白杖のスピカ/蕃

よまのべる

白杖のスピカ/蕃

すっかり薄くなった煎餅布団に横になって目を閉じていると、どこからか聞こえてくる音があった。トントントン、と規則的なリズムでそれは繰り返され、しばらくすると満足したかのように止まる。

 上下左右の部屋の生活音が聞こえてくるような築三十年のマンションで、苦情を入れてもおかしくないようなその奇妙なリズムは、不思議と佐伯の心を安堵させた。

 豆電球ひとつも当分付け替えてないような真っ暗闇の中、彼は遠くで鳴いている蛙の声に耳を澄ませながら、やっと今日が終わるのだと眠りにつくのだ。



 佐伯達也は、自宅の敷地内にある小さな公園のベンチに、ひとり茫然と座り込んでいた。真っ青に晴れた空の色さえ霞んで見えて、落ち着こうと何度深呼吸を繰り返しても、とめどもない溜息が出て、次には喉がつかえそうなほど息が浅くなる。

 一週間前に始めたばかりの、コンビニエンスストアのアルバイトをクビになった。今までも数々の職場を転々としてきたが、どれも長くは続かない。早朝からの勤務で、フルタイムで入れると伝えたのに、週二日でシフトは組まれ、そうして今朝クビを告げられた。宣告されたものの、なんとなく癪で「本日付け、自己退職でお願いします」と伝え、逃げるように自宅までの帰路についた。どうやってここまで辿り着いたのか記憶が曖昧だ。手には飲めもしない酒の缶が三本詰められたビニール袋が下げられている。

 昔からこんなんばかりだ、と佐伯は自分の人生に思いを巡らせた。デザイン系の専門学校を出て三年。ウェブデザインは自分の性格に合っていると思った。対して友達も作らず、黙々と真面目に勉強に勤しんだ。両親はそんな佐伯を見て心配こそすれど、達也がそれでいいなら応援するよ、と寛容だった。

 卒業してすぐに就職を機に実家を出た。実家よりは都心部に近い、ほどよく田舎のそこで、佐伯は今暮らしている一室を借りた。

 佐伯は不器用な男であった。会社のルールはきちんと守った。仕事も丁寧にこなした。しかつらしい男だった。しかしいかんせんコミュニケーションが下手だった。真面目にやろうと思えば思うほど「もっと融通を利かせろよ」と先輩社員に言われる始末。おまけに親切心で接した女性社員に「下心がある」と噂を立てられた。

 佐伯自身が波間を滑走するサーファーのように、社会の荒波を渡っていけるのであれば、それでも問題なかったのかもしれないが、彼にはおちゃらけてみせる愛嬌も、転んだついでにでんぐり返りをしてみせる柔軟さもなかった。

 縁の厚い黒縁の眼鏡をかけて、神経質そうな顔をしたそれはいつしか目に見えてやつれていき、とうとう朝起き上がれなくなってしまった。人を傷つけてはならないという正義感と、口数と反して人一倍意見があった。それらの軋轢で冷や汗をかいて、床を這うようにして震える指先で心療内科を予約した。「適応障害」の診断がついた。就職した会社は半年も経たないうちに辞めてしまった。すっかり心は折れてしまったのだ。

溜息を吐いた。公園にいるのは子連れの母親と子供達ばかりである。佐伯は空気と変わらなかった。ここにいる人間には誰も俺が見えていないのだと彼は思った。

明日からの生活をどうしようかと考える。今までと同じようなアルバイト生活では結局堂々巡りではないかと焦燥感に焼かれる。ではどうすればいいのかと細々しい判断をするような気力はもう佐伯には残っていなかった。実家に帰ろうか。しかしそんなことすれば初老の両親に心配と迷惑をかけてしまう。いっそ―― 酒の缶に目を遣る。病院で処方されて、キッチンのカウンターに置いたままにしてある大量の精神安定剤や睡眠薬が頭に浮かんだ。   

あれらを酒で一気に飲み込んだら死ねるだろうか。そんなことがふと頭をよぎった。

頭を左右に振り、よくない考えだと払拭する。挙動不審な動きをこの公園にいる誰かに見られているだろうか。長く伸びた前髪の隙間からあたりの様子をうかがう。奇声をあげながら縦横無尽に駆け回っている子供達も、立ち話に夢中になっている母親達も、誰も彼のことなど見てなかった。頓珍漢な自意識に頭を垂れて、地面にめり込んでしまいそうだった。

ふと視線を上げると、マンションのエントランスに設置されているエレベーターから、ひとりの少女がゆっくりと、しかし確かな足取りで、佐伯のいる公園へ向かって歩いてくるのが見えた。

十歳くらいだろうか。見かけない少女だった。真っ白な白杖を器用に使って、でこぼこしている木の根をよけて、平らなアスファルトの上に降り立った。降り注ぐ白昼の日差しは、少女の色白の顔に、色濃く陰影を描く。わずかに桃色に染まった頬は幼く、しかし距離が近づくごとに、少女のくっきりとした二重や筋の通った小さな鼻に佐伯は目を奪われた。こんな子がいたのだろうか、と思った。開かれた瞳は視線をやや空のほうへ彷徨わせ、しかし足取りだけはしっかりとしている。肩で切りそろえられた豊かな黒髪を揺らしながら、ベンチへ向かって一直線に歩いてくる。

そこら中に子供達は走り回っていて、少女にぶつかりそうになるのを咎める親もいれば、会話に忙しく気づいていない親もいる。響き渡る子供達の奇声。動物園みたいだ。佐伯は、はらはらした。もし他の子とぶつかりでもして、倒れてしまったらどうしよう。怪我をするかもしれない。近づいて行って声をかけるべきか――

 佐伯はそんなことを考えていた。少女から目が離せなかった。

しかしそんな中を白杖の少女は気にも留めず、慌てもせず、いっさいに影響されないで進んでくる。いつぶつかってもおかしくないのに。目に見えない何かが少女を守っているかのように、佐伯の心配する事態は起きなかった。人が彼女を避ける。それが続いて、彼女の歩く道はまるで彼女だけが歩くことを許された道のように拓けていた。

器用なもんだな、と佐伯は思った。その姿に神々しさすら感じた。

そのうち佐伯の座るベンチに到達した彼女は慣れた様子で、ベンチの位置を白杖で確認する。その拍子にそれが佐伯にこつん、と当たった。少女は驚いたようで体を揺らした。

「おえん」

思っていたよりも低く落ち着いた声音だった。小さな胸の膨らみは、あどけない少女らしさを主張している。落ち着いた見た目からは判断できないか弱さを、佐伯は静かな目で見据えた。少女の発した「おえん」は、どうやら「ごめん」と言っているらしかった。せわしない様子で彼女はぺこりと頭を小さく下げている。独特の発音で佐伯に謝罪した彼女は空虚な視線をさまよわせながら困った様子だった。

「大丈夫だよ。横にずれるよ。はい、どうぞ」

そう少女に告げて、佐伯は彼女が座りやすいように席を譲ってやった。少女は無言のまま再度会釈をして、ベンチにゆっくりと背を向け、尻をそろっと下ろした。

佐伯と少女は少しスペースをあけて並んで座った。普段なら、やれこの状況は自分が不審者だと思われて変な目で見られるかもしれないと、過剰な自意識に溺れる佐伯であったが、不思議と今日はそうはならなかった。

「ここよく来るの?」

その音に少女は反応する。

「ん?」

どうやら少女は目も見えないばかりか耳も悪いようであった。しかしまったく見えていないわけではなさそうだった。よく観察すると物の動きを視線で追っている。耳も先ほどの謝罪を聞くに、ぼんやりとは聞き取れているのだろう。その小さな右耳には補聴器が取り付けられていた。風にそよぐ葉の影や、公園にいる子供達がでたらめに蹴ったボールの行方を気配で探っているのがわかる。物が動いたり、音が鳴るほうへ全神経を集中させているようで、気配や音の行き先へ顔が傾くのを見て、佐伯は感心した。少女の顔は穏やかに微笑んでいる。辺りの様子を感じるのが楽しいのだろう。

佐伯は小学生の頃に、特殊支援学級に盲目の女の子がいたことを思い出していた。二十人前後のクラスが各学年にふたつあるだけの小さな小学校だった。その女の子は学年は一緒で、目こそ見えないが、けらけらとよく笑うヒマワリのような女の子だった。生まれつきの明るい茶髪は華やかで、ハンディキャップを感じさせない気の強さとユニークさを持ちえた子だった。佐伯はその子にひっそりと好意を寄せていて、何か彼女の役に立てることはないかと、隙あらば彼女の周りをうろうろとしたが、そんな気遣いなどは不要だと言わんばかりに、彼女はなんだってできてしまった。彼女のためになんにもできない自分が、佐伯にはなんだかとても残念だった。同級生や先生は、ごく自然に彼女に接しているのに、自分はでくの坊になった気分だった。

当時佐伯が通っていた学校よりも、手厚い支援の受けることができる学校に転校するのだと、彼女は朗らかに告げて、転校していった。

そのときの寂しさを佐伯は思い出していた。元気だろうか。そう考えて、佐伯はふと笑う。元気に決まっているし、きっとあの子は邁進するべく持ち前の明るさを持っていろんなことにチャレンジしているはずだ、と。そこまで考えて、自分のいらない気遣いが恥ずかしくなって、隣に座る少女を見遣る。

風を感じている様子の少女を微笑ましく思うが、年齢にしては痩せた体と不健康そうな顔つきが気になった。色白の肌からは、年相応の女の子らしい生気は感じられず、小綺麗にしてはいるけど、彼女が持つ雰囲気の危うさは佐伯に不安感をもたらした。

――なんというか……

佐伯は自分の中にある違和感の根底を探す。静かな微笑みを浮かべている少女になぜこんな感情が沸き起こるのか、何か理由があるはずなのにすぐには浮かんでこない。

「ごめんね」

佐伯はそう小さく呟いてから、白杖を持っていないほうの少女の右手を三回ノックした。少女はびっくりしたようだったが、顔を佐伯のほうへと向ける。

「さえきたつや おなまえは?」

少女に伝える手段がうまく浮かばなくて、少女の手のひらを取ってそこにひらがなで自分の名前を書いた。すると少女の表情はなにかひらめいたかのようにぱぁっと明るくなる。これで伝わらなければ、深入りはせずに部屋に帰ろうと思っていた佐伯は少し安堵した。

「しろいはな」

今度は少女が佐伯の手を取って、佐伯の手のひらにそう書きこんだ。細くて小さな指先は、少しだけいびつに、だけれど彼女の名前をはっきりと汗ばんだ手のひらに刻む。佐伯は少女がこれだけのハンディキャップを抱えながら、文字を覚え、他人とコミュニケーションをとれることに素直に驚いていた。そしてそれは自己嫌悪でいっぱいだった彼の心に不思議と感動をもたらしていた。

「華! ひとりで行かないでって言ってるでしょ!」

 女性の大きな声が響いたのはそのときだった。

四十代前半くらいのその女性は、先ほど少女がきた方向から、佐伯と華の座っているベンチに向かって一目散に早足で向かってくる。その一歩一歩は音が聞こえてきそうなほど暴力的な動きだった。彼女のその異様さに先ほどまでこちらを見向きもしなかった主婦たちの視線が一瞬だけ佐伯や華達に向けられた。


(中略)


 佐伯は覚醒する。ドンッと強い音が上の階からしたからだ。そこにはいつもの規則的なリズムはなく、しんとした妙な静けさがあった。昼間に少女が地面に刻んだ妙な形のことを思い出していた。その形を佐伯は何故だか忘れられなかったのだ。それはヒマワリの彼女がかつて教えてくれたものだった。詳しくは覚えていないが、簡単な五十音と、彼女が教えてくれた名前の並びだけは今でも覚えている。慌てて、佐伯はスマホで調べだす。上階からの静けさが迫ってくる。早くしなければ、と思った。それは動物的な直観だった。


⠰⠠⠎⠠⠕⠠⠎


SOSだ。彼女は点字のSOSを刻んでいた。佐伯は起き上がる。スウェットの首がのびきった、だらしない部屋着姿のままだった。なんだったら、少しだけ先ほど吐き出した吐しゃ物もついている。だけれど彼は構わなかった。佐伯は衝動的に突き動かされていた。彼は、生まれて初めて損得勘定や後先を考えることなく古びた鉄製の扉をなかば蹴破るようにして開けて、その勢いのまま上階への階段を駆け上がる。彼の顔は、湧き上がる喜びで満ち満ちていた。彼は「良いことをしている自分」に溺れたかった。他者のためではなく、ほとんど自分のため。何が彼をそうさせるのか彼自身もわからなかった。彼のエゴだった。だって、ヒマワリの彼女のことだって今もはっきりと顔は思い出せない。だけれど「かわいそうな」彼女を庇護したり助けることは、佐伯の歪な心を隅々まで満たしていた。その感情に名前を与えるとするならば「偽善」か。いやそんな綺麗な名前ではないだろう。自己陶酔か。ゆがんだ心の形を真正面からとらえることを佐伯自身は今まで否定していた。認めてしまえば、醜さに生きていられなくなると思ったからだ。善良でいたい。まともでいよう。そういう建前を取り払った佐伯は、溌剌とした笑みを浮かべた。俺は俺の思う可哀想を、全力で救おうとしている!

 佐伯は自分の部屋の真上にある一室のインターフォンを鳴らす。辺りはしん、と静かだった。芽吹きを深めた緑の匂いが鼻腔を刺激する。いやな緊張感で心臓が脈打って吐き気がした。足は不自然にがくがくと震えている。しかしだらしなく微笑みを象った顔面。

 もう一度インターフォンを鳴らすと、中からわずかに物音がした。一度だけ強く。それは少女が白杖で何かを突いた音のように聞こえた。それからすぐにまた部屋の中は静まり帰ったので、佐伯は間髪入れずに警察へと通報を入れる。警察へと連絡をするのは初めてだった。佐伯はかつてないくらい興奮していた。

ほどなくて駆け付けた二人の警察官に観念したのか中の住人は玄関を開けた。あざだらけになった母子が雪崩れるようにして部屋から出てきたとき、佐伯の心はとても晴れやかなものになっていた。

「大丈夫だよ。もう大丈夫」

 泣き崩れ、恐怖にわななく少女に佐伯は声をかけ、肩口に触れる。少女は誰だか気づいたようで彼の方へと顔を向ける。

「あいがとお」

 拙く小さな声で感謝を述べる。華の母親は先ほどから警察官に羽交い絞めされ泣き叫びながらなにやら罵詈雑言を吐き続けている。それは家に帰らない旦那や、華を育て、社会から剥離されてく孤独、思ったように助けてはくれない世間や行政への不満。とめどもなく次から次へと吐き出された。騒ぎで近隣の住人達が扉や窓の隙間からそっとこちらの様子をうかがっているのがわかった。

佐伯はもう笑みを隠すことさえできなかった。満足だった。絶頂だ。俺はヒーローだ。か弱い少女を救ったヒーローなんだ、と喜びで胸がいっぱいになり、興奮で息も絶え絶えだ。佐伯の荒い呼気を感じて、ただ事ではないその雰囲気を察知したのか、華は一文字に口を結ぶ。その様子を見て、まずいと思った佐伯はすぐに顔を真顔にしようとした。自分の卑しい下心が華に伝わってしまったような気がして、冷や汗が首筋を伝っていった。

 しかし少しの間、佐伯の様子をうかがっていた華は、彼の手にそっと触れて、怪しげな笑みを浮かべた。丈の長いTシャツ一枚着せられたむき出しの丸い膝は、汚れて傷んだコンクリートの上で冷たくなっている。小石が食い込んで、いくつもの跡を残した。その白い頬を、パトカーの赤色灯の灯りに染められている。昼間に見た少女のあどけない表情は跡形もなく、幾分も大人びて見える。空虚な黒い瞳はどこまでも深く、暗い。

 華と母親はパトカーに乗せられていく。佐伯はその様子を見届けながら、茫然と立ち尽くしていた。全能感のひいていく脳と体は妙にすっきりしていて、しかしまた別の感情や衝動が佐伯の心に溢れだしていた。そして耳の奥では去り際に聞いた華の低くて冷たい声がリフレインする。

「ほんとに、あいがと」



(中略)


繊細なクローバーとシロツメクサの模様が施された白杖を持つ女性が自分の部屋を訪れてきたとき、佐伯は心底驚いた。だってもう会うことはないだろうと思っていたから。

だけれど佐伯は彼女を養うには十分な生活をしていた。どこかで穏やかに暮らしていることを願いながら、いつかもし出会うことがあればかつての少女に見合うような男になろうと、あれから佐伯は努力した。いわゆる異性としての「見合う」ではなく、白杖の少女ひとりくらいなんの躊躇いもなく「守れる」ことができるような自分になれるよう、仕事をみつけ、丁寧な暮らしをし、体を鍛えて、すっかり角の取れた三十代の男性になっていた。職場でも結婚の話や「いい子紹介するよ」と声をかけられたが、静かに微笑みながら佐伯は軒並み断っていた。普通の生活や、幸せな結婚に、佐伯は価値を見出せなかったからだ。自分の心を満たすのは、なにものにも代え難いエゴだ。佐伯は誰かを救う自分をイメージする。困っている人、行き場のない子猫、深夜の町を徘徊する老人、迷子になった子供、弱い人、人、ひと、ヒト。そしてそれらを助けたあとにある称賛の嵐! 佐伯は不自由や不幸に目を光らせて、それらを救うことに忙しかった。つい先日も線路に落ちた酔っ払いを引き上げ、感謝されたばかりであった。しかしそのどれもが、華を救ったときの歪な絶頂感には勝てなかった。

佐伯は華のことが忘れられなかったのだ。深夜眠りにつく前の布団の中で、幼い華を救うシーンを脳内で何度も反復する。その最たる成功体験と、華ほど救いがいのある人間もいるまいと適度に世間から目を背けて仕事に打ち込むような生活が、佐伯を人らしめていたが、一歩踏み外せば自分はまともな人ではいられなくなるぞ、と彼自身は自戒していた。

先日読んだ、代理ミュンヒハウゼン症候群について書かれたネット記事の内容が、佐伯の頭から離れなかった。自分の子供に薬物などを飲ませ、病的な状態を作り出し、身を粉にして看病や献身をすることで周囲からの同情を得る。それに気持ちよくなって何度も繰り返してしまう、心の病だ。他人事ではなかった。自分自身はぎりぎりのところで、まともな人間生活をやれていると思っていた佐伯は衝撃を受けた。いつかは自分も、夢想の中の華を救うことに飽き足らず、なにか第三者を巻き込んでしまうような病的な状態に傾倒してしまうのではないか、と。

華が再び自分の前に現れたのは、ちょうどそんなことを考えていたタイミングだった。長年暮らしてきたマンションから引っ越して、次の場所で生活してみようと思い立ち、新しい住処を見つけた矢先だった。職場のある横浜にほどよく近く、暮らすのには十分な居場所を見つけることができた。保護猫の里親が見つかるまでの預かり先として活動しようと、ひとりで暮らすには少し広めのペット可の物件を借りた。

「おいしい」

華は喉が渇いていたらしく、辺りに誰も乗客がいないのを佐伯に確認してから、乗車前に買った冷たいフルーツティーを少しだけ飲んで、微笑む。ペットボトルの表面には水滴が浮かんでいる。佐伯もそれに微笑み返す。

祖父母宅で行き届いていなかったケアを受けた華は、視覚の障害以外は補聴器を使えばほとんど不便なく生活できていた。持ち前の愛嬌と頭の回転の速さに佐伯は頭が上がらない。今は佐伯宅にいる三匹の子猫の世話をしながら、点字の翻訳の仕事をしていた。その丁寧な仕事ぶりは評判が良かった。佐伯は華に陶酔していた。

二人の左手の薬指には揃いの指輪が輝いている。永遠を誓うメビウスリングは、窓から差し込んだ光を反射させて、まばゆく煌めく。

「でも本当にいいの?」

佐伯は華に尋ねた。二人はこれから相模大野を経て、経堂へと向かう。行方の知れなかった華の母親は経堂で暮らしていた。古いアパートで、パートの仕事をしながら、ひとりで暮らしていいた。

「いいの。だって」

華は続ける。少しだけ目を閉じて、考え事をしたあと、開かれた瞳は相変わらず虚空を見つめていた。柔らかな弧を描いた目はきらきらと輝いた。

「昔のことだもの」

頑丈になった杖の中に、母親を殺害するための仕込みが隠してあった。華はもう一口フルーツティーを飲んだ。凹凸の少ない滑らかの喉の動きから佐伯は目が離せなくなる。華はにやりと微笑んだ。

風は春の訪れを一瞬で攫っていく。散った花弁の行く先がどこであるかを、誰も知らない。













  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白杖のスピカ/蕃 よまのべる @yomanovel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ