6月3週 「備えあれば憂いなし、でしょ」
叩きつけるような雨音と遠くで鳴る唸るような雷の音を感じながら春波は夕食後、二人分の洗い物をしていた。
降り続けている雨は勢いを増していき、春波達が住んでいる地域の一部では警報が出ている所もあるようだ。
「かなり雨強くなってきたねー」
「だなぁ。 おじさん達はなんて言ってる?」
「とりあえず雨がおさまるまではいなさいだって。 私は別に泊まってもいいけどねー?」
「明日も学校なんだからちゃんと帰りなさい。 まあ服から何から気付けば一通りある、んだよな? ちゃんと確認してないけど……」
「確認してもいいのに、相変わらずの真面目というかヘタレというか……」
「いや下着とかもあるならやっぱりダメだよ、というか水瀬だって僕がそういう事をしないと思ってるから置いてってる部分があるだろ」
「まあそうなんだけど、もう一通り見られてるわけで、春波には見られてもいいと思ってるのも本当だから」
合鍵を受け取ってから更に水瀬が春波の住むマンションに足繁く通うようになり、水瀬は少しづつ私物を置いていったり、時には水瀬用の食器を買いに行く口実でデートしたりとどんどんと居場所を作りあげていた。
その中に、いつから置いて行ったのかは分からないがクローゼットの隅に小さめのカラーボックスを持ち込んでおり、それがお泊まりセットだと聞いた時は流石に驚きが隠せなかった。
「許可もらった時はちゃんと別で用意してくるんだからわざわざ置いておかなくてもいいんじゃないの」
「備えあれば憂いなし、でしょ。 もしかしたら春波が急に寂しくなって引き止められるかもしれないし」
「それは……」
無いと言おうとしたが言葉を続けることができなかった。 出会ってから一年程、多くの時間を一緒に過ごしてきて1人の時間に強い寂しさを実感することが増えており、さらには実例もある以上そういう事をしないと自信を持って言えなくなっている。
照れくささから答えを返せぬまま手を動かしているとカーテンの外が瞬くように光り、程なく地響きのような震えを感じる。 今のはかなり近い、停電もするかもなと食器を流し置き終わろうとした時。
「これだけ近いとまた春波が調子悪くしちゃうかな?」
「あの時はそもそもが体調を崩してたってのがあるから。 これだけなら別にそこまで……」
「あー、これだけ近いとまた春波が調子悪くしちゃうかなー?」
同じ言葉が、しかし今度はとてもわざとらしい調子で繰り返される。 不思議に思って顔を向けると、ソファの上で春波へ向けて両手を広げる水瀬の姿があった。
恋人からの期待が込められた眼差しに加え待ち構えるようなその姿に少しの呆れとそれを押しつぶすくらいの好意を感じる。 エプロンを外し少し乱雑に掛けるとそのまま水瀬へと吸い寄せられるように近づき、そっと抱き締めた。
「ひっつきたいならひっつきたいって言いなさいよ……」
「んー、春波が心配なのもほんとう……」
「……はい」
水瀬が抱きしめる手に力が籠もる。 その感触に胸の奥から熱が湧き上がるのを感じていた。
そのまま2人でソファに並んで座りながら、テレビにサブスクリプションサイトから適当に選んだ映画を流し、何をするでもない時間を過ごす。
春波がこの場所に住み始めた時は準備に大半を叔父夫婦に丸投げした事もあり、部屋から家具まで一人暮らしにはいくらなんでも過剰過ぎる環境を与えられたと思っていた。
しかし、自分の左側から重なるように体重を預けてくる水瀬の暖かさを感じていると、いつかこうやって誰かと気兼ねなく過ごす事があるかもしれないといった考えがあったのではと今ではそう受け取ることが出来た。
流した映画が気に入らなかったのか、水瀬は春波のすっかり綺麗になった右手へ手を伸ばすと何か目的があるわけでもなさそうにいじりだした。 指先で感触を確かめたり、爪を押したり、指を軽く引っ張ったり。
「あむ」
不意に水瀬が春波の手を喰んだ。 あむあむと噛み跡がつかないくらいの強さで力が加えられる。 急なその生温かい、少しゾワゾワとする感覚を春波はなんとも言えない我慢した表情で受け入れていた。
そのうち口を離し、最終的には自身の左手を絡める形に落ち着いたようで、自然と先程よりも寄りかかるような形になった。
水瀬のこういったスキンシップにもある程度慣れた春波だが、こうした姿を見せてくれている事や触れ合っている多幸感が減ることは無く、柔らかな笑みを浮かべただただ幸せを噛み締めていた。
すると水瀬が顔を上げ、少しのあいだ春波を見つめる。そして、
「ん」
その短い音と共に何かを待つように目を閉じた。
答えるように春波は顔を近づけ、ゆっくりと唇を重ねた。
そこから、啄むように何度もキスが繰り返される。 ちゅ、ちゅ、とリップ音が満足するまで何度も繰り返される。
……キスも、もう何回もしてるけど、この幸せには慣れることは無さそうだな。
「……よろしい」
ゆっくりと離れると水瀬も幸せそうな、緩みきった顔を春波に見せた。 そこから、再びどちらともなく距離を無くそうと動いたその時。
水瀬の携帯に着信が入り、予想外のその音に少し体が跳ねると距離を離し、水瀬が電話を取った。
「もしもしお父さん? …………うんそこにいるよ。………………ホント!? ………解った、代わるね。 はい春波、お父さんが話があるって」
「んん? うん……もしもし代わりました深海です」
『ああ、春波くん水瀬がいつもお世話になってます。 相談なんだけど、今日水瀬を泊めてもらう事って出来るかな』
「それは……大丈夫ですが、その、いいんですか?」
『雨が夜遅くまでこの調子みたいでね、車で迎えに行く事も考えたけど……君の事を考えたらシチュエーション的に避けたほうがいいかなと思って」
「……すいません。 わざわざ僕の事を気遣っていただきありがとうございます」
『そんなに畏まらないで。 もう何回かお世話になってるし、君に任せるから今日はお願い出来るかな?」
「はい、はい……ありがとうございます。 お預かりいたします」
『よろしくね。 じゃあ、おやすみ』
「おやすみなさい。 失礼します」
電話が切れたのを確認し携帯を水瀬に返すため目を向けると、してやったりという表情を浮かべ楽しそうな様子で待ち構えていた。
「憂いはないでしょ?」
「僕の負けだよ。 そうと決まったら風呂でも入れてくるよ」
「……お風呂、一緒に入る?」
「…………………………………………………明日も学校だし、大事な一人娘さんをお預かりしているわけなので、その、ね?」
「もうする事シたのにそこで引いちゃうのはなんなのよヘタレ」
「うっぐぅ………………」
「いいわ、無理矢理乱入しちゃえばいいだけだし。 準備しよーっと」
外からの雨音が変わらず聞こえる中、水瀬の後を追うように春波も今からの時間の準備をするために動き出す。
今日はどうやら寂しい思いはしないで済みそうだった。
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