甘酸っぱいレモンの味
秋風賢人
第1話
「起きなさい!」
どこからか私を呼ぶ声が聞こえてくる。今、最高に心地のいい夢を見ていた最中なのにどうして毎回いい場面で起こされてしまうのだろう。
もう一度夢の中に落ちていこうかな。
「こら!
遅刻...遅刻...あっ!
その言葉を聞き一瞬で目が覚める私。目を見開くとそこには鬼の形相のママの姿。
「い、今何時?」
「8時よ!全くいつまで寝てんの」
「え、遅刻しちゃうよ。なんで起こしてくれなかったの!」
「はぁ〜?何回も起こしたわよ。起きなかった雨が悪いじゃない!」
ため息をつきながら私の部屋をそそくさと出ていくママ。部屋に残ったのは、時間に迫られる焦りとまだ髪の毛もボサボサのままの私。
タイムリミットまで残り35分。中学校までは徒歩10分なのでそれを考慮すると、残り25分で支度を済まさなければならない。
意外と時間があるように思えるが、女子からするとこれは非常に少ない。特に思春期の私たちは特に見た目を気にするので、念入りになるのは当たり前。
髪をリンスで洗いドライヤーを左手に、歯ブラシを右手に持って器用に並行作業をしていく。
時間がないので、少しだけ雑かもしれないがそれはそれで仕方がない。歯磨きをすぐに終わらせ、黒く長く伸びる髪の毛を乾かすのに最大限の力を注ぎ込む。
頭をわしゃわしゃと大雑把に掻き回す。時間的には大幅に短縮はできたけれど、まだ少し生乾きのような気もするが細かいことは気にしていられないので、そのまま制服に着替える。
今の季節は冬。そのため制服も冬仕様の暖かいものになっているが、相変わらずスカートなので足だけは...
制服に着替え終え、時間を確認すると置き時計には8時23分と表示されている。
もう家を出ないと流石にまずい。
リビングに向かうと、温かい熱気に包まれる。当然朝食のパンの柔らかな甘い匂いも漂っている。
「ほら、さっさと食べていきなさい!」
「ごめん、もう時間ないから食べながら行くね」
「えー、行儀が悪いわね。明日からはもっと早く起きなさいよ!それと、気をつけてね」
「はーい、行ってきます!」
漫画の世界のようにパンを口に咥え、玄関を飛び出す。まさか実際にこんなことをするなんて思ってすらいなかった。
アスファルトの黒さが今日は全く見えない。辺りは一面真っ白。雪が降り積もっていて他の季節とは別の世界にも感じられる。
空気が乾燥しているためか、外で食べるパンが格別に美味しい。絶対に癖になってはいけないけれど...
パンを齧りながら、駆け足で学校へ向かう。雪で滑って転んでしまうことだけは避けたい。
雪で滑って転ぶと、痛みよりも恥ずかしさが優ってしまう。雪国に住んでいる人はきっと共感してくれるはず。痛みは感じないんだ、真っ先に羞恥心が襲いかかってくるんだ。
落ち着いた後に痛みが来ることもあるが...
自分でも十分注意を払っていたのに、ツルッと足を滑らせてしまう。気づいたときには、私の視界は雲ひとつない晴天の空が広がっていた。
綺麗...なんて思っているが、なぜか背中になんの衝撃も伝わらない。私は確かに転んだはず。いくら恥ずかしくても衝撃は感じるのに。
衝撃の代わりに温かな手のような感触が背中を伝う。
「おい、そろそろ起き上がってくれよ雨。俺の腕限界なんだけど・・・」
「えっ!あ、ごめん・・・」
起き上がって振り向くとそこには、私の大好きな彼氏の晴人が立っているではないか。
「おはよう晴人。あれ、今日は珍しく遅いね」
「はよ。今朝、おばさんから連絡きて雨のこと『よろしく!』って連絡きたからさ」
全くママはいつまで私を子供扱いしているのだか。私もいい加減中学2年生になったのだから、少しは大人扱いしてくれてもいいのに。
「もう、ママったら!」
「でも、おばさんの予想は当たってたな。転んでるし。怪我しなくて済んで良かったな」
確かにそれは一理あるかもしれない。
「ナイス!晴人」
「はぁ?人ごとのように言いやがって。もうこれ没収な!」
口に咥えていたパンを晴人に奪われてしまう。
「あ〜! 私の朝ごはん返せ!」
「嫌だね。いただきます!」
私の食べかけのパンを一口で食べてしまう彼。間接キス...付き合って一年も経つが、私たちはいまだにキスすらしたことがない。
したいとは思っているが、互いにその一歩が踏み出せないでいる状況。だから、間接キスで過剰に反応してしまう私。
「うまいな。な、これ何かパンに塗った?甘かったんだけど」
「・・・何も塗ってないよ」
恥ずかしくて俯いてしまう私。だって彼が甘いと言ったのは多分...ダメダメ余計なことは考えない!
当然私の視界が黒く染まっていく。だんだんと近づいてくる晴人の顔。何をされるのかはわかっていたが、目を開けていることができずに、目を閉じてしまう。
唇に柔らかく温かな感触。ほんのり甘い気もするが、気のせいかもしれない。1秒も続いていなかったと思うが、私の中では何十分のように感じられた。
心拍数が高まっていくのが、目を瞑っていてもわかる。むしろ、心臓の鼓動音が私の耳を殴りつけているかのよう。
目を開けると、そこには彼の顔はなく既に学校に向かって足をすすめているではないか。
彼の耳が赤くなっている。寒さで赤くなっているのか、それとも...後者であってほしいと思うが、真実は彼にしか分からないのがもどかしい。
まさか、初めてのキスをこんなムードもない通学路でしてしまうなんて誰が予想しただろう。でも、彼らしいと言えば彼らしい。
照れてしまったが、これで私たちはまた一歩前に進むことができたんだ。
「雨。遅刻すんぞ!いくぞ」
「う、うん!」
歩き出す前に彼と口づけした唇をそっと指先でなぞる。ほんのりと彼の温もりが残っている気がする。
ファーストキスはレモンの味と世間ではいうが、私の初めてのキスは香ばしいパンの香りがした。
これから先、何度キスをしても私はこのファーストキスの味を忘れることはないだろう。
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