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 僕に意味など無かったのです。僕に備わっている感情とは、苦痛に寄生するための順応装置に過ぎなかった。苦痛に振り回される中で、少しでも痛みを和らげようと、嘘をつくためだけの道具でした。


 つまりはそこに独立した質感クオリアなど無く、付随する思考その他一切に、何もかも苦痛に左右されるに過ぎません。他人が自分を定義する、僕はそう言いました。しかしその他人とは、今も昔もただ一人、苦痛だけだったのです。だから『僕』は存在しても、僕などどこにもいなかった。他人が自己を定義するならば、確たる自己とは、どこにも存在しないのですから。


 それは、過去から覆すことのできない事実でした。けれどあの女がいなければ、それに気づくことも無かった。苦痛に埋没したまま、曖昧な日々を送ることができたのに。

 埋没できる自己さえも存在しないのなら、幸福という感情もまた存在し得ません。何が幸福か、定義できる意志がないからです。即ち……苦痛だけが……苦痛が幸福よりずっと多い人生だけが、存在し続けるのです。


 今では、あの女を憎んでる気さえします。



 そこから先は、何もかもあっという間でした。大学を卒業し、就職し、結婚し、子供を作る、みな気づけば終わっていました。実感がないのです、自分は役者で、台本のままに他人を演じている。そんな錯覚を職場に行く度に、家へ帰る度に、妻を抱く度に、ぼんやりと感じていました。子供を背負っても、自分の一部を分けた人間には思えなくて……最早、苦痛さえ他人に感じるのです。


 空気と同じで、楽な方へ流れていきました。ほんの少しだけ足りなかったノルマを、横領で埋め合わせたのです。次の月はもう少し、その次にはさらに、ノルマ以上まで。最後にはあっさりと発覚し、企業は僕をクビにしました。


 それでも家族には、仕事を続けているふりをしました。その方が楽だったからです。借金を給料と偽って、夕食には家族で過ごし、休日には遊びに行き、特別な日にはお祝いもして、旅行にも連れて行きました。支払いの滞りを別の支払いで誤魔化し、使えなくなった口座を捨て、闇金へ浸かっていきました。


 そして破産し、何もかも持っていかれました。その成れの果てが、この眼球です。


 面白い身体でしょう……生きるのに最低限な機能しかないので、栄養薬剤につけておけばいいんです。ギャングかマフィアかも知りませんが、この家と薬剤だけは担保してくれます。引き換えに、企業政府の手当てを天引きするんです。卵を産み続ける家畜ですよ、僕は。


 でも、いいんです。この身体になってから、少しも苦しくありません。


 何を持っていたところで、それは苦痛が受け止めるだけで、僕には少しも意味がないのです。だから何も持っていない方が、本当に楽なんです。ここで僕が眠っている限り、苦痛もまた眠っているのですから。


 存在しないのなら、身体の有無もさえも関係ありません。人であろうと、眼球であろうと。

 生きていようと、死んでいようと。




 ……これで僕の話は終わりです。長い話で、本当にすみません。


 でも、どうしても必要だったんです。これから頼むことに、心から納得してもらうために。


 人はいつか死に、感情も消える、幻のような現象にすぎません。人が存在しないならば、この世に幸福と言えるものも存在しないのです。例えあったとしても、それは同じく幻のような現象であって、いずれ消えてしまう。いつかこの世界も、星も、宇宙も、全ては暗く閉ざされて終わるでしょう。

 眼球になって、ようやくそれがわかりました。それだけが、今の僕がたった一つ信じられることであり、望みなのです。


 だからどうか、罪悪と感じないでください。お願いします。


 僕を殺してください。


 それがこの眼球にしてやれる、最後の――――

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