第150話 太陽

~織原朔真視点~


「Ma n'atu sole,cchiù bello, oje ne~♪」


『o sole mio』日本語タイトルで言うと我が太陽。タイトルは知らなくともどこかで聞いたことのある曲だろう。


「♪o sole──」


 ピアノ伴奏が途中で止まった。ボイトレの先生の岡野先生は僕を見て言う。


「音を当てなきゃとか、息を一杯吸わなきゃとか、お腹に力をいれなきゃって考えながら歌ってない?」


 まさにその通りだ。岡野先生は続けて言った。


「それが朔ちゃんの歌から伝わってくる。でも歌はそういうものじゃないと思うのね?自分がこの歌で何を表現したいのか、どう歌いたいのかそれを伝えなきゃ勿体ないよ?」


「何を表現したいのか……」


「そう、でも何かを表現しようとすると露骨に身体に力を入れる子がいるんだけど、なるべく身体はそのままで想いの力だけを込めるようにイメージして歌ってみて?」


 何を表現したいのか、自分の作った曲を歌うわけではないオペラやカンツォーネにおいて、幾万人の表現者が同じ曲を自分のモノにして歌うことを試みる。時代によって、人種によって、育った環境によって、その表現は変化していくことだろう。しかしいつの時代になっても変わらないのは誰かを愛しいと思うこと。


 我が太陽、それは美しい人のことである。


 岡野先生は初めから伴奏を弾いた。照りつける太陽の下、風に吹かれるように、さざ波の上を漂うように。


 僕は歌った。


 カラリと晴れた青のキャンバスに、燦々と輝く太陽が1つ。ふわふわの白い雲と、それと同じくらい白い砂浜が陽射しを浴びて眩しいくらいに光って見えた。無限に広がる海と空に心地好い波の音と磯の香り。


 ──悩み事なんて考える暇もない。

 

 そんな圧倒される景色に立つは……


「♪sta in fro~nte a te!」


 僕の歌声と共に伴奏も音を切るように止んだ。景色は一変し、僕は岡野先生のボイストレーニング教室に戻ってきたのだ。


「そう!それ!!今の凄い良かったんじゃない!?」


 自分でもそう思うでしょ?と先生は訊いてくる。


「…はい。初めて歌に集中できた気がします……」


 初めてと自分で言って違和感を抱いた。


 ──もしかして初めてじゃないのかも……


 先生が言う。


「何を想って歌ったの?」


「…それは……」


 ──言えない…クラスの女の子を想って歌ったなんて……


 その時僕は思い出した。


 ──バズった歌枠。音咲さんが落ち込んでいた時に、僕は彼女のことを想って歌った。あの時が初めてだ。誰かを想って歌ったのは……


 今回も僕が想った情景に立っていたのは音咲さんだった。


「?」


 と岡野先生が詰めよって訊くが、チャイムが鳴った。誰かが訪ねてきたようだ。チャイムの音により我に返った先生は言う。


「あぁ、もうこんな時間!ごめんね朔ちゃんこれから出なきゃいけなの!!」


「わかりました。僕はこれで失礼します。ありがとうございました」


 僕は自分の楽譜をまとめて鞄に入れ、いそいそと玄関の扉を開けた。


「あ……」


 扉を開けると、外の光を遮るように男性が立っている。


「朔真君じゃないか」


 若々しい針のような黒髪をオールバックのように撫で付けた男性。スーツ姿に、先程まで着ていたであろう、秋用のコートを腕に掛けている。音咲さんのお父さん。音咲鏡三さんが玄関前に立っていた。僕を雇ってくれているホテルの社長。僕は偉い人を前に失礼のないよう振る舞うことに慣れていない。僕は酷く慌てた。それに今、鏡三さんの娘である音咲さんのことを想いながら歌ったばかりだ。気まずいことこの上ない。


 とりあえず挨拶をする。


「こ、こんにちは……」


「あぁ……」


 そのまま逃げるように去れれば良いのだが、鏡三さんはそこをどいてはくれない。


 ──き、気まずい!!なんだこの空気は!?


 何とか間を埋めるために僕は訊ねる。


「あ、あの……文化祭には来るんですか?」


 鏡三さんは疑問を呈するような顔をしたが、やがて納得したように口ずさむ。


「そうか、君は華多莉と同じ学校だったな……私が来ると言われたのかな?」


「い、いえ…誘ってみると言っていたのを盗み聞きしてしまいまして……」


「盗み……なるほど、生憎その日から日本を立つ予定でね」


 行けない。そう言いたいようだ。そして鏡三さんは息を吐くようにして続けて呟く。


「君が歌うなら見に行くのだがな……」


「え……?」


 瞬間的に怒りの感情が燻った。先程歌っていた時とはえらい違いだ。


「華多莉には君のような才能はない」


「……才能がないから見に行かないんですか?」


 僕は強大な存在に対して疑問を呈する。しかし内心では怒りの感情が根を張っていた。こんな風にして言い返したのはあの時以来だ。3年生の先輩を前にした出来事。


 ──あの時も音咲さん絡みだったな……


「その通りだ」


「それっておかし──」


 普通の親なら娘の活躍を喜んで見に行く。そう思っていた。しかし僕の親はそうじゃない。鏡三さんもそうじゃないかもしれない。そう思った時、僕は言い淀む。しかし、僕は止まらなかった。僕を突き動かすもう1人の感情が顕となっているからだ。


 エドヴァルド・ブレイン。彼は言った。


「それっておかしいでしょ?あんた、俺と俺の親みたいな関係になりたいんすか?」

 

「君のような表現者が生まれるなら…或いは……そうなっても良いのかもしれないな……」


 燃え盛るような苦しみの中にいる過去の僕が脳裏に浮かんだ。


「良いわけねぇだろ!?俺がどんだけ苦しんだと思って──」


 思ってんだよ!?そう言おうとした時、後ろから玄関の開く音が聞こえた。


「どうしたの!?」


 岡野先生が、余所行きの格好をしていた。これからこの人と出掛けるのだろう。僕は鏡三さんの横を通り抜けた。


「何かあったの?」


 先生が鏡三さんに訊ねるのが背後で聞こえた。


「いえ、少し話していただけで──」


 沈み行く赤々とした太陽が、夏の終わりを悲しむように僕を照らす。僕は音咲さんのことを想った。今日これで何度目だろうか。

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