花失致死 白
桂花ははじまりの場所で私を待っていた。枯れていた身体を取り戻し、全身に愛情を咲き誇らせた姿で。私が逢いたいと願った、橙色のきらめく星屑。もっとも美しい桂花そのひと。
名前を持たない無垢な『あなた』だった私が生まれ落ちた、街はずれの小さな廃教会。
私は生まれたあとのことをよく覚えていなかった。その記憶の欠落の理由は胚種の移植による後遺症。記憶を補う物語は、桂花の口から誕生した日の感動として語りかかせられていた。生まれた命の素朴さに感動したのだと、なににも縛られない姿に恋をしたのだと。
桂花はながいながい物語を語り終えた。
それは如何にして彼女が愛へ至ったかの物語。彼女は私を待っていた。私でない私を待ちわびていた。十年かけ愛情を注いで、花を咲かせた。甘い爛れた香りを漂わせ、餌となる昆虫をおびき寄せる食虫植物のように。焼け爛れ腐敗した愛を餌に、愛されることに飢えた無垢な『あなた』をたぶらかして、その食欲を満たすために。
目的はひとつ。待ち続けていた白百合の太夫、樹里亜と出会い直すこと。
桂花の名付け親にして、初恋の相手。片思いを焦がして、最後のときまで思い合うことができなかった彼女。桂花は味を占めたのだ。欲望のままに、相手の身体を貪ることをやめられなかった。
「だましたんだ」
なじる台詞にも悔しさがにじんだ。
私へ贈られた愛情の裏に、常に別人がいたこともそうだ。けれど、いちばんに私の恋心を踏みにじったのは、そんな桂花によって私が満開に芽吹かせられたこと。初恋が通じ合ったと勘違いして、ひとりで舞い上がって、相手のことも自分のこともわかっていなくて、それでもどうしようもなく好きでしかなくて。すっかり吹っ切れられたら、こんなにも苦しまなくてもよかったのに。
私に咲いたあなたの花を捨てたくてしょうがないのに、身体を貫いて心の奥底に根を張り、もはや自我と同化している。桂花のない私など、桂花に恋していない私など、月華ではありえない。そう言い切ってしまえるのだ。樹里亜にならないために、この恋は捨てられない。
「ひとつも嘘はついていないよ。偽りを口にしてもいない。誓って、私はあなたを愛している」
「それは私じゃないッ! 桂花が愛しているのは樹里亜だッ、私のここにいるひとのこと」
肌に爪を立て、力のままに引き裂く。巧妙に隠し立てされていた腹部の孔は、古い痛みを覚えていた。頭が忘れていた記憶を呼び覚ますように、古傷に従って胎の肉が生き別れる。露わにされた腹膜を千切り捨て、血に濡れた胚種をみせつける。言い逃れできない彼女の証拠。
花陀が言っていたことだ。記憶は肉体に依存するが、花人にとっての魂ともいえる花は胚種に依存する、と。胚種が入れ替われば、身体に芽吹く花も変化する。だから、この白百合は私の花じゃない。
「自分自身に嫉妬、なんて揶揄っちゃあだめよね。あなたこそ勘違いしている。私は過去をやり直すために、樹里亜の胚種を与えたわけじゃない。何度でも言ってあげる。私は月華、あなたを愛している」
桂花は両手を開いて抱擁を合図する。何度もそうしてくれたように、なにひとつ変わりなく。柔和で美しい微笑みも、瞳に咲き誇った金木犀も、むせ返る深い香りも。私に真実を明かしても少しも揺るがない美しさで迎える。
「おいで、月華」
両の腕が差し出され、彼女の柔らかな胸が開かれる。
それはとても魅力的な誘惑で、抗いがたい衝動だった。どうして私が拒めよう。
それでも躊躇いが足をつかむ。無邪気に飛び込んでゆくには、感情を知りすぎてしまった。目を瞑り幸せに生きるには激しすぎる私を手に入れてしまった。咲き乱れる白百合は私の目には眩しすぎる。
この華を色づけたのは一体全体あなたなの。
真っ白でいたかったのに、塗りつぶして、染め上げて。
優しい貌で笑わないで。
愛しい気持ちを見せないで。
無償の愛だと嘯かないで。
「私は、わたしは、こんなにあなたが恨めしい」
はじめて立ち上がった幼子みたいに、手を伸ばして求めてしまう。よたよたと両腕を差し出して、前へ前へとつまづきながら求めていく。欲しがっていく。どうあがいたってあなたを拒めやしない。馬鹿な私だ。もっと簡単で、もっと心地よくて、痛んだり腐ったりしない。気持ちのいいだけの愛も恋もあったのに。
痛くてもいいんだって。
辛くてもほしんだって。
濃くて甘い毒だから。
「ひとつになろう。あなただけしかいらないように」
桂花は欲しいものをくれる。桂花にしか与えられない。
お腹がひどく疼いた。もしかしたら、魂だけになった樹里亜も、身体の月華に嫉妬しているのかも。そう考えたら胸もすく。私たちは和解すべきなんだ。魂と身体を解け合わせて、愛憎を癒着させて、きちんと私になって自分の欲に素直に開き直るのだ。
胚種が脈づき、開いた花に発情を促す。相手を誘う匂いを吐き出させて、ふたりの気持ちを盛り上げるために。
桂花も呼応するように、金木犀の艶やかな夕闇の排気を漂わせる。小さな廃教会は、窒息するほど空間を圧迫する。世界は私たちに包まれた。愛情が揮発し、思いが身体をはみ出して広がっていく。体外で混じり合った情欲が一足先に睦み合い、絡まって、新しい香りにかわる。ふたりのひとつに変わっていく。
そう、この香りは、とても――とてもおなかがすく。
「……桂花」
私の唇は求めた。
舌の裏に溢れた唾液を燕下する。
「月華」
彼女の潤んだ瞳には私の姿が映り込んだ。
「もう我慢しなくていいのよ」
なにを?
胚種が答えを教えてくれる。
本能のままに。欲望に。正直に。なればいいじゃない。
よぎる。記憶の断片。
花人の正体は、人間を食らうために産み出された兵器。食って増える、食人植物。擬人花。香りは相手を誘い、麻痺させ逃げられないようにする風媒神経毒。十年前の
擬人化の、犯人の樹里亜。樹里亜の恋人は桂花じゃない。桂花は自らの思い人を食べて噛み砕いて。人間を支配する強毒化した花人の香り。太夫の思惑、外への憧れ、樹里亜の特別な香り。それから、それから――。
走馬燈のように断片的な情報と、誰かの記憶と、感情と、駆けめぐり、情報の洪水が維管束を突き破って、溢れ出す。
桂花の体温が近づく。肌で直感する至近距離。花まみれの怪物が寄り添いあう。桂花の唇が開かれる。尖った犬歯が情欲の糸を引く。我慢できないと喉の筋肉が抽挿を繰り返している。欲しがっている。
わかるよ。私たちだって同じ気持ちだもの。
「きて」
剥き出しの私たちは抱擁を交わそうとした。
しかし、私たちの視線は絡み合う前に、すれ違い離れていく。
「え?」
桂花の腹から突き出た赤い棘。それは的確に、かつての私が受けたように、狂いなく急所の胚種を貫いて飛び出した。
静止した世界を突き破るけたたましい嗤い声。狂っていてしっとり血に塗れた、聞き慣れた声。
「お前の愛なんて、叶えてやるもんか」
「樹沙……どうして」
背後にあった母胎樹の膨らんでいた虚が裂けている。いや、違う。とうに破れていたのだ。そこに入っていた未熟な胎児を掻きだして、隠れ蓑にするためだけに。樹沙は桂花をつけ回して、目的地を知るなり先回りして隠れていたのだ。ずっと、機会を伺っていたんだ。
いつからだ?
そんなこと、わかりきっている。樹里亜を桂花に食べられた十年前のあの日からだ。
「気づかなかったでしょう、桂花。恋に愛におぼれると見えなくなる。自分の花の香りが強すぎて、うぬぼれた愛が大きすぎて、あたしの気持ちになんて気がつかなかったでしょう? あたしだって愛しているのにッ! ずっと、ずっと、愛しているのに。樹里亜のことを、愛し続けているのに……あなたのしたことだけは絶対に許しはしない。おまえが幸せになることは絶対に許さない」
いつか風南が言っていた。樹沙は一途だって。
桂花は私にもたれるように倒れた。もはや彼女は意識を保っていられない。死は避けようもない。じきに死ぬ。鮮度が落ちる。
彼女の背を貫いた棘の正体に震える。樹沙は左腕を失っていた。自分の腕の骨を研いで刃に変えていた。この十年間、憎悪で研ぎ澄ました、骨身に染みた復讐心と樹里亜への愛。
私はすっかり気付けなかった。樹沙こそ、私を通して彼女をみていたことに。樹沙は樹里亜の恋人だったのだから、当たり前じゃないか。
それとも、すべてあなたの思い通りなの?
「さ、さぁ、邪魔者はいなくなった。あなたの痛みは晴らしたわ。樹里亜ぁ、樹里亜でしょう。あなたは樹里亜なんでしょう。またあたしを愛してちょうだい」
「月華よ……月華。私は」
白百合の香りに狂わされた恋人たちが。
戸惑いも、哀しみも、感情の全てが私を突き動かす養分となる。胚種の思うままに、本能の命じるままに。
はやくしなきゃ、桂花の味が落ちてしまうよ。
もたれ掛かった、その白い首筋に。
嗚呼、私もまた狂わされたひとり。
思い通りに操る魔性の香り。白百合の猟奇的な快楽に、花人の本能の快楽に。仕込まれた生き様に飲み込まれていく。
抗うことのできない、情動の熱い奔流。
これが愛? きっとそうなのだ。
桂花を胃に収め、樹沙に手をかける。彼女たちの望みを叶える。叶え続ける。
愛する。愛し合う。愛し続ける。
あなたも、あなたも、あなたも。
たくさんあなたを愛してあげる。
よかった、みんなひとつだ。私が好きで抱きしめてあげるから。
私は内に楽園を抱く。
艶やかな華が咲き誇り、彼我も愛憎も溶け合った花園だ。
おいで、おいで、愛してあげる。
誰一人辛い気持ちにさせないから。
私たちとひとつになりましょう。
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