遺影_7

 八月三十一日。今日もサッカー部の練習は二時に終わった。夏休みの間、熱中症で倒れることのないようにという学校側の配慮だった。片付けや着替えを終えて三時、僕は一人教室に行きロッカーからビニール袋を取り出した。明日が始業だからなのか、ドアには鍵は掛かっていないようだった。ドアについているガラス窓から見る教室は、生き物の居なくなった水槽のようでやけに寂しかった。

 サッカー部の部室は空いているけれど、他にどこか腰を落ち着けて作業のできる場所がないか探した。春先には女子生徒がよく座っていた中庭のベンチなどにも行ってはみたが、遺影を作るには陽が当たりすぎているような気がした。中庭から校舎を見渡すと二階の隅にある美術室が見えた。窓の外の手すりにはボロボロの雑巾ぞうきんが掛けてある。風に揺れる動きの鈍さから洗いたてだろうと思った。誰か居る予感がした。

 校舎に戻り階段を上ったけれど、外から見て想像した位置に美術室は無く、学校の広い廊下を抜け出せずにしばらく彷徨さまよっていたが、ようやくたどり着いた。部屋を覗くと人のいない教室に蛍光灯だけが点いていた。ベッドのような大きさの木の机が八つ、黒板に最も近い机には錆び付いた十円玉のような色をした女性の像が立っていた。服は着ておらず、社会の教科書に載っている原人のイラストに似ていた。二の腕から下は刃物で切られたように鋭利に失われ、骨盤から下は逆にもぎり取られたように終わっていた。乳房は押しつぶされたように平べったく、へこたれている。何人もの子供に授乳し育ててきたのかもしれないと思わせるリアリティーがあった。だからこそ四肢の断面が異様で、血溜まりがイメージされた。

 扉をスライドさせ、中に入る。冷房が効きすぎているのか、汗ばんだ肌は鳥肌立った。黒板に背を向けるように女性の対面に立つ。左右の胸の大きさに差があるのが不思議だった。見つめ合うようにじっと見ていると、黒板の横にある準備室のドアが大きな音を立てて開いた。振り向くと白髪を撫でつけるように分けたおじいさんが立っていた。青いデニムのエプロンはカラフルに汚されていた。

「まだ展示には早いのになぁ。恥ずかしい」

 張り付いたような笑顔がメイクを落としたピエロのようだった。ゆっくりと歩いて僕の横に立つ。

「始業日を一日間違えちゃった?」

 言葉の全てが心の内から出たものではないような感じがした。冗談にも激怒にもとれる冷たい声のトーンだった。

「勝手に入ってすみません。夏休みの美術の課題が終わっていなくて。もっと早くにやっておけばよかったのに」

 手に提げた大きな袋を見せるように言うと、

「美術の課題なんてあったかなぁ、僕が出してないから無いんじゃない。今の中学生は美術なんて必要ないみたいだからさ、あれ? 僕出したっけ」

 文具屋ではこの言い訳でいけたから、これしか用意していなかった。軽はずみな言葉だった。

「まあ、何か作るならここで作っていって良いよ。道具も使って良い。僕は僕で作業してるから、飽きたら帰れば良い」

 僕は女性の像が置いてある一つ後ろの机に荷物を置いた。噓をついたことに怒るわけでも許すわけでもない態度が誰より冷たかった。

 文具屋の店員が描いた簡単な設計図のメモを机に置き、材料を並べる。サイズ通りに切ってもらった棒切れが四本。白い木の板とプラスチック板、スタンドにするために買った木の板、木工用ボンドを無造作に並べる。

「写真立てかい、彼女がもうすぐ誕生日かな」

 一つ離れた机で作業する爺さんが揶揄からかうように言った。まだあの笑顔のままだった。

「彼女にじゃないです。遺影です、これは」

 噓をつく意味がないと思った。正直に答えた。

「へぇー、遺影。犬でも死んだのかい」

「犬じゃない、人に。人が死んだわけじゃないんですけど」

「死んでない人に遺影を作るの?」

 完成されたように一定が保たれていた顔を崩し、目尻や額を皺だらけにして笑っていた。

「クラスメートの、まだ死んでいない女子の遺影です。可笑おかしいですか」

 相手の上がったボルテージの分だけ、僕は冷たく言った。

「可笑しくないよ。死んでほしいヤツっているよなぁ。いるんだよ僕も、受験指導のヤスイくんとかさぁ」

 夏休みの最初、リュウが英語の夏期補習に引っかかり、英語のヤスイ死ねばいいのになと言っていたのを思い出した。

「死んでほしいヤツのために、そんな綺麗な板買ってバカだなぁ。僕なら食べ終わった駅弁の箱で作ってやるけどなぁ」

 僕は倫理と道徳のない言葉で笑えないたちだった。けれどあまりに笑って言うものだから、作り笑いで紛らわせた。クラスメートの生きている女の子の遺影を作っていると伝えれば、大人は僕を𠮟り、正すと思っていた。怒るどころか笑われるというのに救われた気がした。正されるべきという自意識の裏返しだったのかもしれない。それ以上話すこともないように思えたので机に向き直り、作業を始めることにした。家から持ってきておいた、最後に使ったのが何時なのかも分からない絵の具セットで木片を黒く塗る。木片は水けが良すぎるのか、すぐに水分がなくなり黒い絵の具は伸ばしづらかった。木片に直接絵の具を載せるように色を塗っていく。少しずつ絵筆を使ううち、手は真っ黒になっていった。前を見るとお爺さんは細いメスのようなヘラで女性の腰回りを削っていた。

「先生は何を作ってるんですか」

「秋に美術教員展があるから、そのために作品を作ってるんだ」

 いきなり話しかけたのに、あらかじめ何を聞かれるのか分かっていたかのように淀みなく答えた。

「塑造って言うんだ。知らないよね。教えたことないし」

 ソゾーという聞き馴染なじみのない音に漢字を当てようとしたけれど、僕の頭には候補が浮かばなかった。

「定年したんだけど、美術の教員が居なくてさ。講師として教えに来てるんだ。だから多分これが最後の教員展かもなぁ」

 顔は見えなかった。けれど先生の真顔が頭に浮かんだ。人の寄り付かない山奥にある波風ひとつない湖みたいな真顔だ。

 四本の木の棒を塗り終え、作業の手を止め僕は聞いた。

「何のために作るんですか」

 ほうの質問だった。けれど僕はその答えを持っていなかったから、聞くしかなかった。

 こちらを九十度振り向いた先生は、笑顔を取り戻していた。

「じゃあさ、君はその遺影を何のために作ってる?」

 僕には答えられなかった。リュウに言われたからが一番手前にある答えだ。でもそれは違う。アミを虐めたい訳じゃあない。僕には答えがなかった。

「死んでほしいくらい憎い奴が居るから、作ってるんじゃないの?」

 死んでほしい人など居なかった。アミには生きてほしかった。僕と同じ人種だからだ。僕がこの先普通に生きるためにはアミに生きていてもらわなければならない気がした。親の不幸をそのまま全てその身に受けて生まれてきたのが僕だ。けれど僕の両親は金がないことを悲観することは一度もなかった。いつか僕もそう思えるようになるのだろうか。アミの親は貧乏をどう捉とらえて生きているのだろう。貧乏が理由で娘が虐げられている現状を知ったらどう思うのだろうか。この先、学校生活を送る中で、アミが笑うのを見たら、僕はどう感じるのだろう。どこか一つ歯車が狂えば虐められているのは僕だったかもしれない。僕のせいではないとは言え、アミと同じように虐められる理由が僕にもある。頭を声にならない考えがぐるぐる巡っていき、僕は泣いた。目に涙を溜めて、許容量を超えた分が頰に流れた。

 また像に向き直り、作業をしながら先生は言った。

「僕がなんで作品を作るかって言うと、何か言いたいけど言えないからかもしれないね」

 ただ黙って返事もせずに聞いた。先生は僕が何も言わないのを悟って、次からは相槌あいづちを入れる隙間なく喋った。

「口下手なんだ、思っていることを言うのが難しくてね。昔からそうだった。今は教師と生徒の立場だから、喋れるよ。立場を演じるだけで良いからさ。でも親とか妻とか、後は、あんまり居ないけど友達とかに思ってることを伝えるのが上手くなくてね。そういう人に伝えたいけど上手くいかない気持ちの終着点として何か作ってるんじゃないかな」

 机に落ちた粘土の欠片かけらを小さな刷毛はけで掃除していた先生は向き直り、僕の方を見た。真顔だった。

「作りたくないなら作らなきゃいいし、それでも作るなら君の気持ちの良いものを作ったら? あと、顔黒いよ」

 窓を鏡代わりに見ると、顔を無意識にぬぐっていたから、手についた絵の具が顔に溶け出していた。

 外にある手洗い場で手と顔を洗い、その場に立って僕は考えていた。気持ちの良いものとはどういうもののことなのか分からなかった。気持ちの良い遺影。そんなものはないように思われる。死ぬべき人が、少なくとも僕の周りに居るとは思えなかった。けれど考えれば僕の中で形になる予感があった。

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