第76話 ずるいよね

 栞が用意してくれたと思うだけで食欲がわいて、朝食をぺろっと平らげてしまった。あれだけ食欲がなかったのが嘘みたいだ。その後は栞の宣言通りに寝癖を直してもらう。

 なかなかに俺の寝癖はしつこくて、栞はあーでもないこーでもないと俺の頭をいじくり回している。10分ほど時間をかけてようやく納得のいくできになったみたいで満足げな顔を浮かべる。


「はい、できたよ」

「ん、ありがと」

「格好良くなったよ、涼」

「そりゃどうも」

「もう、素直じゃないなぁ。嬉しいくせに」


 そりゃ嬉しいさ。嬉しいけどさ……


「母さんの前でそんなの恥ずかしいだろ……今更だけどさ……」


 こんな状況、母さんにとって俺達をからかうまたとないチャンスなわけで。っていうかいつの間にかスマホを向けられて撮影されていた。


「おい、何写真撮ってるんだよ……」

「写真じゃないわよ。動画。結婚式用に今から色々用意しとかないと。にしても、本当に新婚さんみたいよねぇ……」


 しみじみと、本当にしみじみと言うんだ。栞と付き合う前にも言われた気がするけど、今となっては色々と現実味を帯びてきているわけで。あの頃は冗談だったのが今や冗談じゃなくなってきている。それにしても結婚式とかいったいどんだけ先のことを考えてるのやら。


「またそうやって……からかうなって言ったろ?」

「からかってないわよ。本気でそう思ってるの」

「なお悪いわっ!いや……悪くないのか?」


 なんだかよく分からなくなってきた。


「私はいつでもいいからね?」

「栞までのっからなくていいから!」


 本当に遠慮がなくなった。栞もだんだんと馴染んできて我が家に一部になりつつあるし、母さんの悪ノリに合わせるのも手慣れたもんだ。


「あ!涼!私大変なことに気付いちゃった!」

「え?何?忘れ物?」

「ううん……忘れ物はないけど……今から新婚感出してたら……本当にそうなった時どうしよう……」


 いったいなんの心配してるんだよ……


「その頃には熟年夫婦みたいになってたりして」


 とは母さんの言葉だ。高校を卒業するまであと2年半、大学を卒業となると更に4年。確かに今でこれだと……いや、考えるのはやめておこう。その時になってから考えればいいし、このままの感じが続く可能性だってある。

 そこでタイミングよく家を出る時間にセットしたアラームが鳴る。


「バカなこと言ってないでそろそろ学校行くよ」

「はぁい」


 まだ冷やかし足らなそうな母さんを無視して、家を出る。今日からまたしっかりと手を繋いで。玄関を出たところで栞が立ち止まり、俺の手を引く。


「あ!忘れ物しちゃった!」

「今度は本当に忘れ物?」

「うん。ねぇ、ちょっとこっち向いて?」


 振り向くと、栞は繋いでいた手をほどいて俺の首に腕を回す。そして……


 ──ちゅっ。


 不意打ちにもほどがある。唐突に俺は栞に唇を塞がれる。そのまま数秒。顔が離れた時には俺も栞も真っ赤になっていた。

 呆然とする俺を余所に栞は数歩駆け出して振り返る。


「へへ……いってきますといってらっしゃいのキスだよっ。キス……久しぶりだね?」


 本当に嬉しそうに言うんだ。

 ずるいって思う。これまでは俺が散々言われていたけど、栞だって十分ずるい。俺だって我慢してたのに。だから俺も先を行く栞を捕まえて抱き締めて……これからってところでご近所さんに見られてしまった。今回は俺からのキスはお預けみたいだ。ちょっと残念。


 まったく俺達は玄関先で何をしてるんだろうか。でも……やっぱり栞と一緒だとこんなにも楽しくて幸せだ。世界の見え方だってこんなにも違う。暗雲に覆われていたような日々が終わって、こんなに晴れやかなんだから。


 そして俺達は2人きりの時間を楽しむようにゆっくりと駅までの道を歩いた。おかげで電車の時間にはギリギリになってしまったけど、教室に着くまで手を離すことはなかった。



 教室に着くと、クラス中の視線が俺達に突き刺さる。あれだけぎこちない空気を醸していたから仕方ないけど、こうして手を繋いでいるところを見られるのはそれはそれで恥ずかしい。


「やれやれ、やっと仲直りしたか」


 呆れ顔の遥に迎えられた。


「やっぱり2人はこうじゃないとね!やきもきしたんだからね?」


 楓さんまでも。


「ご心配おかけしました……」

「気を付けてくれよ?お前らもうウチのクラスの名物みたいになってるんだから。ギスギスしてると雰囲気が悪いのなんの……」


 距離を置いてただけでギスギスしてたつもりはないけれど、傍からはそう見えてしまうのだろう。だからこれからはそうならないようにするつもりだ。


「もう大丈夫だから。これからは仲良くやるよ」

「それはそれで皆が大変なんだけどねぇ」


 いったいどうしろっていうんだよ……


「そこはもう我慢してもらうしかないよ。私もう涼から離れるつもりないから」

「お!しおりん言うねぇ!」

「愛されてるなぁ、涼よ」


 栞がこの調子だと、大変な皆の中に俺まで含まれてしまいそうだけど、こればかりは諦める他ないだろう。だって栞みたいに大っぴらには言えないけど、俺も栞から離れるつもりはないのだから。

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