生きる
ロッドユール
生きる
友人が死んだ。自殺だった。
ワンルームの部屋の真ん中に一人、黄色いトレーナーを着た彼女は、倒れていたそうだ。私は、彼女のあの小柄な体躯が、一度だけ遊びに行ったあのフローリングの居間の上に横たわる姿を想像する。そこには、もう生きた彼女はなく、動かない彼女の体だけがあった。
今年も日本全国の自殺者は二万人を超え、コロナ禍もあり、去年に比べ千百人の増となった。うち、女性の自殺者は六百人増と五百人増の男性を上回った。この国は、一日に約六十人が自殺してる。彼女もその中の一人になった。
今まで単純な数字の世界でしかなかったその世界が、今、リアルに目の前にある。むき出しの、この競争社会の底辺に吹く、冷たい風をこの身に浴びながら、私は堪らぬ何かを感じた。
彼女は、大人しい子だった。でも、いい子だった。とてもやさしい子だった。クラスの中ではあまりしゃべらなかったが、私と二人でいる時はよく笑う子だった。
彼女は高校を卒業すると、東京の短大へ進学した。彼女の性格からして、都会は合っていない気がしたが、彼女はその性格に似合わず都会志向が強かった。都会の中に、ここにはない何か救いを感じていたのかもしれない。彼女の言動にそれを感じさせるものがあった。
離れ離れになっても、彼女とは時々電話をしたり、メールや手紙をやり取りしたりと、交流は続いていた。その中で、彼女は特に、幸せとも不幸とも言ってはいなかった。しかし、友だちができた様子は感じられなかった。
「・・・」
死にたいと思っていたのは私の方だった。生来の不器用さで学校でも、様々転々とした職場でも、どれ一つとして私はその中でうまくやっていくことができなかった。
つい最近も、やっと念願かなって採用された正社員の仕事を、わずか三カ月で準社員という、いわゆる非正規社員に降格させられたばかりだった。かなり妥協した、やりたくないとても嫌な仕事だった。とても汚い仮設トイレの処理などもある底辺の肉体労働で、他人の排泄物の塊りをモロに見てしまったことも一度や二度ではない。
それでも、給料は平均よりも高く、安定し、ボーナスもあって、これでやっと生活が安定できると思っていた。両親も喜んでいた。でも、その矢先、私は奈落の底の底にいきなり叩き落された。
上司に降格の話をされた時、両親になんて言おうか、それがまず頭に浮かんだ。うちの家族は今どき珍しいくらい仲がよく、私は反抗期もほとんどないくらい、小さい頃から父と母のことが大好きだった。でも、私の両親はお金がなく、駆け落ちという縁で結ばれた二人に助けてくれる親戚縁者もなかった。見知らぬ土地で苦労し、年老い始めた二人には一人娘の私だけが頼りだった。
就職が決まり、両親に楽はさせてあげられないけれど、生活は安定し、時々外食ぐらいは連れていけるかもしれないと思っていた。実際、初の給料日には、近くの和食屋さんにお昼ご飯を食べに連れて行ってあげた。その時の、両親のうれしそうな顔が忘れられない。そんなささやかな幸福も、今は打ち砕かれてしまった。
彼女のお葬式は、彼女の実家の小さな平屋でひっそりとおこなわれた。打ちひしがれた彼女のご両親は泣く気力もないといった様子で、ただぽつんとそこに座っていた。
「なんでなんですかねぇ・・」
彼女の母が、私の去り際、ぼそりと私に言った。
「・・・」
私には、答える言葉もなった。
私が以前勤めていたスーパーに雇われていた、元警察官の万引き専門の警備員のおじいさんは、公務員年金が月二十万円あると言っていた。それに今の警備の日当が一万円。合わせると月四十万円。さらに持ち家があり、息子さん夫婦と同居。でも、家にいても、やることがないから働いているのだと言っていた。私のその時のパートの給料がフルに働いて月十三万円ほどだった。もちろん手取りではない。
「あんた、ちゃんとした仕事しないと」
おじいさんはよく私にそんなことを言った。
「若いんだからさ」
おじいさんは気さくでいい人だった。
「スーパーのレジ打ちなんて誰でもできる仕事だろ」
私のことを本当に心配してくれているみたいだった。
「ちゃんと働かないと老後どうすんだ?」
「年金はちゃんと払わないと。わしも、この年になって払っていてよかったと思ったよ。払っている時はなんだこんなもんて思っていたけどな」
「・・・」
私は何も言えずただ、適当に返事をし、うつむくことしかできなかった。おじいさんの言っていることは正論だった。私自信もそう思っていた。
でも、学校という社会の厳しさから守られたシステムの中ですらうまくやっていけない自分が、社会に出てまともにやっていけるはずもなかった。実際、社会に出てから、ありとあらゆるところでつまずき、私はスーパーのレジ打ちという、そんな私の辿り着くべきそこにいた。
おじいさんのように、倍率の高い公務員など、夢のまた夢だった。おじいさんの時代のように正社員が当たり前の時代でもないし、学生運動盛んなりし時代背景の後押しで、警察官の人員増が急務になるというラッキーもなかった。
むしろ、世の中は非正規化が進み、ブラック化が進んでいた。その中で割のいい、条件のいい仕事は倍率が上がり、ただでさえ熾烈な競争社会の中で、さらにそれは激化していた。そんな競争に勝ち上がって運よく就職できたとしても、過剰な競争と合理化採算主義の行きつく先の先まで行きついた過酷なブラック労働が待っていた。それにも耐え忍び、何とか呼吸し、這いつくばってでも生き残った者だけがそんな安定した社会的ポジションに辿り着く。そんな中で私なんかが勝ち上がるはずもなく、生き残れるはずもなく、かじりつけるはずすらもなく、私なりに、がんばってもがんばってもずるずると社会の底辺へと落ちていくだけだった。
だけど、こんなこと、おじいさんに言っても分かるはずもなかった。あまりにも時代が違い過ぎていた。世間も絶対にそうは見てくれない。私に説教するその万引き警備員のおじいさんのように、私はがんばっていない人間として、自動的にそういった人間としてカテゴリーされてしまう。
休日、母が久しぶりに草餅を作ってくれるという。私は近所の田圃の土手へと、ヨモギを摘みに行った。
その道の途中、私はふと立ち止まる。ここはよく彼女と歩いた通学路だった。
「成功しなきゃ、生きてる意味ないじゃん」
普段大人しい彼女が、そんなことを言っていたのを思い出す。その時も、今と同じように心地よい春の風が吹いていた。
私はずっと死にたいと思って生きてきた。私は常に考えている。今死ねたらどんなに楽になれるだろう。どこで死のうか。どうやって死のうか。
三十万円で買った古い中古のワゴンR。仕事の帰り、それを運転しながら私は考える。あのビルから飛び降りたらどうだろうか。中央分離帯に立つ、立体看板の、その細長い四角柱の中で死んだらどうだろうか。あの外界から隔絶された狭い世界はとても居心地がいいに違いない。
私の心の中は常にぶ厚い曇天が覆っていて、重く苦しい空気が流れていた。それは永遠に晴れることはないだろう。ずーっと、これからも、私の心は曇りのままなのだ。
彼女とはいろんな話をした。唯一の友だちだった彼女とは、どうでもいい下らないことから、自分自身のことなど、なんでも話した。
「・・・」
なぜ、あの時、私も同じだよ。私も死にたいと思っているんだ。どうしてそれを言えなかったのだろう。死にたいというこの思いを共有できていたら、もしかしたら、また違った何かがあったのかもしれない。
ふとした瞬間、私は堪らない気持ちになる。叫び出したい。でも、声が出ない。なんて叫んでいいのか、言葉も見つからない。
「うううっ」
私はぎゅっと目をつぶる。その固くつぶったはずの瞼の隙間から、涙がこぼれ出る。
なんて残酷なんだろう。この世界はなんて残酷なんだろう。私は思う。多くを望んでなどいなかった。私はただ、ただ人並みの生活がしたかっただけ。それだけだった。必死だった。私なりに必死に生きてきた。がんばった。私なりにできることを一生懸命がんばった。がんばったんだ。一生懸命がんばったんだ。
でも・・、でも、ダメだった。
もう疲れてしまった。なんだかもう、すべてがどうでもよかった。私は疲れきってしまった。足が、たった一歩を踏み出せなくなっていた。あんなにかんたんだった、意識すらしなかったただ歩くという一歩すらがもう無理だった。
それは何でもない、お昼を食べ終わった後の、けだるいいつもの職場でのお昼休憩のひと時だった。
「まあ、がんばれば、また正社員の道もあるから」
私の直属の上司の山田さんが言った。私の降格を伝えた席で、課長の隣りにいた人だ。多分、この人が私の査定をしていたんだと思う。
「そうだよ、あんたもがんばらないと」
この職場の最古参の先輩の柴田さんが言った。体も小さく、知的な感じのまったくない人だった。若い時は知らないが、今なら絶対に私の方が圧倒的に仕事ができていると思っていた。
「まだ若いんだから、もっとがんばりな」
柴田さんの隣りに座っていた太った佐藤さんが言った。要領だけはよく、仕事はさぼり気味なのに、なぜか周囲や上司には気に入られている人だった。
「・・・」
私は、絶対にこの人たちよりもがんばっていた。仕事もしていた。
「がんばるんだよ。遮二無二がんばるんだよ」
柴田さんがまた言った。学歴のない柴田さんは若い時から、仕事を転々として、最後にこの仕事に辿り着いた。しかし、今までやって来た仕事はどれも正社員採用だったと言っていた。今では絶対にあり得ない話だった。
「そうそう」
佐藤さんの隣りの、東さんが他人事みたいに笑っている。この人もよくさぼっているのを見かけるいい加減な人だった。
「がんばってれば、ちゃんと見ててくれるからさ」
山田さんが言った。
「・・・」
私の拳に力がこもる。
「そうそう、まあ、とにかくがんばりな」
柴田さんが言った。
「どんだけがんばればいいんだよ」
「あ?」
柴田さんが驚いた顔で私を見る。
「どんだけがんばればいいんだよ」
私は叫んでいた。
「どこまでがんばればいいんだよ」
溢れ出す思いは止まらなかった。
「私が悪いのかよ」
私は立ち上がり叫んでいた。みんな驚いていた。
「・・・」
みんな然とした顔で私を見てる。それは狂人を見る目だった。
「あ、あの・・」
すぐに私は我に返り、恥ずかしくなった。
「す、すみません・・」
私はあやまった。
「あ、ああ」
全員が唖然としてそれだけを言った。その場は何とも言えない空気になったが、ちょうどその時昼休みが終わり、何事もなかったようにその場はそれで終わった。
私は結局、一週間後、その職場を辞めた。
生きる ロッドユール @rod0yuuru
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