ESP/中星

よまのべる

ESP/中星


 「いいか。何事も事前の計画と準備が一番大事なんだ」細く小さな鍵穴に針金を差し込む僕の隣で大原の兄貴が大柄でその豪快な見た目空は想像のつかない繊細なことを言う。

 兄貴といっても本当の兄ではなく、この仕事を僕に教えてくれる兄貴分としての兄貴だ。本人はこの年にもなって兄貴という呼ばれ方がむず痒いと嫌がるが、他の言い方が特段思いつかず、いまだに大原のことを兄貴と呼び続けている。

 真夏の暑さはじっと玄関の前に跪く僕の後頭部を焼き付けに来ていた。強すぎる八月の日の光に温められた空気が慎重な僕の両手にまとわりつく。

「慎吾、あとどれくらいでいけそうだ?」兄貴はご自慢の海外で購入したというロゴのアルファベットが一文字おかしな有名ブランドの偽物時計で時間を確認しながら言う。イライラしている様子もない。

「後一分もかからず開くと思いますよ」僕は兄貴と行った予行練習を思い出しながら薄いゴム手袋越しの感覚に集中する。

 ほどなくして予定通り鍵穴がきれいにガチンと音を立てて回った。ホッと息を吐きだすと緊張と力みが一気に抜ける。

「安心するのは早いぞ。ここからが本番だ」まるで僕の気持ちを見抜いたかのように注意する。それでも明るい兄貴の声に岩石を組合わせたような四角い顔を覆うマスクの内側ではにやりと笑っているのがよく分かった。「とはいえ、今、この部屋の人間は仕事に出かけているからそんなに心配しなくてもいい」

 真昼間のマンションには兄貴の事前調査通りほとんど人の気配がない。それでも慎重に開いたドアが軋む音に緊張しながら体を中に滑り込ませた。

 玄関にはスニーカーとサンダルが一足ずつ。壁掛けのキーホルダーには何もかかっておらず、部屋の主人が仕事に出ているのは本当のようだ。

 兄貴が鞄から出したスリッパに履き替えたところで兄貴は僕の方に振り返る。

「さて、ここで今一度確認だ。この部屋の住人の情報は覚えているか?」

 僕は事前に兄貴から一夜漬けの学生のように詰め込まれたプロフィールを呼び起こす。一緒に渡された写真にはつまらなそうにこちらを見つめている女性の証明写真だった。細身で大きな眼鏡をかけた彼女はまるで自分からそう受け取られるようにしているかのようだった。

「確か、碓井由紀。二十九歳。独身。文房具メーカーの営業事務。出勤は月曜から金曜で毎朝七時半には家を出て帰ってくるのは八時前後。目立った浪費癖もなく、給金はそれなりに持っているはず。でしたっけ」

「よく覚えているな。ではこの後の俺たちのやるべきことは?」

「十五分程度で現金を盗ってカギをかけて逃げる」僕はマニュアルに書いてあったことを読みあげるように答える。

 兄貴は満足そうにうなずくとついてこいと言わんばかりに首で指図をして廊下の奥へ進んでいく。事前に調べていた間取りではこの奥にリビングがあり、大抵の人間であればそこに現金や貴重品が保管されている。

 盗みはするが人に危害を加えない。それが兄貴の心情であり、僕がこんな仕事とはいえ兄貴を師事している理由の一つだ。

 兄貴がドアノブに手をかけようとした時、明らかにドアの向こう側から何かが倒れたような大きな音が鳴り響いた。誰かいるはずがない。兄貴の計画通り朝からマンションの近所で監視をしていた僕達は確実に碓井が家を出たのを目撃している。

 事前の打ち合わせでは不足の事態が起きた時にはまっすぐ背を向けて逃げるというのが僕らの鉄則だったが、その時そっと体を引いた兄貴と入れ替わるように前に出た僕の手は無意識にドアノブを捻っていた。

「おい、待て」兄貴の制止もどこか遠くで鳴った知らない人の声程度に僕の耳から脳に届かない。

 先ほどの玄関とは異なり音もなく開いたドアの向こうから僕の目に映ったのは締め切られたカーテンの隙間から漏れる日の光に照らされた黒いタイトスカートだった。風もない部屋の中でゆっくり揺らめくそれはただでさえ不気味な状況に拍車をかけていた。

「誰? あんたたち?」

 ふと視線を上げるとスカートは宙に浮いているわけではなく、わかりずらいが暗い色の椅子が部屋の中央に置かれており、その上にあの写真の女性が立っていたのだ。

「逃げるぞ」僕の手を引く兄貴を引き返すように僕はそこに居座る。

「兄貴、だめだ。助けなきゃ」再び強く手を引こうとする兄貴も僕と同じものが目に入り立ち止まる。

「誰でもいいけどそれ以上近づかないで。それ以上近づいたら私死ぬからね」そう啖呵を切る彼女の手には太いロープがちょうど頭が通るサイズの輪を作って握られていた。

「ちょっと待ってよ。なんでそんなことしてるのさ」僕は必死に頭を回転させる。ここで彼女を死なせてしまえば僕たちは一人の人間を殺したことになってしまう。その恐怖が何より僕を底にとどまらせた。

「あんた達もろくなことで不法侵入してきたわけじゃないんでしょ?」実際の高さのせいもあるが碓井が僕らを見下している目はおおよそ人間に向けるようなそれではなかった。「どうせ私死ぬからそしたらそこら辺にあるものは勝手に盗って行っていいよ。どうせ私にはもう使わないし」

「まぁ、ここで出会ったのも何かの縁だ。話くらいしようや」兄貴はそう言って進むとリビングにある椅子を引いてドカッと座る。ロープを握る彼女の手に力が入ったのがわかる。

「そうだよ。悩みがあるなら知り合いや親より僕らみたいなやつらの方が話やすいんじゃない?」

 僕が咄嗟に言った言葉を彼女が納得したようには思えなかったが、そのまま手持ち無沙汰になった僕が胡坐をかいて床に座り込むと、金品を狙って不法侵入した泥棒が二人、座り込み、部屋の住人が今にも首を吊りそうな恰好で立つという世にも奇妙な空間が出来上がってしまった。

 一体どれくらいの時間が経ったかわからないが、ふと彼女がか細い声で話し始めた。

「誰も私を理解してくれない」それは小中学生が不貞腐れて自分の世界に閉じこもるようなセリフでスーツ姿の女性が口にするにはあまりに幼稚に感じた。

「そんなこと当たり前だ。そうじゃなきゃ俺らだってこんなことしてないし、きっと誰も俺たちのことなんて理解してくれない」兄貴からはもうどうにでもなれと言わんばかりの覇気を感じる。

「そういうことじゃない」彼女の気弱そうな見た目からは想像できないほど大きな声で否定する。「私、超能力者なの」

「ワタシチョウノウリョクシャナノ」意味が理解出来ずにまるで音声の読み上げ機能のように僕が繰り返す。

「ほら、信じない」彼女は絶望したように大きなため息をつく。

 僕はようやく彼女の言葉の意味を理解し自分の口にした言葉のまずさに気が付く。しまったと思ったと同時に彼女は椅子を蹴って宙に浮く。僕は何も考えずにとにかく言葉を口にする。

「じゃあ同じだ。兄貴も超能力者だからさ」

「え?」

「そうなの?」

 椅子に座る兄貴が目を丸くして僕を見つめたのと彼女が希望に満ちた顔でこちらを見たのはほとんど同時だったと思う。

 それ以上に僕の目の前には驚きの光景が広がっていて、これ以上言葉を口にすることが出来なかったのだ。

 椅子を蹴り、足場を失ったはずの彼女はロープを握ったままだった。それでも彼女は床に降りてくることはなく先ほどと同じ高さに立っている。いや宙に浮いているといった方が正しいかもしれない。それだけでなく天井に視線を移すとこの部屋には梁等はなく、彼女の握るロープの先もピンと天井に向けて伸びているだけで何かを支えにはされていなかったのだ。


 B


 目の前で起きていてもどうにもできないことなんて世の中に数えきれないほどあることを僕はひしひしと感じていた。

 ここ最近の下校時間が苦痛でならなかった。元々途中までは他の生徒もいるが家が近づくにつれ、皆それぞれの家に帰っていき、気が付けば博人と自分しか道を歩く子どもがいなくなってしまうからだ。

 博人がキズだらけで下校するのを見るようになって半月が経った。ひとつ前の分かれ道で僕と博人以外の最後の同校生が僕らとは違う道に行った。

「博人、大丈夫?」僕はこの機会を待っていたかのように博人に走り寄って話しかける。

「別に、正弘こそ、俺に話しかけない方がいいよ。お前まで晃たちにやられるよ」博人はぶっきらぼうに答える。ここまではいつもの恒例だ。

 晃は絵に描いたような僕らのクラスのボスだ。しかもたちの悪いことに大人や教師たちの評判はすこぶる良い。僕の母など「正弘も晃くんみたいにしっかりとしなきゃ」と僕を叱るくらいだ。

 その度に僕は「博人をいじめているボスはあいつだ」とでも大声で忠告したくなる。

 露骨に殴る蹴るなどの危害は加えていないものの、偶然を装って手下の仲間たちと博人を小突いたり、庇うようなふりをして博人が出来ないことをクラス中に聞こえる声で言うことはしょっちゅうだった。その度に博人の幼馴染であった僕は九歳と自分達でもわかるほど幼い子どもからあふれる黒く粘着質な空気に怯えながら、目の前で博人が傷つけられていくのを見ていることしかできない自分に腹が立った。

「でもなんで晃たちは博人にあんなことをするんだろう」僕は心底不思議に思う。何かきっかけになるような事件があったわけでもなかったはずだ。


  (中略)


「俺に任せとけって。そんなのちょちょいのチョイで解決してやるって」慎吾さんはきれいな並びの歯を見せながらぐっと力こぶしを作って見せた。

 慎吾さんの背中から「それ、誰がやると思ってるのさ」とイライラとした女性の声がする。

 あぁ、あなたもそちら側なんですね。と僕は丁寧な言葉遣いの諦めを飲み込みながら、先ほどから笑う様子もない女性ですら真剣な顔をしていることに驚きを隠せないでいた。

 僕はまた目の前で起きることをどうすることも出来ず、ただ眺めていた。


 A


 僕と由紀さんが一緒に暮らし始めて一か月が過ぎようとしていた。

 あの日、由紀さんの部屋で彼女の宙に浮く世にも奇妙な首つりを止めた僕と兄貴は厳正なる協議の結果、後輩である僕が半ば押し付けられるように彼女の身元を引き取ることとなった。

正直、事前の調査では僕らに比べて何百倍もましな職業に就いていた彼女に身元の引取等いらなかったとは思うが、ここまで関わっておいて放って帰る気にもなれず、半ば誘拐のように彼女についてくるように指示した僕たちにすんなりと彼女が付いてきてしまったことで、気が付けば僕の狭いアパートで二人暮らしをしている。

兄貴はと言えば、あの日以来、僕には卒業認定だと言って独り立ちを勧めてきた。確かに僕らの仕事は人数が増えれば便利になる反面、リスクも倍増する為、単に僕が足手まといになっただけとも考えられるが、それを直接は言わずに時折、情報交換や成果の確認をしてくれるあたり厳しい見た目からあふれ出るやさしさを隠しきれていない様に思えた。

「よく考えたらあんな都合よく私と同じ力を持った人が現れるわけないのにね」由紀さんは兄貴との待ち合わせ場所のカフェのこじんまりとした丸テーブルの上で来たばかりのカフェオレに指をかざして空中でくるくると回転させる。

 「ミルク」彼女がつぶやくと指の動きに合わせてまるで巻き戻しの映像でも見ているかのようにミルクとコーヒーが分離していく。やがて完全な黒と白に分かれると今度は指を滑らせてかわいらしい豚の顔を描いていく。

「君たちがあんまり必死に嘘をつくもんだから信じちゃったじゃないか」

「でもあの時はああいうしかなかったんだ」僕は今でも目を瞑るとあの時の緊迫した状況を鮮明に思い出すことが出来る。「それより由紀さん、そんな豚のラテアートはなかっただろ。そんなことしたら超能力者だってばれちゃうよ」

「君はこの数十秒間に大きな間違いを三つもしている」僕の指摘にムッとした由紀さんは背もたれに体重を預けて腕を組むと少し低い声で言い返す。「一つ、近所の少年に簡単に私のことをばらしちゃう君にそんなこと言われたくない。二つ、そもそもあれから君と一緒にいろんなところで力を使ってきたけど誰も気が付かなかったじゃん。本当に二十年以上も隠して苦しんできた私の人生は何だったのか。それと三つ目。これが一番大きな間違いだよ」

 由紀さんが不意に僕の前に人差し指を出して言う。真剣な目には明らかな怒りが宿っている。そのまま指は反転し、彼女の目の前のカフェオレだったものを指指した。

「これは豚ではなく犬だよ」

 それから兄貴が店にやってくるまではそう時間はかからず、彼女の絵心なのか僕の見る目なのかどちらが足りないのかわからなくなる話し合いはどうにか引き分けに持ち込むことが出来た。

 いつもなら明るい声で入店してくる兄貴は思いのほか暗い表情で扉を開いた。昔ながらのカウベルがドアの勢いに合わせて乾いた音を響かせた。

 「おう」と短く挨拶を済ませると僕は責を譲って雪さんの隣に座り直す。兄貴は長い溜息をつきながら座るとカウンターの向こうで音楽を聴きながら新聞を読むマスターを呼ぶ。

 マスターが来るより早く「いつもの」と注文をすると、来ることが分かっていたかのようにいつものウィンナーコーヒーを持ってくる。兄貴はこの喫茶店でそのメニューしか頼んだことがない。

 しばらく今までの雪さんと僕にはなかった緊張感が僕たち三人の前に漂った。兄貴がコーヒーから立ち上る湯気を繊細に表面だけを覚ますような弱弱しく息を吹きかけて一口飲む。そして何かを決心するようにうなずくと兄貴が相変わらず暗い声で話始めた。

「今日は突然来てもらって悪いな」

「何言ってるんですか。兄貴の頼みなら飛んできますよ。どうせ仕事もできなくて暇ですし、大体、仕事は多くても月二回。それ以上は住人に恐怖が広がって危険になるって言ったのは兄貴ですよ。それに……」

「兄貴さんの呼び出しはいつも突然じゃないですか」言い淀んだ僕の代わりに由紀さんが言葉をつないだ。

 ははっと気まずそうに兄貴が笑う。

「いや、実は下手こいてしまってな」

「下手こいたって、まさか顔を?」見られたのか? とはあまりに怖くて口にできない。僕らの世界で顔を見られる。姿をとらえられることは何よりも恐ろしい。

「ある意味それ以上に恐ろしいかもしれない」そう語る兄貴の唇が緊張に震えている。「山崎大和という男を知っているか?」

「山崎……」僕は兄貴に仕事を教えてもらい始めた時、一番初めに教わったことを思い出す。「ヤマヤマには関わっちゃいけない」当時教えてもらった言葉をそのまま僕が口にすると兄貴が無言でうなずく

「先週お邪魔した家がヤマヤマの別荘だったらしく。あんまりうまく隠すもんだから一般人の家かと思っちまったんだ」だいたいこんな住宅街に別荘建てるなよと兄貴が悪態をつく。

「それは大変ですね。でも気が付いたってことは何も盗らずに帰ってきたんですか?」

「いや、気が付いたのは金目の物と思ってこいつを持って帰ってきてからなんだ」そう言って兄貴がポケットから金色の小さな駒のようなものを取り出す。

 駒を慎重に傾けると、それが判子であることがわかる。よく見るとカタカナで「ヤマヤマ」と刻まれている。

「俺の知る限りこんな趣味の悪い判子を持つのはあいつしかいない」

「ちょっと待ってよ。そのヤマヤマってのはなに?」由紀さんが我慢ならなかったのか僕たちを睨んで聞く。兄貴は首で僕に説明するように指図する。

「慎吾。教えてやれ。俺が一番最初に教えてやってだろ」

 僕は兄貴に初めてに教えてもらった時のことを思い起こす。

「俺たちは生きていくために少し分けてもらうだけだ。絶対に俺たちの仕事きっかけで人を傷つけてはいけない。絶対だぞ」一言一句間違えていないはずだが、兄貴があきれたようにため息をつく。

「確かにそれも大切だし、一番最初に教えたけどそっちじゃない。関わっちゃいけない人間のことを教えただろ」

 僕はようやく兄貴の言いたいことがわかる。マスターが再びイヤホンを耳に挿し込んで自分の世界に入り込んだのを見届けてから念のため声のトーンを落とした。

「ヤマヤマっていうのは僕たちの業界でいう悪い奴代表っていうか」そんなこと言ってしまえば僕らも十分悪人ではあるのだが、きっと僕らのやっていることなんてヤマヤマに比べれば子どものいたずらのようなものに違いない。

「俺や慎吾の目的は簡単に言えば生活を送るために必要なこと。いわゆる金だが、あいつの目的はスリルとか快楽とかなんだ。だから暴行や脅し、噂じゃ殺しなんかも平気でやる。要するに関わっちゃいけないやつなんだ」

「天災だよ」僕は由紀さんを脅すように言う。当の由紀さんは僕たち二人に脅されても何食わぬ顔で聞いている。

「それ、実際に見たの?」

「さすがに見たことはない」兄貴はすぐさまに断言する。もちろんと僕は首を赤べこのように縦に振る。

「じゃあただの想像ね。適当にポストにでも入れておけばいいんじゃない」

「そんなことしたら盗んだことがバレる。ヤマヤマはプライドが高いんだ。自分が被害にあったとなれば必ずその犯人を探し出して指を砕くんだ」

 あまりに具体的な罰に僕は思わずつばを飲み込む。

「それだってどうせ噂でしょ」

「いや、これは事実だ。同業者の知り合いが ヤマヤマの部下に会ったことがあるんだが、そいつの手は通常の二倍以上に膨れていて形がぐしゃぐしゃなんだと。なんでもヤマヤマを怒らせたそいつは関節ごとに指をハンマーで砕かれたんだ」

 僕は思わず手をテーブルの下に引っ込める。

「どうやってそんなの調べるのよ」

「世の中には金を出せばそういうことをしてくれるやつらってのがいるんだよ。それこそ警察官の恰好して聞き込みのフリをしたりしてな」兄貴はどこか得意げだ。

「で、な恐ろしいヤマヤマの家に忍び込んで盗んだこれどうするつもりなの?」

「そいつを二人にお願いしに来たんだ。ヤマヤマ達は今仕事で遠方にいるらしく後数日は帰らない。」兄貴がそう言いながら僕らを申し訳なさそうに見上げる

 なるほど、だから僕というか僕たちが今日呼ばれたのかと納得する。しかし、僕がお願いするより早く由紀さんは首を横に振る。

「先に断っておくけど私の超能力をあてにしているなら無理だからね」がっくりという効果音が聞こえてきそうなほど兄貴が肩を落とす。「私は自分が飛んでいくか、物を浮かしたり動かしたりしかできないの。それにあまりに使いすぎると半日は起きてこないほど寝ちゃうし」

 確かに由紀さんと暮らし始めて何度か実験を行ったが、大きなものを動かした後は必ず眠ってしまっていた。起きたのちは特に健康にも問題がなかったが決して良いものとは思えなかったため、できるだけ大きな力使わないようにしていた。

「でもこのままじゃ兄貴が殺されちゃう」僕は手がボクシンググローブのように晴れ上がった兄貴を想像してしまう。そんな姿でも顔はいつも通りの石のパーツでできているくせに優しさがあふれてきそうな表情しか想像できないから不思議だ。

「じゃあもう一回行って返してくればいいじゃない」由紀さんはカフェオレに手をかざすと再び色が薄まって元の液体に戻して飲み始める。「だってそのヤマヤマさんってのは来週まで帰ってこないんでしょ? だったら帰ってくるもとに戻して何もなかったことにすればいいじゃない」

「でもどうやって?」

「君たちの本職はなに?」

由紀さんの僕と兄貴は目を合わす。僕は兄貴と僕が不法侵入を得意としているのを思い出した。

「なるほど。由紀さんは頭がいいね」

「君たちが慌てすぎなんだって。どうせ侵入したところで超能力者がいるわけでもないし」

「嬢ちゃんが言うと説得力があるな」兄貴はつきものが落ちたのか、いつもの見ているものがホッとするような表情に戻った。「そういえばもう一つ聞きたいことがあるんだが」

 兄貴が急に真剣な表情になり僕と由紀さんは無意識に警戒する。兄貴が顔を前に突き出して声を潜める。

「ここのマスターはいつから豚のラテアートなんて微妙なサービスを始めたんだ?」


 B


 担任の号令でクラスメイトが帰りの挨拶をすると皆それぞれのランドセルと背負って校門に向かっていく。

 今日も魂が抜け落ちたような博人の後ろ姿を見ながら帰るのかと立ち上がったのと教室の後ろのほうから晃の大きな声が響く。

「いやほんと可哀そうだからさ。明日の徒競走は手加減してあげようか?」振り返らなくてもわかる。きっと晃の隣にはただだんまりを決め込んで耐える博人が絶えているに違いない。「おい、博人、聞いてるのかよ? お前は何やってもダメなんだから少しくらい愛想よくしろって。じゃないと社会に出てから苦労するよ」

「そうだね」博人は晃の子どもらしくない挑発にも反応を示さず立ち尽くしている。

「しょうがないな。じゃあ運動会で博人が何か一つでも俺に勝てたらなんでも一つ言うこと聞いてやるよ」晃がまるで博人を勇気づけるように両手を肩にやり博人を揺さぶる。


(中略)


 そう言って楽しそうにする博人の手にはどこかで見たようなサイダーの瓶が握られていて僕は何が起きたのかを理解して不安が大きくなる。


 A


「君があんなこと言うから遅れそうだよ」普段あまり着ているのを見ない黒いジャージ一式を着た由紀さんは先日の準備の際に購入していた千円の安物時計を指さしていた。

兄貴との約束の時間はまだ余裕あるはずだが、初めて僕らの仕事についてくることからか興奮しているのがわかる。普段は丸渕の眼鏡に出勤以外はロングスカートを履いていることの多い由紀さんがコンタクトに、髪を頂点でマルクまとめている姿は新鮮だった。

「でもせっかく正弘の友達を見つけたんだから助けてあげたくなるじゃないか」

 僕と由紀さんはいざ兄貴との仕事だというところで正弘の友人がいつも通りとぼとぼと歩いているのを見つけた。こちらもこれから大きな仕事を控えている以上、無視をしてしまってもよかったのだが、彼をそのままにしてしまうのは何とも縁起が悪く感じて声をかけた。

 最近の小学生は夢がないのか由紀さんの超能力を正弘と同じく信じなかった彼に僕は由紀さんのすごさを知らしめたくて由紀さんに懇願した結果、彼のランドセルと僕が飲んでいたサイダー瓶を宙に浮かせて見せた。

「でも由紀さん、あの時の少年の顔見ただろ? あれは僕らに期待してたよ」僕は兄貴から聞いたヤマヤマの別荘の住所に向かって歩き出す。「だから僕らは明日の昼までに必ず帰らなきゃだよ」

 帰らなければいけない。僕は自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返す。明日の予定を作っておけば今日は無事に帰れるのではないかとなんの根拠もない願掛けには違いなかったが、そうでもしなければ兄貴への恩など忘れて逃げ出したくなってしまう自分がいた。

由紀さんがあきれたように僕を追い抜いて行ったのと視線の先に、いつもの仕事着であるチノパンに黒いジャンバーを着た兄貴が立っているのが見えた。

 ターゲットの家はよくある二階建ての一軒家だ。確かにこの近辺は高級住宅街というほどではないせよ電車に十数分乗るだけ一流企業の集まるビル群にたどり着くこともあり、ひそかな高級感が漂っていた。

 ここまで歩いてくる途中でも幼児を連れた母親や買い物帰りの老人を見かけたからまさかこんなところにヤマヤマがいるとは建物を前にした今でも想像ができなかった。しかしそのことがヤマヤマという危険な存在を世間から隠し続けているカモフラージュになっているのかもしれない。

「実は監視カメラが設置されているんだが、それは前回俺が壊したままになっている」そう言った兄貴が指さす玄関の上部には綺麗にレンズだけが割られたカメラが首だけをこちらに向けている。

「じゃあさっさとやっちゃいましょう」僕はカバンからいつものピッキング道具を取り出す。この仕事を始めた時に兄貴からもらった特別な道具だ。

「その前に確認だ」兄貴はいつも通り仕事を始める前の確認を始める。一度聞いた話ではあったが、どこからか手に入れてきた家の持ち主であるヤマヤマの帰宅スケジュール。家の間取りを細かに説明する。

「最後に、今回のヤマは失敗すると俺たちがどうなるかわからん。だからやばいと思ったら俺を置いてでも逃げること」そう宣言する兄貴の目は真剣そのもので僕は黙ってうなずく。「そんな心配すんなって、俺たちみたいな仕事をする奴はたいてい奥の手を用意してるんだよ」ふといつものように笑う兄貴に安心した僕は道具を取り出して気合を入れる。

 玄関の鍵はそれほど難しいタイプではなく、ほどなくして開くことが出来た。細い針金のような器具がすんなりと鍵穴を回す瞬間、ガチリと心地よい解除音が響く。僕の後ろで由紀さんが安心したように息を吐いたのがわかる。

 玄関を開くと中も特に特別なところはなくいたって普通の家のように感じた。玄関から奥へと続く廊下には右に一カ所の扉と階段。左にはトイレと洗面所へ扉があった。奥にはリビングへのドアがあり、兄貴曰く、そのリビングの手前の右側の扉、繋がる書斎で見つけたものらしい。

 特にほかの目的があるわけでもないため、事前の調べ通り誰がいるわけでもないが僕たちは慎重に、しかし限りなく急いで書斎を目指す。

 書斎に入るとそこは綺麗に整頓されており、壁の一面にはファイリングされた書類が多く並べられており、部屋の中央のデスクには高級そうな椅子が設置されていた。デスクの足元には電子レンジほどの大きさの金庫が置いてありこれが兄貴が盗み出した金庫だと気が付く。

兄貴は迷いなく金庫に近づくと古典的な方法でダイヤルを回して金庫の解除をする。こちらもさほど難しいわけではなかったらしく三十分もすれば開くことが出来た。

 金庫の中には封筒に入った書類とおそらくそこに印鑑が入っていたのだろう、小さなケースが入っていた。兄貴はジャケットのポケットから例の印鑑を取り出すとほかのものに触れぬようにゆっくりと印鑑を戻していく。

 その様子を僕と由紀さんが後ろから見守る。

 金庫の扉がしまった瞬間、ガチリとあの心地よい響きがひときわ大きく響いた。音の元は明らかに僕らの目の前の金庫ではなく、音のした扉の向こう側に視線をやる。

 心臓が跳ね上がるのがわかる。まるでその勢いで咽喉を駆け上がり口から出てきてしまいそうなほどだ。先ほど僕たちが入ってきた玄関から聞こえた音の正体はそこにおいてあるはずの僕らの靴に戸惑う様子はなくゆっくりとしかし確実にこの部屋に向かって足音を近づかせてくる。

「ねぇ、誰も帰ってこないんじゃなかったの?」由紀さんが鋭い声で僕らを責め立てる。

 その声すら遠くから聞こえる声のようにうまく頭に入ってこない。それ以上にこの書斎の扉から目を離すことが出来ない。

 ふと方に柔らかい布の感触を感じた。その感触に僕は我に返る。兄貴に手渡されていた目出し帽を受け取るとドアから視線を外さないままそれを装着する。僕の隣で由紀さんが同じく兄貴から受け取った帽子を装着している音が聞こえる。

「いいか、万が一住人と鉢合わせしちまった時は」兄貴の声が震えている。

「極力顔を隠して勢いに任せて逃げる」僕は過去、兄貴からの教えを繰り返す。人はまさかそこに他人が侵入しているとは思っていない。だから突然走り出せば戸惑っているうちに逃げ出せるのだそうだ。

「今回は特例だ。ドアが開いた瞬間体当たりをして逃げ出す。いいな」 由紀さんを後ろにして僕と兄貴は二列になる。その間も足音は一歩一歩確実に僕らに方へと近づいている。

 やがて目の前のドアノブが静かに回転し、ゆっくりとだが静かに扉が開く。

 チラリと僕らと同じような黒い手袋とスーツの裾が見える。

「今だ!」兄貴が声を上げると同時に僕は力いっぱい身体を前に投げ出す。

 次の瞬間、僕が感じたのは人を吹き飛ばす感触でも抜け出せた解放感でもなかった。

 壁にぶつかってしまったかと思うほど重く固いものにぶつかったのと同時に自分の右側、つまりは兄貴がいた方向から何かにはねられたような衝撃が襲ってきた。

 痛い。と感じた時にはすでに天井を見上げており、無地の赤黒い色の壁紙が一面に広がっていた。僕の上には兄貴が力なく倒れこんでいる。

 恐る恐る視線を前に向けると、まるでテレビの中から出てきたかのような筋骨隆々の男が立っており、床に寝転ぶ僕らを見下ろしていた。

 ふと、男の手に視線をやると黒い皮手袋がボクシンググローブのように大きく膨らんでいた。

「お前ら、ここがどこか知っているんだろうな」男の声は低く僕らの体をその場に凍り付いた。

 そこからボクシング男の行動は早かった。今すぐに僕らが動けそうにないのを確認すると、どこからか椅子を三脚持ってきて、恐怖のあまり動くことのできない僕等を次々ビニールひもで椅子に縛った。

 力なく引っ張られる僕と由紀さんとは違い、完全に意識がない兄貴は気を失っているようだ。

「さて、お前らは一番入ってはいけないところに入ってしまった」男は手袋をしっかりとはめ直すとにやりと不敵な笑みを浮かべる。「ヤマヤマさんが一度目を見逃してやったってのにわざわざ二回も入ってくるなんてな」

 助けを求めるように隣で縛られている由紀さんを見るが、由紀さんは残念そうに首を横に振る。

「兄貴さんが起きないうちはどうせ逃げられないでしょ」

「どっちにせよ逃げられねえよ。お前たちはヤマヤマさんのおもちゃになるの決定してるしな」ボクシング男がそう言ってスマートフォンを取り出すとどこかに電話をかける。男はスピーカーに設定すると自分がその形態を支える置物のように微動だにせずこちらにスマートフォンを向けている。

 コールが二度ほどなって電話がつながる。

「どうもどうも。皆さんご存知のヤマヤマだよ」電話越しでもわかる。妙に明るい声は耳を通して全体にまとわりつくようだった。たった一言で不快さと異常な人間であることを感じさせた。「今僕は仙台にいるんだけどさ。一昨日別荘の防犯アラームが鳴ったからびっくりしちゃったよ。まぁ僕はとても気分がよかったのもあるし、どうせ少しくらい盗まれたところで広い心を持つ僕は許してやろうと思ってたんだ。でも今日になったらまた誰かさんが勝手に僕の別荘に入っているじゃないか。驚きだよね」

 ふと電話の向こう側から動物の鳴き声のような音が聞こえてくる。それも犬や猫のような小型ではなくもっと大きな、それこそ人間の声のような。

 何かが破裂したような音が響き、再びうめき声とヤマヤマの不敵な笑い声が聞こえてくる。

「まったく、うるさいなぁ。ああごめんね。実はまだこっちの仕事が終わってないんだ。だから多分戻るのが明日の昼過ぎになっちゃいそうなんだよね。だから取り合えず高橋。あぁそこでスマートフォン持ってる男ね。その高橋が近くにいたから様子を見に行かせたら君たちが入っているっていうじゃない。それはもう待たせても申し訳ないから捕まえてもらったってわけ」

 怒りより愉快さ、新しいおもちゃを手に入れたうれしさのようなものがあふれているように思えた。

「警察も大変だよね日夜こんな悪党を捕まえなきゃいけないなんて。僕はそんな市民の平和を守る彼らの手を煩わせてはいけないと常日頃から思っているんだ。だから本当はそうしたくないんだけど今回は……」そう言ってヤマヤマの言葉が止まる。電話の向こうでは笑いをこらえるような声が軽快に響いていた。「僕が代わりに君たちに罰を与えて終わりにしようと思うんだ。ちなみに高橋の手を見た? 彼の手すごいでしょ? 昔から僕の仕事を手伝ってくれてるんだけどさ。その昔僕の大切なものを壊しちゃったんだ。だからその罰に一つ一つハンマーでバンってね」高橋と呼ばれた男が体を震わせた。僕らの頭上の空間をただ見つめる彼からは感情が読み取れなかったが、決して良い感情ではないのはわかった。

 震える目で僕は左右を見る。兄貴はいまだに気を失っている。由紀さんといえばただまっすぐに高橋を見ている。

「そうそう高橋も暇になっちゃうといけないからさ。君たち相手してやってよ。とりあえず一時間に一回くらい殴るくらいなら僕も許してあげるよ。もちろん顔とか指とか重要なところに手を出しちゃだめだよ。わかった?」

「はい。わかりました」先ほどまでの荒々しい言葉からは想像もつかないほど丁寧な言葉で高橋が返事をする。

 じゃあ後でねと捨て台詞のようにヤマヤマの声だけが部屋に残って電話が切れる。

「さてどっちからがいい? 俺としては女に手を出すとヤマヤマさんの楽しみが減っちまうから男を殴ったほうがいいと思うんだが、お前たちどう思う?」高橋の大きく膨らんだ手が黒い手袋のせいもあって鉄の塊のように見えてくる。「とりあえず一回目」

 僕の目の前で振りかぶられた拳を見ながら明日の運動会間に合うだろうかなどと関係のないことを思い浮かべていた。


 B


 結果から言えば運動会で足の遅い僕や博人が奇跡的な活躍を見せることもなければ晃が打ちのめされるようなことも起きず、ただ順調に僕らは負けを重ねていき、同じ組の足を引っ張ったと周りからの厳しい視線に耐え続けて一日が終わった。

 こうなることはわかっていたはずなのにどこか奇跡が起きるのではないかという期待が僕の中にもあったらしく、それだけに何も起きなかったことに対する不満や失望感は予想していたよりもはるかに大きかった。

 下校時にはすでに肉体も精神も大きく疲れてしまい、いつも以上に肩を落として歩く。博人も同じく疲れてしまっているらしく僕等か離れることなく隣を歩いている。

「ちょっと待ってよ」そんな僕らの感情など知らずに楽しそうな晃の声が呼び止める。

 僕たちは抵抗する元気も逃げる元気もなく、力なく振り返るといつもの取り巻きを引き連れた晃が恐ろしいほどやさしい笑みを浮かべて立っていた。

「何?」いつも通り博人がぶっきらぼうに答える。

「博人さ、あんなに手加減してやったのに何で真面目にやらなかったんだ? 正弘、お前もだよ。みんなに迷惑かけて申し訳なくないわけ?」

「違うよ晃。正弘と僕は真面目にやった。ただ足が遅いだけだよ」そういう態度がまた相手をいらだたせるのがわかっていてもとても止める気になれない。もうどうにでもなれだ。

「でも僕たち白組は勝ったんだよね?」僕は数時間前の閉会式で僕らのクラスが振り分けられた白組の優勝を聞いてみんなが手を挙げて喜んでいたのを思いだす。

 晃がジロリと鋭い目つきで僕を見ると取り巻き立ちも合わせたように僕を見て思わず凍り付く。

「俺たちが勝ったのは他のみんなが頑張ったからでお前たち二人のおかげじゃないだろ?」

「そんなこと言ったら晃の後ろにいるそいつらだって負けていた」

 確かに晃の取り巻きまで全員が運動ができるわけではなく、何人かは僕たちと同じように良い成績が残せていないはずだ。

「彼らはお前ら二人と違って精いっぱい頑張った結果だ」

そんなこと言えばもちろん心のどこかで慎吾さんの超能力を期待していたということはあるが僕たち二人だって精一杯頑張った。

「まぁ俺はお前たちを責めたいわけじゃない」嘘だ。明らかに僕たちを責め立てることを目的としているとしか思えない。「俺はお前たちのためを思って言っているんだ。ここでみんなに謝ればみんな二人を責めるようなことはしないだろ? 俺はきっかけを作ってやってる。そう、やさしさだよ」

 得意げに言い放つ晃に周りの取り巻き達は同調して、「そうだそうだ」やら「謝れ」などどヤジを飛ばしてくる。僕は彼らの目を見るのが怖くて下を向いたまま唇を尖らせて声にならない反論を口の中で繰り返した。

 そっと隣を見ると博人は堂々と前を向いている。いつもなら同じく下を向いていたはずが、隼人も運動会の興奮でおかしくなってしまっているのだろうか。決心をつけたようににやりと笑うと吐き捨てるように言い返す・

「晃、お前知らないのか? お前の為だぞって言ってくる奴は大抵嘘をついてるんだ。だから一番信用しちゃいけないんだよ。こういうのなんて言うだっけ?」いつもは常に優位に立って余裕な晃の顔がどんどん紅潮していく。まさか今日の運動会で日焼けしたわけではないだろう。

 晃だけでなく周りの取り巻き達も次々に口にする言葉が強くより攻撃的になっていく。ちょっとした応援が悪口に、悪口にモーションが加わり、声の勢いに押される波のように僕と博人に迫ってくる。

 一歩、また一歩と近づいてきた彼らは手を伸ばせばもう僕らに届く距離にいる。

「やってみろよ」博人がまた強気に出る。「俺は超能力者だ」

「何言ってんだお前?」晃が馬鹿にしたように指を指した途端、博人が晃に飛び掛かった。

 それからはアッという間の出来事だった。博人が殴り掛かり晃がやり返す。周りはそれを止めるのか晃に加勢するのか、博人の服や腕を引っ張ってもみくちゃになる。

 気が付けば僕はその中にいて必死に博人と晃の間に割り込もうとしていた。

「なんだよお前、どけよ」誰かの声が後ろから聞こえて背中を押される。

 そのままよろめいた僕は綺麗にガードレールの隙間を抜けると道路の真ん中に放り出される。

 身体が傾いてコンクリートの地面に向かう途中、道路の反対側の路地からは慎吾さんと知り合いの女性がこちらを指さして走っているのが見えた。

 不思議とゆっくりと進む時間が心地良く、直前までの不安感が亡くなるようだった。

 あまりにゆっくり見えるものだから正面から走ってくる黒い車の運転手の目が真っ赤になっていることや僕をかばうように手を広げた博人がとても鮮明に見えた。

 やがてコンクリートに顔を打ち付けられて焼けるような痛みが僕を正気に戻した。

 クラクションを鳴らすこともなく迫る車の正面はまるで怪物のようだった。

「止まれ!」博人、そんなに大きな声が出せたのか。



 繰り返し規則正しく与えられる苦痛は僕が失いそうになるのに十分すぎるほどの効果を持っていた。初めは食いしばっていた歯もいつしか怯えを隠さなくなっていた。

「慎吾、お前、何回やられた?」

 腹を殴られて嘔吐し、縛り付けられて動けない足を蹴り上げられて感情とは別に涙が出てくる。そんなことを八回ほど繰り返しているうちに目覚めた兄貴が小さな声で僕に聞く。高橋は部屋にはいない。三回目くらいの時に体から湯気が立っていたところを見るに一時間に一度人を殴るという常軌を逸脱した行為の間に普通の生活を送ってるようだった。

「十回です」もうやられた数など覚えていない僕に代わって由紀さんが答える。「兄貴さんも最初の一回を除けば次で十回。あの高橋って男が本当に一時間に一回ならそろそろ十六時くらいでしょうか」

 もう一晩明けて夕方だ。運動会が終わってしまっているじゃないか。と今の僕たちの状況からは程遠いことを考えてしまう。

兄貴が何度目かのつばとも血ともわからない液体を床に吐き捨てた。

「あの高橋とかいうやつ律儀に一時間に一回殴りに来やがって。寝てる時くらいゆっくりしとけってんだ」

 僕たちはあれから寝ることも出来ずに暴行を受け続けている。不幸中の幸いなのはヤマヤマ命じられたこともあり高橋が必要以上に痛めつけることがなかったことだ。それでも兄貴のいう通り高橋が置いて行ったスマートフォンが律儀にも一時間に一度アラームを鳴らし、その度に、風呂に入っていても、睡眠中だろうが関係なく、目の前のドアから音もなく現れる高橋が僕と兄貴に聞いて時には僕らの宣言通り、時にはあざ笑うように反対に暴行を加えて出ていく。

 合計で二十回目のアラームが鳴り、音もなくドアが開く。数回前から高橋は昨日初めて会った時のようなスーツを纏っていた。

「よかったな。そろそろボスが返ってくる。そうしたらこの拷問みたいな時間は終わりだよ」それが救いの言葉に聞こえてしまうほどに僕はおかしくなっていた。

「これが最後の一発になるな」高橋は感慨深いように自分の拳を眺める。僕たちとしては全く惜しくはないのだが、彼にとっては貴重なものらしい。

「高橋とか言ったな? お前、もし俺たちを逃がしたらどうなっちまうんだ?」唐突に兄貴が高橋に語り掛ける。

 表情をあまり変えない高橋の眉がピクリと上がるのがわかる。

「飼い主に言われて本当に私には手を出せないような小物だもん。叱られるは目に見えてるね」

 由紀さんまでもが挑発的な態度に二人もいよいよおかしくなってしまったと僕が焦り始めたのを合図にしたかのようにインターホンが鳴る。

 僕たちの間にピンと張った糸のような緊張感が走る。沈黙の中、もう一度インターホンが鳴る。

「うるせぇな。こっちは取り込み中なんだよ」高橋が悪態をついて玄関の方向を睨みつける。

 それでもかまわず三度インターホンが鳴る。

 期待と恐怖の入り混じる感情が僕からあふれ出したのが見えた気がした。すると、僕らを閉じ込め続けるドアの向こうのさらに玄関の向こうから大きな声が聞こえてくる。

「もしもーし。山崎さん。警察です。いるのはわかっているのでドア開けてもらってもいいですか?」少し間延びした声が急に僕たちを日常に引き戻すようだった。

「ほら、早く対応しないとこの場を観られちまうぞ」いつになく頼りがいのあるカッコよさを兄貴に感じる。


(中略)


 初めて兄貴に倣ったことを思い出す。「俺たちは生きていくために少し分けてもらうだけだ。絶対に俺たちの仕事きっかけで人を傷つけてはいけない。絶対だぞ」しつこく繰り返す兄貴の信念のようなものが頭の中で反芻される。

 きっと今までの人生もこれからもこれほど頑張ることはないだろうというくらいに無理矢理体を動かす。

 ほとんど投げ出すように道路へと飛び出す。

 僕の手に正弘ともう一人、昨日会った正弘の友達が触れるのがわかる。

 僕の背中で「車!」とかすれた叫び声と甲高い声が聞こえた。

 きっと大丈夫だ。僕に心強い超能力者が味方にいるのだ。






















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ESP/中星 よまのべる @yomanovel

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