第十七話 大猿の冒険譚
§ § §
敵の軍勢やドラゴンを倒して英雄になった者がいる。未曾有の災害から人々を救って英雄になった者もいる。
しかし、何もない平和な時代に英雄になれた奴はいない。
英雄になるには乗り越えるべき高くそびえる障害が必要であり、それなくして英雄になどなれはしないのだ。
低い壁を余裕で飛び越えて英雄を気取る者は、むしろ人々の嘲笑の的となるだろう。
~消えゆきし世界とそこに住まう数多のアバター達に捧ぐ~
§ § §
”寝転ぶウサリン亭”に着いた俺は急いで二階へ駆け上がり、昨日干した洗濯物を確認した。
(まだ湿っているけど、仕方ない)
乾ききっていない俺の服に手を伸ばすも、すぐに二階へ登って来たララさんに睨みつけられる。
「ちょっと、まだ生乾きじゃない。あんたまで風邪をひいたらどうするの?
余っている服を貸してあげるからいらっしゃい」
ララさんが貸してくれたのはバンカーさんのお古だった。俺は宿の一室でその服に袖を通し、調理場に戻ったララさんに声をかける。
「すいません、すぐ出かけなければならないので朝食をお願いしてもいいですか?」
「はーい。
病人用のスープ作った後になるけどいい?」
「ええ、ありがとうございます」
とはいえ、のんびりと朝食ができるまで待っている暇はない。俺はこの間に宿を抜け出し、村長の家へと急ぐ。
「ブライ村長!」
俺が呼び止めた時、ブライ村長はちょうど農具を担いで、裏の畑へと向かうところだった。
「どうだったね、カイルくん」
「俺が一人で大猿退治をする事になりました!」
俺は胸を張って、なるべく大きな声を出してみせる。
「バカな! あのデニムですら敵わなかった相手だぞ!」
驚愕の表情で固まる村長に、俺はカバンから取り出した魔導弓を見せる。
「この武器なら大猿が相手でも倒せます! あのべべ王達に作って貰った特製の武器なんです!」
村長は魔導弓をまじまじと眺め、やがて深く頷いた。
「これを、あの召喚者から?」
「ええ、この武器なら信じられないほどの威力が出せます。遠距離から射貫ければ、大猿だって一溜りもありませんよ!」
これは半ばデマカセだ。急所を狙えば大丈夫だとは思うが、実際にやってみなければ確かな事は言えない。
「わかった。大猿を目撃したゲイルを呼んでくるから、中に入って待っていてくれ」
(大猿の目撃者はゲイルだったのか。森で狩りをしている途中にでも見かけたのかな)
俺は、奥さんのマーサさんに案内された部屋の椅子に腰を下ろす。
(うまく演じられたか?)
村長宅に到着してからの俺の行動は、全て事前に考えたシナリオ通りだ。自信ありげな態度に徹したのも、村長に大猿退治を納得させ、ひとまず安心させるためだった。
けれど、俺自身の不安が収まった訳では決してない。強力な武器も防具も揃っているのだから大猿相手にも戦えはするのだろうが、べべ王達が考えるように楽勝だとも思えなかった。
(ま、これでもう後には引けないか……)
心の中でそう呟いてみるものの、気持ちとは裏腹に今頃になって俺の手は震えだしていた。
ガチャ
ノックもなしに突然ドアが開け放たれ、ゲイルが飛び込んで来る。
「兄ちゃんが一人で大猿退治に行くって本当かよ! すっげーなーーっ!」
沈んでいた俺の心とは正反対の元気な声に、少し驚く。
それにしてもゲイルは、最初に会った時と随分印象が違う。
(あの時は、大猿の声に怯えてマーサさんのスカートにしがみついていたのに……)
いや、恐らくあの時は周囲の大人全員が大猿に怯えていたから、それが子供のゲイルにも伝染したのだろう。今は俺達がいるから村人達は安心していられるし、ゲイルも本来の自分でいられるという訳だ。
(頼りにされる事がこんなにも力になるなんて、思いもよらなかったな)
今まで人に頼りにされた事なんて、一度もなかった。だからどういう心境の変化が起きたのか、俺にはまだよく分からないけれど、不思議な事に手の震えは消え去っていた。
(物語の英雄達も、こうやって勇気をもらい道を切り開いていたのかもしれない。なら俺も、この冒険をやり遂げれば、英雄としての道を歩み始める事ができるのかもな?)
無論、国のために竜を退治をした英雄と、小さな村のために大猿退治をする俺とでは比較にならないのは分かっている。だが、ゲイルが俺に向ける羨望の眼差しは、かつて英雄達に憧れていた俺の目と寸分違うものではなかった。
* * *
俺が村を出発したのは、ララさんが用意してくれた遅い朝食を食べてからだった。もう時刻は昼に近い。
裾の余るバンカーさんの服を気にしながら、俺はクラン拠点のある西の方へと森を進む。
ゲイルの話では、以前大猿が縄張りとしていた辺り……つまり、クランSSSRの拠点周辺に大猿はいたらしい。べべ王達のクラン拠点を一目見ようと森を探検していたら目撃したのだと、ゲイルは語っていた。
(クラン拠点のすぐ近くにいるのなら、あの建物を守る魔法の壁を盾にして戦う事もできるかもしれないな)
べべ王の作った防御の指輪を信用していない訳ではないが、どの程度大猿の攻撃を軽減できるか予測できない以上、用心に越したことはない。
沼では指輪がスライムの攻撃を無効化していたのを見たが、果たして大猿の爪はどの程度防げるものなのか? 短いナイフで斬られた程度の傷で済むならば、一撃くらいは耐えられるかもしれないが……。
(いや、大猿の爪はデニムの鎧を簡単に切り裂いたんだ。甘く見ちゃいけないな)
こんな時に限って頭がよく回る。しかも回れば回っただけ余計な考えも浮かび、それが不安と恐怖を煽ってくる。俺はこの冒険を一人で成し遂げ、英雄としての第一歩を踏み出すつもりでいるというのに。
「くそっ」
俺は小さく毒づいた。
クラン拠点の近くに大猿の足跡を発見したものの、それはクラン拠点と逆の方向へ向かっていた。クラン拠点の魔法の壁を利用する作戦は、早速使えなくなってしまったという訳だ。
(なにを焦ってるんだ俺は……、考えてみれば当然の事じゃないか、ここから少し距離を置くのは)
俺はピンクの花を咲かせる奇妙な樹木を見上げた。
クラン拠点周辺の森は地形が凸凹で、しかもこの辺には生息していない筈の木が……恐らくはドラゴン・ザ・ドゥームという異世界の植物が目立つのだ。そんな奇妙な場所なら警戒し寄り着こうとしないのは当然だし、まして縄張りにしようなどと思う筈がない。
俺は魔導弓を背負ったカバンから取り出す。大猿の足跡はまだ新しく、すぐ近くにいるように思えたのだ。
(ちょっとまずいな……)
魔導弓が目立ち過ぎている。
以前の魔導弓も新しい魔導弓も同じ黄色なのだが、新しい魔導弓は表面がピカピカでむしろ金色に近い。それが日の光をもろに反射してしまっていた。
俺は土で魔導弓を汚してからそれを持ち直し、大猿の足跡を追う。幸い向かい風で、俺の臭いも遠くまでは届かない。足音にさえ気づかれなければ、大猿を不意打ちで仕留められる筈だ。
ガサッ
離れた場所から草の音を聞いた俺は身を屈め、周囲を伺う。大猿らしき影が動くのが見えるがまだ距離が遠く、その姿をはっきりと捉える事はできない。
ついさっきまで吹いていた向かい風は既に止んでいる。万が一にも追い風が吹けば、すぐにでも俺の臭いに感づかれるだろう。俺は急いで大猿らしき影との距離を詰めた。
(メスか)
胸の膨らみによって、それは一目で分かった。メスの大猿は足を止め、何かを探すように木の上を見渡している。
(チャンスだ!)
俺は魔法の光が見つからないように木の陰に身を隠し、アイスアローを生成する。
ここ数日の修行の成果で、俺は以前より一回り大きいマジックアローを作り出せるようになっていた。
(この強化されたアイスアローとこの魔導弓なら、あの大猿だって一撃で仕留められる筈なんだ! 信じろっ!)
問題は、これを大猿のどこに命中させるかだが……。
(頭か? 心臓か? ……やはり心臓だな。)
俺はアイスアローをつがえた魔導弓で大猿の左胸を狙う。致命傷を与えるならば頭の方がより確実だとは思うが、小さい的を狙って外すリスクが怖かった。
シュ……
音もなくアイスアローが飛ぶのと同時に、大猿がこちらを振り返る。
(しまった! 風向きが変わっている!)
既に緩やかな追い風が吹き始めており、俺の臭いがちょうど大猿の鼻に届いたのだろう。だが、青白く輝く魔法の矢を、大猿が避ける時間は残されてなかった。俺に気づくのが一瞬遅かったのだ。
アイスアローは胸から逸れて脇腹に命中したものの、腹から腰・胸の周辺までを凍らせて大猿の血の流れを止める。
グガッ……ァ……
大猿は僅かにうめき声を上げてその場に倒れ伏した。倒れた大猿の胴からは、今なお氷がパキパキと乾いた音を立てている。この威力ならばわざわざ急所を狙わずとも、殺す事ができただろう。
「なるほど、一撃で倒せるモンスターなら、多少のリスクがあっても俺一人に退治を任せようって気になるかもな」
俺は用心のためにアイスアローをもう一本生成して魔導弓にセットする。大猿がまだ生きている可能性もあるのだ、油断はできない。
(おとなしく死んでいてくれよ……)
俺は魔導弓を構えて倒れた大猿におそるおそる近づこうとしたが、身体の異変に気付いてすぐに立ち止まった。
(頭がクラクラする。あいつらに風邪をうつされたのか……、体もダルい。
早く片付けて家に帰ろう)
俺は倒れた大猿に再び意識を集中させる。が、その次の瞬間、俺の頭上に叫び声が轟いた。
グガァァッ
俺は慌てて魔導弓を上に向けるが、何者かが振り下ろした爪を防ぐのがやっとで、とっさに放ったアイスアローも明後日の方向に飛んで行ってしまった。
(あの大猿、つがいだったのか!)
木の上から俺に飛び掛かったのは、オスの大猿だった。おそらく、俺が仕留めたメスの大猿と夫婦であったのだろう。
怒りに燃える二つの目玉が、俺を見下ろしていた。
(くそっ! 二匹いるなんて聞いてなかったぞ!)
もっと注意して足跡を追うべきだったし、以前も樹上から大猿に不意打ちされたのに、上に注意を向けようとしなかったのも迂闊だった。もうここまで距離を詰められてしまったら、マジックアローを生成する暇もない。それに奴の爪を受け止めたせいで、魔導弓を持つ腕も痺れている。
(なんて馬鹿力だ!)
あの怪力で鋭い爪をもろに叩きつけられたらどうなるかと想像すると、冷や汗が止まらない。今も丸太の様に太い腕が、俺の逃げ道を塞ぐかのように大きく振りかぶられ得物を求めている。
ウガアァァァァッ!
俺が考えをまとめる間もなく、大猿が目の前で咆哮をあげて襲い掛かる。
(この程度の早さなら!)
稽古で見慣れたイザネの動きと比べるなら、大猿の攻撃はむしろ鈍くさえ思えたのだが、風邪で気だるい体は俺の言う事を聞かない。俺は魔導弓で大猿の爪を受け流そうとするも、僅かに遅れてしまった。
キィィィン
金属音とともに魔導弓が俺の手から引き剥がされ、遠くへ飛んでいく。
ズガッ! ドガッ! バキィッ!
避けるどころか絶望する間もなかった。肩から胸にかけて、腹、そして側頭部に痛みが走り、景色が逆さになる。最後に頭に受けた一撃で俺の身体は宙に浮き、回転して吹っ飛ばされたようだ。
ドガッ!
次の瞬間、俺の肩に何かがぶつかり地面へと叩きつけられる。木の皮が俺と一緒に地面に散らばってるところを見ると、どうやら大木の幹にでも叩きつけられたのだろう。
(痛い……しかし、まだ動ける!)
ドガッ!
起き上がろうとした瞬間、後頭部に痛みがはしり地面に顔が叩きつけられる。
ドガッ! ドゴッ! ガッ! ドンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ!
物凄い勢いで背中と後頭部に何度も何度も痛みが走る。うつぶせに倒れた俺に大猿が幾度も爪を振り下ろし、足で踏みつけているのだ。
だが、俺は死んでいない。痛みはあるが、地面には一滴の血すら落ちていない。もし、濃い土の臭いが顔を覆っていなかったのなら、俺はこの光景を夢と勘違いしたに違いない。
(そういう事か……)
俺はようやく、何故一人で大猿退治に行かされたのかを理解していた。そして助かったという安堵と共に、俺の中で戦いの熱が急速に冷めていくのも感じていた。
これは最初から”冒険”でも”戦い”でもなかったのだ。”狩り”と呼ぶにも容易過ぎて、”駆除”という言葉の方がむしろ適切。”虐待””虐殺”という表現すらお似合いかもしれない。英雄になるための命を懸けた試練の筈が、とんだお笑い草だ。
(まさか指輪をはめてるだけで、無傷だなんてな)
俺は大猿の攻撃が止むのを待って身を起こした。
ララさんから借りた服は土にまみれてしまったが、破れてる箇所は一つもない。少々の打撲はあるかもしれないが、俺の肌にも傷一つなく、赤く腫れている箇所がちょっと目立つ程度だ。
大猿は少し俺から距離を置いた場所で、怯えたような顔でこちらの様子をうかがっている。
(俺を恐れているのか?)
試しに一歩前に進むと、大猿は一歩後ずさった。
(……もう殺すまでもない、痛めつける必要すらない)
村の周辺から大猿が逃げ出せば、それだけでブライ村長の望みは叶う。人に対して恐怖を覚えたこの大猿がもう人を襲うとも思えないし、なにより戦意を失って無抵抗な者をなぶり殺しにするような真似はしたくない。
後はこいつが逃げ出すまで脅してやるだけでいい。それでもう充分だ。
「どうした? 逃げたければ逃げていいんだぜ?」
俺が更に一歩前進すると、大猿はまた一歩下がった。
(……もう少しだ。もう少しでこいつは逃げ出す)
この大猿は、俺が仲間を一撃で殺したのを目撃している。更には全力でのラッシュすら通用しないとなれば、勝ち目がない事くらいとっくに悟っている筈だ。
(さぁ、逃げろ! 痛い目を見ない内に!)
俺は三歩目を踏み出し、大きく手を広げて大猿を威嚇する。
が、大猿はもう引き下がらなかった。相変わらず顔は怯えたままだが、必死に牙を剥いてその場にとどまっている。
「なにしてんだ? とっとと逃げろよっ!!」
俺が怒鳴りながら四歩目を踏み出すと大猿はビクッっと震えてみせたが、やはりもう下がろうとしない。
グルルルル……
大猿は逃げるどころか逆に威嚇の声を上げて踏みとどまり、前傾姿勢をとって反撃の構えをみせた。
(……そうか、こいつは逃げないんじゃない。逃げられないんだ)
俺はこいつが樹上にいるのも知らず、大猿のつがいを……恐らくはあいつの嫁を目の前で殺している。いくら恐ろしい相手でも、そんな真似をした奴からおめおめと逃げる事などできない。できる訳がない!
大猿は、地面に転がるメスの遺体を守るかのように、その前に立ち塞がっていた。
奴は俺に怯えながらも、命の危険を感じながらも、嫁の仇をとろうと勇気を振り絞ってここに踏みとどまっているのだ。
試しにもう一歩進んでみても、大猿はやはり逃げ出さなかった。俺と大猿との距離だけが、いたずらに縮む。もう俺を睨む奴の目から、恐怖の色は消え失せていた。
「わかったよ」
俺はショートソードをゆっくりと抜きながら水平方向へ歩き、距離はそのままに大猿との位置を調整する。
この戦いに勝っても自慢などできない。装備が規格外だっただけで、俺が強かった訳でも、勇敢だった訳でもない。
けど、だからこそせめて決着だけは自分の実力で付けたかった。
「うおおぉぉぉぉっ!!『ロドゥムエィガリル!戻れ我が弓よ!』」
俺が呪文を唱えながら大猿に突進すると、大猿も覚悟を決めたのか俺に向かって突進する。
ウガアァァァァッ!
が、そこで大猿の動きが止まる。大猿の背に、呪文で俺の手元に戻ろうとした魔導弓の先端が刺さったのだ。
ラッキーだった。俺は大猿に魔導弓をぶつける事は思いついたが、それが刺さるとは考えていなかった。一瞬だけ気を逸らせれば充分と考えていたのだが、これなら確実に動きが鈍る筈だ。
(っ?! こいつ、ここまで覚悟を決めていたのか?!)
が、内心ほくそ笑んていた俺の予想に反し、大猿はすぐに突進を再開した。
背の痛みなど意に介さず、一直線に俺を目指して牙を剥く。俺と刺し違える覚悟が、既にこの大猿の中にはあった。
俺は奴の気迫に飲まれないよう必死で剣を突き出し、大猿は大口を開けてその牙を俺に突きたてようと迫る。
それしかなかったのだろう。
いくら爪で裂こうとしても、踏みつぶそうとしても平然としている俺に通用する武器がまだ残っているとすれば、それは牙しかない。その顎の力で噛みちぎる以外、もう俺を殺す手段が奴にはなかったのだろう。
けどそれは俺にとっても同じ事だった。ショートソードで大猿を仕留める事ができるとすれば、よほど確実な急所を突くしかない。そう例えば、その大きく開けた口の中にショートソードを突き立てる事ができたのならば……。
ザクッ……
大猿の血が勢いよく俺の顔にかかり、ショートソードを伝い俺の腕を赤く濡らす。大猿の顎は閉じる前にその動きを止め、剣を握る俺の手にかすかに牙が当たる。
※ 挿絵
https://kakuyomu.jp/users/tekitokun/news/16817330662991822651
「すまないな。本当だったらお前の勝ちだったのに……」
俺の首を鷲掴みにする大猿の爪を静かに払うと、その巨体は音もなく崩れ落ちていった。
* * *
「鼻は一つあればいいか」
オスの大猿の鼻を削ぎ、俺は呟いた。村長は二匹大猿がいた事を知らないし、二匹分の手柄を誇る気にもなれなかった。
ゲホッ! ゴホッ!
俺は不意に喉に違和感を覚え、咳込む。風邪は確実に酷くなっていて、既に寒気すら感じはじめていた。
(早く村に帰らないと、ヤバそうだ)
俺は急いで村に帰ろうとしたが、その足は歩きはじめる前に止まってしまう。野ざらしの大猿達の遺体がどうしても気になってしまうのだ。
「くそっ、こんな事している場合じゃないのに!」
俺は大猿の元に戻り、その身体に落ち葉の混じった土をかける。
「本当は穴に埋めなきゃならないんだが、これで勘弁してくれよ」
モンスターを弔うなど、段のような変わり者でなければやらない事だ。このことを他の冒険者に話せば、笑われるだろう。
だが、この大猿の勇気に俺は敬意を示さずにはいられなかった。俺は大猿の夫婦愛がどの程度の物か知らないし、大猿に勇気を持てるだけの知性があるのかも知らない。
だが、恐怖に怯えながらもそこに留まり続け、俺に立ち向かった姿に違いはない。それは俺が冒険者に求めていた矜持。憧れていた勇気そのものだった。
(あれこそ、俺が本当に手に入れたかったもの……)
ゲホッゲホッゲホッ、ウゲッゴホッ
咳が益々酷くなっている。
メス猿の身体が隠れるまで土を盛り終わった時にはもう日が暮れる寸前で、俺の風邪は恐れていた通りに悪化してしまっていた。俺は大猿の収まった盛り土に手を合わせると、今度こそ大急ぎで村に帰る準備を始める。
(なんでこんなに後ろめたい……、なんでこんなにも惨めなんだ?!)
魔導弓の入ったカバンを背負うと、その重さがいつもより増しているように感じた。
俺はこの魔導弓から逃げないと決めたし、それに相応しい冒険者になると誓った。しかし、それが達成できるのは何時の事だろう? もし何時までも成し遂げられないのならば、この後ろめたさは永遠に拭えないのだろうか? 身の丈に合わない武器に頼っているだけの卑怯者……それが今の俺の姿ではないのか?
(本当に惨めだ……)
いつの間にかポツポツと降り始めた雨が、俺の額を濡らし始めていた。
* * *
「大丈夫?!」
村の門で俺を見つけたクリスが駆け寄って来る。雨よけのフードからあふれた彼女の紫がかった髪は、天から降り注ぐ雨粒を反射して輝いているかのようだった。
雨でずぶ濡れになったせいで、俺の風邪は歩くのも億劫になるほどの熱を発していた。だから遠目からでもクリスは、俺の不調を見抜けたのだろう。
「単なる風邪だよ……」
それは強がりだった。現に村に到着できた安心感から、俺の片方の膝は既に地に落ちている。濡れた衣服が泥を吸い、肌にまとわりついてとても気持ち悪かった。
「大猿はちゃんと退治できたよ。村長に渡しといてくれ」
俺はクリスの後から駆け寄るダニーに向かって、大猿の鼻の入った袋を押し付けた。
「本当におまえ一人で退治したのかよ!」
ダニーは袋の中身を確認して驚きの声を上げる。にわかに信用できないのも仕方ないが、驚きのあまり裏返ったその声は、妙に癇に障った。
「俺の力じゃねぇ! あいつらに貰った武器が強すぎたんだよっ!!」
自分でもビックリする程の声で俺は叫んでいた。自覚はなかったが、あの時湧き上がった後ろめたさと惨めさは、想像以上に俺を追い詰めていたようだ。
(ダニーに八つ当たりしても仕方がないのに、何をやってるんだ……)
見れば俺の肩を支えてくれているクリスまでもが、目を見開いたまま硬直している。
「すまない、疲れてるんだ」
俺は二人の緊張を解くよう、そして内心を誤魔化すよう、努めて穏やかに言った。
「見ればわかるわよ、そんな事」
クリスは俺の肩を支えたまま立ち上がり、熱でふらつく俺が歩くのを助けてくれる。
「なあ、あの召喚者達の武器ってそんなに凄いのか?」
ダニーが俺の顔を覗き込みながら、尚も尋ねてくる。
「強いなんてものじゃない、滅茶苦茶だ。
そうでなければ、あのデニムでも敵わなかった大猿を、俺一人で倒せるものかよ」
「じゃあ、あいつらが強いんじゃなくて、もしかしてあいつらの武具がバカみたいに強いだけなのか?」
無論、べべ王達は装備だけではなく、それに見合う実力もある。イザネとの稽古でも、俺は身をもってそれを思い知っていたのだが、ダニーの好奇心にきちんと答えるだけの余力は残っていなかった。
「さあな」
その一言が最後だった。俺はクリスに肩を支えられたまま咳き込み出す。
ゲホッゲホッゴホッゲホッウゲェ……
(……! 咳が止まない!)
「ダニー、ここを任せていい? あたしはカイルを家まで連れて行くから」
「わかった。なるべく早く戻って来てくれよ」
俺は咳込んだまま力なくクリスに家まで運ばれて行った。
* * *
どのくらい寝ていたのだろうか? 目を覚ますと、そこはベッドの上だった。
「やっと目を覚ましたか」
覆いかぶさるように俺の顔を覗き込んでいたイザネの顔がどくと、天井の木目が目に入る。俺はまだボーっとしたまま暫くそれを眺めていたのだが、やけに額が冷たい事に気がついた。
「なんだこれ?」
俺は額の上に乗っていたビチャビチャのタオルを手に取って眺める。
「なにやってんだよ。ちゃんと熱を冷ましてないと駄目じゃないか」
なにやら机の上の食器を整理してたイザネがこっちを振り向く。
周囲を見渡すと並べられたベッドの上にべべ王達の姿がない。どうやら俺以外はみんな風邪が完治したらしい。
「だってこのタオルべちゃべちゃじゃないか、もっと絞ってから乗せるもんだろ?
ほら、額までこんなに濡れてる」
俺は濡れた額を、服の袖で拭った。
「そうなのか? よく濡れてた方が冷えると思ったんだが」
イザネはひょいと俺からタオルをひったくると、タライの上で軽く絞る。
俺はイザネから目を離し、今しがた額を拭いた服の袖をもう一度眺めた。
(おかしいな?)
「こんくらいでいいか?」
俺はイザネから渡されたタオルの具合をみる。
「うん、このくらいで大丈夫だよ。ありがとう。
ところで俺は半袖の服を着ていたと思ったんだが?」
「ああ、あの泥と血でドロドロだった服だろ。すぐに着替えさせたよ」
「なんだって?! おまえが着替えさせたの?」
「俺はまだ風邪が治ってなかったから寝てたよ。ララさんがやったの」
(なんだ、ララさんか……)
俺は胸を撫でおろした。
「着替えてる時、覗かなかったろうな?」
「俺がそんな事する訳ないだろ。ああ、でもべべとジョーダンは着替えてるとこ覗いてたかも」
(あの二人に弄られるネタを提供してしまったか。チクショーめ!)
とはいえ、今更どうしようもない。俺はベットに横になり、イザネが絞ってくれたタオルを額に乗せた。
ふと見ると、再び机の上の食器を弄っていたイザネが、盆の上に皿とスプーンを移してこっちにやってくる。
(もしかして食事を持ってきてくれたのか?)
イザネはスプーンで皿の中身をすくうと息を吹きかけて冷まし、それを俺に差し出した。
「はい、アーンして」
「何の真似だよそれは?」
イザネらしからぬ行為に、俺は眉をひそめた。
「病人にはこうやって飯を食わせるんだろ? メルルが教えてくれたぜ」
いやまぁ、確かに間違いではないのだが。
「もしかして、おまえらもメルルにそうやって食わせて貰ってたのか?」
「そうだよ」
屈託のない顔で、イザネが答える。どうやらメルルはおままごとの要領で、ここの病人達の世話を手伝っていたらしい。
イザネがもう一度スプーンを俺に差し出す。
「食わないのか? それとも俺に食わせて貰うのが嫌なのか?」
(イチイチ説明するのもめんどくせぇ。もうイザネの誤解を解くのは後回しにしよう)
腹も減っていることだし、俺はおとなしくイザネに従う事にした。
「そんな事ないよ」
俺はイザネの差し出したスプーンに食いついた。
ガチャリ
が、その瞬間ドアが開き、俺とイザネはそのままの姿勢でそちらに視線を送る。
「あらあらあら、お邪魔だったかしら。ごめんなさい。
あ、イザネちゃんここに乾いたタオル置いておくから後でカイルさんの身体を拭いてあげてね。
汗を拭かないと風邪がまたぶり返しちゃうから。じゃ、またね」
ララさんはドアの脇の机にタオルを置くと、そそくさと出て行ってしまった。
「何赤くなっているんだよカイル? ほら、アーン」
(後でどうやってララさんの誤解を解こうか……いやそれより、この事をべべ王やジョーダンが聞いたらどうなってしまうのだろう)
イザネの差し出す二杯目のスプーンを、俺はもう半ばやけくそで頬張っていた。
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