義経 北行せず

飛鳥 竜二

第1話 さらば平泉

 空想時代小説


 文治5年4月30日(1189年)奥州平泉の衣川館の奥にある持仏堂は炎で包まれていた。お堂の前には、武蔵坊弁慶が多くの矢を受けながらも、仁王立ちをしている。討手の藤原泰衡勢は、弁慶の姿に不動明王を見ていて、近づけなかった。お堂が朽ちる前に、弁慶の額に矢があたり、それで弁慶は壁が崩れるように後ろに倒れた。おそらく、その前に意識はなかったと思われる。藤原勢は、どとうのようにお堂に入り、炎の中から一体の切腹をした焼死体を取り出した。兜や鎧は外されているが、体格や装身具から義経の死体と判断された。多くの兵士が、義経がお堂の中に入るのを見ており、逃げた形跡もなかったからである。

 首は斬られ、泰衡に届けられ、その後頼朝に届けられた。頼朝は焼け焦げた首を見て、

「これでは、九郎(義経)と分からぬではないか。泰衡追討じゃ」

と奥州征伐を命じた。元々、追討の意思があったので理由は何でもよかった。関東の御家人は、領地が増えるかもしれないということで、意気揚々と参戦した。結果は藤原勢の連戦連敗。地の利はあっても、大軍相手では叶うわけもなく、ましてや軍神といわれた義経を自ら葬った泰衡に、家来衆がついてくるわけがなく、奥州は鎌倉勢に蹂躙されてしまった。


 義経は、衣川館を見下ろせる西風山にいた。燃え上がるお堂を見て、犠牲になった弁慶をはじめ、身代わりとなった片岡八郎といった家来衆や、奥方である郷の方や娘のことを思っていた。義経は手を合わせて冥福を祈った。義経の傍らには、修験者が3人付き添っていた。羽州羽黒山の修験者たちである。武蔵坊弁慶と交流があった者たちで、藤原勢に不穏な動きがあった際に、駆けつけることになっていた。そこから、義経ら一行は山越えで羽州に向かった。

 藤原氏が滅亡したことは、羽黒山の修験堂で聞いた。義経は名を九龍坊(くりゅうぼう)と変え、修行に励むことにしたのである。


 羽黒山での修行は厳しいものであった。まさに荒行であった。九龍坊は、さして年令が変わらぬ最上坊(もがみぼう)の指導を受けることになった。体は大きく、武蔵坊弁慶を彷彿させるような体格で、九龍坊は(力まかせの修験者か)と思ったが、大間違いだった。まずは、羽黒山名物の2446段の石段の登り下りである。戦場をかけまわった九龍坊にとっては、さほどのことではない。だが、最上坊のペースについていけない。大きな体でとぶように下り、登りは休むことなく一気に駆け上がるのである。スタミナが抜群なのだ。九龍坊は、他の若い修験者よりは速いものの、最上坊には脱帽であった。次は、滝行である。夏場ならばある程度がまんできるが、冬場の滝行は地獄だった。体が凍るのではないかと思うぐらいで、何人かの修験者が脱落していった。また登山も過酷であった。湯殿山・月山・そして鳥海山に行くのだが、登山ルートを行くわけではない。あえて、岩場のきついところを登っていくのである。九龍坊の背丈ほどの岩や50mほどの崖を登ることもあった。今でいうボルダリングである。落ちる者がいると、皆でそこまで下りていき、手当を行うのも修行であった。手当が間に合わず、亡くなる者もいた。頂上に行くことが目的ではなく、心身の鍛練だから、状況に応じて修行は変わるのである。水練もきつかった。最上川で行うのだが、流れのきついところで、対岸まで泳ぎきるのは並大抵ではなかった。下流まで流されると、歩きにくい川岸を上ってこなければならず、夕飯に間に合わないこともあった。変わった修行といえば、竹筒をくわえて浅瀬に潜るという修行があった。気配を消して、川や水路を移動するための修行である。まるで忍者みたいな修行であるが、あらゆる場所での移動ができるようにするという目的だということだった。

 九龍坊が得意だったのは、棒術と木々渡りであった。武士だった九龍坊にとっては、武器はおもちゃみたいなもの。最初から他の修験者の範となっていた。かつて鞍馬山で修行していたこともあるし、壇ノ浦の戦いにおいて八艘飛びで名をはせた九龍坊である。たくみに木々の枝を伝っていくことができた。それを見て、修験者たちは

「九龍坊は、まるで猿じゃの」

と言い合っていた。


 3年がたった。今では石段の登り下りを最上坊と同じペースで走れるようになった。時には、最上坊よりも速く呼吸がもどれようになった。二人の棒術は、まるで芸術みたいな動きだった。九龍坊が上にとび、それを最上坊が受け止め、組み技に持ち込むということもあった。まるで戦場の立ちあいである。しかし、修行を終えるとニヤリと笑う二人の姿があった。夏をむかえようとするある日、九龍坊は座主の羽黒坊から呼び出しを受けた。

「九龍坊殿、長きの修行をよくぞ耐えられた。そろそろ山を下りるころになってきたが、これからどうなされるつもりか」

「今までのご指導・ご支援ありがとうございます。世を捨てた身としては、何もおそれるものはありませぬ。今後は、亡くなった人々の冥福を祈りながら、少しでも世のためになることをしてまいりたいと思っております」

「殊勝なお考えじゃ。実は、近江の観音正寺(かんのんしょうじ)から修験者の師となる者を探している。と話がきておる。そなたを推したいと思っているのだが、近江に行く気はないか」

「もったいないお誘いです。われで役立つならばお受けしたいと思うのですが・・。

観音正寺といえば、平家ゆかりの寺では?」

「たしかに。それで一時、幕府からにらまれていた寺じゃ。今では平家の残党もいなくなり、落ち着いたということだが、修験者の中には反幕府の者もいるのも事実じゃ。心してあたられよ」

「その点は大丈夫です。強いて言えば、私も反幕府ですから・・・」

「たしかに。だが、修行に政(まつりごと)は、ご法度でござるぞ」

「心得てござる」

「うむ、それでは九龍坊殿、さらばじゃ。これからは羽黒の猿から近江の猿だな」

「座主殿、ありがとうございました」

 翌日、九龍坊は山を下り、近江へ向かった。途中、武蔵の国栗橋にある静村の高柳寺に立ち寄った。義経を追って、平泉に向かっていた静御前が旅の途中で倒れ、この寺に葬られたと聞いたからである。そこに静御前の墓標があり、その傍らには義経の供養塔があった。

(義経は死んだのじゃ。今、ここにいるのは九龍坊。静、許せよ)

九龍坊は、手を合わせ経を唱えた。

「我昔所造諸悪業・・・・一切我今皆懺悔」

と天台宗の懺悔文であった。

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