第6話 王太子は癒される
視察2日目。
アレクシスが宿泊施設を出ると、今朝は出迎えてくれるニナの姿があった。
ニナの髪には、昨日アレクシスが贈った髪留め。今日は髪もきちんとまとめられているが、髪留めを上手に使ったアレンジがされていた。しかし、そこに嫌な媚は感じられず、ニナの表情からは、王太子に贈られたものはしっかりと身に着けなければ、という真面目さが感じられて、アレクシスは穏やかに微笑んだ。ニナには多くの貴族令嬢たちから感じる色を帯びた毒気のようなものがまったくない。それがアレクシスにはとても心地よかった。
「髪留め、使ってくれてありがとう。やはりニナ嬢によく似合っているよ」
思ったままにアレクシスが褒めると、ニナが顔を赤らめて目を伏せ、小さい声でお礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
やはり、スイッチが入っていない時は目を合わせられないようだ。
アレクシスはニナに案内され、源泉近くから噴き出す高温の蒸気を使った施設を訪れた。
「今、バトン領の大半の家では、この蒸気を使った暖房を用いています。バトン領は寒さが厳しい地域なので、以前は冬の間の暖房費が家計を圧迫していましたが、こちらを利用すれば、最初の工事費用だけであとは暖房費もかかりません。工事費用も当家で負担しながら、導入を進めています。他にも、この蒸気の熱を利用して農作物を作ったり、魚の養殖にも挑戦したりしています」
相変わらず、ニナの説明には淀みがない。アレクシスは説明に頷きながら、施設を丁寧に見ていった。
「ニナ嬢は本当に博識だな。無駄のないエネルギーの使い方は、王都でも真似したい」
施設の視察を終え、素直な賛辞を贈ると、ニナが慌てて首を振った。
「そんな、私などまだまだです。バトン領は山地が多く、海もありません。少しでも使えるものがないかを考えていただけのことで…」
「いや、それでこれだけのことを思いついて形にしているんだから、立派だよ」
『事実、国王陛下にいろんな知識のお土産を持って帰れそうだ』
アレクシスは早くも、この地に視察に来られたことを感謝していた。
ちょうどバトン領に滞在して一週間が経った日、ブルーノからバトン辺境伯邸の晩餐に招かれた。
バトン領の食材を使ったメニューの数々は、どれも素朴で温かみが感じられた。バトン領で味わう料理は、どれも温泉と同じように、滋味深く身体の中から癒されていくような感覚がする。
「実は、観光客用に名物を作りたいと考えておりまして、当家のシェフとメニューの開発をしている最中なのです」
ニナの話を聞いたアレクシスは、どんなメニューなのか興味を惹かれた。
「その試作品、僕も試食させてもらうことはできるかな?」
「えっ!でも、まだ開発中で、殿下にお出しできるようなものでは…」
「だからこそ、僕みたいな王都の人間が試食した方が有益なんじゃない?」
にっこり笑ったアレクシスを見て、ニナが真剣な表情で考え込む。試作段階のものを王太子に食べさせていいものか、しかし王都に住む人の意見はかなり聞きたい、という気持ちのせめぎ合いが手に取るようにわかる。アレクシスは小動物が困っているようなその様子がなんだか可愛らしくて、口元に手を当ててふふ、と小さく声を漏らした。
意見を聞きたい気持ちが勝ったのだろう、ニナが意を決したように顔を上げ、言った。
「では殿下、準備させますので、ご試食をお願いいたします」
運ばれてきたのは、こんがりときつね色に揚げられた丸いパンのようなものだった。
「先日ご視察いただいた商業区で、買い物の合間に食べられるものを、と考えておりまして。中にはバトン領で獲れたジビエの肉を使った餡が入っております」
「確かに、これなら外でも食べやすいね」
アレクシスは、あの商業区にいくつか、パラソルが立てられテーブルと椅子が置かれたスペースがあったのを思い出した。きっとそうした場所で休憩をしてもらいながら食べられるものを、と考えているのだろう。小腹を満たしながら買い物をしてもらえれば、商業区に滞在する時間も長くなるはずだ。
「じゃあ、いただくよ」
一口齧ると、さくっとした食感に続き、甘辛く味付けされたジビエの餡がとろりと口の中に広がる。アレクシスが食べたものは、もちろん毒見がされた後のもので少し冷めているが、それでも餡は十分温かい。『きっと街では揚げたてが提供されるんだろう。夏でも涼しいバトン領なら、この温かい食べ物は嬉しいんじゃないかな』
「お味はいかがでしょう?」
不安気な口調でニナが尋ねる。
「うん、味は大体いいと思う。ジビエのクセもないし、美味しいよ。だけどせっかくなら、もう少しジビエの肉感があるといいんじゃないかな。もっと大きめにカットされていると、満足感がありそうだ」
アレクシスからの感想を一言も聞き逃すまいと必死な様子のニナに、アレクシスはできる限り多くの感想を伝えようと、もう一口齧る。
「それと…外側のさくっとした食感が、もっと強調されたらいいかもしれない」
ニナの後ろでメモを取っていたシェフが、顎に手を当てて考え込んでいる。
「さくっとした食感…。パン粉をまぶしてみようか…」
アレクシスの意見も、どうやら参考になっているようだ。アレクシスは内心ほっとした。
「殿下、ありがとうございます。大変参考になりました」
シェフが下がると、ニナが深々と頭を下げた。
『ニナ嬢は心からバトン領をよくしていこうと考えているのが本当にしっかり伝わってくる。相手が僕じゃなくても、きっと同じように真摯に意見を聞いて、得るものを探すんだろう』
バトン領に来てニナと行動をともにしているうちに、アレクシスはニナのそのひたむきさに心を動かされていた。王太子としてのアレクシスを敬う様子はきちんと持ちながらも、王太子だからと色眼鏡で見ることはなく、媚びることもない。そういうスタンスでアレクシスと関わってくれる女性を、アレクシスはフェリシア以外に知らなかった。
『ちゃんといるんだな。そうやって僕に接してくれる人が、フェリシアの他にも』
アレクシスは、まるで温泉に入って身体が綻んだ時のように、心がやんわりと解されていくような感覚を味わっていた。
セルジュたちに護衛されながら宿泊施設に戻ったアレクシスは、従者たちを下げてまた一人、備え付けの半露天に入った。初日以来、この入浴時間はアレクシスの心を休める大切な時間になっていた。
雲の合間から覗く月の光が、湯に反射してきらきらと美しい。アレクシスは目を閉じて、かけ流しになっている源泉の水音に耳を傾けた。
『胸の中に蓄積されていた色々な感情が洗い流されていくようだ』
立場上、アレクシスは幼い頃からたくさんの負の感情や重圧に晒されてきた。
常に叔父と比べられていた幼少期。アレクシスも優秀ではあったが、魔力も王族としては平均的なものでしかなく、ヨアンよりも秀でているところはひとつもなかった。
王太子となってからは、いずれ国王になるために、優秀でなくては、正しくなくては、と自分を律して生きてきた。自分の利益のために擦り寄ってくる者たちも絶えず、そんな連中の下卑た笑顔を見ると気分が悪くなることもあった。
そんな中で、自分と同じく王妃となる重圧を背負ってともに研鑽に励んでくれたフェリシアの存在は、アレクシスにとってかけがえのないものだった。愛していた。心の底から、全身全霊で。
フェリシアと婚約破棄になってからの2年間は、思い出すのも辛い。ただただ心を殺し、フェリシアを黄泉へと追いやろうとした者たちの尻尾を掴むためだけに生きていた。もともと平均的なものでしかなかった魔力も、この時期を境にかなり弱まってしまった。医師や魔力の研究者たちからは、心因性のものだろうと言われていた。
今、ようやくフェリシアには幸せが訪れた。フェリシアの幸せは、アレクシスが心から望んでいたことだ。願わくば、その幸せを叶える存在になりたかったけれど、それでもフェリシアの幸せを祈る気持ちは変わらない。
フェリシアを失い宙に浮いた自分の心は何処に向かったらいいのか、アレクシスはずっと暗闇の中にいるような気分だった。壊れた時計の針のように、じっと動けずにいた。
『そんな心の針が、バトン領に来てやっと動き出したような気がする』
アレクシスは目を開け、空を仰いだ。月を覆っていた雲はいつしか晴れ、アレクシスの顔を月光が柔らかく照らしている。身体も、心も、優しい温かさに包まれていた。
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