1-5
僕に意味など無かったのです。僕に備わっている感情とは、苦痛に寄生するための順応装置に過ぎなかった。苦痛に振り回される中で、少しでも痛みを和らげようと、嘘をつくためだけの道具でした。
つまりはそこに独立した
それは、過去から覆すことのできない事実でした。けれどあの女がいなければ、それに気づくことも無かった。苦痛に埋没したまま、曖昧な日々を送ることができたのに。
埋没できる自己さえも存在しないのなら、幸福という感情もまた存在し得ません。何が幸福か、定義できる意志がないからです。即ち……苦痛だけが……苦痛が幸福よりずっと多い人生だけが、存在し続けるのです。
今では、あの女を憎んでる気さえします。
そこから先は、何もかもあっという間でした。大学を卒業し、就職し、結婚し、子供を作る、みな気づけば終わっていました。実感がないのです、自分は役者で、台本のままに他人を演じている。そんな錯覚を職場に行く度に、家へ帰る度に、妻を抱く度に、ぼんやりと感じていました。子供を背負っても、自分の一部を分けた人間には思えなくて……最早、苦痛さえ他人に感じるのです。
空気と同じで、楽な方へ流れていきました。ほんの少しだけ足りなかったノルマを、横領で埋め合わせたのです。次の月はもう少し、その次にはさらに、ノルマ以上まで。最後にはあっさりと発覚し、企業は僕をクビにしました。
それでも家族には、仕事を続けているふりをしました。その方が楽だったからです。借金を給料と偽って、夕食には家族で過ごし、休日には遊びに行き、特別な日にはお祝いもして、旅行にも連れて行きました。支払いの滞りを別の支払いで誤魔化し、使えなくなった口座を捨て、闇金へ浸かっていきました。
そして破産し、何もかも持っていかれました。その成れの果てが、この眼球です。
面白い身体でしょう……生きるのに最低限な機能しかないので、栄養薬剤につけておけばいいんです。ギャングかマフィアかも知りませんが、この家と薬剤だけは担保してくれます。引き換えに、企業政府の手当てを天引きするんです。卵を産み続ける家畜ですよ、僕は。
でも、いいんです。この身体になってから、少しも苦しくありません。
何を持っていたところで、それは苦痛が受け止めるだけで、僕には少しも意味がないのです。だから何も持っていない方が、本当に楽なんです。ここで僕が眠っている限り、苦痛もまた眠っているのですから。
存在しないのなら、身体の有無もさえも関係ありません。人であろうと、眼球であろうと。
生きていようと、死んでいようと。
……これで僕の話は終わりです。長い話で、本当にすみません。
でも、どうしても必要だったんです。これから頼むことに、心から納得してもらうために。
人はいつか死に、感情も消える、幻のような現象にすぎません。人が存在しないならば、この世に幸福と言えるものも存在しないのです。例えあったとしても、それは同じく幻のような現象であって、いずれ消えてしまう。いつかこの世界も、星も、宇宙も、全ては暗く閉ざされて終わるでしょう。
眼球になって、ようやくそれがわかりました。それだけが、今の僕がたった一つ信じられることであり、望みなのです。
だからどうか、罪悪と感じないでください。お願いします。
僕を殺してください。
それがこの眼球にしてやれる、最後の――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます