応も叶わないだろう。


「遅い」


 だが短剣が男の肉をむ前に、すでに影は絶命していた。


 十字剣の間合いに入った瞬間に走った黒閃が、まるで紙を裂くかのごとく胴体を両断していたのだ。


 舞い上がる鮮血が、男と影たちの視界を奪う。


 しかし悲惨な死を迎えた同胞に目もくれず、いくつかの影は回り込むように男へと迫る。


 男の正面に立つ影が鮮血を盾に、十字剣を振り切り隙が生まれた男に向かって三本の短刀を投げつけた。


「見えている」


 不可視の奇襲も、男の前では意味をなさない。まるで木の棒でも振るように軽々と十字剣の軌道を変え、全ての短刀を正確に弾く。


 そして大きく踏み込み、一瞬にして投擲とうてきしてきた影へと距離を詰めると、脳天に目掛けて十字剣を振り下ろす。


 その威力は頭から股下にかけて断ち切るだけでは飽き足らず、地面に斬痕を残すほど強烈であった。


 二人目の犠牲者が出ている間に、ようやく影のひとりが男の後方へと回りこんだ。前方と後方からの呼吸をそろえた挟み撃ち。


 いかなる武の達人であっても、挟まれ同時に繰り出された攻撃を防御することはできない。


 だが男の剣技は、常人の限界をはるかに超えていた。風がうなるほどの勢いで放たれた回転斬りが、重低音をかき鳴らす。


 竜巻のような剣音が止むころ、辺りに残されていたのは……原型をとどめぬ四人の亡骸であった。


 男と影たちが交戦し、僅か五秒であった。無駄も迷いもない一撃必殺の剣技が、たったそれだけの短い時間でこの惨劇を作りあげたのだ。


「……どこへ消えた?」


 だがここで始めて、男にとって予想外のことが起こる。


 四人の影は斬った、しかし二刀流の影を男は見失っていたのだ。


 音も気配もなく、まるで存在そのものが忽然こつぜんと消えてしまったのかと思わせるほどに。


 そのときであった。突如として男の腹に二つの鋭い痛みが走る。


「クフフ……隙ありですよ。この私を、他の未熟者どもと同列に思わないことです」


 男の背後より、薄気味悪い笑い声がささやく。


 最後の影の隠形おんぎょうは、男の第六感を持ってしても捉えられぬほど巧妙なものであった。


 影の放った熟練の突きは革鎧を貫通し、その切っ先を男の腹より覗かせていた。


 致命傷である。


 どれほどの猛者であろうと腹にふたつも穴が開けば、血を吐き倒れ、残された僅かな余命の中で、苦痛にもがくことになる。


「くだらん」


 しかし男はまるで何事もなかったように、背後に向かって肘鉄を繰り出す。


 顔面に槌での一撃を喰らったかのように鼻骨がひしゃげ、影は短剣を手放し大きく怯んだ。


「ぐお……お」


 白黒する意識をなんとか繋ぎ止め、影は顔を抑えながら男に視線を戻す。


 するとそこにはすでに、唸りをあげながら迫る十字剣の横薙ぎが見えていた。


「この程度でおれが止まらないことは、お前たちが一番よく知っているだろう……!」


 影はとっさに力の限り飛び退いた。


 だが男の薙ぎを躱しきれるわけもなく、影は両足を斬り飛ばされることとなる。受け身もとれずに地面へ落ち、影は勢いよく転げまわっていく。


「両足をどうだの言っていたが、斬り落とされたのはお前のほうだったな」


 男は眉一つ動かさずに刺さった短剣を抜きながら、影にとどめをさすべく近づいていく。


 人の血は赤い。いつの時代であれ、それは不変の事実であろう。


 だが、赤い鮮血で濡れているはずの短剣は……黒い泥のようにねばついた何かで覆われていた。


 その黒さは、彼が振るう十字剣の色と酷似している。


 男は人の形をした化け物であった。


 彼の血は黒く、そしてその血が与えるのは疑似的な不死性。脳か心臓を破壊されない限り、男が息絶えることはないのだ。


「ク、クハハハ……災厄と同じ色の血を流すあなたが、いったいどこに逃げようというのです。あなたが大好きな民草と、いまさら太陽のしたを共に歩けるとお思いで? あなたに授けられたは、我々のような光なき影の、あの御方の元でしか輝けないというのに……!」


、だと」


 首を斬ろうと十字剣を振りかぶった男の手が止まる。


 祝福。その言葉を聞いた瞬間、男の心中にある傷だらけの糸がぷつりと切れた。


 苛立いらだちと共に、男は腹から流れ出る黒い血をすくうと、影の顔に向かって投げつけた。


「が、があああぁぁ――――っ!?」


 血が影の顔にかかった瞬間、森の中を絶叫が貫いた。


 肉が焼けるような音を立てながら、影の顔からは煙が湧いていく。


 少しでも苦痛から逃れようと身体をばたつかせ、顔の皮膚がただれていくさまに、男は息をのむ。


「これのどこが祝福だ。こんなもの、でしかないだろう」


 黒い血は宿す者に半不死ともいえる再生力を与えるのと同時に、あらゆる生命を蝕む毒でもあった。


 それが災厄の流す血の正体であり、男の運命を変えた呪血であった。


「……ここで我らが死のうとも、骸は次なる影のしるべとなる。あの御方の、ライオネル様の手から逃れることなど、たとえ天地がひっくり返ってもな――――」


「もういい、喋るな」


 影が最期の言葉を言い終える前に、男は十字剣を振るい首をはね飛ばした。


「地獄の王に、己の罪を懺悔ざんげするといい」


 骸になった影たちに言葉を吐き捨て、男は黒き十字剣を鞘に納めた。


 もう人を殺めるのも最後だろう。男は心の中で呟くと、森の奥へと視線を傾ける。


「深い白霧の森は生命を喰らう。汝、命が惜しければ近づくことなかれ」


 男が最後に立ち寄った村で耳にした警句である。


 彼の求める救いとは、亡骸さえ誰の目にも留まらない場所での、静かな死だ。


 それが、力を求め男を化け物へと変えた教会への……せめてもの復讐であった。


「この身に価値があるというならば、影の手が届かない場所で朽ち果ててやろう。奴らには、乾いた指の一本もくれてやるつもりはない」


 男は道なき道を進み、白霧の森を目指し歩く。静かな死という、救いを求めて。


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