第二分章:第一次布哇沖海戦
前説:第一次布哇沖海戦(序)
1942年1月上旬における第一次ベンガル湾海戦、すなわちイギリス海軍の東洋艦隊が潰滅した事実は大きかった。向こう七年から十年はイギリス海軍がインド洋に張り出してこれないのは確定であり(厳密に言えば、それは間違いであったのだが、それでも大きく連合軍の戦争計画に齟齬が生じたのは紛れもない事実である)、陸軍もマレー沖どころかインド洋にまで制海権を得たことを海軍から確認したことにより北ビルマの解放作戦を開始すると共にある特殊作戦を開始した。
今なお有名な国際鉄道である、「大陸打通鉄道」の発足である。
ルートとしては旧シンガポールこと昭南島の対岸、すなわちジョホールバルから始まり、バンコクことクルンテープ・マハーナコーンやアンコールワット、サイゴンなどを経由し、その後支那海岸などを走って台湾の対岸や奉天や新京を経由し、最終的には釜山まで続く、大規模な土木工事であった。無論、伊達や酔狂でそんなことをしているわけではない。彼達には、彼達の目算が存在した。
と、いうのも、陸軍はかねてより海軍の輸送能力に不信感を抱いており(一応記述するが、諸説ある中で一番の有力説として挙げられるのがそれなだけであり、陸海の相互憎悪はなにも日本軍だけではないということは彼達の名誉のため記しておく)、自分たちの護衛環境である陸上鉄道による資源輸送のためという名目で作られたものである。戦後、世界一の国際鉄道として大日本帝国鉄道省が運営し、漸次運営を大東亜共栄圏へ委譲することが決定された今なお有名な「あじっぱ頸動脈鉄道」と称される鉄道事業の前身となるのだが、それを知る者はまだ誰も居ない。
話を戻そう。この「大陸打通作戦」、後の「あじっぱ頸動脈鉄道」発足のための大規模工事だが、当初の予定よりも素早く完成することとなる。理由はいろいろ存在するが、一番大きな理由として挙げられるのは現地民の協力的態度と、華僑などの反日分子から資金を供出させることに成功したことであろう。なぜ、反日分子であろう華僑が資金の供出に応じたのか? 今なお、学会で紛糾しているこの諸問題だが、非常に大きな理由として存在するのが、帝国陸軍の軍紀が非常に厳粛であったことが挙げられる。次に挙げられるのが、汪兆銘達国民党政府が華僑へある話を持ちかけたことが大きいとされているが、その機密文書はまだ公開時期が迫っていないので、見ることは難しい。
なんにせよ、満州鉄道から泰緬鉄道に至るまでの大陸鉄道計画は、後の通商破壊作戦に対抗する有力な手段として作用するわけで、陸軍が慧眼であったと言えるかも知れない。……まあ、結果論なのでなんとでも言えるのだが、それは言わないお約束だ。
さて、この大陸鉄道計画が実行に移されたのは、第一次ベンガル湾海戦の戦闘詳報が伝わった結果であるのだが、この鉄道計画はルーズベルトの血圧を上げることになる。理由は不明だが、奴儕は大日本帝国が栄えることがよほど気に食わなかったのだろう。今でこそ、最大戦犯として数えられるフランクリン・ディラノ・ルーズベルトだが、度し難いことに当時の合衆国では英雄扱いされていたらしい、お里が知れるとは正にこのことである。
そして、アメリカ合衆国太平洋艦隊は布哇沖を「奪還」するために進軍したのだが……。
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