Appleー令和斬妖奇譚ー
まさひろ
第壱章 日本刀を携えた少女
第1話 日本刀を携えた少女
令和××年3月20日、この年のこの日は春分の日であった。
彼岸と此岸――あの世とこの世が最も近づくとされるその日の夜、ひとりの少女が息を切らせて新宿歌舞伎町の薄暗い路地裏を駆け抜けていた。ちらちらと背後を気にして一心不乱に駆け抜けるその様は、黄泉へと落ちたイザナミから逃げるイザナギがの如くだった。
「くっ、はっ、はっ……」
なんで? どうして?
と、少女はいくつもの疑問を頭の中で廻らせながらひた走っていた。
なんで?
なぜ自分はに逃げているのか――それはあるものを見てしまったから。
どうして?
どうしてそれを見てしまったか――それは偶々だ、幾つかの偶然が重なった結果に過ぎない。
何のために?
それが意味するのは何なのか――それは少女には知る由もない。
「はっはっはっ」
少女は駆け抜ける。
年の頃はまだ十代中頃、気の弱そうな面持ちをした化粧っ気のない黒髪の少女だった。服装は粗末なジャージ姿にくたびれたスニーカー。手にしたものなど何もない、まさに着の身着のままと言った有様だった。
「はっはっはっ」
いくつもの曲がり角を経て奥へ奥へ。
薄暗い深淵へと落ちていくようなその逃避行は――
「ひッ⁉」
曲がり角より現れた人影に、少女はとっさに悲鳴を漏らす。
少女の目に映ったもの、それもまた少女だった。
年の頃は少女より少し上、十代後半に見えた。
焔の如く紅く染まったスカジャンを羽織り、履いているのは動きやすさを最優先したようなホットパンツ、足元には使い込まれた軍用の編み上げブーツが見て取れ、細長い袋を肩にかけていた。
頭髪は、少女と同じく黒髪ではあるが、血のように紅いインナーカラーがその黒さをより強調していた。
髪の長さは少女より短くウルフカットに整えられている。
そして、その髪と同じく狼の様な鋭い目つきで、その少女は少女を見つめていた。
その野生の獣じみた雰囲気に少女は言葉を詰まらせるも、背後から近寄ってくる足音に押されるように、少女は彼女に口を開いた。
「た……助けてください!」
必至の思いで発した言葉に、彼女は無言のまま硝子の刃のように冷たい視線を向けるだけだった。
「助けて……ください」
少女は弱々しくも再度助けを求める。
しかし彼女は鋭く、だが無機質な眼光を向けたまま黙して語らず。
そして、少女が三度助けを求めようと口を開いたとき、少女の背後から足音が響いてきた。
「やれやれ、追いかけっこはおしまいですか?」
「ひっ⁉」
影から姿を現せたのは、闇に溶け込むような黒のスーツを身にまとった、どこにでもいそうな中肉中背の男だった。
顔つきは温和で柔和、人を寄せ付けないとげとげしい雰囲気を醸し出している目の前の彼女とは真反対だった。
「おや? 貴女はどなたでしょうか?」
男は第三者の存在に、一瞬眉をひそめる。
だが、男の呟きにもまた、彼女は無言で男を見つめるだけだった。
「ふむ……。まぁこれは
男は柔らかな笑みを携えたままそう言うと、少女へとゆっくりと近づき、おびえる少女へ手を伸ばした。
「ひっ⁉」
逃れることのできない未来に、少女は身をすくめる。
その時だった――
「アンタ、ヤツラの手先ね」
それまで無言を貫いていた彼女がポツリとそう呟いた。
その声は、低く、そして重く、けして冷え固まることの無いマグマが如き熱を帯びた物だった。
その声に、男の手がぴたりと止まる。
「ヤツラ……とはなんのことでしょうか?
彼女は若年女性保護施設の利用者でして、言いづらいことではありますが少々と精神性疾患を患っており、時折突発的に家出をしてしまうのです。
男は落ち着いた声でスラスラとそう説明した、それはまるで何度も繰り返したような言いなれた文言だった。
「そんな! わたしは違います! 病気なんかじゃありません!」
少女は身を縮こませながらそう叫ぶ。
だが、男はそれに意を返さずに、差し止めた手を再び伸ばした。
「……青山かりん」
再び彼女がポツリと呟く。
「青山かりん、この名前に聞き覚えがあるはずよ」
「……はて?
男は延ばしかけた手を止め、探るようにそう答えた。
「しらばっくれても無駄よ。アンタからはヤツラの匂いがプンプンするわ」
彼女は殺意を込めた視線と共にそう言い切った。
「ふふ。ふふふふふ」
常人ならば身をすくませそうなその視線を身に浴びて、男はくぐもった笑みを漏らす。
「ふふ……くははははは!
どこで俺たちのことを知ったかなど興味はない。
――ガキ。
虎の尾を踏むと言う言葉は知らなかったのか?」
男はそう言ってニヤリと微笑む。
だが、その笑みは常人のものではなかった。
切れ上がった口角はどんどん上へと裂けて行き、それとともに、男の体が膨れ上がる。
身にまとっていたスーツはミシミシと音を立て引き裂かれ、その下から異形の体が姿を見せた。
それは2mを優に超す巨大な猿――狒々だった。
全身を纏う体毛は太く鋭く、月光を浴びてギラギラと輝いていた。
分厚い筋肉は人間とは比べ物になどならなず、手に備わった鋭い爪と相まって、人間の肉体など紙切れより容易く引き裂いてしまうことが容易に想像できた。
大きく裂けた口から覗く鋭く太い牙もまた、人間の体をトマトのようにかじりとってしまうことが容易に想像できた。
「ひッ⁉」
そのありえざる非日常の存在に、少女は顔を青くしてぺたりと腰を抜かした。
「じゃまだ――死ね」
狒々はそれで終わりとばかりに、少女の背後に立つ彼女に向かい爪を振るう。
「きゃっ⁉」
少女は目をつぶる間もなく、その一撃――
「……え?」
パチリと、少女は一度瞬きをした。
それは、目の前の出来事が理解できなかったからだ。
自分に向かい来る狒々。
記憶にあるのはその筈だった。
一秒とかからず、自分はそれに踏みつぶされる、その筈だった。
だが、いつの間にか、少女の目の前には彼女が立っていた。
それだけならばまだいい、背後に立っていた彼女が準備を整えていたのならそれも可能かもしれない。
だが、決定的な瞬間がいつまでたっても起こらない。
その理由。
それもまた、理解不能ではあったが、一目瞭然ではあった。
「……あ?」
頭から下まで、真っ二つに両断された狒々は、自分に何が起きたのか理解する前に、気の抜けた声を発して左右に倒れ伏した。
「え? え……え?」
少女は何が起きたのか理解しようと周囲をきょろきょと見回した。
自分の左右にあるのは、左右に切り裂かれた狒々が煙のように消えていく姿。
そして、自分の前にあるのは――
「ふん、ザコが」
一振りの日本刀を手に携えた、ひとりの少女の姿だった。
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