イセカイバッドドリーム

エキセントリクウ

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 ……森? 

 思考停止で立ちつくす。

 手にはタブレット。その画面に、書きかけの自作小説。

 自らの物語世界に没入するあまり、狂ってしまったのか。

 公園だった……確かに。創作場所としてしばしば利用する、近所の『浮舟公園』。

 公園の大部分をしめる人工池は、跡形もない。今の今まで水辺に立っていたはずなのに。

 ベンチもないし、テニスコートも自販機もない。それに公園の名物、桜の樹も。

 ――いや、樹は幾本も立っているが、明らかに桜とは異なる。

 見知らぬ樹。風変わりな植物。この世のものと思えないような……。

 人の背丈ほどもある巨大な葉。うねうねとヘビのように動く枝。重厚な幹にぱっくり開いた穴からは、ふふふと笑い声が漏れている。

 目の前を何かが横切った。

 花だ。アヤメに似た花。葉を羽のようにはばたかせて、飛んでゆく。

 普通に地面から生える花もあるが、花びらに目玉がある。まばたきし、ぐるぐると動いている。

 深呼吸。一旦まぶたをおろし、十秒待って、見直す。

 太い幹の樹が、ゲラゲラ笑っている。それから「いったいここはどこだよ!」と、こちらの心の声を代弁する冷やかしを言って、幹を揺らし、また笑う。

 がっくりと肩を落とす。ひとまず混乱する頭を、整えていく。

 どうやら世界は一変してしまった。非現実的な異世界へと移り変わった。

 異世界に転送された? ……そう断ずることに、やぶさかでない。

 幻想文学や怪奇小説を好み、日頃から非現実的な小説を書いている身としては、この特異な状況を受け入れられないでもないのだ。

 ――とにかく受け入れてみよう。不本意ながら、異世界にやって来たと。

 では、現実世界には、もう戻れないのか。

 それは困る。是が非でも帰らねばならない。

 なぜなら今執筆中の『ブヨブヨ教の怪』を完成させ、新人賞に送らなければ、一生後悔を抱えるに違いないからだ。

 奮い立ち、拳を握る。

 まず行動を起こせ。タブレットをボディバッグに収め、深く息を吸い込んでから、歩き出す。

 蔓が横から触手のように伸びてきて、腕に巻きつく。構わず引きちぎった。痛覚があるのか、耳障りな悲鳴が上がる。

 おい。右手からの声に振り向くと、黄色い樹液が飛んできて、顔を汚した。

 樹液を吐いた犯人がキキキと笑う。怒りがこみ上げたが、やり過ごす。

 いきなり太い根が地面から飛び出す。ちょうど足を踏み出したタイミングで。

 爪先が根に引っかかり、前方へ体が飛んだ。弾みでウェリントンタイプの眼鏡も飛んだ。

 膝をしたたか打ったものの、眼鏡は無事だった。指先でレンズを拭いてから装着し、前進を続ける。

 おぼつかない足取り。どこをどう歩いているのやら。山で遭難した気分だ。

 何より今は、この厄介な森から抜け出したい。イタズラ好きの悪ガキ植物から、さっさと離れたい。

 視界がにわかに開けた。道だ。森を突っ切る道。大人二人が横に並んで歩けるほどの幅が確保されている。

 胸をなでおろす。石がところどころに転がり、舗装されているわけではないが、多少は歩きやすい。何より悪ガキ植物のちょっかいもなくなった。

 まっすぐに続く、整備された道。人の手によって造られたに違いない。

 異世界の住人。いずれ遭遇するのはエルフか、ドワーフか、獣人か、ゴブリンか……。

 見上げると、雲に覆い尽くされた白い空。宙を横切るのは鳥ではなく、数羽のチューリップに似た花だ。

 左右の茂みからはやし立てるように、笑い声が飛んでくる。しかし慣れてしまえば、蝉の鳴き声と変わらない。

 余裕さえ覚えた。この道をひたすら進むことで、元いた公園にたどり着きそうにも思えてくる。

 楽観。しかし暗転。

 前方、道沿いの葉が乱雑に揺れた。ぬっと、森から現れた不穏な影。

 二本脚で立つ――ヒグマか?

 いや、ヒグマどころではない。軽く超えるスケールだ。

 二階建て家屋に匹敵する背丈。全身から黒く長い体毛が垂れ、オランウータンの化け物といった風。

 二つの細長い眼はそれぞれ斜めに傾き、交差し、「✕」をかたどっている。

 禍々しい見目。外見から受ける印象は「悪魔」そのものだ。

「✕」の眼が向く。こちらをじっと捉えている。

 地響き。悪魔が突進して来た。サメに似た大口を開き。鋸歯が円形に並んでいる。腕の一本くらい、フライドチキンのように食いちぎるだろう。

 背走。ただ逃げるだけ。それが精一杯。

 恐怖心で足がもつれ、転んだ。起き上がった。瞬間、片脚を引っ張られた。

 地面を離れ、身体が浮き上がる。逆さ吊り。上下反転した視界。

 メガネが額へずれる。ボディバッグが脇の下に引っかかる。

 至近距離で✕と目が合った。

 毛むくじゃらの手に掴まれた片脚が抜けず、逃げられない。なすすべもなく、吊り下げられる。

 喰われる――直感した。

 弱弱しい抵抗。子供のようにむやみに叫び、暴れる。毛むくじゃらの手に必死の攻撃を仕掛ける。

 無力感。どれだけ藻掻いても、助かる見込みはない。一切の希望は奪われた。

 大口の奥から、蛇のようなものがぬるぬる飛び出した。オレンジ色の細長い舌。触手めいた舌が、顔に向かって伸びてくる。

 手で払おうとしたが、悪魔の舌はかいくぐり、首に巻きついた。

 地獄の入口に、頭が引き寄せられる。――頭から喰われるのか? 最悪だ。

「やめてくれ!」

 爆音。さっと何かが横切った。宙に放り出される感覚。

 落下。茂みの中へ。でかい図体に押しつぶされた葉っぱたちから、一斉に罵声を浴びる。

 首に巻きついている細長い舌は、簡単にほどけた。途中で切断されている。

 道の上には、大きな毛むくじゃらの手首が死体のように転がっている。

 その前に立つのは――少女だ。

 品の良いワンピース姿の、小柄な少女。朱色のチェーンソーを構えて。

 怒りに打ち震える悪魔に臆することなく、剣士よろしく身構える。

 水平に振り回されたチェーンソー。両脚を薙ぎ、長毛が飛び散る。

 くずおれる悪魔。少女は素早く横に回り込む。助走をつけ、チェーンソーを高々と振り上げ、地面を蹴り、走り幅跳びの要領でジャンプ――。

 海老反り。激しく回転する刃が、弧を描く。

 大きな生首が、ごろり。切断面から鮮血がとめどなく溢れ出す。

 ほどなくして、✕から光が失せた。

「いやー、すごい威力だな。このチェーンソーってやつは。『アイ』から持ち込んで、大正解」

 少女はチェーンソーを腰に引っ掛けた。小柄な体躯には少々重そうで、不釣り合いに映る。

「よっ」少女は笑顔を送ってきた。「サンラーへ、ようこそ。野村ハルキどの」

 ハルキは絶句し、間を置いてからやっと、

「……どうして」と、消え入りそうなかすれ声で返した。

 二の句が継げない。だらしなく茂みにしゃがみこんだまま、ハルキは少女を見上げるしかなかった。

「あ、サンラーっても通じないか。イセカイっていうんだろ? 『アイ』じゃ」

 ピンク色の髪。ポニーテール。小顔。完璧な双眸。きらきらした美貌はアイドルを彷彿とさせる。

 アイドル――そう、かつてハルキが憧れた美少女アイドルの、立花ルリと瓜二つだった。

「どうして……」

「どうしてぼくの名前を知っているんだ、って? 知ってるぞ。名前だけじゃない。34歳。既婚。妻カヨコ。娘ビワ、4才。三人家族で、一戸建て住宅に暮らしている」

 チェーンソーの刃から、ゾッとするほどの赤い血がしたたっている。

 上品な少女とのギャップが激しい。

「印刷会社勤務。進行管理課。上司の徳川課長からしょっちゅう嫌みを言われ、うんざりする毎日。だけど女子社員には人気で『ハルキスト』というファンまで存在する」

 怪物の首の切断面が気になって仕方ない。できれば目に入れたくないが、勝手に視線が向いてしまう。

「本好き。小説を執筆。プロ作家を志して新人賞に投稿を続けるも、目下9連敗中……って、え?」中断して振り返る。「ああ、あれ? 『ズー』さ。肉食で獰猛。さっきは危機一髪だったな。ズーの餌食になるところだったぞ」

「……ありがとう」

「いやいや。これがあたしの仕事だからさ。身辺警護しつつハルキを無事にチチ王女のもとへ送り届けるっていう」

 ハッとさせるアイドルの笑顔。見れば見るほど、立花ルリにそっくりだ。

「あたしはチチ王女の側仕え、バジル。よろしく、ハルキ」

 差し出された可愛い手を、ハルキは座ったまま見つめる。

「なにを恥ずかしがっている? さあ」

 ハルキが手を握ると、予想外に強い力で引き揚げられた。びっくりして、小柄なバジルの前に立つ。今にも互いの身体が触れそうな間隔。

 今度はバジルのほうが見上げる。手をつないだままで。

「チチ王女がハルキの到着を心待ちにしている。城に着いたら、二人は結ばれるんだ。めでたく夫婦の契りを交わすのさ」

 ハルキは眉をひそめた。

「妻子持ちってご存知でしたよね……?」

 やにわにバジルはムッとして、

「『アイ』のことは忘れろ、ハルキ。これから先、墓に入るまで、この世界で暮らしていくんだ。もう元には戻れないんだからな」

「戻りたいんだけど……」

「非現実的なこと言うな!」一喝された。「現実から目をそらすな、ハルキ」

「ええと……」

 困惑。すると子供を叱る母親のように、

「ほら、夢みたいなこと言ってないで、さっさと行くぞ」

 バジルに手を引かれ、言われるまま、ハルキは異世界『サンラー』を歩き出す。



 固く閉ざされ、微動だにしない。廃ビルの内側と外側を繋いでいた裏口の鉄扉。

 入る際は、拍子抜けするほどあっさりと開いたというのに。

「くそ」

 ユウイチは鉄扉を蹴りつけた。

「相葉……どうなってるんだ? これ」

「ケンジ、閉められたんだよ。何者かに」

「閉められたって……」ケンジの声色に、不安がにじむ。「3階まで、非常口の扉は全部開けられなかったんだぜ? 窓はどこも塞がっていたし……」

 過去に逃亡中の殺人犯が、この廃ビルに潜伏したことがあった。それ以来、誰も侵入できないよう、廃ビルは厳重に封鎖された。窓という窓は鉄板で蓋をされ、扉はすべて頑丈にロックされ、玄関はシャッターが降ろされた。

「これって、つまり……」

「閉じ込められたんだよ、俺たち」

「どうして? 何のために?」ミカが詰め寄った。

「まさか……」ケンジの声が震える。「あの噂は本当だったのか?」

 五年前、肝試しで廃ビルに侵入した男子高校生三人組が、行方不明となった。翌年、興味本位で廃ビルを訪れた20代のカップルが、消息を断った。

 この二つの未解決事件から、廃ビルには残忍な殺人鬼が住んでいて、罠にかかった獲物を次々殺害している……そんな噂がSNSで広まったのだ。

 ミカは顔を手で覆い、泣き出した。

「落ち着くんだ、ミカ。とにかく脱出しよう」

「相葉、一体どこから出られるって言うんだ?」

「歩き回って、探すしかない。換気口とか、とにかく出口になりそうなところを」

「出口になりそうなところは、大方塞がれているさ。これが罠って言うんなら」

「それなら突破するまでだ」ユウイチは力強く言った。「ペンチ、ドライバー、ハンマー……使えそうな道具を、ひとまず探し出そう」

 ミカはユウイチを無視するかのようにスマホを取り出し、助けを呼ぼうとする。

「ミカ、無駄だ。こんな山奥で繋がるはずないだろう」

 ミカはユウイチをきっと睨む。

「だったら、どうする気よ。殺人鬼が現れたら闘うっていうの?」

「場合によってはな」

「無理よ!」ミカが叫んだ。「無理無理……絶対に無理。きっと殺されるんだわ……三人とも。そうよ……カズヒコだって、もう殺されてる……」

「カズヒコはきっと生きてるさ」

「期待させるようなこと言わないでよ!」

 平手が飛び、ミカの頬を打った。幼子のように彼女は激しく泣き出す。

「ミカ、冷静になれ。今取り乱したら、本当に死ぬぞ。遊びじゃないんだ」


「パパ~、ビワとあそぼう」

 リビングのシンプルなソファ。ハルキはタブレットから顔を上げた。

 一人娘のビワが目の前に立っていた。いつから? まったく気づかなかった。

「ビワ、パパはいま小説を書いてて、忙しいんだ。ママに遊んでもらいなさい」

「ちょっとハル、何わたしに押し付けてんのよ」

 リビングと繋がっているダイニング。ティータイム中の妻カヨコはスマホを下げ、抗議する。

「頼むよ。締め切りが迫っているんだ」

「小説なんて後で書けばいいじゃない」

「小説には流れが必要なんだ。ここは中断できないタイミングなんだよ」

「パパ~、ビワとあそぼう」

「ビワ、パパは忙しいから、ママと遊びなさい」

「だからわたしに押し付けないでって言ってるでしょ?」

「カヨコは今、手が空いているんだろう?」

「何それ。むかつく」

「パパ~、あそぼう」

「ほら、ビワだってハルと遊びたがってるじゃない」

 ハルキは手を合わせて、

「本当に頼む。はっきり言って、今回は自信があるんだ。受賞する可能性は高い。この作品に賭けている。何が何でも仕上げて、投稿しなきゃいけないんだ」

「パパ~、あそぼう」

「ビワ、ママと遊びなさい」

「ビワ、パパとあそびたい~」

「ああ、もう」

 ハルキはタブレットを抱え、ソファを離れた。

「ハル、どこ行くのよ」

「浮舟公園に。小説書きに行ってくる」

「ビワもいく~」

「ビワはおうちで待っていなさい。プリン買ってきてあげるから」

「そうやって逃げるのね」

「逃げてない。むしろ立ち向かっている」

「逃げてるわよ。現実逃避でしょ、小説なんて」

「カヨコ」真剣な目を向け、「趣味で小説を書いているわけじゃないんだ。本気なんだ」

「本気で風呂掃除と庭の手入れもやってほしいものだわ」

「いい加減にしてくれ」

「はっきり言ってハルの小説はまだまだよ。主人公の変化が書けてないし、ストーリーに関係ない不要なキャラがいるし、プロットの組立も不十分」

「今回はすべて改善している」

「たとえ奇跡的に小説家になれたとしても、どうせ売れないわよ。それが現実。プロになったところで収入が減ったらどうするつもり? 住宅ローン払っていけるの?」

 カヨコはぴしゃりと、

「言っときますけど、わたしは復職しませんから。働きながらビワの面倒もみて、家事も、なんてゼッタイ無理」

「先のことはわからない。なるようになるさ」

「また逃げてる」

 お手上げ。ハルキは手を振って、

「本当にもう書かないとまずいんだ。日が落ちるまでに帰るから」

 背後でカヨコの話は続いていたが、ハルキは振り切って、家を後にした。



 森を進みながら、バジルは異世界『サンラー』について聞かせる。

『サンラー』では現実世界を『アイ』と呼んでいる。両世界はレイヤーが異なり、どちらからも視認できないが、実は互いに隣接している。

 現実世界ではサンラーの存在を(おそらく)誰も知らない。片やサンラーでは、現実世界『アイ』を誰もが認識している。不可視のはずだが、どうしてか。

 千年生きているとされるサンラーの老魔術師、バーバ。『アイ』を見透す特殊能力の持ち主。彼女こそが『アイ』の存在を、広くサンラーに知らしめたのだった。

 不老不死の魔術師は時代を越え、二つの世界の境界に立ち、それぞれの歴史を見つめ続けてきた。両世界の文化、社会、地理、生物等を知り尽くしているのは、バーバをおいてほかにない。

「もしかして、ぼくをサンラーに召喚したのも……」

「そう。バーバ婆に頼んだ」

 ふと思う。呼び寄せるのが可能なら、送り返すのも、できるのではないか。

 いざとなったらバーバに依頼すればいい。現実世界へ帰ろうと思えば、いつだって帰れる……ハルキは安易に考えた。


 森を抜け、はるか遠くまで見渡せるようになった。二人が横に並んで歩く道は、広大な平野の上を延々と続いている。

 この旧い道は街道で、パンテラ王国の王都セパルトゥラへ通じているという。

 城壁に囲まれた町、セパルトゥラ。町を見下ろすように建つ城館で、ドガ国王の愛娘チチ王女は、ハルキの到着を今や遅しと待っているのだ。

「小国さ、パンテラ王国は」バジルは謙遜する。「城だって、めったに攻め込まれることもないし」

「めったに?」

「たまにはあるかな」

「……攻め込まれても、ぼくは逃げるぞ」

 バジルは吹き出し、

「なんだハルキは平和主義者か。ちゃんと頼もしい軍隊がいるから安心しろ。エクソダス帝国の優秀な兵も大勢いるし。ハルキも、とりあえずチチ王女だけは護ってくれよな」

「努力するよ」

 これでは本当にチチ王女と夫婦になるような口ぶりだなと、ひそかに思う。

 ひとまずハルキは、バジルに話を合わせることにしたのだ。

 腹の内はこうだ。

 ――これは小説のネタになる。

 思いがけずやって来た異世界。不可思議な植物。モンスター。魔術師。

 この先次々起こるであろう、想像を絶するような体験。次々目にするであろう、珍しい光景。

 どれもこれも、創作に使えそうだ……単純にそう思った。

 現実世界に帰ったら、異世界ファンタジーを書いてみよう。実体験に裏付けられた、リアリティーに富む作品に仕上がるに違いない。

(これは取材だ)

 集めたネタは、資料として残しておく必要がある。ちょうど都合よく、タブレットとスマホを持参した。カメラ機能を駆使すればいい。充電が切れるまで写真を撮りまくるのだ。

「バジル、ちょっと止まって」

 ボディバッグからスマホを取り出した。カメラアプリを立ち上げ、インカメラに設定する。

 ハルキはバジルに顔を寄せて、シャッターボタンをタップした。

「お、これが噂のスマホか。ちょっと触らせてくれよ」

「使い方、わかる?」

「知らない。教えてくれ、ハルキ」

「いいよ。スマホも、バーバからの情報?」

「バーバ婆に見せてもらうんだ。『アイ』の今の様子を」

 老魔術師バーバは現実世界が視えるだけでなく、映像として鏡に映し出せるのだという。

 バジルはチチ王女と共に『アイ』のライブ中継を、よく観賞していると言った。

「それで、ぼくの生活も覗き見ていたってわけか……」

「見守っていたのさ。愛する人を」

「チチ王女はストーカーか?」

 バジルは視線を落とす。

「悪気はなかったんだ。けど、気分を害したのなら謝る。すまなかった」

「……?」

 まっすぐに延びる街道の左右に、野原が見渡せる。野原の上には、コスモスに似た花が、蝶の群れのようにたくさん飛び交っている。

 道から離れたところには森が続いており、その近くに数軒の民家が点在していた。集落のようだ。

「この辺りはドトールっていう村で、農家が暮らしている。みんな優しいぞ」

「農民と交流があるの?」

「チチ王女もたまにやって来るんだ。農作業を手伝ったりもする。農家自慢の料理をごちそうになったり、な」

「へえ」

「とくにチチ王女と仲のいい老夫婦がいてな。その爺さんのほうがポオっていって、バーバ婆の優秀な弟子なんだ」

「魔法が使える?」

「ああ。けど普段は気のいい、温和な爺さんさ」

 ドトールの村を過ぎると、街道はなだらかな登り坂となった。前方の小高い丘へと続いている。丘を登ると、いよいよ王都セパルトゥラが望めるらしい。

 丘の斜面を黄色い花が埋めていた。花々は波うつように揺れうごき、その中のいくつかは地面から離れ、空へと舞い上がっていく。

「バジル、一つ気になっていることがあるんだけど」

「ん?」

「チチ王女は、どうしてぼくを気に入ったのかって……」

「聞かせてやるよ」

 チチ王女とハルキの邂逅は、5年前にさかのぼるという。

 チチは幼いころからバーバのもとに足繁く通っていた。とくにバーバから聞かせてもらう『アイ』の話が大好きだった。

 鏡に映る『アイ』の人々の様子を、夢中になって観た。愛らしい服を纏った女の子、ソフトクリームを味わうカップル、広場を走り回る子供たち、犬の散歩をする婦人、路上でギターを奏でる青年、車に乗り込むファミリー、穏やかに語らう老人たち……。

 チチは『アイ』に憧れ、行ってみたいと願うようになった。そしてバーバに頼んだ。

 できないことはない、とバーバは言った。チチを転送し、二つの世界を行き来させられる、と。

 チチは目を輝かせ、熱願した。王さまが許してくれないだろうとバーバが言うと、黙って一人で行くと、チチは食い下がった。

 十一歳の王女を『アイ』に単身送り込むのは危険過ぎると、バーバは撥ねつける。チチはせがんだ。バーバは頑として首を縦に振らない。チチは幾度となく、ねだる。バーバは応じない。

 断わられれば断わられるほど、チチの想いはエスカレートしていった。

 結局、王女の強い想いに、老魔術師は根負けした。一時間だけという条件付きで、チチは『アイ』に行けることとなった。

「その一時間のあいだに、ぼくと出会ったのか?」

「運命的巡り会いさ」

 チチが転送されたのは、住宅地だった。道路を進んでいくと、スーパーマーケットが現れた。

 店に入ると果物、野菜、魚、肉……多様な商品が並んでいて、チチは興奮した。

 買い物客たちが商品を、どんどんカゴヘ入れていく。チチも物色し、リンゴとパンを手に取った。

 そのまま、リンゴをかじりながら、店を出た。

 後ろから腕を掴まれた。男性店員が凄んだ顔で、見下ろしていた。

 お嬢ちゃん、お金払ってないでしょ。………。お金は? 持ってないの? …………。

 お嬢ちゃん、お名前は? …………。いくつ? …………。

 お父さん、お母さんは? …………。ちょっと、事務所に来てくれるかな。

 連れていかれそうになったところで、声をかけたのが、ハルキだった。

「その子の父親です。申し訳ありません。お金は払います。コミュニケーションが苦手な子で……ご迷惑をおかけしました」

 ハルキが代金を渡すと、店員はチチを解放し、目を離さないよう注意してください、とたしなめた。

 二人になったところで、

「ありがとう」とチチが申し訳なさそうに言った。

「いいんだ。気にしないで。君、家は近いの? 一人で帰れる?」

 チチはうなずき、もう一度「ありがとう」と言って、立ち去った。

 バジルの話にハルキは口を大きく開けて、

「そんなこと、あった。確かに。憶えてる」

 バジルは横目で、

「チチ王女の顔は?」

「うーん……はっきりとは……だけど、すごくきれいな瞳だった印象がある」

 するとバジルは嬉しそうに、

「だろ? 美人だぞ、チチ王女は。この幸せ者め」と、ハルキの尻を叩く。

 チチ王女の『アイ』への旅は、あっという間に終了した。そのわずかな滞在時間で言葉を交わしたのは、ハルキだけだった。

 心安らぐハルキの笑顔が……ハルキの声、言葉、表情、身ぶり、匂いが……チチ王女の胸に深く刻み込まれた。

 サンラーに戻ってから、チチは無性にハルキと再会したくなった。

 もう一度『アイ』へ行きたいと懇願したが、バーバは「できない」と言った。この術は、一人一往復に限られていると。

 ハルキとの再会は諦めたものの、せめてその姿を見ておきたかった。チチはバーバに頼んで、ハルキを探し出してもらった。

 鏡に映し出されたハルキに、チチは目がくぎ付けとなった。ハルキの一挙手一投足を、まばたきさえ惜しんで、見つめ続けた。

 それからはバーバのもとに通い、毎日のようにハルキの顔を拝んでいた。

 どんどんのめり込み、そのうちハルキをもっと知りたいと、探偵のように身辺調査

 まで始めたのだった。

「うーん……嬉しいような……ちょっと怖いような」

「一途な想い、解ってやってくれよ」

 もうハルキしか目に入らなくなった。ハルキが頭の中すべてを占めた。ハルキに会いたい。何が何でも、会わなければいけない……。

 しかし『アイ』へ行くことは叶わない。悩んだ末、では逆にハルキをサンラーへ呼べばいいのではないか? そう思い至った。

 良案と思ったが、バーバはチチの要求を拒んだ。『アイ』の人間をサンラーに入れると、両世界のバランスが崩れるからという理由で。

 どうしようもない隔たり。このままならぬ状況が、かえって少女の心を燃え上がらせた。二年、三年、四年と経ても、炎が弱まることはなかった。

「で、いつの間にかオヤ……王さまが勝手にチチ王女の結婚話を進めていてさ。ハルキの話をしても聞く耳持たずでさ。切羽詰まって、バーバに泣きついたわけ」

「だけど王さまは、まだ了承してないんだろ?」

「平気平気。必ず二人は結ばれる。そういう運命だから」

「身分の違いは?」

「関係ないって」

 ふいに、

「……バジル?」歩きながら彼女の横顔を見つめ、「もしかして……」

「ん?」

 ハルキは視線を戻した。

「いや……何でもない」


 壮大な壁が現れた。街道に沿ってそびえ立つ重々しい城壁。威風堂々と王都全体を囲い、防御している。

 城壁に近づき、振り仰ぐと、ただただ圧倒された。

 バジルは小国と控えめに言ったが、たとえ領土が狭くとも、パンテラ王国が立派な王国であることは想像に難くない。

 前方に人影。二人に気づき、駆け寄ってきた。

 血相を変えてバタバタ走ってくる。身なりから衛兵と見て取れた。短身で恰幅のいい、初老の兵士だ。

 衛兵はうわずった調子で、

「王女殿下!」と口にした。

 ――王女?

「おひとりで何処へ行かれていたのですか! 城はいま大騒ぎですぞ」

「悪かった。やむにやまれぬ事情があってな」

 衛兵は腰のチェーンソーとハルキを交互に見やって、

「よくご無事で……その……結婚のことで悩まれているご様子でしたから、万一のことがあってはと……」

「心配ご無用。このとおりさ」

「であれば、よろしいのですが……さあ、一刻も早く、国王陛下のもとへ」

「心得た」

 城門へと歩き出したところで、ハルキは訊ねる。

「ねえ今、王女殿下って言われたよね?」

 バジル――否、チチ王女はいたずらっぽく笑み、

「だますつもりはなかったんだ。いきなり王女が迎えに来たと言っても、信じてもらえないと思ってさ」

 ハルキは苦笑し、

「うすうす感づいていたけどね……」


 城門を通過すると、道は石畳に変わった。街路の両側に店が軒を連ね、野菜、穀物、香辛料、衣服、薬などが売られている。

 行き交う住民たちで、通りは賑わっていた。ハルキはスマホのレンズを向け、人びとや町の風景を撮影していく。

 エルフも獣人も見当たらない。サンラーの住民は、現実世界の人間と何ら変わりがないように映る。

 店先で立ち話をする人たち。仰々しい笑い声を上げる人たち。楽しそうに肩を組んで歩く人たち。大声で議論する人たち。ぶらぶらと散歩する人たち……。

 彼らはチチを見つけると、気兼ねなく声をかけてくる(まるで親しい友人にでも出会ったかのように)。

 チチもまた一人一人、気さくに返していく。

 店先の男性と軽口を交わしたり、大柄な婦人と世間話をしたり、一人で佇む老婦人には、チチのほうから話しかけたり……。

「姫さま遊ぼう」と数人の子供たちに囲まれたときは、笑顔で応じ、心の底から楽しそうだった。

 細い通りから石畳の広場に出た。広場はちょうど町の中心に位置しており、ここから放射状に道が延びている。それらの道を通って、方々から住民たちがこの広場へと集まってくるのだ。

 広場を突っ切り、正面の細い道へと入ってゆく。

 町の奥へと進むにつれ、街路は登り坂となった。坂道を登りながら、住宅のあいだを縫うように進む。

 前方に石造りの高い壁が立ちはだかる。城館を囲む壁だ。T字路を曲がり、壁に沿って緩やかな坂をさらに登っていく。

 衛兵の立つ厳めしい門。門を入ると、多様な花に彩られた庭園、それに大きな池が見えた。その向こう側に、城館が建っている。アイボリーを基調とした、優美なたたずまいの建物だ。

 城館の入口に立つ衛兵から、国王は大広間にいると伝えられた。

 ハルキは壁や階段の装飾に目を奪われつつ、チチを追いかけていく。

 大広間。大きなアーチ型の窓が壁の端から端まで並び、室内は明るい。

 豪勢なシャンデリアの下、臣下を伴い、パンテラ王国のドガ国王が立っていた。

 長身でがっしりした肩。濃く、黒い顎髭。眼つきが威圧するほど激しく、屈強な戦士の風貌だった。

「おーい、オヤジ」チチは片手を上げ、国王に歩み寄る。

 その後ろを、ハルキは猫背の姿勢でおずおずついていく。

「チチ!」ドガ国王は頭ごなしに怒鳴りつけた。「どれだけ親を心配させれば気が済むんだ」

 チチは舌を出し、

「ごめんごめん」

「誰にも告げず、黙って一人で何処へ行っていた? ドトールの村近辺で姿を見かけたという報告も届いているんだぞ」

「新郎を迎えに行ってたのさ」

「なんだと?」

 チチはハルキの背中を押して、

「紹介します。この度結婚することになりました、野村ハルキ君です」

(かつてアニメで見たシーンを真似て)ハルキはうやうやしく片膝をついた。

 しかしハルキの格好はアディダスのTシャツにユニクロのスキニージーンズ。国王の面前に立つには、あまりにも相応しくなかった。

 レスラーのようないかつい面のドガ国王に睨まれ、ハルキは生きた心地がしない。ドガの腰に下げられたショートソードが、ひどく不気味だった。

「何者だ」

「前に話したでしょう? 彼こそがあたしの最愛の人、『アイ』からやって来たハルキさ」

 ドガは眉をひそめ、

「ああ、あの話か。くだらん。馬鹿も休み休み言え」

 チチは口を尖らせた。

「オヤジが何と言おうと、あたしはハルキと結婚するからな」

「駄目だ。大体おまえにはエクソダス帝国のスターバックス皇子という許嫁がおるのだぞ」

「だから勝手に決めるな」

 ドガはハルキにちらっと目をやり、

「だいたい何だ、この貧相な顔は。スターバックス皇子は帝国中の女性を一人残らずウットリさせるほどの色男だぞ」

「興味ないね」

「それにこのすぐにでも折れてしまいそうな細い腕はどうだ? 王女の身を護れるとは到底思えん」

「護れるさ。いざとなれば」

「スターバックス皇子は優れた武人だぞ。勝てるはずなかろう」

「勝てるさ。ハルキはこう見えて剣術の達人だからな」

「ほう」

 顔面蒼白。ハルキの膝が恥ずかしいくらい震えだす。

「見せてほしいものだ。その腕前を」

「いいよ。さあ、ハルキ、オヤジに見せつけてやれ」

 ありえない無茶ぶりに、泣きそうな顔をチチヘ向けた。

 剣術など知識も関心も、まるでない。そればかりか剣に触ったことすらない。そもそも肉体で勝負するスポーツ全般が、得意分野ではなかった。

 進退窮まっておろおろしていると、ドガがぎろりと睨んできた。

「わたしのショートソードを貸そう。今からここで、剣を振って見せてくれ」

 できない言い訳を次々考えるが、これといった文句が浮かばない。

 もう無理だと、本気で逃げ出そうと謀った、そのとき。

「チチ、戻ったのか」そう言って近づいてきたのは――

「アニキ」

 切れ長の瞳。優雅に流れ落ちる白銀の髪。細く長い脚。腰にきらびやかなレイピアを帯びている。

「ハルキ、こちらはあたしの3才上の兄、ブラー王子だ」

 ハルキの名を聞いたブラーは口元を緩め、

「ああ、あなたが。噂はかねがね耳にしています。はるばるサンラーへ、ようこそ」

「はじめまして……」ハルキは敬礼する。

「強引な妹で、申し訳ありません」

「いえいえ」

「おい、話は終わっとらんぞ」

 割って入るドガに、ハルキは震え上がった。

「オヤジ、だから何度も言うけど、スターバックス皇子なんかと結婚しないって」

 ドガはチチをまっすぐ指差し、

「わがまま言うな。もう結婚式の準備も進めているんだぞ」

「勝手に進めないでくれ」

「エクソダス帝国との同盟関係が我が国にとってどれほど重要であるか、おまえも理解しているだろう。エクソダス帝国の後ろ盾があってこそ、我が国に平和と安泰がもたらされるというもの。婚約を破棄してみろ。パンテラ王国の将来は握りつぶされたも同然だぞ」

「その話は何度も聞いた。もう、うんざりだ。押しつけないでくれ」

「王女という立場をわきまえろ」

「人の自由を奪っておいて、何が王家だ。あたしはあたしの好きなように生きたいんだ」

「そんなことは許されない。諦めろ」

「このクソオヤジ……」

 睨み合い。またやってるよ、といった風で、ブラーは苦笑いし、首を振る。

 チチはむすっとし、一歩も引かない構えだったが、やがて口を開き、

「そうか……わかった。なら結婚しよう。スターバックス皇子と」

「よし」

「それからスターバックス皇子が音を上げるほどの悪妻になってやる」

「なんだと?」

「さらにエクソダス帝国で、あることないこと言いふらすからな。パンテラ王国の良くない噂を」

「おい待て」

「噂を耳にした皇帝は激昂。帝国中、瞬く間にパンテラ王国への不信感が広まって、両国の関係に歴史上かつてないほどの暗雲が立ち込めるのであった」

「むむむ……」ドガは拳を握って、唸る。

 我慢できずブラーは吹き出してしまい、肩を震わせて笑った。それから咳払いをし、かしこまって、ドガ国王に進言する。

「父上、一顧だにせず切り捨ててしまうのはいかがなものでしょう。少しは斟酌しても良いのではないですか?」

「うーむ」ドガは逞しい腕を組む。しばらく考えを巡らせてから、「ではこうしよう。本日から三日間、チチの希望について検討してみる。明けて四日目の朝に、答えを出そう。それまで『アイ』から来た君を客人としてもてなす。宿を手配するから、そこで過ごしたまえ」

「客間があるじゃないか」チチが不満をもらす。

「『セルバンテス』なら文句あるまい。清潔で落ち着きのある、上等の宿だ。ブラー、案内して差し上げなさい」


 ハルキとブラーは城壁に沿って坂を下っていく。

「先ほどはありがとうございました」ハルキは歩きながら頭を下げた。

 ブラーは笑みをこぼし、

「父上は頑固ですからね。ただ、結婚を許してもらうのは難しいでしょう。先延ばしにしたところで、気持ちが変わることはないと思います」

「そうですか……」

 ブラーはハルキをちらっと窺って、

「……結婚、本気ではないでしょう?」

 思わずハルキは振り向く。ブラーは声を上げて笑った。

「やっぱり。けど、仕方ないですよ。妹が一方的に好意を寄せて、勝手にこちらの世界に引っ張ってきたわけですから」

 ハルキは何も言えず、気まずそうに下を向いた。

「王女らしくないですよね、妹は。それでも幼い頃は、王家の一員として厳格にしつけられていたのですよ。魔術師のバーバに『アイ』の話を聞かされてからですね、変わっていったのは。外側の世界に、関心が向くようになった。庶民の生活や文化に、興味を抱き始めたのです」

「そういえばさっき、町の人たちと親しげに話していました」

「すっかり溶け込んでいたでしょう。町の人々に限らず、村に住む農民とも交流があります。皆のことが大好きだし、皆に対して優しい。おかげで国民から、絶大な人気です。ただ彼らに合わせて言葉遣いがどんどん砕けていくので、父上は快く思っていないようですが」

 ブラーは肩をすくめる。

「父上は妹を溺愛しています。可愛くて可愛くて、仕方がない。ですので、どれだけ言葉遣いや態度が悪かろうが、どれだけ身分をないがしろにしようが、強くは言えないのです。国王たるもの、形無しですよ」

 二人は共に笑った。

 チチ王女に出会って、まだ間もない。恋愛感情を抱くには、時間が短すぎる。

 しかしブラーの話を聞くうち、少しずつ彼女に興味が芽生えてきたようだった。

「妹はあなたに、とにかく夢中でした。あなたの話は、うんざりするほど聞かされましたよ。『アイ』であなたが結婚しても、まるで動じませんでした。あなたと結婚する、という信念にとりつかれていたようです」

「そこまで想ってもらえるなんて、光栄です」

 ふいにブラーが立ち止まる。ハルキも足を止めた。

「これはお願いなのですが」ブラーは改まって、「結婚が叶わないとしても、サンラーにとどまってもらえませんか」

 つい無意識に、視線をそらしてしまう。

「バーバに依頼すれば『アイ』に戻ることは可能でしょう。ですが、もしあなたがサンラーから姿を消した場合、妹が思い詰めて何をしでかすか分かったものではありません。妹にとってあなたは、とてつもなく大きな存在なのです」

「…………」

「あなたと妹が結ばれることは万に一つもない。だとしても、あなたには妹の心の支えになって欲しいのです。そのために、妹の手の届く場所に常に居て欲しいのです」

 ブラー王子は頭を下げ、

「どうか妹をよろしくお願いします」

 その妹とは、パンテラ王国の王女様。数多の民が暮らす王国に君臨する国王の娘。一国の運命を左右しかねないほどの重要人物――。

 とんでもない重圧が、ハルキの肩にのしかかる。

 もしかすると、事態は取り返しのつかないところまできてしまったのではないか。

 にわかに、胸苦しいほどの不安に見舞われる。

 その気になればいつでも帰れると、気楽に考えていた愚鈍な自分を呪う。もう現実世界に戻ることは許されないのだろうか。残りの一生を、この異世界で生きることになるのだろうか……。


 年季を感じさせる梁。漆喰の壁。使い込まれた卓。部屋を仄明るく照らす蝋燭。

 宿屋『セルバンテス』の客室は、居心地が良かった。

 静かな夜。寝台に腰かけ、スマホに収めたチチの写真をぼんやりと眺める。

 小説のネタになるからと、安易にここまでやって来てしまった。二泊三日程度で取材を終えて、現実世界に戻ろうと軽く考えていた。そうしてまた、いつも通りの日常を繰り返すのだろうと思っていた。

 が、話はそんな生やさしいものではなかった。

 深入りしてしまった。ここまで関わっておいて、現実世界に戻り「後のことは知りません」、では済まされない。単純に異世界は異世界と、見放すのも酷だ。

 ブラーから言われた『もしあなたがサンラーから姿を消した場合、妹が思い詰めて何をしでかすか分かったものではありません』という言葉が、脅しのように響く。

 だが、もしこのまま帰れないとなると、逆に現実世界を捨てることになる。

 失踪。存在抹消。現実世界での死。

 カヨコ、ビワ……家族はどうなる?

 行方不明から死亡と認定されるまで、7年を要する。生命保険はそれまで受け取れない。

 住宅ローン。生活費。養育費。……お金という現実的で切実な問題。

 カヨコは出産を機に会社を辞め、今は書店でアルバイト勤務の身だ。これから母子家庭で生活していくには、収入面で厳しい。

「カヨコ……」

 ハルキとカヨコは(部署は異なるが)職場で知り合った。会社の忘年会で初めて話し、お互いに本好きという点で意気投合した。カヨコはアメリカ文学を読み、ハルキは幻想文学を好んだ。趣味は違えど小説を愛する気持ちは通じ合い、二人を結びつけた。

 結婚してすぐ、カヨコは身籠った。ビワが生まれてからはすっかり母親らしくなり、カヨコは家族の中心だった。ハルキは小説を書くのに夢中で、イニシアチブは常にカヨコが握っていたのだ。

 ただ家計を支えているのは、サラリーマンとして稼ぐハルキだった。ハルキがいなくなれば、カヨコの負担はいやが上にも増すはずだ。ビワの将来に悪影響が出ないとも限らない。

 結局、サンラーに残っても、現実世界に戻っても、どちらか一方が不幸になるのではないか。各々の運命を決するのは、ハルキの裁量次第なのだ。

 難題。ハルキは頭を抱えた。どちらを選択すればいいのか……?

「ハルキ」扉の向こうから声。チチだ。「開けてくれ」

 扉を開くと、ポニーテールをほどいたチチが立っていた。

 チチは微笑んで、何も言わずに部屋へと入ってきた。扉に鍵をかけ、振り向くと、寝台の前で素早く衣服を脱ぐチチが――。

「え……」

 呆気にとられているうちに、身につけているものを次々脱ぎ捨てていく。

 ついに全身の肌をあらわにし、チチはハルキに堂々と向き合った。

 蝋燭の薄明りに浮かぶ裸の少女。ハルキは微動だにせず、ただ見つめ続ける。

 純度の高い肌。くもりの欠片もない。

 目がくらむほどのチチの裸身は、ハルキの感情を大きく揺さぶった。

 美術館で、衝撃的な絵画に遭遇したときの心地。画面に引き込まれ、幸福感に満たされて、時間が止まったように感じる瞬間の……。

 蝋燭の炎がゆらりと動いた。

「ハルキ」

 裸のチチは喜び勇んで、ハルキに抱きついてきた。まるで父親に飛びつく幼い女の子のように。

「ハルキ。ハルキ。ハルキ」

 チチはハルキの胸に顔を強く押し付け、背中に回した手に力を込める。

 ハルキは戸惑いながら、裸の両肩に手を触れた。掌に伝わる、少女の熱。

「待っていたんだ。ずっとずっと待っていたんだ。このときを」

 チチは瞳をいっぱいに見開き、ハルキを見上げる。

「夢じゃないよな。本物のハルキだよな」

 ふたたびハルキの胸に、額をぐいぐい押し付ける。

「なんて幸せ者なんだ、あたしは!」

 抱きついたまま、チチはぴょんぴょんと跳ねる。

「ハルキ。ハルキ。ハルキ…………」

 ふっと。

「…………」

「?」

 チチの動きが止まる。急激にシャットダウンしてしまったみたいに。ハルキの胸に顔を張り付けたまま、押し黙っている。

「???」

 チチは顔を放し、そっぽを向く。次いで、ハルキの胸を両手で強く突き放した。

 当惑するハルキから一歩退き、チチはくるりと背を向けた。

 ハルキは声をかけようとして、言葉を呑み込む。

 裸の肩を上下させ、間をおいて、チチは振り返った。

 豹変。射るような、険のある眼差し。

「本気じゃないだろ?」唇が震えている。「結婚する気なんてないだろ」

 視線がさまよう。

「あたしよりも、まだカヨコのほうがいいんだろ」

「…………」

「『アイ』のことは忘れろって言っただろ? どうしてだ? どうして忘れられないんだ?」

 一言も返せない。

「どうしてあたしの気持ちを解ってくれないんだ? 馬鹿なのか?」

 チチの瞳から涙がこぼれる。「馬鹿!」と怒声を浴びせ、とうとう声を上げて泣き出した。

「どうせ迷惑に思ってるんだろ? ……望んでもいないのに勝手に呼び出されて……一方的に結婚を決められて……」

「チチ」

 絶え間なくこぼれ落ちる涙。涙は裸身を伝い、濡らしていく。

「あたしのことなんて、どうでもいいんだろ? さっさと『アイ』に帰りたいって思ってるんだろ?」

「チチ!」

 自分でも驚くほど、ハルキは部屋に響き渡る声を発した。

 チチが涙にまみれた顔を上げる。ハルキは首を横に振った。

 ハルキを見つめ、チチは次の言葉を待つ。

 ハルキの胸は不思議と凪いでいた。

 チチに手を差し伸べ、やわらかな笑みを送り、ハルキは言う。

「結婚しよう」

「ハルキ……」チチは涙を拭い、「もう一度、言ってくれ」

 ハルキはうなずいた。

「結婚しよう、チチ」


 異世界二日目の朝。ハルキとチチは、魔術師バーバのもとへと向かった。

 王都セパルトゥラを囲む城壁の外、ちょうど城門の真裏に広がる『グルグルの森』。この森の奥に、バーバは居を構えている。

「秘密の近道があるんだ。案内する」

 城門を通らず、外に出られる近道。まず城館の裏手の森に入る。少し先に城壁が現れ、行く手を遮る。城壁の向こう側は、もう『グルグルの森』だ。

 この辺りの城壁は比較的低くなっているので、ここを乗り越えていくのだという。

 チチお手製の近道。密かにロープを壁に掛け、登れるようになっていた。

 二人は城壁を越え、どこか怪しげな森へと踏み込んだ。

 ハルキはチチの後ろに続き、

「道が無いんだね。迷わない?」

「大丈夫さ。とにかく進めば、後はバーバ婆が引き寄せてくれるから」

 例によってこの森に立つ樹も、よくしゃべり、ちょっかいを出してくる手合いだった(サンラーの植物は三種類に分けられる→一、現実世界と同様に物言わぬ植物。二、しゃべり且つ動く植物。三、空を飛ぶ植物)。

 ハルキが前を通り過ぎるとき、一本の樹がヤジを飛ばす。

「昨夜は楽しんだかい?」

 首を絞めてやろうかと思ったが、どこが首か判らないので止める。

 ところでチチに対しては、悪ガキ植物たちも意外と大人しい。人を見て、いじる対象を決めているのだろうか。

 葉叢が天を埋め、光を遮っている。周囲は仄暗く、四方から樹のひそひそ話がやって来て、魔術師が住むのに似つかわしい雰囲気だった。

 ハルキはチチの背中を追いかけるばかりだが、もうどこをどう歩いているのか、まるで見当がつかない。チチは慣れたものでスムーズに進んで行く。片やハルキには樹の横やりが入って、行く手を阻まれる。

 もしはぐれたら、どうなってしまうのか?

「心配するな。バーバ婆がうまいことやってくれるから」

 チチはきっと心からバーバを信頼しているのだろう。何しろこの老魔術師は、王族からも崇敬されるほどの、絶対的な存在なのだ。ときにはパンテラ王国の将来や、重要な政治判断について、ドガ国王から直々に相談を受けることもあるらしい。

 森の中を歩いて半時間。幾分開けた場所に、遺跡風の石造りの小屋が建っていた。モンゴルのゲルを思わせる、円形の家屋だ。

 近づくと扉が見当たらず、どこから入るのか不明だった。

 チチは何もない石壁の前に立ち、

「バーバ婆、来たぞ」と呼びかける。

 忽然と。何もなかったはずの石壁に入口が現れた。

 中に入ると、たちまち入口は消失し、机の上で蝋燭が一本灯るだけの、薄暗い空間となった。

 がらんとした室内。生活感は見受けられない。

 円い部屋の中心に置かれた黒塗りの大きな椅子。そこに、椅子と釣り合わぬ子供のような体躯の老魔術師が、静かに座っていた。

 濃い紅のローブ。手には蛇をかたどった黒い杖。長い白髪が顔の半分を覆い、双眸を隠している。

「バーバ婆、ありがとう。連れてきたよ」

 チチは遠慮するハルキの手を引いて、紹介する。

「ほら、ハルキだ。あたしの夫だ」

 ハルキは身を固くし、一礼した。

 バーバは皺くちゃの口元をほころばせ、

「チチや、良かったな」と祝福した。次いでハルキへ、「どうだい、サンラーは?」と問う。

「森の小うるさい樹々を除けば、問題ありません」愛想よく返した。

「『アイ』とサンラーではだいぶ勝手が違うじゃろう」

「まるでかけ離れている、というほどでもないので……」

 バーバの眼は白髪に隠れて見えないが、何となく奥から睨まれているように感じた。

「『アイ』に比べてここは不便じゃぞ。電気もない。コンピューターもない。車も電車も飛行機もない。文明は『アイ』よりはるかに遅れとる」

「すぐに慣れるでしょう。人間って、意外と環境に順応して、生きていけますから」

「そうかい。では、もう『アイ』に戻るつもりはないのかえ?」

「はい」言いながら、顔が僅かにこわばる。

 バーバは諭すように、

「術を用いて『アイ』とサンラーは一回だけ往復させることができる。お前さんはあと片道分残っとる。『アイ』へ戻すことも可能じゃ。もう一度訊く。『アイ』に戻るつもりは絶対にないのかえ?」

「……はい」

「ふうむ……」

 バーバが間を置き、にわかに場の空気が重たくなる。隣からは、チチが発する無言のプレッシャーが押し寄せてくる。

「『アイ』で積み上げてきたものを全て失うことになるが、構わないのかえ?」

「…………」

 これまでの人生で積み上げてきたもの。キャリア、貯蓄、人脈、仲間……それらを得るために費やした時間、労力、苦労が頭をよぎる。

 言葉に詰まる。途端、チチが横目で一層の圧を加えてきた。

 バーバは追い打ちをかけるように、

「『アイ』にはお前さんの大事な家族がおるのじゃろう? 見捨てるつもりか?」

「バーバ婆、それなら大丈夫」チチが口を挟む。「昨日の夜、ハルキがあたしに言ったんだ。『アイ』の家族はきっぱり忘れる、ってな」

 最後の「ってな」と同時に、チチはハルキの横顔に鋭い視線を放った。

「ほほう」

 バーバが杖を持ち上げ、半円を描くように振る。

 蝋燭が立つ机の上に、突如として鏡が出現した。直径10センチほどの円い鏡。周縁を囲む、蛇の装飾。

「チチから聞いとるじゃろう。この鏡は現在の『アイ』の様子を映し出せる。お前さんの家族が今どうしているか、見たくはないか?」

「バーバ婆!」

「いえ、結構です」

 手を振りつつハルキが取り繕うように言うと、バーバの口元に薄笑いが浮かんだ。

「腹は決まったようじゃの」白髪の奥からハルキを見据え、「この子はな、お前さんを鏡に映して見せてくれと、毎日のようにここへやって来たものじゃ。お前さんの顔をいつまでも、呆けたように時間も忘れて眺めておった。お前さんに憧れる気持ちは常軌を逸しておる。チチはな、命がけなのじゃ」

 ハルキは唇を引き結び、姿勢を正した。

「どうかチチを護ってやってくれ。頼むぞ」


 日暮れ。宿屋『セルバンテス』の部屋でハルキはスマホを手にし、チチの画像に見入っていた。

 チチは、見れば見るほど、かつて憧れた美少女アイドル立花ルリに酷似していた。

 偶然だろうか? いや、こうも考えられる――チチがハルキの好みのタイプを調べ、立花ルリという存在に気づき、彼女に顔を似せたのだ、と。

(なんて健気なんだ……)思わず頬がゆるむ。

 立花ルリはアイドルグループ『チェリーボム』のメンバーだった。大学の友達に連れられて『チェリーボム』のコンサートを観て以来、立花ルリはハルキの推しとなった。

 そんな折、奇跡的な出来事が起った。渋谷のカフェに入ったとき、一人でスツールに腰かけ、スマホをいじる立花ルリを見つけたのだ。

 ハルキは勇気を振り絞り、声をかけた。ファンであることを告げ、頑張って下さいと一言伝えて、すぐに遠慮するつもりだった。

 ところが驚いたことに、立花ルリはハルキに隣の席を勧めてきたのだった。憧れのアイドルが急接近してドギマギするハルキに、立花ルリは気さくによく喋った。しかも二人だけの幸せな時間は一時間の長きに及び、ハルキをいっそう驚かせた。

 後日、テレビのバラエティー番組で、立花ルリが好みの男性を訊かれ、ウェリントンタイプの眼鏡をかけた男性ですと答えるのを聞いた。自分のことではないかと、ハルキは思った。

 渋谷のカフェでの一件は、ファンサービスにしては明らかに度を越していた。しかし立花ルリにとってハルキが理想のタイプであるというのなら、説明がつく。

 あれは運命的な出会いだった。もしもう一度出会えば、必ず二人は恋愛関係に進むはずだ――ハルキはそう確信した。ファンという立場を忘れて、すっかり本気になってしまったのだ。

 結局、その後に立花ルリは有名お笑いタレント(ウェリントンタイプの眼鏡をかけていた)と電撃入籍し、ハルキの夢はあっけなく散った。

 が、一旦は終了したはずの夢が思いがけず、ひょんなことから叶う運びとなった。立花ルリと瓜二つの美少女と結ばれるというのは、「夢の実現」と表してもいいのではないか。

 いや、「夢の実現」では済まないだろう。夢は、更なる高みにランクアップしている。なにしろチチはやんごとなき王女なのだ。人気アイドルの立花ルリでさえ及ばない。

 チチの画像を改めて見ると、立花ルリを凌駕する美貌に映った。

 今夜もまたチチは部屋にやって来るはずだった。待っているとなかなか現れず、ハルキをヤキモキさせた。

 現実世界ならスマホのLINEを使うところだが、サンラーでは役に立たない。ハルキにはそれがかえって、新鮮に感じられた。チチに会いたいという思いを、より強く増幅しているように思えた。

 ハルキの心は青春のときにまで溯った。異世界で人生をやり直そうとしているのかもしれないと、ふと思った。

「ハルキ」

 待ち焦がれた少女の声。ハルキは大股で扉へと近づく。

 部屋に入るやいなや、チチはハルキの胸に飛び込んだ。その細身を締め付ける勢いで、背中に両手を回す。

 ハルキもチチの肩を抱く。と、身体が後ろに下がりだした。密着したまま、チチが前へと押しているのだった。

 重なり合う二人は四つ足で部屋を進み、共に寝台へと倒れた。弾みで、ハルキのウェリントンタイプの眼鏡がずれた。

 チチは息を荒くし、上気した顔を向ける。それからハルキの首にくらいついた。

 つられてハルキも、動物のようになって、応戦する。

 寝台は崩壊寸前。蝋燭の炎は明々と燃え上がり、室内を息苦しくなるほどの熱気で満たした。

 少女の淡く白く光る肌に触れながら、もう決して離れられないと、ハルキは思った。


 異世界三日目。ハルキとチチはそれぞれ『トゥク』という生き物の背に乗った。

 トゥク。二本足で、ダチョウを思わせる立ち姿。柔らかく上品な毛並みの胴体。頭部は長い角を有し、イッカクに似ている。

 トゥクに乗って行く先は、現実世界で言うところの観光スポットである『サピアの沼』。広大なグルグルの森の最奥にある沼で、水の色が様々に移り変わる幻想的な光景を拝めるのだという。

 今回の遠出は、二人の記念すべき初デートだった。チチは二人きりで行きたいと懇願したが、ドガ国王はにべもなく却下した。結局、近衛兵を二名伴うこととなった。

 近衛兵たちはたっぷりと距離を保って、二人について来る。できる限り離れて見守るようにと、チチから言い含められているのだった。

 一行は、グルグルの森に沿って延びる街道を進む。トゥクの速度は自転車くらい。ふわふわの胴体が気持ちよく、乗り心地は悪くなかった。

 空は白色。サンラーに来てまだ太陽を拝めていないが、現実世界のように陽は照るそうだ。おそらく宇宙の構造自体、変わらない。あるいは、ここもやはり地球なのかもしれない。同じ地球上に二つの世界が、異なる次元で、隣り合わせに存在する。

 その説は、二つの世界に大きな差がない点でも、裏付けられるだろう。

 食も問題なし。市塲へ行けばあらゆるものが手に入る。衣服も案外、着心地がいい。この先永く暮らしていくのに、何ら支障はない。

 将来のチチとの幸せな夫婦生活を思う。現実世界では一生味わえないであろう、美少女アイドルと共に過ごす日常。天上の美を備えた裸身は、いつでも存分に鑑賞できる。

 先導し、前を行くチチ。ピンクのポニーテールが軽やかに跳ねている。ハマスホイの絵画にも比肩するその後ろ姿だけでも、十分見とれてしまう。

 その上、チチはハルキに夢中なのだ。彼女の想いの十割はハルキに注がれている。

 不満も不足も皆無。非の打ち所がない完全無欠のパートナーを手に入れた。これ以上何を望むというのか?

 二時間ほど進み、チチの乗ったトゥクは森のほうへと折れた。登山道のような小路が、森の奥へと続いている。

 この付近の樹々は一様に大人しかった。バーバの家の周りとは、まるで雰囲気が違う。広大なグルグルの森は地点によって、性格が変わるらしい。

 視界が大きく開けた。『サピアの沼』だ。物静かな樹々に囲まれた広大な沼。その不思議な光景に、ハルキは目を奪われる。

 七彩に染まる水面。箇所によって、色が様々に異なる。さらに藍からピンクへ、エメラルドグリーンから紅へという風に、それぞれの色が少しずつ変化していくのだった。

 トゥクから降りて、叢を歩む。茂みの向こう、大木の根元に小舟が係留されている。

 二人乗りの手漕ぎボート。だんだんデートらしい展開になってきた。

 チチは近衛兵たちに、岸から見守るよう命じた。二人でボートに乗り込み、向かい合って腰を下ろす。オールを握るのはハルキだ。

 ボートを沼の中央まで漕ぎ進め、周囲を見渡す。

 ハルキはスマホを取り出し、水面の七色が溶け合うように移ろう様を動画に収めた。きれいだね、と素直に口にする。

 顔を上げれば、目の前には美少女の輝かしいスマイル。ついに天国に来てしまったのか。ハルキはすっかり現を抜かしてしまった。

 天を仰ぎ、開放感に浸る。いつもなら働いている時間だ。もう会社にも行かなくていい。人の貴重な時間を奪い取る会社にも……。

 会社に通うのは大いに苦痛だった。ストレスの最大の要因は、上司の(その名を口にするだけで憂鬱にさせる)徳川課長。ぎょろりとした目つきの、頭の回転がやけに速い、神経質な中年男だ。

 ハルキが進行管理課に配属となって一年経った頃、サシで呑もう、と徳川課長から居酒屋に誘われた。ハルキはその日どうしても仕上げたい原稿があった。それにどうせ説教されるのは目に見えていたので、やんわりと断った。

 その翌日から、徳川課長のハルキに対する態度があからさまに変わった。

 職務上ミスを犯そうものなら、執拗に責め立てられた。

 ミスのないときも何かにつけて、こちらが嫌になる言葉をぶつけてきた。そして最後には決まってマウントをとり、薄ら笑いを浮かべるのだ。

 そんな最悪の上司と、毎日顔を合わせないといけないのだった。

 ところが異世界にやって来て、状況は百八十度転回した。

 地獄から天国。憂鬱な現実世界から、幸福な夢の世界へ。

 思わず口元がゆるむ。

「うれしそうだな、ハルキ」

「え? ……うん」ごまかすように笑い、「いいところだね、ここ」

「だろ? ところで明日だな、オヤジからの返答は。ハルキはどっちだと思う?」

「どうかな……でも、ブラー王子は厳しいだろうって」

「まあ、あたしも期待はしてないけどな」

「ドガ国王からダメって言われたら、どうするつもり?」

「もちろん駆け落ちするさ」

「どこへ? 当てはある?」

「ない。国境を二つ三つ越えて、どこか辺境にでも住もう」

「だけどそれは、王家を離れるってことだろ? 王女の身分を捨てることになる。それでも構わないのか?」

「べつに。王女なんて堅苦しくて、性に合わないしさ」

「生活していく上で苦労が増えるよ」

「うまくやっていく自信はある」

「後悔しない?」

「ぜんっぜん。あたしには王女の身分より、もっと大切なものがあるから」

「大切なものって?」

 チチは眉をひそめ、

「ハルキに決まってるだろ」

「あ……ごめん」

 ハルキは詫びる。

「きれいな服もいらない。おいしいお菓子もいらない。ハルキといつも一緒にいられるなら、それだけでいい」

「ありがとう……」

 チチは吹き出し、

「なんだ、さっきから謝ったり礼を言ったり。で、ハルキにとって一番大切なものは? いったい何なんだ?」

 一番大切なもの。一番大切なものは――。

「何だ?」

「あたしが聞いてるんだろ」

「そうじゃなくて、あれ」

 ハルキが空を指差す。沼へ向かって飛来してくる、巨大生物の影。

「ドラゴンか?」

 驚愕するハルキをよそに、チチはすました顔で、

「ああ、あいつは『ルドン』さ。人は襲わないから、安心しろ」と、まるでハトか何かのように言う。

 だがその姿は恐ろしく、とても穏やかな性格の生き物には見えなかった。

 胴から長く伸びる首の先に、トカゲの頭部。吻は鋭く尖っており、メカジキのよう。眼は「イコール」の記号に似て、直線二本が平行に並んでいる。

 桁外れの大きさの翼。鳥類めいた細長い脚は、昆虫のように六本垂れている。

 ルドンは明らかに高度を下げ、ボートに近づいてくるようだった。

 梢が一斉に揺れ動き、水面がざわめくように波立つ。

 反射的にハルキはスマホのレンズを向けた。するとチチは慌てて、

「まずい。ハルキ、頭を下げろ」

 巨大な飛翔動物は頭のすぐ上を通り過ぎた。翼が起こした強風が、ボートに叩きつけられる。嵐に巻き込まれた船のように、大きく揺さぶられる。二人はボートの縁につかまり、命からがらに耐えた。

 ルドンが飛び去り、『サピアの沼』に静けさが戻る。岸では近衛兵たちが狼狽した様子で、右往左往している。

「危なかったな。もう少しで転覆していたぞ」

「しまった」ハルキは困惑顔で水面を見つめている。

「ん? どうした」

「スマホを落とした……」

 手に握っていたスマホを、ボートが揺れた際、放してしまったのだ。スマホは水中に没した。ムラサキ色の覆いの向こうに、最先端の機器はあっけなく消え去った。

「あきらめるしかないさ。大体、スマホなんてもう必要ないだろ」

 スマホなんて必要ない……チチの言う通りだろう。サンラーで生きていく限り、スマホはカメラ以外、何の役にも立たない。ネットに繋がるわけでもなく、通話だってできない。

 ただ、ハルキは言いようのない寂しさを覚えた。

 スマホには現実世界の思い出が詰まっていた。とりわけ家族の写真が――カヨコと鎌倉でデートした写真、二人で北海道へ旅行に行った写真、結婚披露宴の写真、ビワが生まれたときの写真、ビワが初めて伝い歩きをした写真、購入した戸建て住宅の前で撮った写真、新居でのクリスマスパーティーの写真……。

 スマホを失い、同時に、現実世界の思い出も失われたのだ。


 宿に戻るなり、ハルキは引き出しにしまっておいたタブレットを取り出した。スマホは無くしたが、タブレットがまだ残っている。早速、電源を入れた。

 タブレットが問題なく起動して、ハルキは安堵の息をもらす。小説の執筆専用なので、家族の写真データは入っていない。その代わり、これまで書き溜めたハルキの作品が、短編から長編まで全て収められていた。

 wordを立ち上げ、書きかけの『ブヨブヨ教の怪』を開いた。そのまま自然の流れで、ソフトウェアキーボードのボタンをタップする。



「うわあ」

 資料室の扉が勢いよく開き、ケンジが飛び込んできた。息が荒く、ひどく興奮している。すぐさま扉を閉めると、震える手で鍵を回した。それから部屋を見回し、手近なスチール製の書棚に飛びつく。

「どうした、ケンジ?」

「相葉! 見ていないで、手伝ってくれ」

 必死になって重い書棚を動かそうとするケンジに、ユウイチは加勢した。書棚は扉を隠すように据えられた。

「ケンジ、何があったんだ?」

 ケンジの興奮は一向に収まらない。

「バケモノが……ナメクジのバケモノが出た」

「ナメクジ?」

「3メートルはある……でっけえナメクジが……」

 ユウイチはハッとして、

「おい、ミカは? 一緒じゃなかったのか?」

「ミカは……殺された」

 ケンジとミカの二人で、荒れ放題の事務室らしき部屋を調べているときだった。背後に何かが落下した気配を感じ、ケンジは振り返った。床に蠢くものが何か判断できるまで、数秒を要した。巨大ナメクジ。あるいは、ナメクジそっくりの地球外生物。大量の銀色に光る粘液を床にだらだらと垂らしている。

 巨大ナメクジの下から人の片腕が突き出ているのを、ケンジは見つけた。溺れた人のように、腕は虚空を掻いている。細い、女性の腕。ミカの腕だ……その証拠に、カズヒコから贈られた腕時計をつけている。おそらく巨大ナメクジは上から降ってきたのだろう。そしてミカを押しつぶした。床に倒れたミカの身体は巨大ナメクジの下敷きとなり、覆われた。片腕だけを残して……。

 ではこのおぞましい怪物は、どこから降ってきたのか? 恐る恐る見上げると、天井を巨大ナメクジの群れが隙間なく埋め尽くしていた。ケンジは悲鳴を上げ、部屋を飛び出した。

「待て。それじゃ、ミカが殺されたか、判らないじゃないか」ユウイチはケンジに詰め寄った。

「目の前で見たから判る。もう助からないさ」

 ユウイチはケンジを押しのけ、扉の前を塞ぐ書棚に手をかけた。その腕をケンジが掴み、引き離す。

「やめろ! 奴らが入ってくるぞ」

 ユウイチはケンジの頬を力任せに叩いた。逆上したケンジの拳がユウイチの顔面を打つ。床に仰向けに倒れたユウイチにケンジは馬乗りとなり、鬼のような形相で、首に両手を回した。


「いけない」

 画面に現れた「バッテリー残量が少なくなっています」との警告。

 残念ながらこの世界には電気が通っていないため、充電できない。バックアップをとるための外部記憶媒体もない。

 ハルキ渾身の作品『ブヨブヨ教の怪』は、このまま誰の目にも留まることなく、消え去る運命なのか。

 茫然自失。ハルキは風前の灯火となった自信作に視線を落としたまま、何もできない。

 この打ちひしがれるほどの、激しい喪失感はどうだろう? 

 もしかすると「小説」はハルキにとって、人生そのものではないか……。

 ハルキは高校生のとき夢野久作を読み、そこから幻想文学にはまった。大学生になり、自ら小説を書き始め、ネットに投稿し始めた。投稿したハルキの作品は一部で好評を博し、いくつかの感想を寄せられた。その内の一つ、

「初めてでここまで書けるなんて、天才じゃないですか。絶対プロになれると思います」

 この言葉に、ハルキはすっかりその気になった。プロの作家になれるのは選ばれた人間であり、自分はその選ばれた人間であると、信じて疑わなかった。

 以降、本腰を入れて小説を学び、新人賞への投稿を開始した――。

 残念ながらこれまで一度も受賞の経験はない。だが『ブヨブヨ教の怪』は、過去の全ての自作が色褪せてしまうほどの傑作となるのは、明らかなのだ。

 夢を実現させる最大のチャンス。この機会を逃したら、死ぬまで後悔する羽目になる。

 後悔する人生など送りたくない。そのためには決断すること。これは人生の選択なのだ。

 今後何十年と続いていく人生を思うとき、後悔もなく、満たされた気持ちで過ごすために、何を最優先にすべきか――。

 決断。

「帰ろう」

 タブレットをボディバッグに仕舞う。荷物はこれだけ。記念に異世界の何かを持ち出そうかとも考えたが、やめておく。

 市場で調達した現地の服を脱ぎ捨て、アディダスのTシャツとユニクロのスキニージーンズに着替える。

 後は魔術師バーバとの交渉だ。

 ところでバーバは外出していたりしないか? 通信手段もなく、確認しようがない。不在でないようにと祈るだけだ。

 まだ気がかりなことがある。現実世界に戻してくださいと頼んでも、断られるかもしれないのだ。その場合は土下座して、必死にお願いするしかない。

 心配ばかりしていても埒があかない。とにかく行こう……と扉に向かった。

 そのタイミングで。

「ハルキ」扉の反対側から、チチの声が届く。「開けてくれ」

 チチと顔を合わせたい気持ちを無理矢理押さえつけ、

「チチ……すまないが、今夜は一人にしてくれないか?」

「……何を言ってるんだ?」

「チチ……頼む」

「とにかく扉を開けてくれないか?」

「できないんだ」

「開けろ」

 打撃音。外側から、扉が蹴られたようだ。

「なぜ開けられない。女がいるのか?」

「違う。誰もいない」

「だったら、あたしを入れてくれてもいいだろう」

「できない」

「ふざけるな」

「ごめん」

「馬鹿!」

 泣き声。宿中に響き渡るほどの。

 たまらず扉に手を伸ばすが、もう片方の手で制した。切なくなり、思わずハルキまで涙をこぼしそうになる。首を振って、断腸の思いでこらえる。

 そのうち泣き声は遠ざかっていき、とうとう聞こえなくなった。

 ハルキは力なく寝台に腰を下ろした。うなだれ、大きく息を吐く。そのまま放心し、しばらく動くことができなかった。

 後味の悪い別れ方になってしまったと、ハルキは嘆いた。


 結局、宿屋『セルバンテス』を出たのは深夜になってからだった。町の明かりは一切なく、月も見えない。通りは闇に埋もれていた。

 暗闇をタブレットの画面で照らしながら、城館の裏側へと急ぐ。チチが設えた「近道」を目指して。城門が閉まっているので、外へ行ける唯一の抜け道だ。

 森に入り、城壁にたどり着いた。タブレットをしまい、ロープを握る。

 壁を乗り越え、『グルグルの森』に踏み入った。タブレットを取り出し、電源を押す。……起動しない。ついに充電切れだ。

 日中でも薄暗い『グルグルの森』は完全に闇に閉ざされている。照明なしには、一歩も進めない。ハルキは城壁を背に、しゃがみ込んでしまった。

 夜明けまで待機するか? いや、のんびりしているうちに勘の鋭いチチがやって来る恐れがある。やはり今行くべきだ。

 思い切って暗闇に突入する。その三歩目で顔面を枝に打ち付け、眼鏡を落とし、早くも足止めを食らった。

 両手を地面に這わせ、眼鏡を探す。それを手助けするように、上から明かりが差した。

 無事に見つかった眼鏡をかけ、顔を上げる。

 ふわふわと光の玉が浮かんでいる。立ち上がると、それは目の高さにあった。光の中に花が見える。ダリアに似た丸い花が発光している。葉を蝶の羽のようにはばたかせて。

 光る花はハルキからゆっくりと離れ、森の奥へと飛んでいく。ハルキは花を追いかけ、照らし出された森に分け入った。

 前方2メートルほどを照らしながら飛ぶ花に先導され、立木のあいだを慎重に行く。

 光る花は最後にバーバの住家を照らしたところで役目を終え、天へと飛び去った。

 ふたたび闇に覆われた。直後、壁の入口が開き、室内の灯りが漏れ出した。

 そっと部屋に入る。到着を待っていたかのように、バーバはハルキを迎えた。

「お前さんが来ることは分かっていたさ」黒塗りの椅子に腰かけたまま、バーバは言った。「お前さんが何を望んでいるのかも知っている」

 ハルキは土下座しようと膝をついたが、バーバに止められた。

「『アイ』に帰りたいんじゃろう? いいさ。帰してやる」

 思いがけずあっさりと言われ、慌てて頭を下げた。

「やはりお前さんをサンラーに召喚してはならなかった。本当は反対だったのさ。けれどチチが死に物狂いでな……あのときは折れざるを得んかった」

 バーバは暗い声で言う。

「チチはな、剣を自らの喉に突きつけて、泣きながら懇願したのじゃ。お前さんを呼び出さなければ死ぬ、とな。よほど切羽詰まっておったのじゃろうて」

 ハルキは唇を噛んで、視線を落とした。

「それでも心を鬼にして、説得すべきじゃった。……もう後の祭りさ。今からお前さんを『アイ』に戻したところで、手遅れかもしれん」

 老魔術師は大きく息を吐いて、

「すべては悪しき方向へと向かっておる。お前さんを召喚したとき、境界に綻びが生じた。『サンラー』と『アイ』のあいだにな」

「境界に綻び……?」

「『サンラー』と『アイ』は決して交わってはならぬのさ。二つの世界は、それぞれがそれぞれの道を行くべきなのじゃ。『アイ』の住人は『サンラー』の存在を知らない

 が、『サンラー』も『アイ』の存在を知らずにいたほうが良かったやも知れぬ。世界は閉じられてこそ望ましい。互いに干渉してはならぬのじゃ」

 バーバのしゃがれ声が陰鬱に響く。

「堅固な境界は安定を生む。境界が破壊されれば安定は失われ、秩序は乱れる。境界が崩れ落ちた先には破滅が待っておる」

 世界の破滅。崩壊する世界。

「壊れた境界は元通りに戻らないのですか?」

「一度開いた穴は滅多なことでは塞がらぬ」

「それでも――ぼくが『アイ』に帰れば、すべて元通りになるかもしれない。破滅は免れるかもしれない」

「……うむ」

 部屋に沈黙が積もる。耐えきれなくなり、ハルキは口を開いた。

「バーバさん、お願いします。今すぐ『アイ』に帰してください」

「ああ、わかった。帰るとなれば一瞬じゃぞ。そして二度と戻ってこれぬ。良いかえ?」

「チチは……大丈夫でしょうか」

「心配せんでいい。こっちで上手くやるからの」

「よろしくお願いします、バーバさん」深々と頭を下げた。

「最後に言っておきたいことはないかえ?」

「チチに伝えてください。君のことは一生忘れない。どうかスターバックス皇子と共に、幸せな家庭を築いていってください、と」

「承知した」

 呪文を発し、杖を振るう。

 異世界は一瞬で消え去った。風景は切り替わり、池が現れた。見間違うはずなどない。なじみの『浮舟公園』の人工池だ。

 見回すと、犬の散歩やジョギングをする人たち。誰もハルキを気に留めてはいない。さっきからずっとそこに立っていた、とでもいうように。

 ボディバッグを確かめる。タブレットはあったが、スマホは見つからなかった。これは異世界に行ったのが事実であることの裏付けとなる。なぜなら、スマホは『サピアの沼』に落としたのだから。

 気になるのは、やはり今日の日付だ。まさかと思うが、浦島太郎のような事態に陥るのだけは御免こうむりたい。

『浮舟公園』の前のコンビニに入り、新聞を買う。日付は、転送された日から三日後。時間の進み方は『サンラー』と現実世界で、さほど違わないようだ。転送された日は日曜だったので、日、月、火と家に帰っていないことになる。

 無断欠勤の理由は、どうしよう。カヨコが会社にどう説明しているのかも気になるが……。


 住宅地に建つ、昨年購入したばかりの自宅。一戸建て。二階家。

 ネイビーブルーのサイディング。玄関先に置かれたパンジーの鉢植え。駐車場には、中古で手に入れた日産キューブ。

 車の隣に、カヨコの自転車がある。妻は在宅のようだ。

「ただいま」

 バタバタと玄関に向かってくる足音。

「ハル!」

 ショートボブ。一重まぶたの細目。小さめの鼻。三日ぶりの妻の顔は、ハルキをひとまず安心させた。

「ただいま、カヨコ」

 ハルキは靴を脱ぎながら、まるで会社から帰宅したような口ぶりで言う。

「カヨコ、仕事は?」

「行けるわけないでしょ、こんな状況で……」ハルキを睨みつけ、怒鳴り声で、「どこに行ってたのよ、今まで?」

「急に旅に出たくなってね」

 しれっと言われ、カヨコは口をぽかんとさせる。

「なにそれ……」絶句してから、「どうしてLINEに返信しなかったのよ。電話も、メールも」

「ごめん。スマホを沼に落としちゃって」

「沼……? 沼、沼、沼、沼、沼……ダメだ。もう頭が変になりそう」

 ハルキは妻の肩に手を載せ、

「心配かけたね。ごめん」

「ごめんって……」カヨコは夫の腕を掴んだ。「こっちは警察にも行ったんだからね? 事件に巻き込まれたんじゃないかって」 

「大丈夫。スマホをなくした以外、何の問題もないから」

 唖然として、

「信じられない……よくそんな軽口が言えるわね」

「本当に悪かった。あやまる」手を合わせ、「ただ……その……頼むから、見逃してくれないか? 今回の一件は」

 カヨコは大仰に息を吐いて、よろめいた。

「見逃せるわけがないでしょ。で、何? その、急に旅に出たくなった原因は? ストレス?」

「……そうかな? そうかもしれない」

「何がストレスなのよ。わたし? わたしのせい?」

 小刻みに首を振って、否定する。

「だったら何よ? 会社? 仕事のこと?」

「うーん……」

 カヨコは疑惑の眼差しを向け、

「ハル……何か隠しているでしょ。何を隠しているの?」

 ハルキの目が右へ左へ、せかせかと泳いでいる。ぐっと唾を飲み込んで、

「た……」

「た?」

「頼む……そっとしておいて……くれないかな?」

「はあ?」

「うまく言えないんだけど……どうか……」

 会話が途絶え、一分半ほど過ぎる。

 押し黙って考えを巡らせていたカヨコは、開き直った風で、

「いいわ。今日のところは、不問にしてあげる。その代わり落ち着いたら、ちゃんと話を聞かせて」

「すまない……」

 カヨコが背を向けた、そのとき。聞こえるか聞こえないかくらいの小声でそっと漏らした独り言が、ハルキの耳に飛び込んだ。

「まさか女じゃないでしょうね……」


 現実世界に戻ってきて、また憂鬱な通勤を毎日繰り返さねばならない。足どり重く、駅から徒歩十五分の会社に向かう。

「徳川課長、心配してたわよ」とカヨコは言った。

 月曜の朝、カヨコは会社に電話をかけた。昨夜夫が家に帰らなかったのですが、出勤していますか、と。そこからハルキ失踪の噂が、社内に伝播したのだった。

 出社すれば、同僚たちからあれこれ尋ねられる恐れもある。そこはカヨコと同様に、はぐらかす予定だった(上手くいくか多少心配ではあったが……)。

 心配と言えば、出社してまず徳川課長に謝罪するという苦行が待っているのだった。これも仕事のうちと、腹をくくって臨むしかない。

 進行管理課のドアを開き、いの一番に徳川課長のもとへ。

 すでに着席していた徳川課長の傍らに立ち、謝罪する。

「ご心配をおかけしました。どうもすみませんでした」

 徳川課長は視線を逸らし、

「あ……ああ」とだけ返した。

 ――それで済んだ。

 大仕事が意外と簡単に片づき、緊張が解ける。

 同僚たちにも挨拶したが、皆よそよそしかった。そこでハルキは気づいたのだ。

 職場の誰もがハルキに気をつかっている。どうやらハルキが仕事で心を病み逃避の旅に出た、という認識らしい。彼らはきっと「最悪の結末」を恐れて、用心深くなっているのだろう。

 徳川課長に至っては、部下の精神疾患の原因が己にあると疑っているふしがある。パワハラと訴えられはしないかと、気が気でないのかもしれない。

 その証拠にいつも何かと口を出す徳川課長が、不自然なくらい鳴りをひそめている。それはありがたいようでもあり、申し訳ないようでもあった。

 何となく気まずい。みなさん勘違いですよ、と言えるわけもなく。ハルキはうしろめたさを感じ、その後の仕事がはかどらなかった。

 午前中は居心地の良くない、むずむずするような空気の流れる中で業務を進めた。昼休みを過ぎると、職場も少し落ち着いてきて、ハルキは調子を取り戻した。

 こうしてまた、面白みのない日常に復していくのだろう。月曜から金曜まで家と会社を往復し、土日に小説を書くという、至って現実的な日常に。


 その後カヨコは、ハルキの消えた三日間について、一言も触れていなかった。

 ハルキの推察では、カヨコは二つの疑念のあいだで揺れている。

 一つは、ハルキが浮気をしているのではないかという疑念。もう一つは、自分がハルキを精神的に追い詰めてしまったのではないかという疑念。

 浮気の可能性は大だが、ハルキが精神的に病んでしまった可能性も捨てきれず、詰問に踏み切れないでいる……。

 もしも推察どおりなら、カヨコは浮気の証拠をつかみにくるはずだ。

 どれだけ実績のある探偵に依頼したところで、発覚する確率は極めて低いだろう。なにしろ浮気相手は異世界の住人なのだ。

 カヨコと付き合い始めてからこれまで、一度たりとも浮気の経験はなかった。恋人としても、妻としても、カヨコに不満を覚えたことなどなかった。

 浮気など考えもしなかったし、彼女もその点は感じ取っていたと思われる。

 きっとカヨコは無警戒だったに違いない。今でも半信半疑なのではないか。

 浮気――それについては、認めざるをえない。チチの魅力を前に、一度は確かに本気になった。紛う方ない浮気だ。

 取分けまずいのは「結婚しよう、チチ」と口にしてしまった事実……。

 よくもまあ、あんな大胆な真似ができたものだと、自分が信じられない。

 果たしてあのときは頭がどうかしていたのか。

 ……いや、ひょっとすると、あれはチチの策略だったのかもしれない。

 まんまとチチに乗せられた。「結婚しよう」と言わされた……。

 とはいえ、チチを責めるつもりはさらさらない。短いあいだではあったが、一緒にいて、確かに幸福感で満たされていたのだ。

 いずれにせよ、浮気の事実は隠し通すしかない。

 大丈夫。チチが現実世界にやって来ない限り、浮気が発覚することは99・9パーセントないだろう。


 土曜日。異世界への転送から始まった一週間の、締めくくり。週末はいつも通り、自分の部屋で小説を書いて過ごす。

 異世界の一件で『ブヨブヨ教の怪』は原稿が遅れてしまったが、思いのほか筆が乗り、やすやすと遅れを取り戻した。

 むしろ時間が余り、ハルキは読みかけの文庫本を手にして、椅子に腰かけた。十ページほど読み進めたところで、ふと思いつく。

(そうだ……『サンラー』で見たものを、忘れないうちに書き留めておこう)

『サンラー』の記録写真は、スマホと共に失われた。記憶をたどり、書き残すしかない。

 愛用のネタ帳とボールペンを手に取る。


 しゃべる樹――人をからかったり、ちょっかいを出してくる。

 空飛ぶ花――葉っぱを蝶のように羽ばたかせて、宙を飛ぶ。

 ズー――体が大きく、凶暴。人を襲い喰らう、獰猛で危険なモンスター。

 トゥク――上品な毛と長い角をもつ。人を乗せて走る。

 ルドン――異形の怪鳥。外見は恐ろしいが、人は襲わない。

 …………

 ネタ帳に記しているうち、チチの顔が、裸身が、脳裏によみがえる。

 ……今ごろチチはどうしているだろうか?

 ハルキがいなくなって、落ち込んでいるだろうか。それとも踏ん切りをつけて、スターバックス皇子との結婚に同意しただろうか。

 あるいはハルキへの熱愛が一向に冷めず、いまだ諦めきれずにいるのではないか……。

 気になる。気になったところで、チチとの再会は叶わない。もう二度と顔を合わせることはない。――が、会えるものなら会ってみたいと、ほんの少し思う。

 否、やはり会わないほうがいい。会ってみたい。会わないほうがいい。会ってみたい……。

 ハルキはかぶりを振って物思いを切り上げ、タブレットをシャットダウンした。


 野村家の決まりで、毎週土日はハルキが料理を担当している。そして本日土曜の夕食はハッシュドビーフを作ると、前日のうちに決めていた。

 ハルキはキッチンカウンターに立ち、夕食の準備に取り掛かる。

 冷蔵庫から牛肉の薄切り、タマネギ、マッシュルーム、ニンジンを取り出し、デミグラスソース缶も用意した。

 ハッシュドビーフは得意料理なので、流れるような手さばきで調理していく。

 対面式のキッチンカウンターから、ハルキは家族を眺める。

 リビングでは、ビワがテレビのアニメ番組を観ている。カヨコはダイニングテーブルでスマホをいじっている。

 一週間のうち土曜日のこの時間帯が、ハルキは一番好きだった。

 ハッシュドビーフも後は煮込むだけとなり、サイドメニューのサラダ作りに手をつける。ひと舐めしたい衝動に駆られるデミグラスソースの香りが、部屋を覆っている。

「あれ何? 何の音?」

 ドアをノックする音に最初に気づいたのは、カヨコだった。

「ノックって。チャイム鳴らしなさいよ」

 ぶつぶつ言いながら、カヨコは玄関に向かった。

 少し経ち、玄関のほうから言い争う声が耳に飛び込んできた。

 胸騒ぎを覚える。ガスの火を消し、料理を中断して、玄関へと急ぐ。

「おう、ハルキ」

 開け放たれたドアの外側に、朗らかな表情のチチが立っていた。

「今日から、ここで暮らすことにした。よろしく頼むぞ」

 エプロン姿のハルキは言葉を失い、チチを見つめたままフリーズする。

「ハル、誰よ、この子は?」

 問いかけるカヨコへおもむろに振り向くも、頭はすっかり真っ白だった。

 カヨコは目をすがめて、

「ああ、やっぱり、そういうこと。家に帰ってこないで、若い女の子と浮気していたってわけね」

 ハルキは首をぶんぶん横に振り、うわずった調子で、

「違うんだ、カヨコ」

「何がどう違うのよ。説明しなさいよ」

「浮気じゃないぞ、カヨコ」チチが割って入る。「あたしとハルキは結婚したんだ」

 カヨコはあからさまに顔をしかめ、

「頭おかしいんじゃない? この子」

「カヨコがハルキの妻なのは承知してる。だけど、あたしもハルキの正式な妻だ。これからは一緒に、仲良く暮らしていこう」

「……もしかして、あなた日本人じゃないの?」

「ああ。パンテラ王国で生まれ育った。もっと言うと、サンラーってイセカイからやって来たんだけどな」

「うっわ。完全にイっちゃってるオタク女だ」

 カヨコの冷たい視線にハルキはうろたえ、

「だから違うんだ」と繰り返す。

「最悪」カヨコが吐き捨てるように言った。

 そのあいだにチチは靴も脱がず、勝手に上がり込んできた。

「ちょっと待ちなさいよ。何してるのよ」

「だから一緒に暮らそうって言ってるだろ? 解ってくれ、カヨコ」

「どうして夫の浮気相手と暮らさなきゃいけないのよ。馬鹿じゃないの?」

 チチは真剣な顔つきで、

「カヨコ、あたしは争うつもりなんてないからな。お互いハルキの妻として、手と手を取り合ってやっていこうじゃないか」

 カヨコは差し出されたチチの手を無視し、

「もういい。警察呼ぶ」

 ダイニングにスマホを取りに戻ろうとするカヨコを、ハルキが引き止める。

「待ってくれ、カヨコ」

 カヨコは腕を払い、

「なに考えてるの? あの子を家に入れるつもり?」

「何もかも話すから」

 ハルキはカヨコの肩を抱き、階段へといざなう。続いてチチに振り向き、

「チチ、まず靴を脱いで、玄関に置いてくれ。そこの扉を入ったところにテーブルがあるから、椅子に座って待っていて。せっかく来たところ、すまないが……」


 二階の寝室。蛍光灯をつけ、戸を閉めた。部屋の中央、円い照明の下に立ち、夫婦は向き合う。

「いいかい、カヨコ。この前の日曜から火曜までの三日間、ぼくに起きたことを洗いざらい話す。あまりに非現実的で、信じてもらえないかもしれないけど、最後まで聞いてほしい」

 ハルキは語った。

 小説を執筆中にサンラーと呼ばれる異世界に転送されたこと。それはパンテラ王国の王女チチが魔術師バーバに依頼した召喚によるものであったこと。チチ王女は望まない結婚を迫られ、意中の人だったハルキをサンラーに呼び寄せたこと。

 5年前、チチ王女はこちらの現実世界へやって来て、ハルキと出会ったこと。サンラーに戻ってからも、バーバに現実世界を鏡に映してもらい、ハルキを見続けてきたこと。そのうちハルキを好きになったこと。

 ズー、しゃべる樹、空を飛ぶ花。ドガ国王、ブラー王子、魔術師バーバ……。

 サンラーでの体験を、ほぼ一通り話した。あえて伏せたのは――「結婚しよう」と言ったことを含む、宿屋『セルバンテス』の部屋で繰り広げられたモロモロだ。

「さすがね」とカヨコは言った。「さすがプロ作家を目指して物語を創っているだけあるわ」

「カヨコ、この話は創作じゃない。神に誓って言うが、事実なんだ」

「証拠はある?」

「たくさん写真を撮ったけど……スマホを『サピアの沼』に落としてしまって……」

 カヨコは首をひねり、探るような目で見る。

「ハルはあの子と浮気をしていた。家にも帰らず、どこかであの子と過ごしていた。それを隠すために非現実的なストーリーをでっち上げた。……そうじゃない?」

「違う」

「じゃ、こうかしら。ハルはSNSを通じてあの子と出会った。直接会ってみると、異世界アニメの見過ぎで妄想にとらわれてしまった女の子だった。ハルが彼女に調子を合わせていると、二人の会話はTRPGみたいに、異世界ファンタジーのストーリーを紡ぎ始めた。そのうち、あの子は現実と虚構の区別がつかなくなって、ハルに本当に恋してしまった。するとハルも、若くてかわいい女の子を前にして、欲望を抑えきれなくなった」

「そうじゃない。わかってくれ、カヨコ」

「で、寝たの? あの子と」

「何もしてない」

「寝たんでしょ?」

「何もしてない。信じてくれ」

 カヨコは夫に背を向けた。

「どうするつもり? あの子は」

「とにかく今夜だけでも、うちに泊めてやってくれ。明日以降は何とかするから」

 カヨコは振り返り、愕然として、

「……正気?」


「正気の沙汰じゃないわ」カヨコはぽつりと言った。「なんなのよ……このクレイジーなシチュエーションは」

 ダイニング。ハルキの作った夕食を四人が囲む。テーブルを挟み、ハルキの向かいにチチが、カヨコの向かいにビワが座っている。

 傍目には和やかな家族の団欒だが、構図としては確かに尋常でなかった。

「ああ、精神に異常をきたしそう」

「うまいなあ。ハルキ、これは何て料理なんだ?」

「ハッシュドビーフっていうんだ」

「あきれた。ハッシュドビーフも知らないなんて……」

「これ、ハルキが作ったのか。すごい腕前だな」

「ありがとう。喜んでもらえてよかった」

「ビワ、ハッシュドビーフすき~」

「な。うまいよな。これからハルキの手料理が毎日食べられるなんて、夢のようだ」

「あいにく今夜だけよ。明日にはこの家から出てってもらうから」

「おいカヨコ、まだ怒ってるのか? 機嫌直してくれ」

「ビワ、オムライスも好き~」

「だよな。ビワはパパの作るオムライスが大好きだもんな」

「やっぱり食べたらもう出てって」

「それは困るぞ。あたしには帰る家がないんだ」

「だったら公園で寝れば」

「なあカヨコ、チチはパンテラ王国の王女なんだぞ。もう少し――」

「ハルキ、もう王女じゃないぞ。王家との関係は絶った。一人の平民として接してくれ」

「なんなの、この猿芝居は」

「ビワ、このおねえちゃん、知ってる~。立花ルリでしょ」

「ビワ、似てるけど違うぞ。チチっていうんだ」

「ビワ、あたしはチチ。ママって呼んでもいいぞ」

「ちょっと。うちの娘に変なこと教えないでくれる?」

「そうか、ママが二人いると、どっちがどっちか分からなくなるな。おいビワ、『カヨママ』と『チチママ』ってのはどうだ?」

「『カヨママ』と『チチママ』」

「ビワ、このおねえちゃんの言うこと聞いちゃだめよ」

「ビワはパパの作るチキンドリアも好きだよな」

「ビワ、チキンドリア大好き~」

「もう、うちの娘に構わないで」

「……なぜだ?」

「はあ? なぜ?」

「やめないか、二人とも。子供のいる前だぞ」

「言っときますけど一番悪いのはハル、あなたですから」

「くっ……」

「ビワ、公園に行きたい~」

「ああ、いいな。あたしも行きたいぞ」

「よし。明日、4人で浮舟公園に行こう」

「4人んん?」

「ビワ、公園でサンドイッチ食べたい~」

「わかった。パパがサンドウィッチ作るから、みんなで公園で食べよう」

「おー、それは楽しみだな」

「だんだん狂ってるのはわたしのほうかって、思えてきたわ」


 うららかな日曜の正午。ハルキお手製のサンドウィッチと水筒を携え、四人は徒歩で浮舟公園へと向かう。

 その途中、ハルキは隣を歩くチチに話しかけた。

「昨日からずっと気になっているんだけどさ……」

「どうやって『アイ』に来たのか、だろ?」

 ハルキはうなずき、

「だって確か、二つの世界を一人一往復しかできないはずだったよね?」

「ああ。だからバーバの力を借りず、自力でやって来た。≪亀裂≫を通ってな」

「≪亀裂≫?」

「バーバにしつこく訊ねたら、教えてくれたんだ。ハルキを召喚したとき、『サンラー』と『アイ』の境界に綻びが生じた。どこかに境界の≪亀裂≫があるはずだって」

 境界に綻びが生じたという話は、確かにバーバから聞いた。

「最初にハルキと出会った森に、出かけたんだ。森の中を何時間も探し回って、そのうち夜になって、真っ暗な森の奥でやっと≪亀裂≫を見つけたのさ」

「≪亀裂≫を通れば、誰でも二つの世界を行き来できるってこと?」

「たぶんな」

 ハルキが現れた森の中に『サンラー』側の≪亀裂≫があった。ということは、ハルキが消えた浮舟公園に、現実世界側の≪亀裂≫があるのかもしれない。

 ≪亀裂≫を通りさえすれば、二つの世界を自由に往来できる。

 バーバから『二度と戻ってこれぬ』と言われたが、もう一度『サンラー』の風景を眺めるのも、かなわない話ではない……。


 浮舟公園には野球場ほどの広さの人工池があり、その周囲を散歩道が巡っている。

 池の南側には、一面に芝生を敷いた広場。そのあちらこちらで、家族連れやカップルなどがくつろいでいる。

 ハルキたちも芝生の上で、はしゃぐビワを中心に、休日を楽しく過ごしていた。

「池を近くで見たいな」ふいにチチはそう言って、一人で水辺へと向かった。

 ハルキがその後ろ姿を見送っていると、

「行ってあげれば」カヨコがうつむいたまま言った。

「すまない」

 一足遅れて、ハルキはチチを追いかけた。

 二人は横に並んで水辺に立ち、池を眺める。

 物静かに釣り糸を垂らす男性。三脚を立てて池に対するカメラマン。マガモがスケーターのように水面をすべっていく。

 青空にふんわりと浮かぶ雲を見上げ、感慨深げにチチは言う。

「やっぱり、いいな。ずっと憧れていたんだ。『アイ』にやって来て、本当に良かった」

 二人は顔を見合わせ、互いに相好を崩した。

 しかしチチはすぐに表情を一変させ、

「ハルキがあたしを置き去りにして『アイ』に戻ったって知ったとき、世界が終わると思ったぞ」

「……ごめん……あやまるよ」

「こりごりだ。あんな思いは二度としたくない」

「悪かった」

「まあ、今回は許してやるさ」チチはハルキの腕を掴んで、「許すから、もう、あたしの前からいなくならないでくれ。ずっと一緒にいてくれ」

「……わかった」

「約束だぞ、ハルキ」

 チチは手を差し出す。ハルキはカヨコに振り向いた。距離が離れているので視線の向きまで判別できないが、カヨコの顔はこちらの方向に向いていた。

「カヨコか……」

 チチは残念そうな声をもらし、差し出した手を取り下げた。

 しばらく二人は黙っていたが、ついにチチは意を決したように、

「ハルキ」小声でささやく。「逃げよう」

 ハルキは反射的にカヨコを窺う。距離的に今の発言がカヨコの耳に入るとは思えないが、ハルキは気が気でなかった。

 チチは押し殺した調子で続ける。

「じつは昨日『アイ』に来たとき、決めていたんだ。まず、カヨコに同居を持ちかけてみる。それが無理なら、ハルキと二人で逃げる――って」

「チチ……」

「カヨコと一緒に暮らすのは不可能だ。もう逃げるしかない」

「逃げるって、どこへ?」

「『アイ』ならどこでもいい。前に言ったように、辺境でも構わない。頼むから、どこへでもあたしを連れていってくれ」

「今すぐ?」

「今すぐに」

「何も持たず?」

「持ち物なんて、どうでもいい」

「そんなこと急に言われても……」

「逃げるのか? 逃げないのか?」

「待ってくれよ」

「待てない。今決めろ」

「そんな……」

 チチはハルキの胸ぐらを掴んだ。引き寄せ、射るような眼差しで迫る。

「ハルキ、もしも一緒に逃げてくれないのなら、あたしは生きていても仕方ない。ハルキの手で、あたしを殺してくれ。一緒に逃げるか、あたしを殺すか、どっちか選べ」

 悲鳴。ガラスを打ち砕いたような。

 ハルキとチチは同時に振り向き、同時に仰天した。

 悲鳴を上げたのはカヨコだった。カヨコのすぐ後ろに、不吉な影。全身黒く長い体毛に覆われ、眼が「✕」の、悪魔を彷彿させる巨獣が――。

「ズー!」

 カヨコは立ち上がり、ビワに手を伸ばす。その腕を、獣の手がむんずと掴む。

 カヨコの足は芝生を離れ、虚空を蹴る。身体が引き揚げられ、ズーの顔の前に吊るされた。

 大口がガバッと開く。円環状に並ぶ、ギザギザの牙。

 しんとした空気を切り裂くように、カヨコの悲鳴がけたたましく響く。

 咄嗟にチチは地面を蹴り、飛び出した。丸腰で巨獣に突進する。

 それを見たハルキは周囲を見回し、

「武器……武器はないか?」

 逃げまどう人。遠巻きに見守っている人。そのとき目に入ったのは、グレーの作業服を着た初老の男性だった。離れたところに、電動草刈機を携え、立っている。

「カヨコを放せ!」

 チチは勢いのまま跳躍し、体当たりを浴びせた。だが巨体は大岩のごとく動揺しない。

 ズーは獲物を捕えたまま、もう片方の手をチチヘと伸ばす。チチは迫る獣の手をいなし、素早く足元に飛び込んだ。

「カヨコを放せ!」

 脚から垂れるズーの長い体毛を掴み、背負い投げの格好で引き抜く。

 獣の低い唸り声。獲物を握っていた指が開く。いきなり解放されたカヨコは乱暴に芝生へと落とされた。着地で足首をひねり、顔をしかめる。

 チチは後退しながら両手で手招きし、

「ズー、こっちだ」と誘う。

 ズーはカヨコから離れ、標的をチチヘと移す。大股で詰め寄り、毛むくじゃらの手を繰り出すが、チチは軽快に跳ね回り、かわした。

 一方ハルキは、電動草刈機を持つ男性の元へと駆け寄った。

「すみません。それを貸してください」

 息も荒く、ハルキは作業服姿の男性にすがり付く。

「どうして貸さにゃいかんのだ」

「説明している暇はないんです。失礼します」

 ハルキはお構いなしに、男性の商売道具をふんだくった。

 電動草刈機の先端に、円形のチップソー。高速回転する波型の刃は、チェーンソーに劣らぬ迫力を放っている。

 ハルキは武器を手に駆けながら、叫んだ。

「おーい、チチ! これを使え」

 チチが振り向いた。その一瞬の隙。発射されたオレンジ色の細長い舌が、チチの首に巻きついた。

 カメレオンのように獲物を捕えた舌は、胃袋へ放り込もうとたぐり寄せる。

 芝の上を引きずられるチチ。喉を絞められ、声も上げられない。足をばたつかせて抵抗するが、なすすべなく引き寄せられる。

 鋸歯が開く。おぞましい地獄の入口が目と鼻の先に迫った。

 咄嗟にチチは右手を伸ばす。獣の口を押さえようと――が、狙いを外す。

 少女の小さな右手は暗黒の洞穴へ、不用意に飛び込んだ。

 獲物を逃すまいと、素早くシャッターが閉じる。ハエトリソウのごとく。鋸歯が取り囲むように襲い掛かる。

 緊急脱出。……が、間に合わなかった。

 右手の五指も、掌も、まるまる飲み込まれ、怪物の体内へ没した。

 気丈にもチチは怯まない。先端からとめどなく血が噴き出す右腕を後ろに引く。断面から飛び出した手首の骨。その尖った骨を銛のように――撃ち込んだ。ズーの眼に。「✕」の中央、交差する一点に、骨が突き刺さった。

 ズーはパニックを起こし、チチの首をさらに絞り上げる。

「チチ!」

 ハルキが駆けつけたと同時。チチの両手両足がだらりと垂れ下がった。

 首吊り。生気が消えかかっている。

 ハルキの頭に血が昇った。

 電動草刈機を始動する。振り回し、首を繋いでいる長舌を断つ。どさっと、チチの身体が地面に墜ちた。

 一歩踏み込み、バックスイング。草刈機は巨獣の長毛を薙ぎ払った。脚が切り裂かれ、血しぶきが飛び散る。

 前のめりになるズー。無防備の首。薪を割るように、高速回転する刃を力任せに叩きつける。

 巨獣は首元から大量の血を流出させながら、池に向かって逃げ出した。

 よろよろと池に近づく。柵に足を引っ掛け、崩れるようにして水面に倒れ込む。クジラが飛び込んだほどの水しぶき。ズーは池に沈み、そのまま浮き上がることはなかった。

「チチ!」

 無反応。うつぶせに倒れたまま、動かない。無残に千切れた手首から、鮮血がこぼれ続けている。その上、頸が不自然にねじれているようだ。

 ハルキは頭がぐちゃぐちゃに混乱し、電動草刈機を握りしめたままチチを見下ろして、ただ呆然と立ちつくすしかなかった。


 総合病院の受付ロビー。ハルキ、ビワ、カヨコの三人が、長椅子に並んで座っている。

 午後七時半。受付は既に終了し、ロビーには三人の他に人影はない。院内はひっそりと静まり返っている。

 カヨコはズーの手から落下した際、足首に捻挫を負った。ただ、捻挫だけで済んだのは不幸中の幸いだった。

 チチは病院に救急搬送されたが、意識が復することなく、息を引き取った。ズーと格闘の末、敗れ、命を落としたのだった。

 医者からチチの死を告げられても、ハルキは涙を流さなかった。まるで現実感がなかった。陽気なチチと「死」が、どうしても結びつかなかったのだ。

 悲しいという感情が生じることもなく、ただ「無」になった。これまで経験したことのない、凄まじい虚脱感に見舞われた。

 放心状態で受付前の長椅子に腰をおろし、そのまま固着し、立ち上がれない。

 ――すべては悪しき方向へと向かっておる。

 現実世界へ戻る際に、バーバはそう語った。

 運命は坂を滑り落ちていた。止めようにも止められなかった。そしてついに底にまで達した……。

 カヨコは何を考えているのか、押し黙ったまま、ぼんやりしている。ビワは何度もあくびを繰り返し、かなり眠そうだ。

 ハルキは周囲が真っ白に閉ざされた霧の中にいる。この先どうなるのか、どうすればいいのか、まるで見通せない。

 動きだすことさえ能わず、無断に時間ばかりが過ぎていく……。

 廊下から足音。近づいてくる。

 やって来た、場違いな身なりの二人。そのうちの一人が手に抱いているのは――

 飛び起きるように、ハルキは立ち上がった。

 チチの亡骸を両手に抱えたドガ国王。バスタードソードを手に下げるブラー王子。

 二人はハルキの前で歩みを止め、振り向いた。二つの射るような視線が、ハルキへと集中する。

 ブラー王子は剣先をハルキに向け、

「貴様……」沸き上がる感情を抑えこむように言う。「『サンラー』にとどまるよう、頼んだはずだ。頭を下げてまで……それを……貴様は無視しただろう」

 視線を合わせられない。

「残された妹がどれほど苦しんだか、知っているか? 貴様がいなくなった日は一日中、泣き続けていた。その後は手がつけられぬほど暴れて、牢屋に閉じ込めるしかなかったのだ。それから落ち着いたと思ったら姿をくらまし、あげく妹は死んでしまった」

 ブラーは肩を震わせる。

「すべて貴様のせいだ。かわいそうな妹……」

 亡骸を抱いたままドガ国王が口を開く。

「おまえはチチを護れなかった。わたしの見立て通りに」

 めまい。立っているのがやっと。

「初めにチチから言い寄られたとき、なぜ拒絶しなかったのだ。おまえには妻がいる。子供もいる。あのときチチを強く撥ねつければ、こんなことにならずに済んだはずだ。おまえの曖昧な態度が、周囲のすべての人を不幸にしたのだ」

 苦しそうにハルキはこうべを垂れる。裁かれる罪人の心境だ。

「チチの死に、パンテラ王国の全国民が悲しみに暮れるだろう。チチとの結婚を何よりも楽しみにしていた婚約者のスターバックス皇子は、どれほど落胆することか……。のみならず『なぜ王女を護れなかった』と非難されるかもしれない。信用を失い、エクソダス帝国との関係も危うくなる。エクソダス帝国の後ろ盾がなくなれば、隣国に攻め込まれる可能性が高い。そうなればパンテラ王国は崩壊だ」

 ドガは手の中の亡骸を悲しげに見つめてから、

「おまえの態度、判断が、どれほど重いものか理解できただろう」

 ハルキは涙をこぼす。膝をつき、額を床まで降ろして、

「申し訳ありませんでした……」

 身を投げ出し、謝罪した。

「謝っても娘は戻ってこない。わたしは大事な宝を奪われた。代わりに、おまえの宝をいただいていく」

 剣先を突き出し、ブラーが迫る。ブラーはそのままもう片方の手で、無抵抗のビワの腕を掴んだ。

「ちょっと何するのよ!」

 引き離される娘へ、カヨコが手を伸ばす。その顔に、切っ先が飛んだ。

「あっ」

 カヨコは頬を押さえて屈みこむ。

「カヨコ!」ハルキは彼女の肩を抱き、「大丈夫か?」

 頬から離した掌が紅く染まっている。が、幸い傷口は浅いようだ。

「――ビワ」

 振り向くと、すでに人影はなかった。

 ドガ国王も、ブラー王子も、さらにビワまでも、掻き消えてしまった。

「ビワ?」カヨコはふらふらと進み出る。「ビワ……どこ? どこへ行ったの、ビワ」

 振り返り、青ざめた顔で、

「ハル……ビワは? まさか……連れ去られたの?」カヨコはハルキに詰め寄る。「いったい誰なの? あの人たち……。ハル、知っているんでしょう? 誰なの?」

 ハルキは答えない。

「どうして黙っているの……?」

 カヨコは泣きそうな顔を作り、スマホを取り出して、電話をかけようとした。その画面をハルキの手が覆い隠す。

「通報しても無駄だ。警察を呼んでも、どうにもならない。ビワは異世界に連れていかれたんだ」

 カヨコは大きく目を見開いた。

「何を言っているの? ハル……あなた変よ……異常だわ……」

 スマホが手から滑り落ち、画面がひび割れる。カヨコの手が、唇が、痙攣する。

「ビワはどこ……どこへ行ったの……ねえ、ビワ! ビワを返して! ビワを返して! ビワを返して! ビワを返して!」

 泣き叫んで暴れるカヨコの肩を押さえる。その手からこぼれ落ちるように、カヨコはくずおれ、気を失った。

 間もなく意識は復したが、カヨコはぐったりとして、口を閉ざしてしまった。

 タクシーを呼び、魂が抜けた状態の妻を乗せ、自宅に戻る。

 肩を支えて二階に登り、寝室で布団を敷いて、カヨコを寝かせた。

 救急箱を取りにいき、頬の怪我の手当てをする。切り傷に消毒液を塗りながら、

「カヨコ、責任はとる。必ずビワを連れて帰るから」そう伝え、妻の手を握った。

 カヨコは虚ろな眼を向けたが、何も返さなかった。

「ゆっくり休んで。おかゆを作っておくから、後で食べて」


 星空。上弦の月。浮舟公園に人影はほとんど見られない。昼間の騒ぎが嘘のように、公園は静まっている。

 再度『サンラー』を訪れるに当たって、何を持って行くか。さんざん迷った末、新しいスマホ以外は何も持ってこなかった。

 ズーが現れたときのために武器が欲しかったが、自宅にあるのは包丁かナイフくらいで、役立ちそうに思えず、やめた。

 チチは言った。≪亀裂≫を通って、こちらの世界にやって来たと。チチを殺したズーも、おそらく≪亀裂≫を抜けて、浮舟公園へと現れ出たのだろう。

 きっと浮舟公園内に≪亀裂≫はあるはずだ。ただ≪亀裂≫がどんな形なのか、何色か、そもそも視えるのか視えないのか、判らない。

 まず出だしの『サンラー』へ飛ばされた地点へと向かう。

 池の近く。確かこの辺りだ。スマホのライトで周囲を照らし、それらしい影を探してみる。光に照らし出されたのは、桜の樹、ベンチ、下草……。ごくありふれたものばかりで、非現実的な光景はどこにも見当たらない。

 それとも、やはり不可視なのか。空間に、見えない穴が開いているのだろうか。

 歩いているうち、偶然その不思議な穴を通り抜ける……気づいたら別世界に立っている……そんな風に事はうまく運ぶかもしれない。

 見えない穴を求めて、辺りをランダムに歩き回ってみた。残念ながら風景は変わらない。飛び上がったり、身を低くしたり、さらに歩き回る範囲を広げてみても、変化は起きなかった。

 こうなったら何時間もかけて、公園内を隈なく歩くしかない。いつか≪亀裂≫に行き当る幸運を願って。

 暗闇に沈む人工池に沿って、時計回りに進みながら、異世界への入口を探っていく。池をぐるりと囲む遊歩道。そこから分岐した小道。本当は入ってはいけない植込みの中まで。

 そうしてスタート地点まで戻ってきたが、得るものもなく、ただ池を一周しただけで終わった。さらに二周、忍耐強く続けたが、成果はなかった。

 池を囲む木製の柵に寄りかかって、星を仰ぎ見る。

 すでに≪亀裂≫は閉ざされてしまったのか。『サンラー』へ通じる唯一の道は断たれたのか。拉致されたビワはどうなるのか。

 他の誰にも頼れない。ビワを救い出せるのは、世界中でハルキしかいないのだ。ハルキが諦めたら、ビワは永遠に帰って来ない……。

 行こう。≪亀裂≫が見つかるまで、不眠不休で探し続けるんだ。

 再開。……あれは?

 桜の樹の前。それは唐突に現れた。間違いなく、さっきまでは存在しなかった。

 楕円形の光。人の顔くらいの大きさ。白色で、弱い明かり。胸の高さに浮かんでいる。

 近づくと、白光は波打っているように見えた。

 光の波間から何かが顔を出す。数珠つなぎの花。グラジオラスに似た。

 花弁、茎、葉……白光から完全に飛び出すと、葉を左右に広げ、鳥のように羽ばたいて、人工池の方へ飛び去っていった。

 花を見送ってから、楕円形の光に視線を戻す。光は収縮し、薄らいでゆくようだった。

 ハルキは慌てて片手を伸ばす。今にも消え失せてしまいそうな儚い残光に――閉まりかけた入口に――肘まで思い切り突っ込んだ。

 ……森。

「よう、出戻り」

 正面に立つゴツゴツした樹がせせら笑う。

 ガッツポーズ。自力での越境、成功。

 ふたたび訪れた『サンラー』は、前回とまるで印象が異なる。アブノーマルな世界は微笑ましいし、性格の悪い樹も妙に愛らしく見えてしまう。

「さあ、急ごう」

 ビワは城館の内部に囚われている可能性が高い。何はともあれ、王都セパルトゥラを目指す。

 最初に、セパルトゥラへと続く街道を見つけなければならない。それからなるべく迅速に、森を離れたい。

 森ではズーと遭遇する確率が高いからだ。

 武器を持ち合わせていないので、見かけたら逃げるしかない。万一発見が遅れれば、逃げ切るのは困難だろう。

 ズーに捕まったら、一巻の終わりだ。なにしろ助けにきてくれる人は、もういないのだから。

「おい、ビビリが通るぞ」

 悔しいが、言い返せない。樹の言うとおりだ。

 チチはカヨコを助けるために、丸腰でズーに向かっていった。臆することなく、勇猛果敢に怪物と闘った。

 そんな勇ましいチチと比べて……何という不甲斐なさ。腰抜け呼ばわりされても「はい」とうなずくしかない。

 こんな意気地なしが、囚われた娘をたった一人で救い出せるだろうか。

 身命を賭するだけの勇気が欲しい――ハルキは心の底から願った。

 相も変わらず植物たちから、うざったい妨害やら挑発やらを次々浴びながら、森を突き進む。

 と、道に出た。街道だ。予想よりスムーズに見つかり、ハルキは喜んだ。

 ただ、方角が判らない。正しい方向に進めばセパルトゥラに至るし、誤った方向に進めばセパルトゥラからどんどん離れていく。

「どっちに行けばいいんだろう」ハルキではなく、背後の樹が言った。

 ハルキは振り返り、

「教えてくれ。セパルトゥラがあるのは、どっちだ?」

 枝を動かし、樹は街道の右方向を差した。

「ありがとう」

 ハルキは礼を言って、街道を左方向へ進む。

「おいおい」樹は突っ込んだ。「天の邪鬼かよ」

 街道を歩き始めた途端、緊張がゆるみ、気が楽になる。そういえば前回はこんな場面で、ズーに襲われたのだった。

 まずい――思ったのと同時、突然横から大きな毛むくじゃらの手が伸びてきた。

 逃げる間もなくハルキは胴体を捕らえられ、自由を奪われた。すうっと身体が浮き上がる。正面に✕の眼。

 ……ほんの僅かな油断。後悔したところで仕方ないが、自らを呪う。

 今度ばかりは完全にアウトだろう。前回のように、助っ人が颯爽と現れるなんて幸運は望めないのだから。

 ✕。オマエハモウ、ダメダ。アキラメロ。

 オレンジ色の細長い舌がうねうねと伸びる。首に巻きつくのかと思ったが、舌先で顔面を舐めだした。

 ズーはグルメを気取って、食事の時間を楽しんでいるらしい。ただ胃袋に流し込むだけでは飽き足らずに。

 腹立たしい。こんな奴の餌食になって最期を迎えるなんて、まっぴらだ。

 長舌を手で払ったり、掴んだりして、抵抗する。

 神様。どうか救済を。どうかご降臨を。

 視界の端に影。空。飛来する。

 上空から地上へ――こちらに滑空してくる。高速度で。

「ルドン」

 ぐんぐん接近して来る。その姿は恐ろしくもあり、神々しくもあった。

「助けてくれ!」

 舞い降りた神の使いに手を伸ばす。六本垂れ下がるうちの一本の足に狙いを定めて。

 ヘリコプターから下ろされた縄梯子。頭上を通り過ぎる瞬間、力の限り抱きついた。

 するりと身体が引き抜かれる。脱出。

 獲物を横取りされたズーが、悔しそうに見上げている。こんなことなら、すぐに胃袋へ放り込んでしまえば良かったと。

 ルドンはふたたび上昇し始めた。眼下の森がどんどん遠ざかっていく。あまりの高さにめまいを覚える。

 どこまで昇る気か。にわかに不安が押し寄せる。怪鳥の足に両手を回して抱きついているだけなのだ。命綱はない。体力だって、いつまで持つか判らない。

 強い風に煽られる。引き離されそうだ。腕の筋肉がつる。

 ついに限界が――。

 急降下。ルドンが遠ざかっていく。森。樹頭。大地。いよいよ迫った。

 森に突入。樹の枝が伸びる。枝はロープのように脚に絡まり、ブレーキをかけた。

 落下の勢いは減じ、即死を免れる。が、地面に叩きつけられ、ハルキは気を失った。

 しばらくして、そっと目を開く。何とか起き上がれたが、今にも全身がバラバラに崩壊しそうだ。

 肋骨は折れている可能性が高い。内臓も危うい。肩、腰、肘、膝……体中のあらゆるパーツが損傷しているようだ。

 ここに救急車は存在しない。助けを求めて、歩き出す。十歩進んで、樹の幹に寄りかかり、休んでから、また一歩踏み出す。

「がんばれ」

 樹が応援してくれた。口の減らない性悪ばかりと思っていたが、案外性格のいい奴もいるらしい。

 植物の励ましに背を押され、前へ進む。風前の灯火。自分でもどうして歩けるのか、不思議だった。

 藪を抜け、小路に出た。ホッとして、途端、全身の力が一遍に抜ける。

 膝が折れ、崩れるように道に倒れ伏し、ハルキは意識を失った。異世界の、見知らぬ土地の、見知らぬ森の奥という、絶望的な場所で……。


 深夜の森。足を引きずりながら、歩いている。

 闇に浮かび上がる赤い✕の光。あちらこちらに。

 赤い✕の光はオランウータンの目だ。

 オランウータンは群がり、何か動物をむさぼっている。

 近づくと、動物じゃない。人間の幼子だ。

 赤い✕の目が、一斉にこちらを向く。

 逃げ出す。が、樹の根が足に巻きつき、転倒した。

 そこへ巨大ナメクジが降ってきた。体が押しつぶされ、身動きがとれない。

 ブヨブヨ様。ブヨブヨ様。われら崇め奉る。

 ブヨブヨ様。ブヨブヨ様。われらこの身を捧ぐ。

 ブヨブヨ、ブヨブヨ、ブヨブヨブヨブヨブヨブヨブヨブヨブヨブヨ……。


 覚醒し、汗だくの上半身を起こす。

 ――ここは?

 寝台の上から見回す。蝋燭が一本点るだけの、古ぼけた質素な部屋。民家だろうか。

「あら、目覚めましたか」丸い体の老婦人。横を向き、「あなた、『アイ』の人が目覚めましたよ」

 老婦人はハルキに向き直り、

「今から熱いスープを拵えますからね。ゆっくり休んでいてくださいな」

「……ありがとうございます」

 老婦人と入れ違いに、恰幅のいい老紳士が部屋に入ってきた。

 うっそうとした顎髭。強い眼光。粗末な着衣。

 老紳士は低い声で、

「怪我の具合はどうですか。わたしが回復の魔法で処置しておいたのですが」

 ハルキは自らの胴を触り、腕を曲げ伸ばしする。意識を失う前の全身の痛みが幻覚だったかのように、すっかり消えていた。

「大丈夫そうです。ありがとうございました。魔法ということは、あなたも魔術師なのですか? バーバさんのように」

「バーバはわたしの師匠です。申し遅れましたが、わたしはポオという者です」

 ポオ。サンラー転送初日、城へ向かう途中で、チチからその名を確かに聞いている(確かドトールの村の前を通ったときに)。

「多少の魔法は使えますが、魔術師と胸を張って言えるレベルではありません。わたしはしがない一農民です」

 ポオは照れ笑いを見せ、

「怪我を負ったあなたのことを教えてくれたのは、森の樹たちです。『人が倒れている』と、樹から樹へと伝わって、最後にこの家の前に立つ樹が、わたしに教えてくれたという次第です」

 良心的な樹ばかりの森に堕ちたのは、不幸中の幸いだった(それに魔法を使える人物が近くにいたことも)。

「ぼくは野村ハルキと言います。さっき『アイ』の人と言われましたが、どうして判ったのですか?」

「あなたの格好を見れば一目瞭然です。それにしても『アイ』からやって来て、森で倒れていたというのは、何か大層な事情がおありのようだ。スープができたら、食卓でお聞かせ願えませんか」


 木製の食卓。いびつな形と不揃いの脚。手作りに違いない。

 出されたのは、香辛料の入った豆と野菜のスープ。浮舟公園でサンドウィッチを食べてから何も口にしていなかったので、熱いスープはハルキの胃袋に染みた。

 ハルキはサンラーへ転送されたときから順を追って、今に至るまでを、老夫婦に話して聞かせた。

 チチの死は言うか言うまいか迷ったが、いずれ夫妻の耳にも入るだろうと、包み隠さず伝えることにした。

 婦人は相当ショックを受けたらしく、顔を両手で覆った。ところがポオのほうは意外と冷静に受け止めた様子で、

「姫さまは破天荒なお方だったから……そうなる運命だったのかもしれん」

 そう言って、黙祷を捧げた。

「ときどき思うんです。チチの運命を、ぼくが変えてしまったんじゃないかって」

 ハルキは目を伏せ、

「ブラー王子の言ったように、ぼくがサンラーに残っていたら、こんなことにならずに済んだのではないかって……ぼくのせいで、チチは死んでしまったのではないかって……」

「そんなに自分を責めないでくださいな」婦人が慰める。

 ポオは難しい顔で、口を開く。

「君がブラー王子の頼みを聞かず『アイ』へ戻ったのは、君自身の夢を実現させたかったからで、君は姫さまではなく君自身の夢を選んだ――そうだったね?」

 ハルキはポオにうなずいた。

 するとポオは諭すように、

「誰もが自分はこうありたい、こうなりたい、と願う。夢は必要なものだ。生きる希望となるからね。ただし夢に溺れてしまってはいけない。自分のことで手一杯となり、周りが見えなくなってしまう」

 ポオは腕を組み、沈思黙考してから、

「やはり君一人の力で娘さんを取り戻すべきだと思う。わたしから師へ直接頼んで取り成そうかとも思ったが、わたしは手を出さないほうがいいだろう」

「あなた、そんな風に言わずに、助けてあげれば良いじゃないですか」

 すかさずハルキは婦人を手で制し、

「いえ、ポオさんのおっしゃる通りです。これはぼく自身の問題です。ぼくだけで解決しなければならない問題なんです」

 ハルキはポオの眼をまっすぐに見つめて言う。

「覚悟を決めました」


 早朝。出立するハルキを、老夫妻が見送りに出る。

 ポオはハルキを激励すると、付け加えて、

「せっかくだから、君に餞別を送ろう。何か必要なものはないか?」と訊ねた。

 ハルキは少し考え、

「ではお言葉に甘えて……香辛料をいただけますか。コショウや唐辛子のような刺激の強い香辛料を、なるべく多く袋に詰めていただけると助かります」

「あるにはあるけど……また妙なものを欲しがりますね」

 ポオは怪訝そうな婦人の肩をたたき、

「まあ、いいじゃないか。『ハバサビ』を持ってきてあげなさい。壺にいっぱい入っているだろう」

 とびきり刺激が強いぞ、と渡された『ハバサビ』という名の香辛料。黄色い粉末で、危険な雰囲気を醸している。匂いをかぐと、それだけで咳き込み、涙がぼろぼろこぼれた。

『ハバサビ』がたっぷり詰まった麻袋を腰に下げてから、ハルキは老夫妻に謝意を示し、別れを告げた。

 思い立って、昨夜倒れた森に立ち寄り、命の恩人である樹々にもお礼を言った。すると樹々からも応援され、ハルキは意気揚々と城を目指し、歩き出した。


 城門にたどり着いた。チチに連れられ訪れた際、一番初めに出会った衛兵――短身で恰幅のいい初老の兵士が一人、槍を手に立っている。

 近寄るハルキに気づいた老兵士は、槍の先端を向け、

「あんたを通さぬよう、国王陛下から仰せつかっておる。もしも無理に通ろうとするなら、槍を突き刺して構わぬ、とも」

 尖った刃先は心臓を狙っている。それでも意外と冷静で、さほど恐れは感じていなかった。

「失礼します」

 ハルキは丁寧に一礼し、腰の麻袋に手を突っ込んで、一掴みした『ハバサビ』を老兵士の顔面に浴びせる。

「ぐおっ! 眼が……」

 顔を押さえる老兵士に「すいません」と謝りつつ、ハルキは城門を突破した。

 門を通ってすぐに現れた兵士にも、目潰し香辛料をぶつけ、怯んだ隙に逃げる。

 石畳を蹴り、城館へ。鬼気迫るオーラを発しているらしく、通りを歩く人たちは避けるように道を空けた。

 前方から兵士が駆けてくる。振り返ると、後方からも一名。左右に逃げ道はない。ハルキは前へと突進し、兵士と対する。

 喉を目がけて突き出された槍。自分でもびっくりするほど鮮やかにいなし、香辛料爆弾を投擲した。

 苦しむ兵士を一瞥し、ふたたび城館へとひた走る。

「ビワ、パパがいま助けてやるからな」

 駆け抜けるヒーロー。突き動かす使命感。

 自分の過ちは自分で解決しなければならない。誰からの助けも借りず、一人で何とかしてみせる。

 曲がりなりにも、一家族を擁する父親なのだから。

 ビワ……今までごめん。パパが間違っていた。

 浮舟公園で小説を書くようになったのは、家でビワに邪魔をされるからだった。

 もっと娘に優しく接すればよかった。娘の尊さに気づくべきだった。

 あのときは夢に没頭して、周りが見えなくなっていたのだ。自分の世界に閉じこもり、偏狭になっていた。

 逃げている――カヨコはそう言った。確かに逃げていたのだろう。今となっては、否定できない。

 カヨコにも謝らなければいけない。ビワを救い出し、また家族三人で楽しく過ごそう。

 顔の横を何かが掠める。前方に落ちたそれは、矢だった。後方から放たれたに違いない。

 すれすれ。生きるか死ぬか瀬戸際を走っている。戦場さながらに。

 出しぬけに横の建物から長身の兵士が飛び出した。かわしきれず、腕を掴まれる。石畳の上に倒され、そのまま組み伏せようと、兵士が覆いかぶさってきた。

 醜い顔が迫る。すかさず麻袋に手を突っ込み、そのギラギラした両目に『ハバサビ』をダイレクトに擦り込んだ。

 兵士は悲鳴を上げ、飛び退いた。が、こぼれ落ちた『ハバサビ』がハルキの顔面までも襲う。

「しまった!」

 だらだら涙を流しながら、ハルキは死に物狂いで逃げ出す。

 死なないぞ。死んでたまるか。ビワを救い出し、現実世界へ送り届けるまで、生き続けてやる。

 狭い通りから飛び出した。広場だ。町の中心に置かれた広場。

 広場の中央付近まで走り、そこで足を止める。突っ切って、城館へ続く向かいの細道に入ろうとしたが、兵士が封鎖していたのだ。

 見回し、他の道を窺う。どの道も兵士が通せん坊している。たった今走り抜けてきた道からも、数人の兵士が追ってきた。

 逃げ道を失い、広場の真ん中で立ち往生となる。麻袋を確かめると、『ハバサビ』は残りわずかだった。

 その間に続々と兵士が現れ、ハルキを取り囲む。

 包囲。ハルキを中心に据えた兵士たちの輪が、みるみるうちに狭まっていく。

 皆が皆、鋭利な槍先を中心に向けている。このまま輪が縮まっていけば、最後に、ハルキの体は全方向から串刺しにされるだろう。

 処刑の槍が近づく。ハルキは麻袋を投げ捨て、両手を高く挙げた。

 首の後ろに衝撃。脚から崩れ落ちる。真っ白。意識も、気力も、希望も、何もかも飛び去った。

 作戦失敗。大胆な企ては、ここで潰えた。救出はおろか、娘の顔さえ拝めずに。

 ビワ、ごめん。カヨコ、ごめん……。


 気づくと、石畳の上に横たわっていた。拘束された手足。起き上がることもままならない。

 広場の中心で卒倒したまま、捕縛されたようだ。

 忌まわしい頭痛。釘を打ち込まれたような。今にも嘔吐しかねない、最低の気分だ。

 背後から足音が近寄る。兵士たちの顔つきや態度から、誰が来るか知れた。

 ハルキの視界に回り込み、ドガ国王とブラー王子は立った。

「まさかここまでやって来るとはな」ドガは呆れて、「てっきりバーバのもとへ行って、助けを求め泣きつくだろうと踏んでいたが」

「哀れな奴め」ブラーは鼻で笑う。「城館にたどり着けると、本気で思っていたのか?」

「我が軍も甘く見られたものだ」

「ただの間抜けですよ、こいつは」

 忿怒。ハルキにとって未体験の、猛烈な憤りだった。

「卑怯だぞ。娘は関係ないじゃないか」

 ドガの後ろに立つ、将軍と思しき荒々しい風貌の男が進み出て、

「国王陛下に向かって卑怯とは失敬千万。今すぐ首を斬り落としてくれる」

 剣を握ったところで、ドガが荒くれの肩に手を置き、制した。

 ドガは淡々とした調子で、

「愛娘を奪われた親の心情を思い知ったか」

「それとこれとは違う。娘をどうするつもりだ」

「王家に迎え入れた養子として、手厚く育てていく。ゆくゆくはエクソダス帝国へ嫁がせる計画だ。決して悪い話ではない」

「娘を一生『アイ』に戻さないのか」

「遅かれ早かれ娘は親元を離れて暮らすものだ。遠くから暖かく見守ってやるのが、親の務めだろう」

「冗談じゃない」

 ドガは目を細めて、

「命だけは助けてやる。さっさと『アイ』へ帰れ。金輪際サンラーに足を踏み入れるな」

「嫌だ。娘を置いて帰れるか」

「帰れ」

「娘を返せ」

「断る」

「娘を返せ」

「却下だ」

「娘を返せ娘を返せ娘を返せ娘を返せ娘を返せ娘を――」

 進み出たブラーの爪先が、横たわるハルキのみぞおちに刺さった。ハルキは呼吸困難を起こし、苦悶の表情で喘ぐ。

「黙れ」ブラーは冷然と言った。

 しばらく何か考えを巡らせていたドガ国王が、ブラーに耳打ちする。

 ひそひそと二人で話し合い、うなずき合ってから、ハルキに向き直る。

 ドガはハルキを指差し、

「そんなに娘を返して欲しいなら、おまえにチャンスを与えてやろう」

 ハルキは地面からドガを睨む。

「決闘だ。今からここで。対戦相手はブラー王子が務める。闘いにおまえが勝ったら、娘を返してやろう。ブラー、いいな?」

 すました顔で首肯するブラー。

「両者には剣を持ち、対決してもらう。……確かおまえは剣術の達人だったな。その華麗な剣技を見せてもらおう。ブラーは、去るクローネンの戦いにおいて、魔王と恐れられたバーグ将軍の首を討ち取った英雄だ。相手にとって不足はないだろう」

 ドガの口ぶりから判る。ハルキが剣術の達人だと、露ほども思っていない。そんなことは承知の上で、話を持ちかけたに決まっている。

 これは決闘ではない。処刑と娯楽を兼ねた見せ物だ。

「言っておくが、おまえに拒否権はない。さあ、あいつの縄をほどいてやれ」

 手足を解放され、ハルキはふらふらと立ち上がった。釘を打ち込まれたような頭痛は、未だ引いていない。

 いつしか広場に詰めかけた大勢の住民たちが、ぐるりと取り囲んでいた。皆、一様に目を輝かせている。王子が『アイ』の人間を倒す場面を期待しているに違いない。

「これを使え」

 荒くれの将軍がショートソードを投げて寄越した。高い音を響かせ、剣は石畳の上で跳ねた。

 ハルキは足元に転がる剣をぼうっと見つめる。

「どうした。怖気づいたか。もう逃れられんぞ。さあ、剣を拾え」

 ゆっくりと膝を曲げ、剣を拾い上げる。顔の前にかざしてみた。

 だがハルキには、それが土産物店で売られているレプリカの剣としか映らなかった。輝きが見出せず、切れ味など望むべくもない。

 一方ブラーには、見るからに強力なバスタードソードが手渡された。おまけに頑丈なプレートメイルを纏っている。

 ハルキに与えられたのはショートソード一本のみで、防具は一切ない。身につけているのは、防御力などまるでない無印良品のTシャツだ。

 1パーセントの勝ち目すらない。きっとこの場の誰もが、ブラー王子の勝利を確信している。当のハルキでさえ(ブラーが勝つに決まっている)と思った。

 噛ませ犬。ハルキは今、ヒーローものに登場する悪役だ。ヒーローに倒されることで観衆を喜ばせる、そういう役回りなのだ。

 定めし『アイ』から来たハルキを倒すことで、パンテラ王国の威光と、サンラーが『アイ』に優っているところを示す腹積もりなのだろう。

 要するに、利用されているというわけだ。

 兵士たちが下がり、決闘のためのスペースを空ける。ハルキとブラーは10メートルほどの間隔で向き合い、そのあいだに立会人として、ドガと荒くれ将軍が陣取った。

 決闘の舞台が整い、群衆の視線を一斉に浴びた瞬間、ハルキは震えだした。誰の目にも明らかなほどの、凄まじい震えに包まれた。

 死ぬ。死んでしまう。ビワの救出を果たせぬまま。

 パーフェクトなムダ死に。あまりに惨めな最期。

 ……だが、それでいいのか? 一体何のためにここまでやって来たんだ? 

 これにてオシマイ、で済まされるのか?

 どうせ死ぬのなら、意味のある死に方で終えなければならない。死んだ後に何かを残さなければいけない。

 使命。死にゆく自分に課された――

「さあ、準備はいいか? わたしの開始の合図で始めるように」

「待ってください」

 ドガへと発したハルキの声に、全員が振り向いた。

「なんだ」

「ルールの変更をお願いします」

 突然の嘆願に観衆は驚いたり、訝しんだり、にやついたり……。

 翻ってドガとブラーは顔色一つ変えない。

「どう変更したい? 言ってみろ」

 そのとき、ふと気づいた。ハルキの体の震えが、いつしか止んでいたことに。

 吹っ切れた。もう恐れない。

 ハルキは胸を張って、言う。

「ぼくが勝ったらではなく、負けたら、娘を『アイ』に返してください」

「なんだと? それはつまり――」

 ドガは言葉を切り、ブラーへと目配せする。

 二人のあいだで、無言の話し合いが交わされた。

「わかった。いいだろう。そのルールを呑もう。これで問題ないな?」

 ところがハルキは首を横に振る。

「いいえ、まだ駄目です。確約がほしい。ぼくが闘いに敗れたとき、娘を間違いなく『アイ』に戻すという確約が」

 眉を吊り上げ、苛つく国王。

「こいつめ。言わせておけば」荒くれ将軍が凄んで、睨みつける。

 周囲に緊張が走る。それを解くように、しゃがれた老人の声が上がった。

「請け合うよ」

 バーバだ。観衆のあいだからひょっこりと、老魔術師が姿を見せた。

「お前さんが死んだら、娘は必ず『アイ』に戻してやるさ。約束する」

 バーバの言葉に恩義を感じ、ハルキは深々と頭を下げた。

 交渉成立。後はやるだけだ。

 深く息を吸い込む。目を閉じ、集中力を十分に高めてから、対戦相手と向き合う。

 柄を握り締め、ブレイドを持ち上げて、剣を構えた。

 見よう見まね。ファンタジー映画で見た騎士を思い起こして。

 対峙するブラーは、構える気配がない。剣をだらりと下げ、静かにハルキを窺っている。

 ドガは両者を見比べて、いよいよ開始の合図を告げんとする。

 静まる観衆。背筋を正して見守る兵士たち。

「ビワ……カヨコを……ママを頼んだぞ」

 合図。高らかに。

 ハルキの咆哮が広場に響き渡る。

 全身を震わせるほどの、烈々とした雄叫び。

 石畳を蹴り、ブラーへ。まっすぐに猛進。

 ブラーは剣先を下げたまま。悠然と迎え撃つ。

 ハルキは勢いに乗って、大きく飛び上がった。

 海老反り。空中で剣を高々と振り上げる。

 瞬間――チチと重なった。

 チェーンソーでズーの首を切り落としたときのチチと。

 奇跡を目の当たりにした観衆たちが、驚嘆と畏怖の声を上げる。

 チチの魂が乗り移り、能力の限界をはるかに飛び越えたハルキは、乱暴に剣を振り下ろす――。


 ………………


 …………


 ……


 有澤アリス先生、お疲れ様です。

 有澤先生の新刊『ラッコのケーキ店は今日もてんやわんや』の重版が決まりましたので、お知らせします。

 前作同様、全国の書店から「売れている」という報告が続々届いています。

 読者にも大変好評です。もうすでに「早く次回作が読みたい」という声まで、頂いていますよ!


「お母さん、支度できたよ。桜、見に行こう」

 ダイニングでスマホを見ていたカヨコは顔を上げ、

「ああ、ビワ。ちょっと待ってくれる? 今、メールが来たから」

「メールって、誰から?」

「担当の郷田さん。新作の『ラッコのケーキ店』が売れてるって」

 ビワは目を丸くし、

「え、すごい! お母さん、売れっ子作家だね。クラスのみーなちゃんも、お母さんのファンなんだよ。今度、本にサインしてほしいって」

「お安い御用よ」

「わあ。みーなちゃん喜ぶよ、きっと。今度うちに連れてくるね」

「どうぞどうぞ。チョコレートケーキ作るから、みんなで食べましょう」

「たのしみ!」

 ビワは小躍りしながら、くるりと一回りしてみせた。

「何よ、それ」カヨコが突っ込み、親子で笑いあう。

 それから、ふいに、ビワが言った。

「ねえ、お母さん。お父さんも作家になりたかったんだよね」

 カヨコはビワを見つめる。

「……うん。そうだった」

「お父さんは喜んでいるかな。お母さんが作家になったこと」

「そうね……喜んでいるかもしれないし、悔しいって思ってるかもしれないね」

 そう言ってから、カヨコはふっと息をつき、

「あれからもう六年か……」と、ひとりごちた。


 浮舟公園の桜は華やかだった。水辺に立ち並ぶ桜の花が、額縁のように池を囲んでいる。

 遊歩道を行き交う多くの人々。桜の花びらが賑やかに舞っている。

 ビワはすっかり浮かれて、跳ねるようにスキップを踏む。 明るく快活に育った娘の後ろ姿に、カヨコは顔をほころばせた。

 ――あれから六年。ハルキは一年後に失踪宣告を受け、死亡が確定する。

 カヨコの母親はしきりに「今のうちにいい人を見つけなさい」と再婚をすすめてくる。

 だが、カヨコにその考えはなかった。

 娘と二人だけの生活が、思いのほか楽しく、気に入っているのだ。

 もちろん母子家庭の苦労はそれなりにあるが、幸福感のほうが優勢だった。

「お母さん、写真撮ろう」

 満開の桜の前で、親子並んで自撮りする。

 桜の花で埋めた背景。前面に、頬を寄せ合う母娘の笑顔。

 二人はスマホの画面を覗き込み、写真の出来映えを確認してから、顔を見合わせて笑った。

「次はビワだけ撮ってあげる。どこで撮ろうか」

 見回すと、妙な光景が目に飛び込んだ。

 桜の樹の上。宙に浮かぶ、楕円形の白い光。

 周囲の人も不思議な光に気づき、各々スマホのレンズを向けている。

 あれは何かと不審に思ううち、光の中心から黒い獣が飛び出した。

 獣? ――違う。手だ。大きな毛むくじゃらの手。

 間髪を容れず、巨大な全身が出現する。黒い長毛に覆われた怪物。悪魔じみた風貌に、怖気を震う。

 不気味な✕の眼が、カヨコとビワに照準を合わせる。

 カヨコはビワの手を掴み、逃げ出した。直後、ビワが転倒し、急停止する。

 足を取られた。ビワのか弱い足首に、オレンジ色の細長い舌が縄のように巻きついている。

 ズーは釣った獲物を引き寄せる。すかさずカヨコはビワの手を固く握り、もう一方の手をベンチの脚に引っ掛けた。

 手と足を双方向から引かれ、ビワが泣き叫ぶ。カヨコも細腕で必死に堪えるが、女性の力では及ばず、ベンチの脚を手放した。

 二人まとめて、地獄の入口へと引きずられる。カヨコは絶望的な悲鳴を上げた。

 爆音。黒い影の背後から。

 ズーの舌の動きが止まる。難を逃れたカヨコは、地面に倒れたまま顔を上げた。

 脚を折り、力なく座り込んだズー。真っ黒な壁となって。

 爆音が響き、壁を突き抜け、飛び出したのは――高速回転する刃。弧を描きながら上へと進み、怪物の胴を切り裂いていく。

 半円を描いたところで、今度は下に降りる。さらに半円を加え、一周してスタート地点に戻ったところで、高速回転する刃は引っ込んだ。

 ズーの黒い胴体に記された赤い円。その円が少しずつ前へせり出してくる。

 丸く切り取られた肉塊が、完全に飛び出て、ぼとりと落ちた。ズーの胴には、マンホール大の風穴がぽっかりと開いている。

 穴の向こう側から、顔が覗いた。その顔には、ウェリントンタイプの眼鏡が。

「ただいま」

 笑顔で、手を小さく振っている。

「ハル……」

 カヨコは目を見張り、立ち上がった。

「お母さん?」

 足に絡まったズーの舌をほどき、ビワも起き上がる。

 地響きをたて、風穴の開いた黒い壁は後ろへ崩れた。拍子に桜の樹が揺さぶられ、花びらが豪勢に舞い散る。

 大量に降り注ぐ桜の花びらを存分に浴びながら、ハルキは仕留めたズーの肩に片足を載せ、朱色のチェーンソーを天へと突き上げた。

 六年ぶりに再会した夫のもとへ、カヨコはゆらゆらと歩み寄る。まるで亡霊を見るような顔つきで、

「ハル……あなた……」

 言葉を失った妻に、ハルキは、はにかむ。

 それから獣の血と桜の花にまみれたチェーンソーを手に提げたまま、

「もう死んだと思った? まだ死ねないよ。住宅ローンがたんまり残っているしさ」と、おどけるのだった。

 


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イセカイバッドドリーム エキセントリクウ @RikuPPP

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