第一章:1941年12月~1942年1月の大局

第一分節:ヒノデハミヤザキ

2601年12月のことである。御前会議の結果開戦は確定となったものの、その前に彼らは何かを行い始めた。結果的には最上級の上策となったものの、御前会議の数日後、開戦の数日前に行ったその発表は、最後通牒でもなければ宣戦布告でも無かった。大日本帝国首脳部はヤケでもおこしたのか、あるいは常人には計り知れない神算鬼謀を秘めていたのか、なんとアメリカ合衆国との交渉状況とその結果を発表したのだ! いわゆる、「ハル・ノート暴露事件」であるが、なんとこの発表は後にアメリカ合衆国の弾劾を行うに当たって、非常に効果的に作用した。発表した本人も「まさかここまで効果が出るとは思わなかった」と語ったほどなのである、その力価や推して知るべしであった。

 そして、開戦の日取りは山本五十六が暗殺された事によって布哇奇襲作戦は廃案、順当に軍艦大和の完成を待って行うこととなった。日付としてはで12月13日の15時を以てとされたが、最初に攻撃することとなった基地は、布哇でもなければ呂宋でもなく、なんと……。


「メーデー! メーデー! 此方ガトゥーン閘門守備部隊!

 奴ら、こんなところにまで忍び込んでおりました!

 演習!? 何莫迦なこと言ってんですか!」

 廃案となった布哇奇襲作戦の中で採用とされた数少ない材料は、日曜日の奇襲作戦であった。そして、12月14日は現地では日曜であり、宣戦布告の数時間後にはパナマ運河が急襲を受けた! 通称、「パナマ運河強襲海戦」である。

 とはいえ、貴重な航空母艦を可惜博奕の如く使い捨てる、奇襲と銘打っただけの投機的な愚策ではない、長駆隠密裡に移動させ続けた伏兵……爆弾を積んだ水上機によるパナマ運河三カ所の閘門を同時攻撃するというものであった。即ち、どこか一カ所でも破壊されたら使用不能であるパナマ運河の欠点を衝いた、的確にして布哇奇襲作戦などよりもよほど楽な戦であった。

 この強襲作戦(とはいえ、半ば奇襲じみた作戦であったという証言が残るほど合衆国軍は無警戒であった)によってパナマ運河は向こう数年は使用が不可能となって合衆国海軍は太平洋艦隊と大西洋艦隊の相互援助が困難となった。


 そして、奇襲作戦が決行されたのはパナマ運河だけではなかった……。


「あ、あいつら、どこから湧いてでやがった!」

「怯むな、撃てっ、撃てーっ!!」

 12月14日に合衆国軍が受けた「奇襲」はパナマ運河だけではなく、なんとホワイトハウスに届けられた報告書の日付が12月15日に変わるまでに、即ちほぼ同日に十指に余るほどの基地が攻撃を受けていた。その中でも、ホワイトハウスが驚愕した「奇襲」とは……。


「合衆国本土が攻撃を受けた!?」

「どこだ、まさか東海岸ではあるまい」

「そ、それが……」

 ……シアトルが一時的にとはいえ「舎路」という地名で記述されている地図があるのは、大日本帝国軍が占拠したからである。

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