第23話 王太子は婚約披露式を全うする
妃教育の開始に伴い、ニナの政務官補佐の仕事は午前のみの半日となった。昼食はマナー実習を兼ねて取り、午後は妃教育の時間となっている。
妃教育の開始以降、ニナはみるみる磨かれ、その輝きを増していった。もともと勤勉で賢いニナは、学んだことをあっという間に吸収する。それは知識のみならず美容やファッションに関しても同様で、ニナは蕾が綻び大輪の花を咲かせるが如く、洗練され美しくなっていった。
「ニナ、今日もお疲れ様。無理はしてない?」
アレクシスがニナをタウンハウスまで送るのも日課となっている。馬車の中で過ごす時間は、多忙な2人にとって何よりも大切な時間だった。
「はい、問題ありません。アレクシス様も、昨日の案件でお忙しかったのではないですか?」
「僕の方も問題ないよ。午前中のうちにニナがまとめておいてくれた資料がとても役に立った」
「それはよかったです」
政務に携わりながら妃教育を受ける婚約者など、前代未聞だ。王城内に留まらず、ニナの有能さは王都の貴族の間で広く知られるところとなっている。
「実は今度、バトン領の温泉水をスキンケアのために商品化しようと思うのです」
「へぇ、温泉水を?そういえば、ニナはバトン領から温泉水を持ってきているって言ってたね」
「はい。私は肌が弱くて、市販されている化粧品では肌が荒れてしまうので、バトン領から定期的に温泉水を運んでもらって、スキンケアに使っていたのです。このように持ち歩いて、乾燥した時に使ったりもしています」
ニナはアトマイザーに入った温泉水をアレクシスに見せた。
「先日フェリシア様をバトン領にお招きした際、温泉をとても気に入ってくださいました。フェリシア様もお肌が弱いのだそうですけれど、バトン領の温泉はお肌がとってもしっとりするとおっしゃって。私と同じように、温泉水をお持ち帰りになったのです。それで、これはニーズがあるのでは?と思いまして」
バトン領の話をしているニナは、相変わらずきらきらして楽しそうだ。アレクシスはその様子を、愛おしげに目を細めて見つめていた。
フェリシアとヨアンは以前ニナとした約束を果たし、少し前にニナとともにバトン領を訪問した。アレクシスは他に仕事が山積みだったため同行は叶わなかったが、バトン領にとってもフェリシアたち夫婦にとっても、とても有意義な訪問だったと聞いている。美神の如き夫妻が馬車から降り立った時の辺境伯一家と領民たちの驚きといったらなかったそうだ。
「お父様とお母様は、一瞬自分が死んで天国にでも来てしまったのかと思った、っておっしゃっていました。お兄様なんて、しばらく見とれてしまって、せっかく公爵閣下がご挨拶くださったのに口がきけなかったんですよ」
と、ニナが可笑しそうに話してくれた。アレクシスも以前自分が微笑みかけた時のセルジュの乙女のような表情を思い出して、一緒に笑った。
「一定期間、温泉水の成分が変わらないような容器を考案できたらいいのですけれど。それに、大量に運ぶのは大変ですし…」
ニナは難しい顔をして、ぶつぶつ呟いている。
「叔父上はバトン領にも魔法陣を残してきたんだよね?それなら叔父上に運んでもらえばいいのに」
ヨアンも温泉をいたく気に入り、フェリシアといつでもバトン領を訪れることができるよう、転移魔法用の魔法陣まで残してきたというのだから、結構な熱の入れようだ。まあ、自身が気に入ったから、というのは建前で、実のところはフェリシアの嬉しそうな顔を見るためだろうが。
「公爵閣下にそんなことお願いできません。バトン領の者だけでちゃんと商売が成り立つようにしなければなりませんし」
アレクシスの冗談に真顔で答えるニナが可愛くて、アレクシスの口元がさらに綻ぶ。
「ああ、そうだ。王都とバトン領を結ぶ街道を整える許可が下りたよ。財源も確保できているから、早々に工事に着手する予定だよ」
アレクシスが言うと、ニナの表情がさらに輝いた。
「本当ですか!?ありがとうございます!街道が整備されれば、流通も人の往来も盛んになりますし、経由する領地の皆さんにも喜んでいただけそうです。温泉水も運びやすくなりますね」
「そうだね。王都とバトン領を結ぶ街道沿いの領地には、領民の生活水準を向上できるように通達と改善命令を出したけれど、すぐに暮らし向きがよくなるわけじゃない。街道を整備して、もっと商売や移動はもちろん、技術や情報も入りやすくなれば改善されていくと思うんだ。それに、街道が整備されればバトン領までの行程も大幅に短縮される。結婚後もバトン領の様子を見に行きやすくなるしね。次にニナが里帰りする時は、絶対に僕も同行させてもらうよ」
嬉しそうなニナの手を握りながらアレクシスが言うと、ニナも可憐に微笑んで頷いた。
「ええ、是非。アレクシス様とまたバトン領を歩きたいです」
『ああもう、可愛いな』
アレクシスは抱きしめたい衝動を必死に抑え、ニナの手を握りしめるだけに留める。
『抱きしめてしまったら、いろいろ止まらなくなりそうで怖い…。我慢だ…』
婚約披露式までは過度なスキンシップを慎まなければ、と自分を律する毎日。こんなにも何かを待ち遠しいと感じるのはいつぶりだろうか。婚約披露式を指折り数える子どものような心境の自分が可笑しく、でも幸せで、アレクシスは緩んだ口元をそっと手で覆った。
そして、とうとう迎えた婚約披露式当日。
婚約の儀式を終え披露式の会場に入った2人を、たくさんの拍手と歓声が出迎えた。感動に瞳を潤ませるニナの両親バトン辺境伯夫妻と、兄セルジュの姿もある。父ブルーノも、勉強がてらうまく結婚相手が見つかれば、と王都に出した娘が、まさか王太子と婚約をすることになろうとは、夢にも思っていなかったことだろう。
過去に経験した婚約披露式は、どれもアレクシスにとって苦い思い出しかなかったが、今回は違う。
厳重な警備と来場者へのチェックが行われ、披露式はつつがなく進んでいった。特に細心の注意が払われたのは、以前毒が混入されたことで婚約者だったフェリシアの命を奪いかけた乾杯のシャンパンだ。長きにわたり王城に勤める信頼のおけるメイドや使用人以外は、婚約披露式の3日前から会場はもちろん、王城への立ち入りも禁止された。残った者たちも徹底した身体検査が行われ、決して一人で行動する者が出ないよう相互を監視する勤務態勢が組まれるなど、盤石の体制で臨んだ披露式。それでもニナがシャンパンを口にする瞬間、アレクシスは過去のトラウマが蘇り脂汗が滲んだ。ニナはそんなアレクシスを気遣いながらシャンパンを一口飲み下すと、
「大丈夫です」
と微笑んだ。あまりの安堵で座り込みそうになる自分をなんとか律して、アレクシスも笑う。
『ああ、よかった…。これで本当に前に進めた気がする…』
泣き笑いのようなその表情を見て、ニナも目を潤ませた。
代わる代わる祝福の挨拶に訪れる貴族たちへのニナの対応は見事だった。それぞれの立場や領地の事情をすべて把握し、その人物の人柄に合わせた話題を選び取る嗅覚。ニナを初めて目にした貴族も多かったが、その可憐で愛らしい姿と知的な振る舞いは、王太子の婚約者として大いに歓迎され、賞賛された。
「アレクシス、ニナ嬢、婚約おめでとう」
2人に祝いの言葉を述べにきたヨアンとフェリシアも、その幸せそうな様子を見て心から安堵したように美麗な笑みを浮かべた。
「幸せになってくださいね」
ただただ純粋に2人の幸せを願うフェリシアの言葉に、アレクシスは深く頷く。
「叔父上、フェリシア、本当にありがとう」
多大な心配を掛けていただろう2人からの祝福が、心に温かく染み渡った。
温泉水の販売が軌道に乗りそうだと楽しげに話しているニナと、嬉しそうにニナの話に相槌を打つフェリシアを見つめていたアレクシスに、ヨアンが言った。
「よかったな、アレクシス。心の底から幸せそうに笑うお前が見られて嬉しい」
「叔父上の助言のおかげですよ。先達の言葉には従っておくものですね」
アレクシスが笑うと、男でも惚れ惚れするほど艶やかな笑顔でヨアンが頷く。
「だろう?」
くすくすと笑い合うと、年の近い同士のような叔父と甥は、しばし互いの愛しい人を満足気に見つめていた。
「皆の者、本日はありがとう。王太子アレクシスとバトン辺境伯令嬢ニナの婚姻の儀は半年後に執り行う。これからもどうか2人を支えてやってほしい」
国王の言葉に、会場は再度大きな拍手と喝采に包まれる。
初めて無事に婚約披露式を全うしたアレクシスは、言葉にならないほどの充足感を覚えた。
『やっと…この日を乗り越えられた。それも、心から愛している人とともに』
隣に立つニナの手をきゅっと握りしめ、アレクシスは招待客たちに手を振り応えた。自分の手を握り返してくれる、ニナの手の温もりを感じながら。
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