第2話 ネロ

 私はアグリッピーナにより出獄を許可され、彼女の屋敷にて匿われることとなった。

アグリッピーナは時の皇后、つまり皇帝クラウディウスの正妻であり、絶大な権力を手にした女性であった。


「貴女のようなガリア人には、私が夫である皇帝と同等の権力を持っていると誤解している人もいる。でもね、これで結構不自由なのよ」


アグリッピーナは三度結婚している。

最初の夫との間には息子がいて、その息子に帝位を継がせたいというのが彼女の願いなのであった。

しかし、クラウディウス帝には実の息子ブリタンニクスがいる。

故にアグリッピーナはあらゆる手を使ってクラウディウス帝とブリタンニクスの仲を裂き、連れ子である自身の子を相続人につけることに成功した。


「でも、夫の気が変われば後継者の指名などどうなるかわからない。だからね……気が変わる前に、夫には、そう、神々の下へ行って欲しいの」


アグリッピーナは私に研究室を与え、毒の研究を支援してくれた。

と、言えば聞こえは良いが、換気のための小窓が一つだけついた一室に半ば監禁されるような日々が始まった。


「成果物は私にも少量ちょうだい。なに、ただの興味本位よ」


 私が研究室で毒の抽出をしていると、窓の硝子ヴィトゥルムーー当時はまだ硝子窓は希少で高価だったと思うーー越しに声が聞こえた。


「何してるのさ」


硝子でやや歪んでいるものの、そこに私よりやや歳下の少年が立っているのが見えた。

少年はこてかなにかで波立たせたような独特の髪型をしていた。

髪の色は栗色で、瞳は黒く、頬は紅く、小ぶりで形のいい鼻をしていた。

彼がアグリッピーナの言っていた息子だろうというのは、すぐにわかった。


「アグリッピーナ様に命じられて、クラウディウス帝のご病気を治す薬を作っているのですよ」


「嘘」


私は虚をつかれて、押し黙ってしまった。


「母上は、義父上を愛していない。治らなかったらいいのに、って思ってるよ」


「そ、そんなことは、たぶんないと思いますけど」


少年ははにかんだ。


「嘘が苦手なんだね。女のひとでも、母上とは違うな。僕の名はネロ。君の名は?」


「ロクスタ、にございます」


その時、少年の顔のさらに後ろにもじゃもじゃした髭の顔が現れた。


「うわ、セネカ!追ってきていたのか」


セネカと呼ばれた中年男性は、おほんと咳払いをした。


「ネロ様、果実は硝子器を通して見るとずっと大きく見える。あるいはずっと美しく見えるものです。光の屈折ですな。この少女も同じことです。さ、勉強に戻りますぞ」


ネロ様は楽しげに手を振りながら、家庭教師のセネカに引っ張られていった。


 ネロはそれからも時々、窓越しに顔を覗かせて、私とたわいもない話をした。

時には学友だという、いつも異なる服を着るお洒落な男の子と一緒に現れることもあった。


「ははぁ、この子がネロがご執心だという“硝子の君"か」


「そんなんじゃないよ。からかうな、ペトロニウス」


ペトロニウスは訪問のたびに自作の詩を披露したり、歌を歌ったり、楽器を奏でたりと多彩な人物だった。

ネロ様も真似して同じことをするのだが、どこか稚拙で、未熟なところがあった。

しかし、私はネロ様の歌や詩にある不均衡、ある種の歪さに心惹かれるのだった。

二人はそれとなく私がなんの研究をしているのか聞いてくることがあったが、私は決して口を割らなかった。


窓越しの穏やかな日々の裏で、私は暗殺に使う毒の製造、毒殺の手順について着々と準備を進めていった。

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