桃の木のなる頃に。

ねあ

見えもせず、聞こえもしない、ホトトギス。

自殺をしようと都内のビルの屋上に足を運ぶと、そこにはすでに先約がいた。


白い服に長い黒髪をたなびかせ、今にも落ちそうな彼女は、フェンスを越えてただ立っていた。


珍しいこともあるものだと、人生の最後にしては綺麗な奇跡を目の当たりにした気分だった。


生きるのが一番の恐怖である俺に恐るものなどあるはずもない。つい昨日まで息が詰まるほど嫌っていた人間の隣、10メートルほどスペースはあるのに何故か、傍に向かって歩き出していた。


「死ぬんですか?」


鼻の先の彼女に向かって当然の質問をした。


しかしながら彼女の返答は、なんというか微妙にマトを外していた。


「おやすみなさい。」


ああ、なんだ。僕と同じだ。


「よければ少し話してからにしませんか?どうせ死ぬのなら。」


「私は死なないですよ。鳥に廻えるだけです。」


ああ、なんだ。あいつと同じだ。


女とはなぜこうもスピリチュアルなんだろうか。ショックから自力で立ち上がれなければ、すぐに神を信じたがる。非を認めず、すぐ人のせいにする。


差別の是正は度を過ぎれば逆の差別を作る。世の中は今その真っ最中なわけだ。


「死んだら無ですよ。まあでも、僕も鳥になれた時は流石に信じますよ。」


「死んだら無なんですかね?死が終わりのように聞こえるけど。」


「多分そっちの方が楽です。これからを知らずに済むのだからね。」


彼女は少し黙ったが、風が一瞬止んだ時、突然その背中に羽が見えた。


目を疑った。


文字通り。


この表現が隠喩ではなくノンフィクションだったことに今更気がついた。


瞬きの合間、1秒の1/60くらいの刹那にみたその景色が、悲しすぎて、涙が溢れた。


涙が溢れたから悲しいのかもしれないと、気がついた時、思わぬ言葉を彼女が吐いた。


「私はね、あなたに助けられた鳥なの。」


ああ、なんだ。あの時の。


妙に納得が行った。


「実家がよく喋る老人の家の軒下でね。人の匂いがついて親が巣を捨て、飛ぶことを覚えた頃だったわ。」


つらつらとその嘴で人語を操り、私の鼓膜を揺らした。


「本当は死ぬつもりだった。自殺を試みたのよ私。」


あいも変わらず続ける彼女は、いつの間にかフェンスの上に仁王立ちしていた。


「あなたが助けてくれた時、私は必死に叫んだの。もちろん日本語でね。ほうっておいてと。」


「そんなところに立っていたら危ないよ。」


「そちらこそ。」


僕はいつの間にか、裸足でフェンスの外側にいた。


「聞いて。あなたは私の望みを妨げた。他の人間なら、私を見殺しにしてくれたはずよ。」


夏の湿った空気が、鼻のてっぺんをかすっていく。


「だから私はあなたを軽蔑するわ。他の人間なら、あなたを憐れむだろうから。」


「それはどうも。」


そう口に出して、ようやく自分がどんな状態か理解した。


「死は終わりなんかじゃないわ。だってほら、あなたには私の声が聞こえて、姿が見えてるでしょう?」


実に1年と八ヶ月。


「あの建物って、もう完成してるよね?」


すると彼女は言った。


「いいえ、あなたのように、あの日から変わってないわよ。」


「あのアイドルの新曲、すっごく斬新だよね?」


すると彼女は鳴いた。


「解散したわ。」


ああ、なんだ。僕はもう。


「おやすみなさい。」


きっと僕の返答は、結構マトを外していたことだろう。


「ありがとう。」

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