第5話
文化祭の準備が着々と進む。私たちは誰も部活動に所属していないため、必然的に準備に参加することが多かった。とりわけ、菱子は人一倍熱心に作業していたように思う。いつも最後まで残って作業していた。もちろん、普通に考えればよいことだ。だが、最近の菱子はあまりに菱子らしくない。
瑠璃とは菱子の様子について特に話していない。私としては菱子のことは瑠璃に任せるしか無い。菱子との付き合いは高校からの私より、中学から同級生だった瑠璃の方が長いのだ。大丈夫。菱子が何かに悩んでいたとしても、きっと瑠璃なら助けてあげられる。今の私にできることは何もない。私は無意識のうちに言い訳を用意していた。それは、誰に対する言い訳だったのだろうか。
そんなある日の放課後のことだ。文化祭まで二週間を切り、学校全体が異様ともいえる熱気に包まれ、誰も彼もが近く迫った文化祭に胸を躍らせている。それは私たちのクラスも例外ではなかった。
そして、それは起こった。
「だから、着ないっつってんだろ!」
教室に菱子の荒ぶる怒号が響き渡った。振り向けば、菱子が目の前のクラスメイト二人を睨みつけている。
「で、でも、京郷さんすごく準備頑張ってくれたし……」
「ほ、ほら! せっかくの文化祭だし、京郷さん可愛いから絶対似合うと思うの!」
彼女たちが手に持っているのは黒地に白のフリルやエプロンでふんだんに飾り付けられた衣装。いわゆるメイド服だ。それも本格的なやつではなく、現代のオタク文化によってかなり意匠が歪められているもの。
私たちがやることになった出店は『メイド喫茶』。簡単な飲み物と軽食を用意するだけで準備もそこまで手間が掛からないという理由もあるが、何より可愛いメイド服を着てみたいという女子が多かったためだ。普段着ることのない衣装。着てみたいという好奇心も理解できなくはない。
だが、菱子はあからさまに拒否反応を示していた。それも過剰なほどの。
「それを着て男に媚び諂えってのか! あぁ⁉」
菱子のあまりの迫力に片方のクラスメイトが泣き出してしまった。それを見たもう片方が怒りを爆発させる。
「ちょっと! そんなこと言ってないじゃない! 嫌なら嫌って言えばいいだけでしょう!」
「だから、嫌だっつってんだろうが! それを無理矢理着せようとしてんのはテメェらだろ!」
「何よ! 別にいいじゃないそれぐらい!」
「よくねぇから言ってんだよ! あたしはそんなもん絶対着ねぇからな!」
言い返していた女子が反論をやめ、俯いて押し黙った。静まり返る教室。これ以上の反論がないことを確認し、菱子が女子二人に背を向けたその時。
「……くせに」
反論していた女子がボソリと何かを呟いた。私の位置からでは少し距離があったため、よく聞き取れなかった。だが、菱子の反応を見て察しがついた。
菱子は一瞬硬直し、恐ろしいまでの速さで呟いた女子との距離を詰めた。
「おい、なんだよ。もっぺん言ってみろ」
菱子の声が一転、驚くほど小さくなった。女子は応えない。黙って俯いたままだ。
「なぁ、おい。聞こえねぇのか。もっぺん言ってみろって」
「……あんたの母親は水商売やってるくせに!」
菱子の顔が強張ったのがここからでもよく見えた。教室内の空気が凍りつくのを肌で感じる。
「みんな知ってるんだからね! あんたの母親はこんなのよりえげつない服着て、男に媚びうる仕事してるんでしょ! それに比べたらこんな衣装どうってことないじゃない! そんな浅ましくて卑しい仕事してるあんたの母親に比べたら、全然……」
段々と女子の語気が弱まっていく。当然だ。彼女の目の前に立つ菱子は恐ろしい表情をしていた。憤怒、悲哀、憎悪、嫌悪。その全てをないまぜにした顔。
絶対零度。ありとあらゆる原子の運動が、完全に停止する状態。授業で習ったばかりの単語を連想してしまうほどの、冷たい瞳。
──あんな菱子、見たことがない。
「あんた、そんな風に思ってたのか?」
さっきまでと違って落ち着いていて静かなのに、心底肝の冷える声。菱子の瞳には何が映っているのか。
女子は黙ったまま、口をパクパクさせている。血の気の引いた顔色。言ってはならないことを言ったのだと、今更理解したのだろう。
「なぁ、あんたも」
菱子が泣いているもう一人の女子に呼びかけた。
「あたしのこと、そんな風に思ってたのか?」
あたしが、あたしの母親のように男を食い物にして生きていく人間だと。男に寄生しなければ生きていけない、卑しい寄生虫のような女だと。──あたしは、母親と同じ人種だと。
彼女は応えない。しゃくり上げる声と鼻を啜る音だけが響く。
「……ああ、そうかよ。悪かったな、でかい声出して」
菱子が落ち着いた声で言う。そして、それだけ言うとカバンを持って教室を出た。
静まり返った教室のなかで、誰一人として身動きできない。やがてチャイムが鳴り、みんな一斉に動き始めた。まるで金縛りが解けて安堵しているような。
もう終わった出来事だ。気を取り直して、文化祭の準備を頑張ろう!
クラスメイトの大半がそう考えているだろう。だが、私は違う。
治まらない断続的な頭痛。嫌な予感がする。
私は、カバンを持って菱子の後を追うように教室を飛び出た。
大丈夫、きっと杞憂に終わる。これは私の取り越し苦労になるはずだ。
そう願っているのに、頭痛は一向に止まらなかった。
悪魔の出現を感知した場所へ駆けていく。その場所に近づけば近づくほど、嫌な予感が私の中で増していく。知っている。私はこの風景を知っている。
私が目指している場所はおそらく私も知っている場所だ。数えるほどしか訪ねたことはないが、よく覚えている。
そして、辿り着いた。住宅街の一角に佇む、見覚えのある二階建てアパート。その前にいる人物こそ、私が感知した悪魔の依代。
「よぉ。なんだ? 何か用か?」
一階の角部屋、剥き出しの玄関の前に座り込んだ菱子が無感情に私へ問いかける。語り口は穏やかだが、眼が笑っていない。
ああ、間違いない。彼女の中にこそ悪魔がいる。
「悪ぃな。今、うちの母親が取り込んでるんだ。家には上げてやれねぇ」
耳をすませば微かに聞こえる女の嬌声。家に入らず外で待つ菱子。そういうことか。
菱子が抱え込んだどす黒い感情は、きっと菱子にしか理解できない。どこにも理解者はいない。おそらくそこに付け込まれたのだろう。感情が濁っている者ほど理性が弱い。悪魔にとって恰好の獲物だ。
「それで、あんたはあたしに何の用だ? わざわざ追いかけてまでここに来たんだ。大事な用事だろう?」
菱子が静かに言う。いつもと変わらない菱子の声音。それが恐ろしい。
正直に言えば、私は迷っていた。私は菱子になんて声を掛ければいいのだろう、と。励ますべきか? 慰めるべきか? それとも、声をかけないでおくべきか? ここにたどり着くまでの道中、何度も脳内でシミュレーションした。だが、答えは見つからなかった。私が思い浮かべた答えを、菱子はきっと求めていない。
そもそも、私が彼女に声をかける資格はあるのだろうか。本当なら、先ほどの教室で私は真っ先に仲裁に入るべきだった。そうすれば、菱子が謂れの無い中傷を被ることはなかったはずだ。だが、あの場にいた私にはただ立ち尽くすことしか出来なかった。そんな私が、今更彼女に声をかけて何になる?
行動を伴わない言葉の軽薄さは、私もよく知っているはずだ。だったら、私は言葉でなく行動で示すしかない。
「えぇ、少しね。大丈夫、問題ないわ。時間は取らせない」
すぐに終わるから。ちょっとだけ待ってて、菱子。
【擬似神代領域限定接続──クロノス、承認】
擬似神代領域へと接続する。私を中心に世界が真円状に切り取られ、次元を反転させる。
次の瞬間、見慣れた灰色の世界と共に飛び込んできた光景に、驚愕した。
「あ、あなた、どうして……!」
驚きのあまり言葉が続かない。
目の前の光景が、信じられない。そんな馬鹿なことがあってたまるか!
なぜ、あなたが──
「なんだよ。あたしがここにいちゃいけねぇのか?」
私の眼前に立ち塞がるのは、灰色の大地に足をつけ仁王立ちする菱子の姿だった。
「ふーん。なんだか面白みがねぇところだな、おい」
菱子が辺りを見回し、たいして興味もなさそうに言った。
あぁ、菱子だ。これは紛れもなく本物の菱子だ。
「で? こんなところに連れ込んで、あたしをどうしようってんだ?」
菱子の両目が鋭い視線で私を射抜いた。殺気。立ち塞がる障害物としてじゃない。私を私と理解したうえで排除しようとする意志。悪魔とは違う種類の殺意。
「い、いや、違うの! 菱子、これは何かの間違いでしょう! ねぇ、どうしてあなたがここに──」
「悪ぃ、蓮美。あたし、今ものすごくむしゃくしゃしてんだわ。あんたの事情なんて関係ねぇ。ただ……なにもかも全部、ぶっ壊してやる!」
菱子が一瞬で距離を詰め殴りかかってきた。防御が遅れ、まともに受けた私はそのまま吹き飛ばされた。
人間を一撃で吹き飛ばす膂力。当たり前だが、普段の菱子は怪力でも何でもない。そもそも、擬似的とはいえ神代を再現したこの空間に存在し、あまつさえ動けること自体が異常だ。
「待って、菱子! 私はあなたと──」
「うるせぇ! ぶっ殺してやる! あのどうしようもない母親も……あんたも!」
私の制止も気にせず、菱子が真っ直ぐ突っ込んでくる。一体、どうしてこんなことに。
いや、本当はわかっている。擬似神代領域に侵入する人間。そこで発揮される恐ろしいまでの身体能力。そして、神々の代行者である私に向けられた、剥き出しの殺意。これらはすべて悪魔の特徴と一致している。すなわち、菱子は悪魔に魅入られてしまったということに他ならない。
人間の理性とそれを蝕む悪魔の関係は、免疫とウイルスの関係に似ている。どれだけ粗暴で野性的な人物でも、社会生活を営む上で最低限の理性を持ち合わせている。そして、その理性は悪魔によって本能を露出させられることを拒む。このため、通常なら悪魔の浸食には時間がかかる。
だが、悪魔の標的となった人物が致命的なほどの精神的苦痛を負った場合、その人物は深層心理の破滅願望が呼び起こされ、理性による免疫が無効化される。それはまるで体内の免疫機構が働かず、病魔に蝕まれるように。こうなってしまった場合、その人物の理性は瞬く間に浸食され、一気に飲み込まれる。
菱子の場合は、おそらく二度。一度目は、あの花火大会の時。あの時、【下級悪魔】は傷心の菱子に付け入り、憑依したのだろう。悪魔の反応がなかったのは菱子の理性が悪魔を受け入れてしまったからだ。だが、菱子は私たちの前で何事もなかったかのように振る舞えていた。心の奥底で悪魔に抵抗していたに違いない。しかし、今日。教室で二度目の浸食。自らの恥部を衆目に曝された菱子の苦痛は、想像するに余りある。
「おら、おら、おら! こんなもんかぁ? さっさと本気を出せよ、おい!」
菱子が徒手空拳で向かってくる。突き出される拳、繰り出される蹴り。それは所詮、少し喧嘩慣れした程度の攻撃。だが、その一撃一撃が異様なほど速く、重い。菱子に取り憑いた悪魔が彼女と一体化し、この環境で彼女の能力を引き出している。つまりそれは、それほどまでに彼女と悪魔が同調しているということ。これはもう、中級レベルの──!
斧槍で弾くが、この武器はリーチが長く取り回しが不便だ。素手の菱子に対して速さで追いつけない。
「やめて、菱子! 私はあなたと戦いたくない……!」
「なに生温いこと言ってんだ。寝ぼけてやがんのか? 舐めてると殺すぞ!」
菱子は攻撃の手を緩めない。それどころか、より手数を増していく。ただ増えただけじゃない。その一撃一撃に並々ならない殺意が籠っている。ダメだ、追いつかない──!
「おらっ! そこだぁ!」
菱子が勢いをつけて脚を高く上げた。来る! 斧槍を高く挙げ、蹴りに備える。だが、菱子の脚は私の目の前で空振りし、菱子がその勢いのまま身体を一回転させ、拳を突き出した。正拳突き。それは私の無防備な腹部に的中。肺の中の空気が押し出され、私は呻き声とともにそのまま後方へ吹き飛んだ。
「さっさとかかってこいよ。あんたもあたしのこと見下してやがんだろ? 憐んでやがるんだろう?」
菱子が苛立ちを隠さず言う。
防戦するだけでは何も解決しない。そんなことは百も承知だ。だけど、私には何もできない。だって、このまま戦っても菱子が……!
「なぁ、おい。いつまでそうやって優等生ぶってんだ? ……そうだな。はっきり言ってやるよ」
呼吸を整え、体勢を立て直す。
「あたしは、ずっと昔からあんたが嫌いだった。いつもいつもお高く止まって、あたしをずっと見下してるあんたが」
一瞬、呼吸が止まった。菱子の発言が頭の中をぐるぐると駆け巡る。理解が追いつかない。
私が、菱子を見下す? 一体何のことだ。皆目見当がつかない。
「なに、を、言っ……」
「わかんねぇだろうなぁ、あんたには! もういいさ。わからねぇまま死んでいけよ!」
菱子が一直線に向かってくる。もう一度攻撃を受けたら戦えない。回避、巻き戻し、いや菱子が速い、速すぎる、ダメだ、もう――
刹那、【ゴッズ・ホルダー】の出現を感知した。菱子が瞬時に振り返る。そこに現れたのは見慣れた少女、椿だった。
「蓮美さん! これは……」
椿が驚いた様子で、私と菱子を交互に見比べる。
「よう。久しぶりだな。花火の時以来か? まぁ、あたしは見てねぇんだけどな」
菱子が自嘲気味に笑った。椿は戸惑っている様子だったが、今の発言で状況を理解したらしい。椿が二本との短剣を手に取り構えた。
「菱子さん、蓮美さんから離れて!」
「お、威勢がいいねぇ。やっぱりこうこなくっちゃな。……それじゃあ、まずはあんたからだ!」
菱子が地を蹴り、椿との距離を詰める。それを迎え撃つ椿。二人が戦い出す。
私の体はまだ万全じゃない。でも、椿を止めないと……!
菱子が椿にも容赦なく攻撃する。だが、椿の得物は両手にそれぞれ握られた短剣。私の長物より遥かに取り回しやすい。菱子が繰り出す素手の攻撃に対して相性がいいようで、菱子の攻撃を全て凌いでいる。思うように攻撃できない苛立ちに、菱子が雄たけびを上げた。
真っ直ぐに突き出した菱子の拳を、椿が剣の腹で真横に弾いた。その衝撃で菱子がよろめく。次の瞬間、椿が短剣を大きく振りかざした。
椿は菱子を攻撃するつもりだ!
「椿、やめて!」
「えっ?」
私の叫びに、椿が振り向いた。そして、その隙を菱子は見逃さなかった。瞬時に体勢を立て直し、椿の無防備な腹部に強烈な蹴りを喰らわせる。
「うぐぅっ!」
椿が呻きながら吹き飛んだ。
「けほっ、けほっ……蓮美さん! どういうこと?」
椿が咳込みながら叫んだ。見た目ほどダメージはなかったようだ。おそらく、もう一本の短剣で咄嗟に防いだのだろう。
「菱子を傷つけないで! 悪魔と一体化した人間は、倒すとそのまま死んでしまう!」
「そんな……っ!」
椿が息を呑んだ。
過去に一度、同じような状況に陥ったことがある。その時、なにも知らなかった私は、その人物にそのまま致命傷を与え悪魔を消滅させた。
だが、悪魔の消滅とともに依代となった人物も、そのまま生命活動を停止した。擬似神代領域への侵入が可能なほど悪魔と一体化した人間は、その運命さえも悪魔と同調してしまう。
「はっ! つまりあれか? あんたはあたしを殺すのが怖くてあたしに攻撃しなかった、ってことか?」
菱子が吐き捨てるように言った。私を見据えた鋭い視線には、射殺さんばかりの憤怒が迸っている。
「……なんだそりゃ。そんな理由であんたはあたしを攻撃しないのか?」
「私は、あなたに死んでほしくない」
「それは、あんたの本心か?」
静かに頷いた。
「嘘だな。正確に言うと、あたしを死なせたくないんじゃない。あたしが死ぬことによって、かなえを悲しませたくない。違うか?」
「それは──」
菱子の問いかけに、言葉が詰まった。私の言葉が嘘だったからじゃない。憤怒と憎悪しかなかった菱子の瞳に、ほんの少し悲哀の色が見えたからだ。
菱子が、悲しんでいる? それは何に対してだ?
「まぁいいさ。もう終わりだ。全部……全部、ぶっ壊してやるからよぉ!」
菱子が再び椿に襲い掛かった。
「させない!」
菱子の前に飛び出し、一撃を受けた。衝撃を殺しきれず、数歩後退る。
このままじゃ、何も解決できない。何か策はないのか。考える時間が必要だ。時間を稼がないと。
「いつまでそうやってるつもりだ。とっとと、あたしを殺せばいいだろう。でないと、殺しちまうぞ!」
「そんなこと……出来るわけないじゃない!」
斧槍の柄で菱子を弾き飛ばした。菱子は体勢を崩さず、再び私に向かってくる。
ここだっ!
斧槍を勢いよく上に投げた。菱子の注意が一瞬逸れる。その隙をついて、菱子の背後に回り込み、羽交い絞めにした。
「おいっ! クソ、離せ!」
「今よ、椿!」
椿と目が合った。頷いた椿が、予備動作に入る。何とか逃れようと暴れる菱子を必死に抑えつけ、
「【
私は菱子と共に、椿の腕から伸びる黄金の糸で縛られた。関節から指先に至るまで、身動き一つとれない。
「おい、なんだこりゃ! 全然動かねぇぞ!」
菱子が全身に力を籠めるが、身動き一つとれない。
「無駄よ。あなたの運命は固定されてしまった。あなたは決して運命から逃れられない」
全身に力を込める菱子に、椿が告げる。
菱子が私ごとふりほどこうと力任せに暴れまわる。だが、椿の言う通り、もう彼女の許可なくして開放されることはない。私が知る限り、彼女の権能から逃れ得た者など、悪魔を含めてもただの一人だけだ。
どれだけ力を籠めようと自由になれない。それを理解した菱子が脱力した。諦めたのだろう。
「それで、あたしをどうするつもりだ? とっとと殺せばいいだろう」
「……黙りなさい。今、考えているわ」
「あんただって、知ってんだろう? あんたらが言う悪魔ってやつは私を殺さないと斃せない。そして、その悪魔が消えればあたしは死ぬ。自分のことだ、わかるさ」
「……黙って」
「何を躊躇してんだか。心配すんなよ。かなえは悲しむかもしれねぇけど、一ヶ月もすりゃ元に──」
「黙ってって言ってるでしょう!」
菱子が押し黙った。密着した菱子の身体から、驚いているのが伝わってくる。
「うるさいのよ、あなた! あなたが死ねばかなえが悲しむ? ええ、そうでしょう。その通りよ。そして、私はかなえを悲しませたくない。それも間違ってないわ」
あの子は優しい。誰よりも人の痛みに敏感で、繊細だ。だからもしこの場で菱子が命を落としたのなら、きっと菱子のことをずっと背負って生きていくだろう。そして、それを傍で眺め続けるなんて、そんなこと私には辛すぎる。
だが。それよりも。
「だけどね! それ以上に……私は、あなたに死んでほしくないのよ。あなたがいなくなってしまったら、私は悲しい。それだけなのよ」
言ってから気付いた。私が菱子に攻撃しなかった理由。殺さなくても、反撃して菱子を抑え込むことはいくらでもできた。だけど、私の身体がそれを頑なに拒否していた。それは、私が菱子を傷つけたくなかったからだ。彼女に傷を負わせたくない。彼女には無事でいて欲しい。それが私の願いで、望みだ。
「ねぇ、菱子」
「……なんだよ」
「私は、あなたを見下したりなんかしていない。確かにあなたは粗野で乱暴なところがあるし、喧嘩っ早い。集中力なんて驚くぐらいないし、もちろん成績だってよくない。見た目だってそんなに可愛いわけじゃない」
「喧嘩売ってんのか?」
「でも……それでも。私は、あなたに憧れていたの。他の誰でもない、あなたに」
子どもにとって親というのは世界の中心で、天の上の存在だ。自分を支配する圧倒的な上位存在。それは、まさに人々を天上から支配する神々のような。たとえ親からどれほどの理不尽に晒されたとしても、それを誰かに訴えることは出来ない。どこかに逃げ出すことも容易ではない。だからこそ、子どもは堪え、耐え忍び、諦めるしかない。これが自らの定めなのだと。
菱子の家庭の話は有名だ。高校入学当初、彼女と知り合う前から何度も耳にした。
片親で、母親が水商売をやっているらしい。
母親は男にだらしなく、男をとっかえひっかえしているそうだ。
あの子の父親が誰かわからないんだって。
やっぱり、成績が悪いらしいよ。きっと、まともに教育してもらってないんじゃない?
その子はかなりぐれているらしい。でもそんな事情だったら仕方ないよね。ああ、可哀想。
誰も彼もが噂していた。私は、他人の家庭事情を世間話の種にする低俗で浅ましい人々に嫌悪感を抱きながらも、その一方でまだ会ってもいないその少女を関わらない方がいい人物だと認識していた。面倒が起こりそうな気配には近づかないに限る。だから、同じクラスだと判明した時点でかなり警戒していた。
だが、菱子は違った。自分の境遇など感じさせない快活さ。他人の評価などまるで気にしない自己の在り方。そして、間違っていることを間違っていると言える芯の強さ。
彼女は美しかった。私が想像していた人物像を、彼女はあっさりと覆して見せたのだ。それは、私が彼女の事情を知っていたからそう感じたのかもしれない。だけど、それでも私は彼女の強さに憧れた。私も彼女のようになりたいと。たとえ、自分を取り巻く環境がどうであれ、自分で自分を誇れる私になりたいと。
あなたはずっと私の目標だった。
「菱子。あなたはどうしたいの?」
「……何がだよ」
「あなたがもう耐えられないっていうなら、私はあなたを殺すしかない。あなたが望むなら、もう私には止められない。でも──」
違うでしょう? 私が憧れたあなたはもっと強くて、美しかった。心が闇に呑まれたとしても、あなたはもう一度輝けるはずだ。
「本当に……あなたはそれでいいの? 嫌ならそう言って頂戴。絶対に、私が何とかするから」
必ず、あなたを助け出す。何が立ちはだかろうと、たとえこの身に替えても、必ず。
気が付けば、私の両目から熱い何かが滴り始めていた。
「……なんだよ。あんた、泣いてんのか?」
「違うわ。私は泣いてなんかいない」
私の頬を伝うこれは、涙なんかじゃない。決意だ。心の奥底から止め処なく溢れ出る、熱情。
「ああ、そうかよ」
それだけ言うと、菱子は口を噤んだ。暴れることもなく、ただ俯いて押し黙った。静寂が私たちを包む。密着した菱子の身体から、徐々に熱を感じる。体温だ。彼女はまだ生きている。悪魔に理性を囚われたと言っても、会話もできる。そうだ。絶対に何とかなる。悪魔に憑りつかれたからなんだ。そんなもの、どうとでもなるはずだ。
椿は私たちを静かに見守っている。何も言わない。
やがて、菱子が口を開いた。
「あのさぁ」
「なに? 菱子」
「あたしは──」
その時、誰かが神代領域に侵入するのを感知した。出現したそれは、目にも留まらぬ速度で明確な敵意を持って、椿に向かっていく。
「よけて、椿!」
私の切迫した叫び声を聞いて、椿が振り向いた。その瞬間、突進してくる敵意の塊と椿が衝突した。
「うあぁっ!」
椿が呻きながら吹き飛ばされ、地面に転がる。
「椿!」
「大丈夫よ。大した怪我じゃないわ」
椿の身体に出血は見られない。紙一重で何とか防いだのか。
そして、止まったことによりはっきりと目視できる敵意の塊。それは、今もっとも見たくない少女の姿だった。
「皆さま、お久しゅうございます」
栗花落が芝居がかった口調で、仰々しく頭を下げる。
「おい、あれ栗花落か? あいつもお前らの仲間なのか?」
事情を知らない菱子が、いつもの調子で訊ねた。
「あいつは仲間なんかじゃない、敵よ」
栗花落が私たちを順番に見まわし、菱子に目を留めた。
「あら、京郷さん。ご機嫌よう」
「あぁ? なんだお前。バカにしてんのか?」
「そんな滅相もありません。ただ、私はご挨拶させていただいたまでですわ」
栗花落が口元を隠して笑う。相変わらず嫌な女だ。
「時に、京郷さん」
「なんだよ?」
「あなたから私たちの宿敵、〝祀ろわぬ不浄〟の気配を感じるのですが……それは私の気のせいでしょうか?」
「菱子、相手にしなくていいわ」
私たち【ゴッズ・ホルダー】は擬似神代領域において、より正確に悪魔の存在を感知できる。それは私たちの内に眠る神々の意思が私たちに流れ込んでくるからだ。この世に混沌をもたらさんとする邪悪を殲滅せよ、と。神々の代行者たる私たちに自らの使命を果たせと、何よりも雄弁に告げる。そして、それは栗花落も同じはずだ。
彼女は、わかっていて聞いている。本当に厭味ったらしい女だ。反吐が出る。
「椿、私たちを解放しなさい」
こいつは二人掛かりでなければ倒せない。椿は私たちと栗花落の間に立ち、栗花落と対峙しながら首を横に振った。
「嫌よ」
「えっ?」
「解放すれば、菱子さんはまた暴れてしまうわ」
おそらく、椿の言う通りだ。悪魔が神々の代行者に襲い掛かるのは、一種の本能だ。今は束縛しているため会話も可能だが、一度自由にしてしまえばもう一度話をするのは限りなく不可能に近いだろう。そして、椿の糸は放出するまで時間がかかる。手の内を知られた以上、やはり菱子をもう一度捉えることは難しい。
だが、そんなことは私も重々承知している。
「それでも、今はあいつをどうにかしないと……!」
「この人は間違いなく、菱子さんの命も狙うのよ。そんな人が目の前にいるのに、菱子さんを自由にできない」
「だからって、あなた一人じゃ!」
栗花落の【権能】は椿が操る〝運命の糸〟を無効化した。その【権能】の正体が判明していない以上、椿と栗花落では相性が悪すぎる。
それに、彼女はつい先ほど【権能】を使ったばかりだ。気丈に振る舞ってはいるが、顔は青白く、肩で息をしている。明らかに消耗が大きい。
「蓮美さん。あなたはいつも私のことを守ってくれてる。でも、たまには私にもかっこつけさせてよ。ね?」
椿が振り返ってウィンクした。不安しかないが、私も菱子とともに縛られている以上、選択肢はない。
「……気を付けるのよ」
今の私にできる、精一杯の助言。椿が微笑みながら頷き、栗花落に向き直った。
「さぁ、来なさい! 私はもう油断しないわ!」
一対の短剣を構えた椿。それを見た栗花落がくすりと笑った。
「あらあら。困りましたわ。私、今日はそこの〝穢れ〟を排除しに来ただけでしたのに。どうしても、どいていただけませんこと?」
「どくわけないでしょ! 菱子さんは友達なのよ、殺させるものですか!」
一瞬、栗花落が作り笑いを止めた。そして、大口を開けながら手を叩いて大声で笑い始めた。先程までとは違う心底愉快で堪らないという笑い。
「何がおかしいの!」
しばらく笑い続けて、ようやく笑いが止まった栗花落が笑顔のまま話す。
「失礼。私としたことが、はしたない真似を。えぇと、なんでしたっけ? ……あぁ、何が可笑しいのか、でしたわね。だって、それが友達だなんて……可笑しいにも程が……あるでしょう……」
再び栗花落が笑い始めた。灰色の空間に栗花落の笑い声だけが反響する。
「あなた方、変わったご友人をお持ちですのね。私の理解を超えています。ただ、どうしても戦わなければいけないと仰るのなら、仕方ありませんわ」
栗花落の手の内に長鉾が現れた。構えをとる。次の瞬間、彼女が私の視界から消えた。私と同様に栗花落を見失った椿が、辺りを見回す。
「どこに──」
「下よ!」
栗花落は凄まじい速度で屈み、私たちの視界から消えたのだ。そして、ほんの一瞬、私たちが見失った瞬間に、椿との間合いを詰めた。
栗花落が、椿の足元から長鉾で斬り上げた。咄嗟に椿が横に跳んで躱す。
「ダメよ、椿! 栗花落の狙いは──」
栗花落は最初から菱子だけを見ていた。今の攻撃もおそらくブラフ。本命はあくまでも菱子──
斬り上げた勢いのまま、栗花落が長鉾を投げた。それが回転して弧を描きながら真っ直ぐに飛び──私と菱子を貫いた。
「あああぁっ!」
菱子と私の叫び声が重なる。
「はい、これで終わりです」
身体を縛っていた糸が霧散し、私と菱子はそのまま倒れた。貫かれた脇腹を中心に、身を焼くような熱さが全身へと伝播していく。
「蓮美さん! 菱子さん!」
椿が慌てて私たちに駆け寄るのが見えた。そして、そんな椿を興味なさげに見下ろす栗花落の姿も。
「私の用事は済みました。それでは皆様、また会う時までご機嫌よう」
仰々しくお辞儀をして、栗花落が私たちに背を向けた。同時に、私たちを貫いた長鉾が消滅する。あいつはこのまま領域から離脱するつもりだ。
逃すか。あいつだけは絶対に逃さない。ぶっ殺してやる!
「栗花落ぃぃぃぃぃ!」
立ち上がって斧槍を手に取り、栗花落に斬りかかる。栗花落の眼前に私の刃が迫る。刹那、栗花落と目が合った。彼女は私を見て笑い――
私の斧槍が虚しく空を斬った。栗花落は、すでに擬似神代領域から消滅している。すんでのところで逃げられてしまった。
「クソッ!」
斧槍を無造作に放り投げた。それでも溢れる怒りを抑えきれず、拳で灰色の地面を叩いた。
またしても、あいつは何の躊躇いもなく私の友人に手をかけた。私はあいつを逃すべきではなかった。あいつだけは、あいつだけは――
「蓮美さん、怪我は大丈夫なの?」
椿の緊迫した声。我に返った。悔やんでいる場合じゃない。あいつのことは後回しだ。
「えぇ、私は問題ないわ」
傷口は熱い。だが、この程度ならまだ大丈夫だ。死にはしない。この擬似神代領域においては、私たちは身に宿した神性の加護が得られる。すなわち、『権能の使用』、『身体能力の向上』、そして、『自然治癒力の上昇』である。即死さえしていなければ、貫かれたと言っても一時間ほどで傷は塞がる。
「そう。でも、菱子さんが!」
椿が指差した先では、菱子が息も絶え絶えに横たわっている。
「菱子!」
菱子に駆け寄って、彼女を抱き抱える。悪魔の気配はない。先程の一撃で消滅したのだろう。だが、だからこそ問題だ。
「菱子。ねぇ、しっかりしなさい菱子!」
いくら揺さぶっても、菱子は目を開けない。彼女の脇腹から流れる血液が徐々に勢いを失っていく。彼女の身体から、体温が失われていく。
あぁ、私はこの光景を目にした事がある。これは──
「菱子! 目を開けなさい、菱子!」
菱子が目を開けない。いや、こんなところで死なせるわけにはいかない。どうすればいい? どうすれば助けられる? 私の中で思考が加速する。
現世で治療できるか? いや、恐らく間に合わない。菱子の傷は明らかに致命傷だ。
時間を巻き戻すか? だが、戻してどう対処する? 前回栗花落と撃退した時は、ほとんど不意打ちのようなものだった。私と椿の二人がかりでも正面から戦って勝てるかどうか。それも私たちに殺意を向けて攻撃してくる菱子を躱しながら。そして、何より──
菱子が、望んでいなかったら? 悪魔と一体化してしまうほど心が摩耗し、衰弱した菱子が、これ以上生きていく事に耐えられないとしたら? 私はどうすれば──
「……なんだよ、うるせぇなぁ」
菱子が眩しそうに目を開けた。まだ意識がある!
「菱子!」
堪らず、大声で名前を呼んだ。菱子が眉を顰める。
「……蓮美か?」
焦点の合わない虚な瞳。意識の混濁。それでも、まだ意識はある。今なら、まだ間に合う、助けられる!
「菱子! しっかりしなさい!」
「うるせぇ……眠いんだよ。寝かせてくれ」
再び眠ろうとする菱子の横っ面を何度も、何度も引っ叩く。だが、菱子は呻き声を上げるだけだった。
もう菱子には──
全身から力が抜けて、その場にへたり込んだ。
私は、彼女を救えない。
また、だ。脳裏に一年前の地獄が蘇る。私は自分の無力さを呪うことしかできない。
――いや、違う! 今の私には【権能】がある。私の力は、こんな時のためにある! こうなれば、一か八か時間を巻き戻して、菱子をかばいながら栗花落を――
【権能】を発動させるため、意識を集中させ始める。
「……【
その時、菱子が静かに口を開いた。
「なぁ、蓮美」
菱子が私の名を呼んだ。視線を落とすと、菱子が私を見つめている。
「菱子! しっかりして! 話さなくていいから安静にして!」
あなたは、絶対に私が助けて見せるから!
「あたし、さっきあんたのこと嫌いって言っただろ。あれ、嘘だ」
穏やかな語り口。これもあの時と同じだ。
それは死に直面した者の遺す言葉。
「いいから! もう話さないで! 大丈夫、絶対助けるから!」
私は必死にそう叫ぶのに、菱子は言葉を止めない。
「本当は羨ましかったんだ。最近のあんたはすごく落ち着いてて……そう、憑物が落ちたみたいって言うのか? すげぇ穏やかな顔してた。……それがめちゃくちゃ羨ましかっただけだ。ごめん」
「そんなことはどうでもいい! あなたが私のことを嫌っていてもいいの! だから……お願いだから、生きてよ……」
私の頬を伝う涙が、大粒の滴となって菱子の頬に落ちる。
「いや……あたしは、もう、疲れた」
菱子がぼそりと呟くように言った。耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな、彼女に似つかわしくない、か細い声。
「うちのだらしない母親にも」
――母親は男にだらしなく、男をとっかえひっかえしているそうだ。
「あたしのことを、どうしようもないバカだって決めつけてくる奴らにも」
――やっぱり、成績が悪いらしいよ。きっと、まともに教育してもらってないんじゃない?
「勝手にあたしを憐れむ連中にも」
――その子はかなりぐれているらしい。でもそんな事情だったら仕方ないよね。ああ、可哀想。
「……どいつも、こいつも。面倒だった」
菱子の呼吸が目に見えて浅くなっていく。
「でも……あんたらとつるんでる時は、全部忘れられて──楽しかった」
菱子が空を見上げた。ここは神代の大気を再現するためだけの空間。余分と判断されたものはすべて排除されている。一面灰色の空には、日輪はおろか浮雲一つない。
弱々しく震える手を天に伸ばす菱子。その瞳には何が映っているのか。
「──あぁ、花火……見たかったな……」
それだけ言って、菱子はゆっくりと瞼を閉じた。脱力した菱子の腕が、だらりと地面に転がる。
後頭部を鈍器で殴られたような、いや、それ以上の衝撃だった。それは、私の脇腹を突き刺した栗花落の一撃なんて、比べ物にならないほどの。
もし、菱子が望んでいなかったら? 疲れていたら? 馬鹿だ、私は。
私は彼女の強さに憧れた。だが、彼女だって血の通った人間だ。彼女は人より強いわけじゃ無い。人一倍我慢していただけだった。自分の居場所に救いを求めていた。だから、私たちといた時の彼女の笑顔は、輝いていたのだ。そんな事に、今更気がついた。彼女と出会って一年と半年。こんな当たり前のことに気づくだけで、それだけ時間がかかってしまった。
もっと早く私が気づいていたら。もっとよく彼女のことを理解できていたのなら。きっと、彼女は命を落としていなかった。絶対に、こんな事にはなっていなかった。
これは、私の罪。私が背負うべき十字架の一つ。
だったら、私がすべきことは決まっている。
菱子の身体をそっと地面に横たえ、静かに立ち上がった。菱子を抱えていた腕で涙を拭う。泣いている場合ではない。
「蓮美さん……?」
菱子の傍らで静かに涙を流していた椿が、私を見上げる。
「椿、ありがとう」
「なんで……お礼なんて……」
「あなたが来てくれてよかった」
あなたがここにいなければ、私は菱子の胸中を知る事もなかった。私一人では、きっと覚悟出来なかった。
静かに力を溜める。それは、身体の中心の奥深く。私の中に宿る一柱の神に、意識を集中させる。【権能】を使う時はいつもそうだ。
だが、今回はいつもより遥かに長い。普段より深く、自らの無意識に潜る。私はこの身に神を宿したあの時以来、擬似神代領域の外まで及ぶ【権能】を使ったことがない。一体どれだけの反動が来るのか、想像さえ出来ない。
もしかすると、私はその代償に耐えきれず命を落とすかもしれない。それでも、これは私の贖罪だ。覚悟はとうに決まっている。菱子を必ず助けてみせると、誓ったその瞬間から。
まだ潜る。私の意識は暗闇を彷徨い、一筋の光明を探す。それは祈りを捧げる行為に酷似していた。私は私自身の神に祈る。どうか、どうか神様──
私に、菱子を救わせてください。
刹那、私は確かに光を見た。思わず目を逸らしそうになるほど、眩く力強い光。
見えた! この光は絶対に捉えて離さない──
「──【
突如として湧き上がる奇妙な浮遊感。それはいつも以上に激しく、私は自分自身の存在さえ忘れてしまいそうになる。感覚を消失し、私の全身が宙に浮き上がる──
最初に感じたのは、肌にまとわりつく様な湿度の高い、不快な空気。目を開けて視界に飛び込んできたのは、夕焼け空に、黄金色に輝く海面、それに影を落とす灯台。そして、私たちに背を向ける菱子の後ろ姿。
「悪ぃ。今日は帰るわ」
そう言って菱子が去ろうとする。その腕を掴み、引き留めた。
「待ちなさい」
「……止めんなよ、面倒くせぇ」
菱子が振り返りもせず、ぶっきらぼうに言い放った。だが、彼女は私の腕を振り払おうとはしない。
「見ましょうよ」
「あ?」
「花火。あなたも、一緒に」
菱子が背を向けたまま俯く。私の後ろにいる三人も押し黙ったまま、言葉を発しない。緊張感を伴った静寂が私たちを包む。
やがて菱子が溜め息を吐き、呆れたように言った。
「……お前、空気読めよ」
声に苛立ちは感じない。あるのは諦観。彼女はきっとこれまでも、様々なものをどうすることも出来ないと諦め、受け入れててきたのだろう。母親も、無辜の蔑みも、謂れのない憐憫も。
でも。
それはあまりにも、
「寂しいじゃない」
私の一言があまりに予想外だったのだろう。
「は?」
菱子が振り返り、呆気に取られた顔をした。
「いきなりなんだ? あたしが寂しくて可哀想ってか?」
「そうね。それもあるわ」
途端、菱子の顔に失望の色が浮かんだ。
あぁ、こいつもだ。こいつも、名前も知らないどこかの誰かと一緒で、私を勝手に哀れんでやがる。
菱子の瞳が雄弁に語る。そして、菱子が苛立ちを隠さず、ゆっくりと口を開いた。
「あぁ、そうかよ。この際だ、はっきり言ってやる。あたしはあんたが──」
「でも、私も寂しいの」
「嫌いだっ──あ?」
再び、呆気に取られる菱子。
「私はあなたがいないと寂しい。だからあなたと一緒に花火が見たい。ダメかしら?」
「……そいつらがいるだろ」
菱子が視線で三人を指した。
私は振り返り、彼女たちに目で問い掛ける。
あなたたちはどう?
「……私も、菱子ちゃんと見たい、よ?」
かなえがおどおどしながら、けれどよく通る声で言った。
「花火なんて誰と見ても変わらないだろ」
「ううん、違うの」
かなえが一歩踏み出した。一歩、また一歩。少しずつ、歩み寄るために。
「一人で見る花火と、みんなで見る花火は違うの。一人で見た花火は、きっとすぐに忘れちゃうけど……みんなで見ればずっと憶えてるの」
一人が忘れても、別の誰かが憶えている。そして、それを共有すればいつまでも憶えていられる。思い出は共有する相手が多いほど、長く憶えていられる。
私の横に並んだかなえが、菱子の手をとった。かなえの小さな両手が菱子の寂しげな手を包み込む。
「だから、その……私は、菱子ちゃんとも一緒に見たい」
それが私の〝みんな〟だから。
「なんだよ、それ」
菱子が目を伏せる。そのまま躊躇いがちに言った。
「……さっき見ただろ。あれがあたしの母親で、あたしはあれに育てられたんだ。行儀よくなんて出来ないし、礼儀だって全然知らない。バカだから勉強も全然わからない。あたしには何も無いんだよ。だから、そんなあたしがあんたらと一緒にいていいのかって、ずっと思ってたんだ」
菱子がぽつりぽつりと、呟くように語る。
あぁ、そうか。彼女は私たちに引け目を感じていたのか。
「本当なら今日だって楽しく花火を見れたはずなのに、あたしのせいで雰囲気がぶち壊しだ。あたしがここにいなかったら、あんたらは何も気にせず綺麗な花火を見れたはずなんだ」
気がつけば、菱子の声は震えている。彼女は、決死の思いで心情を吐露しているのだろう。それはどれほどの勇気を必要とする行為なのか。きっとそれは彼女が私たちと向き合おうとしている証左で、それに相対する私たちも、彼女が孤独に抱え込んでいた想いに対峙しなければならない。
だが、今はそんなことより伝えなくてはならないことがある。
「……そんなあたしに、一緒に見る資格なんて──」
「うるさいわ」
菱子の腕を放し、頬を平手打ちした。パシン、と小気味良い音が鳴った。
菱子が私に叩かれた頬を手で抑え、見開いた両眼で私を見た。口をあんぐりと大きく開けているが、喫驚は声にさえなっていない。
「は、蓮美ちゃん⁉ え、なんで? 何してるの⁉」
菱子の心情をかなえが代弁した。
「いい? 私は、『あなたがどうしたいのか』を聞いてるの。あなたに花火を見る資格があるかどうかなんて、知らないわ」
菱子は目を見開いたまま口をパクパクと開閉している。何か言いたげだが、構わず話を続ける。
「あなたが見たくないって言うなら、それこそ私たちにあなたを引き留める資格なんてない。でもね、あなたは自分がどうしたいか答えず、言い訳して、『だから仕方ない』って諦めているだけ」
彼女は十余年の決して短いと言えない時間の中で、あまりにも多くの物を諦め続けてきた。それがどれだけ近くにあったとしても。ただ手を伸ばすだけで手に入るものだったとしても。それが、彼女にとって生き抜くための術だったのだ。
だが、そこに彼女の本意はあるのだろうか。彼女はそんな生き方を望んでいるのだろうか。
「私たちは超能力者なんかじゃないの。あなたが本当はどうしたいかなんて、教えてくれないとわからない」
だったら、私が彼女に訊ねることは決まっている。
「ねぇ、菱子。もう一度だけ訊くわ。――あなたはどうしたいの?」
菱子は頬を抑えたまま俯いた。かなえは心配そうに私と菱子を見回す。
流れる沈黙に耐えかねたかなえが言葉を発する。
「菱子ちゃん、嫌なら嫌って――」
「……いよ」
「菱子ちゃん……?」
「あたしだって……お前らと花火が見たいんだよッ!」
菱子が叫んだ。顔を上げた菱子の顔は涙と鼻水に塗れている。
「見たいよ! すごく楽しみにしてたんだよ! お前らと出店のもの食べて、どうでもいい話しながら待って、花火を一緒に見て、終わったら綺麗だったなぁ、なんてどうでもいい話してさぁ!」
固めた拳を震わせ、目尻に涙を溜めながら、菱子が叫ぶ。
「でも、それじゃあ、お前らに、また迷惑かけるかもしれないだろ。それが、一番、イヤだ」
菱子が嗚咽を漏らしながら言った。
「お前らに嫌な思い、させるぐらいなら、あたしは、見れなくても、いいんだ」
言葉を途切らせながらも、菱子が言う。しゃくり上げながら話す彼女はまるで、止めどなく溢れる激情の逃し方を知らない子どものようだ。
「あなたって、本当にバカね」
俯く菱子を、包み込むように優しく、それでいて離さないように、しっかりと抱きしめた。あぁ、なんて愛おしいのだろう。
「……なんだよ」
不貞腐れたように菱子が言う。
「ここにあなたと花火を見たくない人なんていないの。たとえそれで不快な思いをしたとしても、あなたと一緒がいいの。あなたと一緒にいたいの」
彼女の母親によって幾分か興が削がれたのは確かだ。だが、それを理由に彼女を責める人物など、ここにはいない。たったそれだけの事で彼女と距離を置こうだなんて、微塵も思わない。
「……ほんとう、か?」
「えぇ、本当よ。それとも、信じられない?」
菱子の癖のある髪を優しくなでる。少しして、私の胸の中で菱子が頭を横に振った。
「ほら」
あなたは今まで充分過ぎるほど耐えてきた。でも、それももう終わり。私たちと一緒にいる時はもう耐えなくていいの。
もう我慢しなくていいのよ。
「だから、ここで待って一緒に花火を見ましょう。ね?」
「うん……うん……!」
何度も力強く菱子が頷く。
「菱子ちゃん!」
「菱子!」
「菱子さん!」
私たちを包むように三人が覆い被さった。少し暑苦しいが、今はそれさえも心地よい。
外から私たちを見れば、蕾のように見えるだろうか。蕾は花を咲かせるために、時に風雨に曝され、またある時には踏みつけられながらも、着実に養分を蓄えてきた。
大丈夫。私たちはきっと咲き誇れる。
どれだけ不格好だったとしても、これから打ち上がる花火にも劣らない、立派な〝花〟として。
次々と夜空に打ち上がる花火をみんなで楽しみながら、頭の片隅で思う。
私には片付けなければならないものがある、と。
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