夏の幽霊
ASA
第1話
駅の改札を抜けたのは、わたし一人だった。
東京の夜はまだむわりとした暑さを残していたけれど、さすがにここまで来ると少し涼しく、もう夏も終わりが近いのだなと思う。夏の終わりは、ここから東京へと移動してゆくのだ。
駅前はバスロータリーだ。もう最終のバスは出てしまったので、誰もいない。わたしが中学生の頃は、このロータリーはただの空き地だった。
ものすごい声で鳴いていた蛙たちも、空き地の上をくるくる飛んでいた雲雀たちもいなくなった。でも、バスの恩恵を確かに受けていたわたしたちには悲しむ権利などないのだ。
ロータリーを抜けると、遊歩道が続く。道の両脇からは虫の声がする。
りーりー、とかコロコロ、とか。もう夏は終わりだよ、とでも言いたげに歌うその声は、昔と変わらない。
実家までは歩いて二十分。歩くのが速いひとなら十五分くらいかもしれない。街灯はあっても人気のない道は暗く感じる。わたしはスマホを手に握りしめて歩くことにした。
駅から実家までの間には、わたしが通っていた高校がある。県立の女子高だ。
わたしは高校が好きではなかった。楽しい思い出はほとんどなく、いつも登校した途端に帰りたいと思っていた。特にいじめられていたわけではない。成績もまあいい方だった。でも、いつも少し緊張して学校にいた気がする。
そんな高校生活の思い出の中で、一箇所だけ明るく色づいている部分がある。
明日佳だ。
わたしは、三年生の時に隣の席になった彼女が好きだった。とてもとても、好きだった。
彼女が隣の席でにこにこ笑っているのを見ると、幸せな気持ちになったものだった。切れ長の奥二重の目がふにゃりとなる彼女の笑い方が、大好きだった。
彼女もわたしも喘息持ちで、そんなところから話が盛り上がったのも仲良くなった理由のひとつだった。でも、大きくなるにつれて症状が大分軽くなり、季節の変わり目や風邪を引いたときぐらいにしか発作が出ないわたしと比べると彼女のそれは、むしろだんだん重くなっているように見えた。わたしはいわゆる小児喘息のカテゴリだったけれども、彼女は完全に大人の喘息になってしまっていたのだろう。
子どもの頃は、花火をすると必ずひどい発作を起こしてしまうので、花火というのは綺麗だけれども苦しくなることを覚悟してするものだと思っていた。大人になって、初めて花火をしてもなんともなく楽しく終われた時には、不思議な感動を覚えたものだ。
明日佳は最後まで、あんな風に花火ができたことはなかっただろう。
最後。彼女は、大学二年のときに亡くなったのだ。
それなのになぜか、わたしの頭の中には、彼女がそのほっそりした手に線香花火を持ってしゃがんでいる姿が浮かぶ。彼女のおだやかな顔を照らす、小さな光。花火のぱちぱちはじける音。
わたしの夢の中の光景なのだ、たぶん。
いつ見た夢なのかも、もうわからないけれども。
遊歩道の片側はごく短い土手のようになっていて、坂の上にはフェンスがある。フェンス前には、背の低いサツキの木々が並んで植えてあるけれども、もちろん今は花は咲いていない。
そしてこのフェンスの内側が、わたしの母校の敷地だ。フェンス越しに広い校庭が見える。しばらく歩くと、体育館も見えてくるはずだ。体育館の向かいには、校舎がある。
体育館も校舎も真っ暗だろうな、と思った。当たり前だ。こんな夜中に、電気が点いている方が怖い。
明日佳とは、よく一緒に体育を見学したものだった。皆がバドミントンやバスケをしているのを、体育館の壁際で体育座りして眺める。
わたしは正直、得意なスポーツなんてなかったので、体育なんて毎回見学の方が嬉しいくらいだった。
ねえねえ、昨日のあのドラマ、見た?とかなんとか、どうでもいい話をしながら、体育座りをしてクラスメイトたちがラケットを振るのを見ているのが、楽しかった。
しかし、明日佳と同じ中学だった子によると、彼女はとても足が速かったのだそうだ。中学一年のときには選抜リレーの選手に選ばれたりもしていたけれど、だんだん持病の喘息が重くなってしまって、体育を休みがちになってしまったんだとか。
神さまは残酷だ。わたしみたいに、体を動かすことに対するセンスが壊滅的にないのなら、ちょっとくらい病気だろうが別にどうでもいい。
でも、と思う。
明日佳が風のように走る姿はきっと、きれいだったろうな。見てみたかった。
そんなことを考えながら歩いていると、遊歩道脇のフェンスの向こうに体育館が見えてきた。
懐かしい、と背伸びをして見上げたわたしの目に、体育館の窓から漏れる、明るい光が映る。
……え?
思わず、小さく声が出た。電気が点いている。消し忘れたのだろうか。部活の練習とかに使って、点けっぱなしのまま帰ってしまったのかもしれない。
そしてわたしは、気付いた。
いつの間にか、わたしの後ろを誰かが歩いている。軽やかな足取り。ヒールとかではない、ローファーで歩いているような足音。わたしの頭の中で、その誰かは紺色のセーラー服を着て、ローファーを履いていた。セーラー服の肩にかかる、さらさらの長い髪が目に浮かぶ。
こちらが立ち止まると誰かも立ち止まる。歩き出すと誰かもまた歩き出す。
わたしのヒールがコツコツいう音と、後ろのタッタッ、という足音。わたしは、ふと立ち止まって後ろを振り返った。少し離れた場所の街灯の光の下に、一瞬ローファーと白いソックスが見え、そして光の外にさっと隠れた。
会いに来てくれている。
薄情なわたしに、明日佳が。
そう思った。
わたしは最後まで、周りになんとなく馴染めないまま高校での三年間を過ごし、そして東京の大学に行った。似たような少女たちが互いに見張り合うような高校と違って、いろんな人が気ままに過ごしている大学は気楽だった。一人でいても変に思われることもない。
大学二年になってすぐ、わたしは九ヶ月間ヨーロッパの某国に留学した。
その間に、明日佳は亡くなったのだった。地元の女子大に進学した彼女とは、それなりに連絡を取ってはいたが、わたしがなかなか実家に帰らなかったので会うことはなかった。
だって、またいつでも会えると思っていたから。
彼女がひどい喘息の発作を起こし、運悪く吐いたものを喉につまらせて亡くなった、と連絡をくれたのはわたしの母だった。
海を隔てた国で、わたしはその知らせを信じられない気持ちで聞いた。そして、わたしが彼女の死を知ったときにはもうお通夜は終わっていて、今日お葬式なの、お母さんあんたの代わりに行ってくるから、と言われたのだった。
だから。
いつまでたってもわたしは、彼女が死んでしまったということをどこかで信じられずにいる。
だから。
お墓を見てしまったら、そのことが本当だと認めなくてはいけなくなるような気がして、わたしはお墓参りさえしなかった。
なんて薄情なんだろう。彼女が好きだった、なんて言う資格はないのかもしれない。蛙や雲雀がいなくなったことを悲しむ資格がないのと同じように。
やはり背後に誰かの気配を感じる。
明日佳なのだろうか。
フェンスを見上げると、ちょうど体育館の真横で、煌々と電気が点いているのが見えた。
真夏には、開け放された体育館の戸口からものすごい蝉の鳴き声が中まで聞こえてきたものだった。明日佳が壁に寄りかかりながら目を閉じるので、何してるのと聞くと、目をつむると森の中にいるみたいなかんじがするの、蝉の声がすごくて、と答えて、彼女は笑った。
わたしは、アスファルトの遊歩道から土手の方に足を踏み出した。土の上を歩くのに適さないヒールが、ぐにゃりと柔らかい土に刺さる。
体育館に行ってみたい。誰もいないだろうけど、昔のままかどうか、見てみたいと思った。
フェンスが少し途切れている場所があることを、わたしは知っていた。
ぐにゃぐにゃと土を踏んで短い土手を登り、目当ての隙間を探すとすぐに見つかった。高校生の頃とほとんどサイズの変わっていないわたしが身体を横にすると、その隙間は難なく通ることができた。
校庭に潜り込み、体育館と校舎の方に目をやると、校舎は真っ暗だった。体育館はフェンス越しに見たのと同じように、上の方に付いている窓からも、開けっぱなしの戸口からも光が洩れていた。
りーりー、コロコロ。りりりり。
虫たちの声の中、わたしは身を屈めてこっそりと体育館の入り口に近づいた。誰もいないとは思うけれど、一応不法侵入なことには変わりない。
開けっぱなしなのは表の方の下駄箱がある入り口ではなく、外から直接入れるようになっている非常口の方だった。
わたしは入り口でヒールの靴を脱ぎ、小さな声でおじゃまします、とつぶやいて体育館の中に入った。
明るく照らされた体育館は、当然のことながらガランとしていた。聞こえてくるのは虫の声だけ。靴を脱いでストッキングになったわたしが歩いても、足音もしない。
真ん中ら辺まで行って周りを見回していると、背後からことり、と物音がした。振り返ると、体育用具室からまたことりと音がする。体育用具室には、ボールやマットなんかが仕舞ってあって入り口にドアはない。
「あすか……?」
わたしは小さな声で問いかけた。
すると、用具室からバスケットボールがひとつ、ころころと転がり出てきた。
そしてまたひとつ、またひとつ。
十個くらいのボールがころころと、わたしの方へと向かってくる。
いつの間にか、うるさいくらいに聞こえていた虫の声はまったくしなくなっていた。
よくわからない冷や汗が背中を伝っていく。
わたしは思った。
わたしは、遠くから明日佳のことを思い出して、亡くなったのもちゃんとこの目で見ていなくて。
いつまで経ってもきれいな思い出みたいに思っているけれども。
明日佳はどうだった?
亡くなるとき、苦しかったのではないか。
高校を卒業してから、まったく地元に帰ってこないわたしをどう思っていた?
亡くなってからも、お墓参りにさえ来ないわたしを。
ふわりふわり、とひとつずつボールが浮かび上がる。全部のボールがわたしの頭より高い位置で浮かんでいる。
ひゅ、とわたしの喉が鳴った。
ボールがわたし目がけて落ちてくる、と思った瞬間、体育館の電気がふっと消えた。
真っ暗だ。何の音もしない。
そのとき、わたしの耳の後ろで小さな笑い声がした。
うふふ。ねえ、びっくりした?
ぱ、と電気がつく。
ボールは床に転がっていた。
いつの間にか、またうるさいくらいに虫の声がしていた。
彼女がおっとりとしながらも、変な悪戯が好きだったことを思い出す。後ろから膝をかっくん、とか。手の中にカタツムリを隠していたりとか。
明日佳。
りーりー、とかコロコロ、とか昔と同じ虫の声が聞こえる。でももう、二度と彼女と会えることはないのだ。
もう、二度と。
わたしは体育館の真ん中にしゃがみ込んで泣いた。
いつまで経っても、涙は止まってくれなかった。
夏が終わる。
夏の幽霊 ASA @asa_pont
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