消えたクッキー
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消えたクッキー
オーブンを開けた瞬間、ふわりとしたバターの香りが台所に広がる。
それを、三角巾をした少女が、嬉しそうに取り出していた。
やや吊り気味の大きな瞳に、短めの髪をシンプルにまとめ上げたポニーテールに結んだ、ボーイッシュな雰囲気の少女だが、整った目鼻立ちは可愛らしい顔をしている。
快活で勝ち気な性格をしてはいたが、誰に対しても優しく接し、思いやりのある子だ。
名前を
小学5年生だ。
蛍子はオーブンを開けるとすぐに天板を取り出した。
天板の上には、こんがりときつね色になったクッキーが載っていた。
「上手に焼けたわね」
蛍子の母・結衣が言うと、蛍子は嬉しそうな笑みを浮かべる。
すると、その声を聞き付けたのか、一人の少年が姿を見せる。
彼の名前は
中学2年で蛍子の兄になる。
やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。
素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。
そんな、少年だった。
蛍子とは正反対に落ち着いた雰囲気を持ち、穏やかな性格をしている。
「へえ。蛍子、クッキーを作ったんだ?」
そう言って、光希は興味深そうにオーブンの中を覗き込む。
彼の言葉を聞いて、蛍子は得意げに胸を張る。
それから、彼女は誇らしげに言った。それはまるで、小さな子供が親に向かって自慢するように。
「うん! 家庭科の授業で教わったんだけど失敗して焦がしちゃったけど、今度こそ焦げないで上手くいったよ!」
蛍子は自信満々の様子だ。
その様子に、光希も微笑ましそうにする。
「凄い。やったね蛍子。美味しそうだ」
光希が、そう言うと蛍子に歩み寄り、そっと彼女の頭を撫でる。
それが気持ち良いらしく、蛍子は猫のように目を細めている。
その様子を見て、結衣はクスリと笑う。
この二人を見守る母としては、とても心和む光景である。
「まだ食べちゃダメだよ。熱いから冷ましてからじゃないとね」
蛍子は、慌てて光希に注意した。
しかし、注意しながらもどこか楽しそうである。
それは、彼女が光希に対して特別な感情を抱いているからだ。
蛍子は、兄・光希のことが好きなのだ。
だから、こうして世話を焼くことで、少しでも構ってもらいたいと思っているようだ。もっとも、当の本人はそれに気が付いていない。
光希もまた、妹に好かれているとは思っていないだろう。
蛍子は、兄のことが好きだという自覚があるのだが、どうにも上手くいかないようであった。
光希の鈍感さと、自分の奥手さが、上手く噛み合っていないせいもあるかもしれない。
ただ、光希の方は、蛍子のことを大切な存在として見てくれているのは確かだった。
蛍子は、そんな光希の優しさに甘えてばかりいる。家族に褒められたくて、頑張って作っていたらしい。
そんな蛍子の気持ちを知ってか知らずか、光希は優しく微笑んでいる。
蛍子は、そんな兄の顔を見て、嬉しそうにはにかみながら、また少しだけ頬を赤く染めた。
「お菓子を食べるのは晩ごはんの後だからね」
蛍子が言うと、光希は了承していた。
◆
夕方になり、蛍子はリビングに向かった。
学校の宿題を済ませてから、二階にある自分の部屋で漫画を読んでのんびり過ごしていた。
クッキーは、台所で母親が食事の用意をするために、邪魔にならぬようにリビングに退散する形にしていた。
ちなみに、母親は夕食の準備をしている最中であり、光希は自室で勉強中だ。
蛍子は、リビングに着いて、すぐに様子がおかしいことに気がついた。
クッキーを入れたバスケットの位置が動いていたからだ。
バスケットを見ると、蓋が開けられており、クッキーが一枚残らず無くなっていた。
(え? 誰か食べた?)
蛍子が驚いていると、ちょうど母親が現れる。
蛍子は慌てる。
「お母さん。クッキーが無くなってるよ!」
蛍子の言葉を聞いて、母親は首を傾げる。
「え? クッキーが?」
それから、蛍子と母親は一緒にバスケットを見るが、やはり空っぽだ。
キッチンに行き、冷蔵庫や戸棚の中を確認したが、そこにも何も残っていない。
つまり、何者かがクッキーを食べたということだ。
この家には、母親と兄・光希、妹・蛍子の3人しかいない。
母親が知らないとなると、犯人は一人しか考えられない。
蛍子は、慌てて階段を駆け上がる。
そして、勢いよく兄の部屋の扉を開けると、そこには案の定、光希がいた。
光希はタブレットを手にしている。
彼は、突然の蛍子の登場に驚く。
「お兄ちゃん。私が作ったクッキー知らない?」
蛍子が問い詰めると、光希は戸惑いながら答える。
「……ああ。あれか。ごめん、さっき僕のクラスメイトの子が来てね。いつも勉強を教えてもらっていて手ぶらで帰ってもらうのは悪いから、クッキーを渡したら喜んでくれたんだ」
蛍子は愕然とする。
まさか、自分が焼いたクッキーを全部、兄の友達にあげてしまうなんて。少しお裾分けするならともかく、全部あげてしまうなんて思いもしなかった。
蛍子は、悔しさのあまり、目に涙を浮かべていた。
せっかく、家族のために一生懸命作ったクッキーなのに。それを、よりによって、大好きな兄に裏切られるとは思いもしなかった。
初めて上手く焼けたクッキーだけに、みんなに食べて貰いたかった。
それなら、それで自分に一言相談してくれれば良かったのだ。
蛍子は、泣きそうな顔をして俯く。
そんな蛍子の様子を見かねたのか、光希は彼女の頭を撫でる。
「ごめん蛍子。この埋め合わせは……」
光希の言葉を遮って、蛍子は叫ぶ。
「バカ! お兄ちゃんのバカーーッ!!」
そう言い放つと、蛍子は自分の部屋に閉じこもってしまった。
そんな妹の姿を見て、光希は分かりきっった表情をしつつも、哀しげにしていた。
蛍子は部屋で、すっかり塞ぎ込む。
でも、夕飯が近かっただけにお腹が空いてくる。夕飯を食べたくなったが、兄と顔を合わすのは嫌だったので、部屋を出たくなかった。
すると、ドアがノックされた。
母親だった。
「蛍子。降りてきなさい。お腹空いたでしょ」
母親の言葉に、蛍子は答える。
「やだ。お兄ちゃんに会いたくないの」
すると、母親が答える。
「光希なら出かけているわよ。今の内なら会わずに済むから」
蛍子は、母親の言葉を聞いて、ようやく部屋を出た。
そして、食卓に着くと、母親と一緒に食事をした。
光希の食器は片付けられている。
もう食べた証拠だ。
「日が落ちているよね。お兄ちゃん、どこに行ったの?」
蛍子が尋ねると、母親が答える。
「ん。ちょっとね」
母親は、どこか含みのある言い方をする。
蛍子は想像した。
クッキーを渡したということは、相手は男とは思えなかった。兄は非モテな雰囲気を持ちながら、なぜか周囲で女の影がある。
どうせ、女の子のところだろうなと蛍子は思った。
そう考えると、また胸の奥がチクリとした。
もしかしたらケンカの原因になったクッキーを返してもらいに行ったのかと思った。他人の手に渡ったクッキーを返してもらったところで何の意味もないのだが。
蛍子は食事を済ませると、お風呂を済ませて、自分の部屋に戻る。
今日は散々な一日だった。
せっかく、家族のためを思って焼いたクッキーを、兄がクラスメイトの子に全部あげてしまったのだ。
しかも、そのせいで兄と喧嘩までしてしまった。
光希のことは大好きだが、あの件に関しては許せない気持ちもある。
お世話になった人に、クッキーをあげた兄の気持ちは分かる。
だけど、自分の気持ちを裏切ったことに変わりはない。
そんな憂鬱な気持ちでいると、ドアがノックされた。
「蛍子。今日のことは、ごめん。僕が悪かった。だから、仲直りしよう」
光希の声だ。
蛍子は、しばらく黙っていた。
光希は、もう一度謝る。
蛍子は、静かに答える。
「……お兄ちゃん。私、お兄ちゃんのこと大好きだよ。でも、お兄ちゃんは私よりも他の人のことを大事にするんでしょう?」
蛍子の質問に、光希は戸惑う。
蛍子は、続けて言う。
本当は、もっと別のことが聞きたかった。
「ねえ。お兄ちゃん。私のこと好き?」
蛍子は、不安げに尋ねた。
蛍子の言葉を聞いて、光希は答える。
「好きに決まっているだろ。僕は蛍子のお兄ちゃんだぞ」
光希は、はっきりと答えてくれた。
それを聞いて、蛍子は嬉しくなる。
思わず笑顔になり、部屋のドアを開けると、そこに光希がアイスクリームの器を2つ持って立っていた。
「アイスを買って来たんだ。一緒に食べよう」
光希は笑顔で言う。
蛍子は、兄の優しさに涙が出そうになったが、堪えて微笑む。
そして、兄と妹は一緒に仲良くアイスを食べることにした。
「おいしそう」
蛍子はアイスの入った器を手にする。
すると、兄の光希がスプーンを差し出す。
蛍子は、差し出されたスプーンを口に含む。
バニラアイスと言ったが、普通のバニラアイスではなかった。
アイスの中にクッキー生地があり、塩味が効いていた。バニラの風味が口の中に広がると共に、塩分を加えられてことで甘味が増していた。
初めて食べるアイスの味に、蛍子は感動する。
「これ塩が効いているのに、おいしい」
蛍子が驚くと、光希は笑む。
「スイカに塩をかけるのと同じで、少し塩を入れると甘みが引き立つんだよ」
光希はアイスを口にする。
【対比効果】
異なる味覚が合わさることで一方の味覚が強められることを言い、甘味と塩味、塩味と旨味でこの効果が確認されている。
事例としては、スイカを食べるときに塩を振って食べると甘味を強く感じることが挙げられる。
和菓子のアンコの隠し味に醤油を加えたり、煮豆の仕上げに少量の醤油を加えることで甘味を引き立てる。お汁粉に塩をひとつまみかけるのも同じ効果で、アイスクリームに醤油をかけるとおいしい感じるなどある。
また、「甘味が強くなる」という効果の他に「味が引き締まる」という効果も得られる。
そして、二人は笑い合う。
こうして、兄妹は仲直りした。
家族のために作ったクッキーを食べて貰えなかったのは残念だったが、蛍子は光希の気遣いに感謝していた。
夜もふけ、蛍子は部屋で過ごしていた。
「あのアイス。おいしかったな……」
蛍子は呟く。
思い出すと、また食べたくなった。
遅い時間に甘いものを食べると母親に太ると言われているが、光希が買ってきたアイスをもう一口食べたくなった。
蛍子は、部屋を出ると台所に向かった。
台所には誰もいない。
冷凍庫を開けてみると、バニラアイスのカップがあったがごく普通の安物だ。ふと冷凍庫を探っていると、奥底に袋に入ったクッキーをみつけた。
「え。これって、私が作ったクッキー。どうして、こんなところに……」
蛍子は、袋からクッキーを取り出す。
間違いなく自分が作ったものだ。
光希の話しによれば、全部友達にあげたと言っていたが、なぜここに残っているのだろうか。
蛍子はクッキーを見つめながら考えた。
ふと思い出す。
母親と夕食を取っていた時に、なぜ母親は蛍子に何があったのか聞かなかったのだろうと。ケンカをしているのだから、理由を訊くものだ。
だが、母親は訊かなかった。
それは理由を知っていたことになる。
「そうだ。今日って、誰か来たっけ。呼び鈴が鳴ったら二階の部屋にも聞こえるハズなのに私知らなかった……」
蛍子はテレビドアホンを操作し、訪問者の履歴を確認するが今日、佐京家を訪れた人は居なかった。
「お兄ちゃんの友達どころか、誰も来てないじゃない」
蛍子はクッキーを眺めていると、何かを察する。
クッキーを一枚手に取ると口にする。
サクサクとした食感にバターの香りが鼻腔を通り抜けるが、次の瞬間、蛍子は顔をしかめる。
口の中に甘さではなく、塩辛さが広がったからだ。
「ひょっとして、グラニュー糖と塩を間違えた?」
蛍子は、そこで全てを悟った。
母親か光希か分からないが、蛍子が作ったクッキーに塩が使われていることに気づいた。
蛍子が初めて上手く焼けたクッキーが、とんだ失敗作だったのだ。
こんな食べられないものを家族に食べさせようとした事実を無くす為に、光希は友達にあげたことにしつつ、塩クッキーの再利用を考えていた。
部屋でタブレットを触っていたのは、塩クッキーの再利用を探していたのだ。
それが、あの塩バニラアイスだった。
蛍子は、自分の愚かさに涙が出る。
光希は、自分よりも他の人のことを大事にする。失敗したクッキーを家族に食べさせるところだったのを、光希は自ら憎まれ役を引き受けてくれた。
それを知った時、蛍子は兄・光希に申し訳なくなった。
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