「今日も皆で開発反対って叫んできたよ」


 折り畳み式の蝿帳はいちょうで覆われた夕飯を挟み、鼻息荒く祖母が父に話しかけていた。蝿帳はいちょうが必要な季節などとうに過ぎているのだが、我が家では1年を通して使用していた記憶がある。

 話しかけられた父はいつもと変わらず、ただ静かに耳を傾けてはたまにうなずくだけだった。父が本当に祖母の話を聞いているのか、僕は小さいながらも疑問に思っていたのだが、祖母は慣れたもので、特に問い詰めることも、耳を引っ張ることもなく、一方的に話し続けている。

 しかし、僕のお腹は、祖母が話し終わるのを待っていられるような上等な作りではなく、居間に上がり込むなりすぐに言うのだ。


「お婆ちゃん、今日の夕ご飯はなあに?」


 その言葉を言えば、祖母はどんなに話しかけのことがあっても、口から出かかっていることがあろうとも、すぐに気持ちを切り替え、ご飯を盛り付けてくれたものだ。

 そして、祖母の言う開発反対には興味がなく、一心不乱にご飯を食べたものだった。たまに「会合に出る」と言って、日曜日の昼間に出かけることはあったのだが、あれは大人の話で、子供にはどうにも関係ないことなのだと、そのときの僕は思っていたのだろう。


 翌日、学校を終えた僕は、いつも通り家にカバンを投げるように置き、祖母に声を掛けて波止場へ向かう。

 この時期は日の入りの時刻がどんどんと早くなり、もたもたしているともう太陽が見えなくなっている。それに加えて、昨日の見知らぬ女性が「また明日」などと去り際に言ったものだから、勝手に約束をされたと思い込んだ僕は、決して遅れまいと、勇んで波止場へ駆け出したのだ。


 太陽がまだ水平線より高い頃に到着したが、周辺にはいつもの通り誰もおらず、お気に入りの少し塗装が剥がれた係船柱けいせんちゅうに、自分だけの特等席だと言わんばかりに意気揚々と腰かけた。

 そうしてそれまでと同じようにややピンク色の混ざった夕焼けを眺めるが、そわそわと心は浮つき、目の前に広がる景色はいつもと違う風に映った。

 どれくらい時間が経ったか。心が落ち着かないままの視線の先では、太陽が半分ほど海に隠れ、今にも沈没してしまいそうになっている。


「おはよう! ねえ、君って、いつもここにいるよね」


 それは昨日と同じ声色の同じ言葉。

 飼い主の帰宅を待ちわびた仔犬のように、期待に胸を膨らませて振り返れば、果たして彼女は昨日と同じ場所で街灯の光を浴びていた。昨日と違う点といえば、カーディガンの下が黒地に白のポルカドットのワンピースになっているくらいか。


「お姉ちゃんが、また明日って言ってたから待ってたんだよ」

「また、隣いい?」

「いいよ」


 僕の言ったことなどさして気にした風でもなく、彼女は器用にワンピースの裾を折り込みながら、身体をかがめて膝を抱いては、楽しそうに口を開いた。


「今日はピンク色がかっているんだねえ。なんでだろうねえ」

「知らないけど、夕焼けがピンク色だと、明日の天気が悪いことが多いんだって」

「おおー。君は物知りだね。私も知ってたけどね」


 そう言って彼女は切れ長の目を更に細め、柔らかな笑顔を僕に向ける。


「なんだ」


 大袈裟に気落ちしたふりをしてみたが、もちろん僕は嬉しかったのだ。自分の知っている言葉たちでは決して言い表せない、この素晴らしい景色を共有できる人が現れたことに。

 二人が見つめる先でピンク色の夕焼け雲が静かに流れていき、僕は気付かれないよう、彼女の横顔をちらちらと見ていた。


「あ、もう行かなきゃ」


 すっかりと今日の炎が沈んだ頃、彼女はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。「明日も来るの?」と僕が問えば、「うーん、来れたらね。明日は天気、悪そうだし」と、少し困ったような顔で微笑ほほえんだ。

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