僕らこどものSOSレスキュー〜ちょっと変わったこどものSOS相談室が、虐待に遭う少女を救うために誘拐する話〜
一ヶ月毎に旨味成分上昇
虐待少女
「いやっ! やめて!」
「うるせえ、ガキ!」
数回、鈍い打撃の音がリビングに響く。
人が、他には見て見ぬふりする母……母と呼べるのだろうか、こんな人間は。
殴られて甲高く、しかし掠れるような程度しかない呻き声……悲鳴か、いずれでもいいが、とにかくそれが幼児、まあ小学生くらいではあるだろうが、成長は多少遅さを感じる。
とにかく、ここには父、母、そして父に殴られて全身痣だらけの少女しかいない。
誰が悪いのか?
悪いのは間違いなくこの最低な父母であろう。母にも痣のようなものが見えるが、それは子供のそれと比べて大したことはない。子供に対して見て見ぬふりをしていい理由にはならない。
しかし、この少女は、ひょっとして自分が悪いのではないのかと、そんなふうに考えることもある。
ここ数十日、学校に行けてない。
数日行けないことはあった。痣が服に隠れないところに出来てしまったとき、それを隠すために、治るまで外出を禁止されたりして。
しかしこのところ、治りが遅い。それは簡単な話で、父からの暴力が絶えないからである。
母の方も、これまではなんでもないふうな顔をしていたが、今日のこれに関しては、顔を覆って見ないようにしている。
空にした酒瓶で娘を殴りつける父親というのは、まさに最低な人間である。幸いなのは、酒瓶が分厚く割れにくいものであることと、意図的なのか偶然なのか急所を外していることだ。父親がタバコを吸う人間でなくてよかった。もし吸っていたら、子供には一生残る火傷の跡がいくつも付いていただろう。しかしそれでも一生ものになりかねない怪我を、もう幾度も受けている。子供が今まで生きてこれたのは、奇跡とも呼べるかもしれない。
そんな奇跡、誰が望むだろうか。
父は「死ね」と思っているだろう。だが本当に殺したら現行法では詰みだから、殺さず暴力で留めている。……暴力も充分に触法ものだが。
母はどうだろうか。娘は、愛情を受けたと感じたことは、これまで一度もなかった。あるいは「産まなければよかった」とか、そういうことを考えているのかもしれない。
娘自身は。「死にたい」と思っただろうか。「痛いけど、生きたい」と思っただろうか。
惨状に耐えきれなくなって風呂場に逃げた母は、奇跡は望んだのかもしれないが、このような形は決して想像もしていなかっただろう。
母が風呂から上がっても、未だその拳を収めない父は、望んでいない。
父の矛先は、目につく行動をしていた母の方は向いた。やっていることは、ただの風呂上がりの手入れなのだが、彼はそれが気に食わなかた。相手のことを気にせず押し倒して、娘の前でもなりふり構わず強姦紛いのやり方で行為に及び始めた。
齢一桁の少女には、あまりに過激な光景だが、彼女はその場から動くことが出来ない。何故なら彼女は知っているから。父が寝る前に動くと、逆鱗に触れてもっと暴れるから。もっと痛くされるから。もっと酷い目に遭うから。
結局、両親が寝静まるまで三時間、その場から身動き一つとらず、泣き声一つ出さずにいた。気配を消しておくのは、いつしか得意技になっていた。
時間の内訳は「気が済むまで及んだ行為」に二時間、「疲れて寝た父の横で、起こさないように啜り泣く母が寝るまで」で一時間だ。何故母が寝るまで待つのかというと、母も父と同じように、動く娘が目につくと、顔を叩き始めるからだ。しかも娘が声を出して父に気付かれたら、母共々殴られるからという理由で口を抑えられるのでより陰湿だ。
怒りに満ちた父に対し、母は辛そうな表情をするので、娘は心も蝕まれる。
娘は、両親が寝静まると、急いで二階へと駆けていく。当然足音は殺す。
少女は固定電話の子機を手に取り、記憶を頼りに番号を押す。
コール音が数秒流れる。
コール音が事切れると、女性の声が耳に響いた。
「………もしもし」
女性の声が返事を返したことを理解すると、少女は押し殺したような掠れた声で、言った。
「助けて、死んじゃう、死んじゃう」
金切り声にも近いそれは、嗚咽を一所懸命に堪えた結果だ。
女性の声に場所を聞かれた少女は、少し離れた近所の公園の名前を告げる。
「南第一公園です……」
少女はその後、数回「はい」と掠れた声で言うと、電話は切れる。
少女は子機を律儀に充電台に差し直す。階段を降りると、寝ぼけた父親がトイレに千鳥足で向かう様子が見えた。
少女は影になる場所で息を殺す。父親が用を足し終わり、再び眠りに着くまで、ずっと身動き一つせずにいた。
痺れたお尻を気にすることもなく、少女は急いで靴を履き、玄関の扉を開く。この扉はどんなに頑張っても音が鳴るので、最大限リスクを減らすために勢いよく開けて、家を飛び出す。
少女は足が速くない。特段遅くもないが、大人と張り合えば簡単に負ける。だから全速力。
痣が風で染みるが気にしない。痛みで、乾いた瞼に補充され続ける涙も気にしない。
少女はただひたすらに、公園を目指して駆けた。
◆
人はそこまで多くない、都会かと言われるとそうでもない。休日は家族連れで賑わうショッピングモール、コンビニ、チェーンの飲食店が駅から離れたところにもあるから、別にそこまで田舎でもない。
イナカトカイ。あるいは、トカイナカ。
どちらでも構わないが、とにかく現代人が住むには充分な環境が揃った町。特別に名前を言うほどでもない町。別に名前が知られている訳ではないが、何故か特急が止まる駅。
ここは、そんな駅の近くにある、小さいながらそこそこ広い事務所。
真夜中だというのに、電気が点けっぱなしなのは消し忘れなのか、それとも防犯のためか。正解はどちらでもない。その時間にも働いているというだけの話だ。
ちょっと大きなコンビニのバックヤードか。そう訊かれたとするならば、答えはノー。
イエスと答えるとするならば、それはどういう質問か。
これは電話を使った仕事場か。
イエス。
目つきの悪い女性が、デスクに置いたノートパソコンと睨めっこしながら、キーボードをカタカタを断続的に叩いている。部屋を明るくしていても、そのモニターの光は目を疲れさせる。
作業を中断させるように、デスクの横の固定電話が鳴り響く。
受話器を手に取る目つきの悪い女性は、その見た目からは想像がつかない、慈愛に溢れた声色で、その電話に応対する。
この声は作っている、繕っている。
理由は実に単純だ。それは相手が子供だから。怖がらせてはいけないから。
ここが子供達の最後の砦———〝こどもSOS相談室〟だからだ。
女性が電話応対を終えて受話器を置くのと同時に、扉が開く音がする。
トイレで用を足していた、男が部屋に戻ってきたことを表していた。
「アカリさん、電話ありました?」
「あったよ。あたしはやりたくないんだから、あんたがちゃんと電話番してくれないと」
男にアカリと呼ばれた目つきの悪い女性は、気怠そうに言葉を返す。
「いやあ、そう言われましても。漏らすわけにはいかないので」
「はぁ……」
「それで、内容は?」
「小二かな、多分。それくらいの女の子。虐待で、急ぎかも。死んじゃうって言ってたし」
「じゃあ、急がないとね」
アカリの言葉を聞いて、男はすぐに車の鍵を持って飛び出そうとする。
「ちょっと。まだ場所を教えてないだろ。訊かずにどこ行くっていうのさ」
「あ〜……そうでした。じゃあ、早く教えてください」
「南第一公園」
「ありがとう、行ってきます!」
「南第一こ」まで聞いて、男はすぐに事務所を飛び出した。
「……そそっかし———」
「スマホ忘れた!」
男は事務所に飛び込んで、自分のデスクを叩くように漁ってスマホを探し出す。
見つけると、またすぐに飛び出していく。
「……本当に、そそっかしいんだから」
アカリの呟きは、開けっぱなしの扉から入り込む寒い空気に掻き消される。
「寒い寒い」
数秒して、寒さから重い腰を上げて、扉に手をかける。
ふと外を眺めると、走り去る車のライトが一瞬見えた気がした。
アカリはそれを見て何か考えていたような気がしたが、寒さに負けてさっさと扉を閉めたのと同時に、それを忘れてしまう。
なんだったかな、と首を傾げてながら着席し、再びノートパソコンと睨めっこを始めた。
◇
南第一公園。周辺の子供達の遊び場。昼間、ここには平和がある。
彼はそれを知っている。
車を止めて、公園の入り口に向かうと、不安そうな顔をする少女がいた。
深夜の公園は、昼間のそれとは一変して不気味な空気が漂う。
そこで待っていた彼女は、さぞかし怖かっただろうと思った男は、可能な限り怖がらせない言葉をかけようと思案しながら、少女の前で片膝をつく。
結局何も思いつかなかった男が放った言葉は、以下の通りである。
「こどもSOS相談室、
少女は、何かされるんじゃないかとずっと顔を隠していた腕を降ろしながら、頷く。
それを見た男……ミヅキは、少女の手を優しく引いて、すぐそばに停めていた車の助手席に乗せた。
ミヅキの運転する軽のワンボックスカーは、両脇に相談室のロゴマークが付いている。だが夜で街灯も少ないために、少女が乗り込むとき、それはほとんど見えなかった。その証拠に、少女は未だに不安そうな表情だ。もちろん、これまで受けてきた被害から、人間不信気味になっているのもあるだろうが。
それでも、ミヅキは訊くのが仕事だ。無理に訊き出したり、拷問のようなことをする訳ではないが、本人から事情を訊くのが最も手っ取り早く解決に向かうから、可能ならば訊いておきたいのである。
「名前、言える? 自分の名前」
「なま、え……は……ふた……ば、ミ……ユ……」
少女は、詰まりながらも必死に答える。
ミヅキは、車を走らせながら考えた。
「ミユちゃん、だね。とりあえずコンビニに寄ろう。君の飲み物を買うんだ」
「………」
「何か飲みたいものはある?」
「………」
「いいよ、遠慮しないで、好きなものを買ってあげる。欲しかったら飲み物だけじゃなくて、食べ物も」
「………」
少女、ミユは黙り続けるが、腹の虫は正直だった。
「やっぱり。我慢してるんでしょ。ね、ほら、好きなの買ってあげるから、お兄さんになんでも言ってみ?」
「……もものジュースと、サンドイッチ」
聞き取りづらい、ボソッとした声で一度言っただけだが、ミヅキは聞き逃さなかった。「わかった」と言うのとほぼ同時に車を停め、ミユを置いてコンビニに入っていく。
ミユに注文されたものを探していると、スマホの着信音が鳴る。アカリから「コーヒー買ってこい」というメッセージが届いていたのだ。ご丁寧に何やら怒ったようなスタンプも添えられて。パシリみたいに使われて、結局お金払ってくれないんだよな、とか考えながら、同時に毎回アカリに言われる「どうせ経費で落ちる」という言葉が突っ込みを入れてくる。
桃ジュースと缶コーヒー、そして自分用のペットボトル入りのカフェオレを手に取り、サンドイッチコーナーで目についたたまごサンド、ハムレタスサンド、照り焼きチキンサンドを取ってレジに向かう。
会計を済ませたミヅキが車に戻ると、今にも泣き出しそうな顔のミユが、ミヅキを目にした途端に安心の二文字を顔に浮かべる。
運転席に座りながらビニール袋を弄り、桃ジュースとカフェオレを取り出して袋を脇に置き、桃ジュースをミユに渡す。
自分がまずカフェオレを開けて飲む。だが、ペットボトルを握ったまま、ミユは飲もうとしない。仕方がないので、ミヅキは一度ミユからボトルを取り上げ、キャップを開けて再び渡してやる。
「ほら、飲んで飲んで」
ミヅキに煽られて、やっと飲み始めたミユは、ほんの少し口をつけて、すぐに飲むのをやめてしまう。
だが、その顔には「久しぶりにまともなものを口に入れた感動」がありありと映っていた。
だから、ミヅキはこれ以上咎めたりはしない。
事務所にミユを連れ帰ったミヅキは、集中が切れかけているアカリの前に缶コーヒーを出した。
「お〜い〜ミヅキ、あたしはいっつもジョージアって言ってるよな! これボスじゃんかよ!」
「そんないちいち見てないですって」
差し入れを見て早々に文句を垂れるアカリはミヅキの返答に対してさらに言葉を返そうとして、やめた。ミユが目に入ったからだ。
黙って缶を開けるアカリを見て「結局飲むのか」と思いつつ、意識のほとんどはミユに向けているミヅキ。
「ささ、ここに座って」
ミユが入り口に入りかけて固まっているので、ミヅキは「こちらへおいで」とソファのそばで手招きする。
ミユは黙ったまま、おっかなびっくりといった様子でソファに腰掛けた。
ミユがキョロキョロと辺りを見回すと、コーヒーの入った缶を時々口元で傾けたりしながらノートパソコンと睨めっこする名前の知らないお姉さんや、デスクに置いたビニール袋から三種類のサンドイッチを取り出すミヅキが交互に目に入る。
三つのサンドイッチを二つの手で持つとき、右手で二つ持つか、左手で二つ持つかで迷うこともあるだろう。ミヅキは右利きなので、特に意識することなく右手で二つ持った。
一人掛けのソファなので、ミヅキはミユの隣にしゃがみ込んだ。
「サンドイッチ。ハムレタス、たまご、あと照り焼き。どれでも好きなのを食べるといいよ。もちろん全部食べていい」
全て差し出して見せると、ミユは少しばかり目を左右の泳がせ、左手に持っていたたまごサンドを手に取った。
ミヅキの「開けられる?」という問いにコクコクと頷きながら包装を綺麗に開封するミユを見て、ミヅキは自分の席に腰を落ち着ける。その際にハムレタスサンドを左手に持ち直したが、結局席に着いたときにデスクの上に照り焼きチキンサンドともども置いたので、これにあまり意味はない。
虐待という環境で心が貧しくなっているためか、モソモソとサンドイッチを食べる様子は、寝起きで機嫌が悪いときのようにあまり美味しくなさそうな様子である。
ミヅキは、少し前から、少し酸っぱい臭いがしていることに気付いていた。この臭いが間違いなくミユから漂っていることは、アカリが一瞬顔を顰めたことからも明らかだ。
「風呂屋って何時からでしたっけ?」
「船出銭湯が朝四時から」
「となると……あと二時間か」
「……おい、まさかあたしに押し付ける気じゃないだろうな」
「僕がロリコンで変態のクソ野郎ってレッテルを貼られたまま刑務所にぶち込まれてもいいなら行きますけど」
「あ〜……めんどくせえ」
「もともと二人で分担してやる仕事でしょうに。それに、いつも寝る前にあそこの風呂屋行ってるんですし、ついでにやってくれてもいいでしょう?」
「………貸し一つな」
アカリとの会話が一区切りついて、再びミユに意識を向けると、たまごサンドの二つ入っている内の一つ目を、半分食べたところで手が止まっていた。
ミユは小さく「何がいけなかったのかなぁ」と呟いて、涙を落とし始めた。
結局、アカリが銭湯に連れて行くまで、ミヅキが隣で背中をさすり続けていた。
◇
朝日が登った。
部屋にはわずかな石鹸の匂いか残るのみで、さっきまでの酸っぱい臭いはもうしない。
「それじゃあ、あたしはもう寝るから」
欠伸混じりに言葉を垂れ流し、一人がけのソファに寝転がる。このソファは手すりがない。
アカリは目を片腕で覆い隠し、そのまま寝息を立て始めた。
戻ってからずっと立ち尽くしているミユに気付いたミヅキは「疲れるでしょ」と言いながら、これから数時間は空席のままであることが確約されているアカリのデスクの席に座るよう促す。
申し訳なさそうな表情をしながらミユが椅子に座るのと同時に、事務所の扉が開いた。
「おっはようございまぁす!」
「おはようございます」
活発な声で挨拶をする男と、それとは対極的に落ち着いた挨拶をする女が入ってきた。声の大きさのせいか、ミユはそれを聞いたときにビクッと体が跳ねていた。
「タクミさん、サユリさん、おはようございます」
「ミヅキ〜! 俺たちは半年しか差がないんだから、いい加減敬語やめよ?」
「ごめんなさい、癖ついちゃって」
少し遅れてさらにもう一人女性が入ってくる。
「ドアは開けっぱなしにしないでください。これでもう二十四回目ですよ。いい加減に直してください」
「あ〜! ツユさん、もうわーかりましたって!」
入ってきて早々、くどくど説教を垂れるツユはミヅキを見つけると、早速仕事というように「状況をお聞かせください」と言い始めた。
ミユの相手をサユリがしている間に、ミヅキはミユについての事の顛末を話した。
「把握しました。では、ここからは我々にお任せを」
「いえ、僕も引き続き……」
「ミ〜ヅ〜キ! お前最近昼も夜も働いてるんだからいい加減休めっての! ミヅキが死んだら俺、ここで唯一の男になっちゃうよ? ハーレムよ?」
「我々が好意を寄せることはないので、ただの孤立ですね」
「ふふ、ツユさんは今日もキレキレですね。私もあくまで同意ですが」
「どうしよう、俺順調に敵作ってる! もしかして天才!?」
「災の方だとしたら、思わず同意していました」
彼らの会話を聞いて吹き出した、ミユの表情は少し柔らかくなった。
一度、全員が心を許しかけたが。
「とにかく、ミヅキさんは休んでください。このまま続けて過労死で死なれると、我々が困ります」
「困ってる子供達を助けたいと思うと、つい」
「つい、でとても面倒なことを起こすリスクを作らないでください」
圧倒的アウェーのミヅキは、渋々言う通りにすることにした。
車の鍵を手に取り、ドアノブに手を掛け……一度やめて、振り返る。そしてミユに近づいて、正面でしゃがんで頭を撫でてやる。殴られると思ったのか一瞬びくりとするミユを見て、ミヅキは憂いの表情を見せる。しかし、特に何かすることもなく……というより、何かしようとしても全力で阻止させるので仕方なくだが、「後はよろしくお願いします」と言葉を残して事務所を後にした。
残った三人は、ミユにとっては顔も名前も知らない存在だ。今の彼女の弱りきった精神では、この場で落ち着けるはずもなく。寝息をたてるアカリのそばに寄って、体をぎゅっと固めていた。
「あれ、サユリさんがアカリさんに負けるだなんて、珍しいっすね!」
「負けてないわ。これから仲良くなるもの。ね?」
「私に振らないでください。まずは彼女に自己紹介をするべきでしょう。初めまして、双葉ミユさん。私は茅馬ツユです」
「俺は松田タクミ!」
「私は稀崎サユリです。よろしくね」
三人の大人に囲まれて、若干泣きそうになりながらもぺこりとお辞儀をする。
「……今回の場合、あまり近づきすぎないほうがよろしいでしょう。トラウマを抉る可能性がありますから」
ツユの進言に対して、ミユが何かをぶつぶつ言う。これは文句というわけではなく、単純に声が小さいだけだ。なぜ分かるかというと、サユリが「もう一度お姉さんに言ってごらん」とささやいて、耳を傾けたからだ。
「もっと構ってくれていいですよって」
「……本人が仰るのなら、問題ないでしょう。ですがミユさん。辛かったり嫌だったら教えてくださいね。即座に辞めさせますから」
「なんか、別の意味を孕んでいそうですね」
ツユとサユリは険悪な仲ではないのだが、たまに不穏な空気が流れることがある。
タクミは、そのクッションとしての役割がある。
「ミユちゃん、小麦アレルギーだったりする?」
「いえ……とくには……」
「よかった! じゃあ今朝焼いてきたクッキー、よかったら食べてよ! ほら、お二人も! ね!」
タクミの態度に毒気を抜かれた二人は、ほぼ同時に溜め息をついた。サユリは「では、いただきますね」と言いながらクッキーに手を伸ばすが、ツユは自分のデスクに着席して、黙々と仕事を始めてしまう。
タクミは「味がよくないのかなぁ」と、ツユがなぜ自分の作ったお菓子を食べてくれないのかについて理由を考えていた。実際は、相当な甘党の彼女がクッキーに手をつけてしまったら、その瞬間からその日は仕事が手につかなくなることが、自分で分かっているから進んで節制しているだけなのだが。生憎的外れだった。
クッキーを口にしたミユは、他人から物を貰う申し訳なさと、クッキーの美味しさでなんとも言えない表情を浮かべている。
タクミは、料理がかなりうまい。この事務所では、アカリ以外の全員が自宅まで呼んで料理を作って貰ったことがある程だ。
「私はこんなに美味しいものは作れないから、羨ましいわ」
「サユリさんが料理すると暗黒物質できちゃいますもんね!」
「何か言いました?」
タクミの失言を、サユリは許さない。表面上は穏やかな笑顔で、ヘラヘラ笑うタクミに威圧する。
ツユの咳払いで、二人は即座に仕事モードに切り替わった。
とはいえ二人の仕事は、引き続きミユの相手をして、楽しませることなのでそこまで何か特別なことはしない。
特別なことといえば、もう少しで起きる。
事務所の扉が開いた。
入ってきたのは、紳士服を纏った初老の男性。白髪、白髭と、絵に描いたような老紳士だ。
「おはようございます、シタラさん」
真っ先に立ち上がって挨拶したのは、ツユ。しっかりと腰を折るお辞儀もしている。
タクミは「おひさでーす」などと適当な挨拶をしているので、この差はより大きく見える。
「おはよう。みんな元気そうでよかった」
優しく笑うシタラは、扉を閉めるとキョロキョロと事務所の中を見回して「ミヅキ君はいないのかい?」と尋ねる。特に誰ということもなく、答えられる者に委ねる尋ね方だ。
「昼夜連勤続きだったから、みんなで帰るように言いましたよ!」
真っ先に声を上げたのはタクミ……ではなくツユなのだが、生憎声量で負けて、ツユは結局何も伝えることなく口をつぐんだ。しかし、言いたいことは概ねタクミが言い切ったので、わざわざ言い直す必要もないだろうという考えも含まれる。
彼、シタラは支援者だ。
この団体は元々国のものだったのだが、シタラが買い取り、自分好みの活動をする団体に改造したのだ。
彼は「純粋に、子供達は笑顔で幸せな生活を送るべきだと考えている」と話す。これは、法律なんかよりも優先されるべきだ、と。
流石に飛躍しているような気がすると、多くの人が思うのだろうが、彼がそれを言うと何故だかとても説得力があるように感じるのだ。
「さて、君の名前を聞かせてくれるかな」
シタラは、ミユの前で膝を折り、優しく語りかけた。
「ふたば……ミユです……」
「ミユか、いい名前だ。私は、君も幸せになるべき子供の一人だと考えているんだ。だから是非、大人を困らせてしまうとか、そんなくだらないことは考えないで自由にやって欲しい。今は、君がわがままを言ってもいい貴重な時間なのだから」
ミユの右手に触れ、手の甲をさすりながら言う。
ミユは、少しの間を置いて、ゆっくりと頷いた。
多分、半分も理解出来てはいないだろう。ただそれでも、彼の言いたいことをなんとなく理解したのか、「私は駄目だ」という思考から「私も救われていいんだ」という思考に変わり始めている。
「それじゃあ早速———」
「その前に、ね」
早速連れ回す気満々で提案しようとするタクミを、サユリが遮った。
見せているのは、「ミユちゃん怪我してるから、手当てよろしくお願いします」というミヅキからのメッセージだ。
「そういうことだから、少なくとも今日一日は治療に専念しましょう」
「え〜……」
「え〜じゃないです。遊ぶのはあなたのためじゃなくミユちゃんのためですからね、タクミさん」
タクミは、説教モードに入って面倒になったツユを撒くようにトイレに逃げ込んだ。
シタラはそれに構わず、誰かと電話を始めた。
「うむ、近所の診療所が今から診察可能だと言っていたよ」
それを聞いたツユはノートパソコンのキーボードをカタカタと鳴らし始める。
そして、トイレから戻ってきたタクミを見て声を掛けた。
「ひゃ、ごめんなさい、説教は勘弁!」
「そうじゃなくて、診療所までミユちゃんを連れて行ってあげてください。引率です」
「あ〜、なんだそういうことか」
タクミは調子に乗って、それなら早く言ってくださいよとか、また長々と説教喰らうかと思ってましたよとか、余計なことを口走ってしまう。
ミユを連れて事務所を離れようとした時に、ツユに声をかけられた。
「タクミさん。帰ったら、覚えておいてくださいね?」
タクミが普段の活発さを完全に殺されてしまい情け無い返事を返すのみになってしまったことから、ツユの事務所内でのカーストの高さが伺い知れる。
特にやることもないサユリはそれを見て、やれやれと首を振っていた。
◆
娘がいなくなって三日が経った。
双葉シュウゾウは、この事実を受け止められるほど強くはない。むしろ、その心の弱さ故に娘が消えたのだろうが。
彼にとって、娘が去った理由などどうでも良い。
ただ、去ったという事実が許せないのだ。自分の支配から逃れて、自分の知らないところで好き勝手される、自分の思い通りにいかないもどかしさが、どうしようもなく腹立たしいのだ。
実際のところ、シュウゾウ自身はそれをはっきり認識できていない。ただ漠然と、娘が逃げたことに苛立ちを覚えている。その芯を解剖してみれば、そのようなものなのだ。
今、娘の代わりにサンドバッグになっているのは、妻のマユミである。元からそうだが、ほとんど八つ当たりのような行為を日夜続けていた。「クソガキが」と、実の娘に対して放つ言葉かと思うような発言だ。しかもそれを本人ではなく妻に向けて浴びせているのだから、もう自分でも誰を相手どって誰に向かって言う言葉なのか分からなくなっている。
酒、暴力、性暴力に逃げ。子供なのは一体どちらの方なのか、と。
マユミの方も、変化があった。
夫が寝静まった後、一人で啜り泣くいつもの事。違うのは「ミユ、ごめんなさい」という言葉を不覚にも溢していることだ。
夫に気付かれぬように自分も娘に暴力を振るってきたり、産まなければよかったなどという台詞も幾度吐いてきたが。実際娘がいなくなると、とても辛かった。
それが果たして愛故か、それとも都合のいいストレスの捌け口や暴力の矛先……肉壁のような扱いなのか、定かではないが。
死体はないのに死臭がするような気がする、最悪な家での生活は、まだもう少し続く。
◆
傷もほとんど治り、タクミやサユリに連れ回されて、ミユは電話をしてきたときより遥かに顔色が良くなり、笑顔も増えていった。
今日は少し変わった空気が流れていることに、ミユは不思議そうな表情を浮かべている。
分かりやすい変わっているのは、珍しく昼に起きているアカリが挙げられるだろう。
「ミユちゃん、ちょっと来てもらえる?」
ツユの呼びかけに、ミユは素直に応じる。さりげなく用意された席に、ミユはサユリにお礼を言いながら座った。
以前に比べて、ミユはかなりハキハキと喋れるまでになっている。これは、タクミによる発声練習の成果だ。
「ミユちゃんも、そろそろご両親との関わり方を考えていく必要があるの」
この言葉を聞いて、ミユは顔を強張らせる。
無理もない。ここ数年、呪いとも呼べるほどの虐待を受けていたのだから。
もちろんまだ無理をする必要はない、嫌ならもう少し期間をおいてからでも。ツユがそう言おうとして……その前に、ミユが言った。
「会いたいです。私は、お父さんお母さんと一緒に暮らしたい」
この場の全員が思いは、意外。眠そうに船を漕いでいたアカリが目を見開く。
これまでは、大抵「まだ会いたくない」とか「もう二度と顔も見たくない」などの答えが普通で、会いたいや暮らしたいというのはほとんどなかった。というか、初めてだ。
だからこそ、どういう対応を取るべきなのか迷っている。
ツユは提案した。
「今の両親とミユちゃんを会わせるのは、流石に難しいわね……。まずは我々で接触を試みた方がよさそう」
「接触っつってもさ、具体的に何すんの?」
反応したのは、アカリ。普通に日常会話とかはまず無理だろ、と続ける。
サユリがそれに口を挟んだ。
「まぁ、やるとしたら尋問とかになるでしょうね」
「重要なのは、ミユちゃんが虐待されるような環境を排除し、二度と再発しないよう徹底すること。それ以外は二の次として考えるべきよ」
「……拷問か」
「ちょっと、いくら虐待するような人間でも、流石にそれはやりすぎですよ。そもそも、ミユちゃんの望みを叶えるなら、両親の腕や脚が無くなるのは問題でしょう?」
アカリの一言に対して、多少ばかり過剰に反応したミヅキ。
彼の行為は、被害を受けた本人にしてみれば嬉しいかもしれないが、あまりに感情移入をしすぎである。プロとしては二流だろう。例えば彼の隣の馬鹿で声が大きい男も、その辺りの分別を弁えている。今この話で一言も口を出さずにミユの相手を、し続けているのは、そういう理由があってのことだ。
「確かに、ミヅキさんの意見も一理あります。ですから、仮にやるとしても主に精神面から攻めることになるでしょう。当然、後の生活に支障がでない程度には抑えますが」
ツユは、あくまで冷静に言葉を返す。
ミヅキは引っ込んだので、それで納得したようだ。
この会話の裏でノートパソコンを弄っていたアカリは、その作業の手を止めて画面をミユとタクミ以外の皆に見せた。
「はい、これがミユの自宅とご両親、双葉シュウゾウとその妻マユミの所在及び行動ルート」
彼女は他の皆がミユを遊園地やレストランに連れ回している間、ずっと事務所でこの特定作業を行っていたのだ。もちろん、ミユを遊びに連れて行く過程で、家庭の事情を話せる範囲で訊き、それを基にして特定作業をしているので、誰一人として無駄な行動はしていない。
「あと、近くにお話を訊くのにちょうどいい施設もあったから、予め押さえておいた」
アカリの補足を聞き、ツユは最終的な決定を下した。
「私とアカリで残ってサポート、他三人で双葉両親からお話を訊いてきて」
それに意を唱えたのは、サユリ。
「そしたら、ミユちゃんは誰が面倒見るの?」
「私が任されよう」
突然開いた扉から、シタラが立候補とばかりに入ってきた。
「いいんですか! お願いします!」
タクミの突然の馬鹿でかい声に、ミヅキは耳を塞ぐのだが、他の者は慣れてしまったのか特に大きな反応を見せなかった。
「シタラさん、ご協力ありがとうございます」
「いやいや、これも未来の子供達のためだよ」
「では、作戦にシタラさんを付け加える他に変更点はなし。よろしいですね?」
ツユの最終確認に、今度は異を唱える者はいなかった。
「では、各々行動を開始するように。以上」
◇
「作戦概要はこう。
まずは双葉シュウゾウ、あるいはマユミとの接触。今から向かえば、行動ルーティン的に家にいるはずよ。
どうやって接触するかについてだけど、馬鹿正直に正体明かして乗り込むのはよくない。向こうも多少後ろめたさはあるでしょうから、シラを切られて終わり。通報されてもシタラさんがなんとかしてくれるから、そっちの方は大きな問題にはならないのだけれど。
とにかく、確実に話を訊く場所まで引き摺り出すには、身分の偽りなどでは難しそうね。例えば宅配便や学校関係者だと、居留守を使われる可能性があるわ。宗教勧誘や営業も同じ。
だから、今回は彼らが自分で家の外に出るまで待って、催涙スプレーなどで無力感させて運び出す流れがいいと思うわ。
その後については私に任せてちょうだい。今その場所に向かっているから」
「三人とも、お疲れ様。ここからは私がやるから、しばらく休んでいていいわよ」
ヒイコラ言いながら二人の大人を運んできた三人は、奥のクーラーが効いた部屋に引っ込んでいった。
しばらくして、椅子に縛り付けられた双葉シュウゾウが目を覚ました。
「初めまして、私は茅馬ツユ。これからあなたにいくつかの質問をします。あなたに拒否権や黙秘権はありません。答えない場合、私はあらゆる手段を以て回答させます」
同時に聞かされた突飛な話に、まだ酒に酔ったままの頭では処理出来なかったのか、シュウゾウは鼻で笑った。
「青二才のガキに話すことなんざねぇ。さっさと帰しやがれ」
「言ったはずです。あなたに拒否権や黙秘権はないと。こちらが満足するまで質問は続きます」
ツユの言葉に、シュウゾウは大きなため息をつく。
「まず、一つ目の質問ですが———」
◇
翌日の朝まで続いた尋問を終え、少しやつれた様子のツユが待機していた三人がいる部屋に転がり込んできた。
「やっと終わりました……。疲れたので少し休みます。情報の整理は起きたらやります」
これ、この後彼らにやってもらうことのメモです。ツユはその言葉を最後に事切れた。
何故か合掌するタクミを置いて、ミヅキとサユリはシュウゾウがまだ居残る部屋に入る。
「………まだ解放されないのか」
こちらも相当やつれた……というか、涙を流して乾いたようなガビガビの顔だった。
サユリはその様子を目に入れても動じることなく、メモに書かれていることを読み上げた。
「あなたと奥さんには、親としての再教育プログラムを受講していただきます。シュウゾウ、あなたに関しては、その後仕事の斡旋も行いましょう。心配せずとも、まともな業務体系です。奥さんのマユミについても、本人の希望次第で同様の斡旋を行います」
「……ハハ、そうか。もう好きにしてくれ」
ミヅキは、シュウゾウに質問を投げかけた。
「あなた、娘さんのことどう思ってるんですか」
「……さあな、もう自分でもわかんねぇや」
シュウゾウは目に涙を浮かべ、声を震わせた。
「なんで、大事な娘に暴力振るったりしたんだろうな」
「産まれた時は、俺が一生かけて大切に育てるって、命よりも大事な宝だって思ってたはずなのに」
「………今更だ、もう遅い」
断続的に垂れ流される吐き捨てるような自責の恨み言。
ミヅキは、それは違うと言葉を返す。
「まだ、遅くはありません」
「ちょっと、まだ伝えるか決定してないのよ」
サユリの静止を無視して、ミヅキは続ける。
「娘さんは。ミユちゃんは。あなたや奥さんとまた一緒に暮らしたいと言ってます。まだ、今から更生すれば、やり直せます。俺達は、そのチャンスを与えに来たんです」
「………それ、本当なのか」
「ハァ、本当ですよ。ミヅキくん、後で覚えておいてくださいね?」
サユリの肯定を聞いて、シュウゾウの曇り切った眼に、一筋の光が差し込む。
「そうか……………そうか………!」
涙を浮かべ、嗚咽を繰り返すシュウゾウ。
もうこれ以上かける言葉もないと考えた二人は、ツユの目覚めを待つことにした。
◇
その後彼女の指示に従ってシタラの保有するとある施設に双葉夫妻を移送して、そのまま事務所に戻ってきた。
「———彼が豹変するようになったのは、勤めていた会社が倒産してからです。再就職が出来ずに時間ばかりが過ぎて、焦りから自暴自棄になったのでしょう」
ツユの一通りの説明が終わった。
サユリはミユの頭を撫でてやりながら、宥めるような言葉をかけている。
「早ければ、一週間後にはパパやママとお家に帰れるよ」
「ほんとう?」
ミユの反応は、喜び半分不安半分という印象を受けた。たった四文字だが、そこには「家族と会う」という普通なら特になんでもないイベントが、彼女にとってはそうではないのが事情を知らない人にも伝わる程に感情が乗っている。
能天気に、手放しで喜ぶ姿勢を見せるタクミ。仕事が終わってやっとゆっくり寝られるというような態度でふんぞり返るアカリ。あくまで淡々とした姿勢を崩さないツユ。寄り添い、最後の決断に耳を傾けるサユリ。ミユと目が合うと、優しく微笑んでやるミヅキ。
それぞれ態度は全く違えど、それは共通して「ミユと家族を会わせてやりたい」という意思によるものだ。本人が強く望んだのだから、それに応えてやる。
これはあくまで仕事だが、彼ら彼女らは仕事に私情を挟み込む。雇い主のシタラが納得している以上、部外者にとやかく言われることはない。
「うん………。わたし、嬉しい」
あまりにも大人な精神を持ちながら、それに反して幼い少女はここでもすぐに感情の整理をつけた。
だがその屈託のない笑みは、年相応の可愛らしさと、これから待ち受ける幸せに心躍らせる少女そのものだった。
「本当に、本当にそれでいいのね?」
サユリは、しつこい程に念を押した。
彼女はミユに限らず、これまでで最も子供達と触れ合う時間が長かった。
その分、子供に後悔の残る選択をしてほしくないという気持ちがとても強い。
「うん!」
しかし、ミユの答えが覆ることはもうない。
サユリはそれを理解し、優しく「分かったわ」と言い微笑んだ。
◆
一週間後。
とあるビルの屋上で、ツユとシタラは物思いにふけ、時折り子供を交わしていた。
「……私は、この瞬間が好きなんだ。子供がまた一人救われて、光満ちる人生の道を再び歩み始めるこの瞬間がね」
「しかも、今回はこれまでと違って〝普通の家族〟に戻るまでに至りました。かつてない快挙といえます。……あくまで、ミユちゃん自身の希望あっての話でしたが」
「私はね、茅馬ツユ君。子供達の幸せが何よりも優先されるべきだと思っているんだ。法なんかよりもね」
「………」
「だから私は、法を無視出来るほどの富と影響力を手に入れた。くたびれた老害がでしゃばるべきではないと、たまに考えることもあるが。私は生涯これを貫き通して、その後は信頼できる者に全てを明け渡したいと思う」
「………まさか」
「今のところ、ミヅキ君がいいと思っている。彼はいい具合に狂っているからね」
「……やはり、ですか。まぁ、彼のおかしなところは私もこれまで何回も見てきましたから納得はいきますが」
今日二人が交わした最も長い会話を終えると、不意にツユは眼鏡を外した。
「君はやはり、眼鏡を外した方が美しい。普段からそうすればいいのに」
シタラはその美しい顔をチラリと見て、言う。
「はぁ、そうすると、周りみんな仕事に手がつけられなくなるんです。あと、普通にセクハラになりますよ、その発言」
ツユの返答は、ため息混じりで多少呆れたようなものだった。呆れの感情は、シタラに対してというよりも、そういうルックスの自分自身に向けられたものだ。
シタラは「これは失敬」という言葉と共に、軽く首を折る。
「そろそろ、ミユちゃんがご両親と再会する頃でしょうかね。ミヅキさんとタクミさんを、サユリさんがしっかり抑えつけられているといいのですが」
「女の子よりも、彼らの方が心配なのかい?」
「ええ心配です。ご両親に危害を加えないかが」
「そういえば、彼らはここで行っていた再教育プログラム実施以前に対面したきりだったか。確かに、多少気がかりになるやもしれんな」
「流石に、ミユちゃんを悲しませるようなことはしないと思いますが……」
「なに、心配いらんよ。彼らもプロだ」
シタラの言葉を聞いて、ツユは眼鏡を掛け直す。
「さて、今日の私の業務は終了ですので、これで失礼します」
「ああ、さようなら」
冷淡な態度をとったように見えるが、シタラはこれを「仲間に任せても問題ない」とツユが判断したと分かっているので、冷たい人間とは思わなかった。
むしろ、仕事への熱意はミヅキと負けず劣らずといったところだ。
だからこそ、シタラは彼女を「可能な限り定時で仕事を止める」癖をつけるよう教育したのだ。
今、彼にとって信頼が最も厚いのはツユだ。だからこそ、この仕事において最も重要となる部分を彼女に一任している。もしも財産の全てをミヅキに譲ったとしたら、彼のサポートは彼女がやるべきだとまで考えている。
もちろんこれは彼以外、誰も知らない。
◆
双葉ミユ。八歳。
彼女は、過去に色々と経験したが、今となっては順風満帆な生活をしている。
それは至って平凡な、普通の生活に他ならない。
ミユは、この生活が何よりも尊く、守るべき大事なものだと理解している。
彼女の父、双葉シュウゾウも。母のマユミも。再教育によって押し付けられた価値観だったそれは、今では心の底から感じている。
普通の幸せが、確かにここにはあった。
「ねぇ、お母さん。今日のご飯は何にするの?」
「今日はね、ハンバーグよ。ミユ、好きでしょ?」
「大好き!」
何故なら、みんなが〝普通の家族〟になってから、初めて食べた家庭の味だから。
これは、車でのなんでもない母娘の会話である。
これは、不幸のどん底に落とされた少女が、人並みの幸せを手にしたことの証明である。
僕らこどものSOSレスキュー〜ちょっと変わったこどものSOS相談室が、虐待に遭う少女を救うために誘拐する話〜 一ヶ月毎に旨味成分上昇 @LoveSoumen
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