初めての夜

 森のどこかから野鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 微睡みから目覚めていくと小さな虫の声も耳に入った。森の傍なので生き物の気配が身近に感じられる。屋敷の奥でひっそりと育てられてきたオリアーヌにはとても新鮮な環境。

 瞼を開けると室内はすっかり暗かった。

 外はもう完全に夜だ。ただ、学園の敷地内には魔法の照明が点在しているので思ったよりはずっと明るい。


「あ、いけません、毛布が」


 ベッドの端に押しのけられて床に落ちそうになっている。

 寝苦しかったので剥いでしまったのだろう。かけてくれたのはクリスに違いない。


「……クリス様」


 毛布を胸に抱き寄せて呟く。

 今朝目覚めた時よりも身体が軽い。生まれて初めて味わう感覚は彼女──いや、彼がくれたものだ。

 同じ特異体質。今日会ったばかりの相手に利己的なお願いごとをされても嫌な顔ひとつせず、手を握りしめて励ましてくれた。

 お腹にそっと触れられた両手も優しくて、ひんやりとした手が体内の熱を冷ましてくれるかのようでとても心地よかった。

 そこまで思い出してから、オリアーヌは自分が彼に告げたことを思い出して頬を熱くした。


『わたくしのすべてをあなた様へ捧げます』


 あれではまるで愛の告白だ。

 嘘を言ったつもりはない。ただ、熱に浮かされた頭で過激すぎる発言をしてしまった。相手によっては本当に、その場で「命以外の全てを」奪い尽くされていてもおかしくない。

 実際にはクリスはオリアーヌの肌に軽く触れただけ。着衣に大きな乱れもないし、嫌なにおいもしない。物語に登場する騎士のように少女を丁重に扱ってくれた。


 今日はきっと、余命の日数を減らさなくていい。


 明日が続くということがこんなに嬉しいなんて。思うだけで笑みが浮かんで、身体に力が湧いてくる。

 と。

 オリアーヌは階下から香る良い匂いに気づいた。安心したらお腹が空いてしまったのかもしれない。お腹の声が聞こえてはこないかと不安になりつつ、ベッドから下りて階段へ。

 一階ではクリスが料理をしていた。

 作っているのはスープだろうか。鍋を火にかけながらぐるぐるとかき混ぜている。料理とは完成品を運んでもらうのが当たり前だったオリアーヌにはその姿がとても不思議で興味深いものに見えた。


「……クリス様」


 髪と瞳は明るい茶色。身長はオリアーヌと同じくらい。男子としてはかなり華奢な体型で、長い髪のせいもあって学園の制服姿だと女の子にしか見えない。

 間近で見つめた彼の穏やかな瞳を思い出してまた恥ずかしい気持ちに陥りながら、無意識に名前を呟いて。


「? あ、リア。良かった、目が覚めたんだ」


 振り返ったクリスに、にっこりと笑いかけられた。


「~~~っ」


 だめだ。慣れるまではしばらくこの感覚が収まりそうにない。

 オリアーヌは「どうしたの?」と不思議そうに尋ねてくるクリスになんとか応じながら、どうしたものかと困り果てた。



   ◆    ◆    ◆



「申し訳ありません、食事の支度までしていただいて……」

「気にしないで。お嬢様にそんなことさせられないし。というか、こんな簡単な料理しか出せなくて申し訳ないくらい」


 安心したのか、リアは魔力吸収の最中に眠ってしまった。

 色々あって疲れたのだろう。起こさない方がいいと判断して吸収を適当なところで切り上げると服を整え、毛布をかけてから一階へ降りた。

 入り口付近にはリアの荷物。お嬢様のそれは僕よりずっと量が多く、確かに抱えて歩くだけでも大変そうだった。男の僕が勝手に荷ほどきするのもまずいので部屋の隅に移動させるだけにして、食事の支度へ。

 作ったのは干し肉と乾燥野菜を使った手抜きスープだ。

 肉に塩気がしっかりあるので胡椒で味を調えるだけで美味しくなる。さすが学園、調味料の類は倉庫にたっぷり置いてくれていたので、平民にはけっこう高価な胡椒も気軽に使えた。あとは竈の火を使ってパンとチーズをあぶり、飲み物にはワインのボトルを一本開ける。


「お、お酒ですか……!?」


 と、リアは驚いたけれど、飲んだことがないかと言えば「いえ、嗜む程度には」とのこと。ただ飲み始めたのは十五になってからで、それまでは一切経験がなかったらしい。


「そうなんだ。僕は十二歳の誕生日からだったなあ」

「平民の方はそういうものなのですか?」

「みんなけっこう早いんじゃないかな。僕の場合は師匠が『アレ』だったのもあるけど、下町だと水もけっこう貴重だしね」


 井戸から汲むにしても川から運ぶにしても重労働なので、代わりに安い酒を水分補給に使ったりする。酔ってぼーっとしていればついでに暇な時間がつぶれて一石二鳥だ。

 二人で乾杯してグラスに口をつけると、芳醇な味わいに驚いた。


「美味しい。こんなに美味しいワインは初めて飲んだよ」

「良いワインですね。保存に気を遣っているのが良くわかります」


 肝心のスープのほうもリアは「美味しいです」と言ってくれた。

 銀髪青目の深窓のお嬢様に平民丸出しのスープ。品のある所作が料理のせいで台無しだけれど、


「無理しなくてもいいよ。ちょっと遠いけど寮の食堂も使えるんだし、明日からはそっちに行っても──」

「いいえ、本当に美味しいです。お料理、上手なんですね」

「見様見真似っていうか、独学だよ。母さんからは教わらなかったから、必要になってから必死に覚えたんだ。でも、母さんの味にはぜんぜん近づけそうにない」


 僕を育ててくれた『あの人』はやれ味が薄いだの素材の味が生きていないだの言いたい放題だったので、それを黙らせるためにもいろいろ試行錯誤はした。おかげで食べられないほどの味にはなっていないと思う。

 パンはちょっと硬いけど、スープにひたして食べるとちょうどいい。保存用の木箱もいいやつを使っているみたいで虫食いがあったりもしない。チーズはワインにぴったりだ。美味しいのは一つ一つの食材が上質だからかもしれない。

 せっかくなので味わって食べていると、リアがこっちをちらちら見てくる。パンをスープで柔らかくするのが珍しいのかと思ったら、


「……あの、クリス様のお母様は?」

「死んじゃったんだ。魔法で、殺された」

「───っ」


 リアが目を見開き、口元を押さえた。


「申し訳ありません」

「いいんだよ。隠してたわけじゃないし、知ってもらった方が気が楽だから。リアのお母さんは、まだ元気?」

「ええ、ご健在です。わたくしはほとんどお会いしたこともありませんけれど、肖像画で毎日のようにお顔を拝見しておりました」

「そっか」


 親が生きていても仲がいいとは限らない。あのフランシーヌも学園長から無視されていたし。


「娘に話しかけられて無視するってどういう時なのかな?」

「フランシーヌ様のこと、ですか? ……そうですね。わたくしとしては、学園長という立場上、仕方のない対応かと」


 自分の娘だけを特別扱いするわけにはいかない。学園長と生徒として相対している場である以上、立場を弁えて振る舞うべきだ。そういう考えもあるとリアは言った。


「むしろ、フランシーヌ様の言動こそが心配です。……クリス様、明日からきっと大変になるかと」

「それって、僕が男だってみんなに言いふらされてるって話?」

「はい。この学園に殿方が入り込むことを良く思わない方は多いと思います。みなさまからの視線はきっと厳しいものになるかと」

「そうだね」


 苦笑しつつ頷く。バレたらそうなるだろうな、と思っていたけれど、思った以上に早かった。でも、学園長がそこに反応しなかったように「女子であること」は入学条件じゃない。入試は正式にパスしたのだから言いがかりをつけられても困る。

 そのうえで気に入らない、というのは仕方がない。気にし過ぎたらその方が大変だ。


「気をつける。……でも、それならリアだって危ないよ。そんな僕と一緒に住もうとしてるんだから」


 そう言うと、少女は「そうでした」と口を丸く開いて、


「あの、もしかしてわたくし、殿方を誘う悪女のようになっておりますでしょうか?」

「うーん。悪女には見えないけど、変な目では見られるかも……」


 明日からのみんなの反応を想像したのか、リアは「うう」とうめいて、


「ですが、クリス様に全てを捧げたのは事実ですので仕方ありませんね」

「リア。ものすごく人聞きが悪いからその言い方は禁止」


 これだけは守ってもらわないと、と、僕は彼女に強く言い聞かせた。



   ◇    ◇    ◇



 次の日は学園の入学式だった。

 新入生が講堂に集められて教師などから話を聞かされる催しだ。遅れるとまずいので、僕は学園内の鐘楼から起床の鐘が鳴らされると同時にベッドを出た。

 ベッドが柔らかくて寝心地が良かったお陰で疲れはけっこう取れた。隣のベッドでリアが寝ている。彼女のちょっとした息遣いや身動きする音まで聞こえてくるせいで寝付くのには時間がかかったけれど、眠気もそこまで強くはない。

 まずは朝の身支度から。

 幸い森の傍にぽつんと井戸がある。これも魔道具マジックアイテムで、軽く魔力を注いで起動させるだけで自動的に水が出てくる仕組みだ。うっかり触ってがらくたにしてしまわないよう気をつけながら遠隔で起動させて水がめをいっぱいにする。

 これを家の中まで運んだら桶二つぶん、水がめから汲んで片方を僕が使う。顔を洗ったり手を洗ったり歯を磨いたり。せっかく鏡があるので髪もできるだけ整えた。育ての親から餞別だと櫛をもらっていたのでありがたく使わせてもらう。

 終わったら食事の支度だ。

 生の食材がないので作れるものはあまり変わり映えがしない。昨夜のスープが残っているのでそれを温めて飲み切るとして、あとは炙った干し肉とチーズをパンで挟んで食べることにする。飲み物は昨日空けたワインボトルに井戸から水を汲んできたものを使う。澄み切っていて冷たいから飲み水にも最適。

 大した料理じゃないので手早く進めていると、リアが二階から下りてきた。


「あの、わたくし、もしかして寝坊いたしましたか……!?」

「おはよう。まだ全然大丈夫だよ。ゆっくり準備しても間に合うと思う」


 リアの分の水もまだ冷たいはず。

 学園の鳴らす起床の鐘は貴族のお嬢様基準なのでかなり余裕を持っている。せかせか動く平民には別の意味でちょうどいいけれど、リアは体力を温存するためにもできるだけ寝ていた方がいい。食堂に行くよりは朝食も手早く済むだろうし。


「僕だとメイドの真似はできないから申し訳ないけど」

「い、いえ、そんな。お気遣いなく」


 いかにもお嬢様なすべすべの寝間着姿のリアは「自分の格好に今気づきました」という感じに慌てて二階に引っ込んでいった。自分の分の水桶だけはしっかりと持って。

 彼女が「……お見苦しいものをお見せしました」と制服姿で現れる頃には朝食の支度もきっちり整っていた。

 平民も着ることになるうえ、貴族でもここに使用人を連れてこられるとは限らない。動きやすさもある程度重視された制服は一人でも脱ぎ着がしやすい造りになっているのでリアでも戸惑わずに済んだみたいだ。

 その後は二人で朝食。


「しばらくは大丈夫だけど、なんとかして食材を調達しないとなあ」

「お金でしたらわたくしに持ち合わせがございます。どうぞそれを使ってくださいませ」


 なんでもすると言ったくせに家事もなにもできない。覚えようにもすぐにできるようにはならないだろうから、資金を提供するくらいは当然だ、とリア。

 それはとてもありがたいけれど、


「持ち合わせって、ちなみにどれくらい?」

「はい。当座の資金として金貨百枚ほど。持ち運びが不便ですので魔道銀貨十枚で用意してもらいました」

「いや、それだけあったら二人で三年間暮らせるよ……!?」


 そうだとは思ってたけど、リアの実家はやっぱり相当なお金持ちだ。

 それがどういうことかわかっているのかいないのか、リアはにっこりと微笑んで、


「わたくしの命を救っていただくのです。どうぞご自由にお使いください」

「僕だってリアを助けたくて助けただけなのに、それで金貨百枚って……」


 あまりにも多すぎる。


「うん。……リア、お金は十分すぎるくらいあるみたいだけど、できるだけ節約しよう。お金っていうのはあればあっただけいいし、稼げるときに稼いでおいた方がいいんだ」

「え? ええと……そうですね。確かに、国庫に余裕がないと万が一の際に対応できません」

「国庫っていうのもなんだか妙にスケールが大きいけど、そういうこと。だから、買えるからってあんまりほいほい使っちゃだめだよ」

「かしこまりました。ですが、制服の替えは必要ですよね? それから下着や室内着なども。ある程度の出費は必要かと」

「ああ、それは確かに。僕も服はほとんど持ってないしなあ」


 寝る時はさすがに脱いだけど、結局昨日から制服だ。ひらひらするスカートに視線を落として色んな意味で苦笑すると、リアが穏やかな声で、


「良くお似合いですよ、クリス様」

「いや、あんまり嬉しくないかな……」


 とりあえず、魔道銀貨十枚とかいう怖すぎるお金はなるべく使わないように大事にとっておくことに。盗まれる心配もあるからあまり人に言いふらさないように、見えるところに放置しないように、とリアに言い聞かせたうえで、半分の五枚は家のわかりづらいところに隠し、残りの五枚は僕が肌身離さず持っておくことにした。

 別にそのまま持ち逃げしたりとかはない。リアも信用してくれているのかあっさりとお金を預けてくれた。


「じゃあ、そろそろ行こうか、リア」

「はい、クリス様」


 リアのペースに合わせてゆっくり歩けばちょうどいいだろう。

 僕たちは並んで講堂へと向かって──さっそく、この学園の洗礼というやつを受けることになった。

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