第26話

 準備はいいかい? そう確認する声色には恐れも動揺もなく、どこまでも穏やかで優雅だ。いわゆる「いつもの」声なのだが、それが俺にはひどく懐かしく思えた。

「いつでもどうぞ」俺は両の腕を広げ、言葉通りの態度を示す。

 一度魔物になってしまった上に、カルドが最初に俺の血を飲んでから結構な時間が経っていることもあって、契約の儀式は仕切り直しとなっていた。俺が飲み込んだ指輪はいいとして、それが血液認定されるのかどうかの答え合わせも兼ね、カルドが俺の血を飲む。準備とはつまり、もう一度身体のどこかを切り裂かれることに対しての覚悟だ。許容したこととはいえ、言った先から痛みを強要するとはなんとも彼らしい。

「切られるならどこがいい?」

 カルドは右の手袋を外し、その指先に小さな刃物を形成している。メスの先端よりも小さい、針のような刃だ。思えば俺が最初の最初、職場で彼に助けられた時に聞いた何かの蒸発音も、今みたいに小さな刃物で魔物を殺したから出た音なのかもしれなかった。不機嫌なだけに見えたあのクレーマーの客も、実は魔物に取り憑かれていたのかもしれない。そう考えると、魔物との遭遇なんて日常茶飯事とも思えるし、逆にレアなことを連続させてでもこいつとの関わりを持たせようとした「何者か」の意志を感じなくもなかった。それが神によって敷かれた運命のレールだというのなら、俺は俺やカルドをこういう風に創った神を許せるだろうか。

「どこでもいいよそんなん」俺は無駄に深くへ潜った思考を一緒に捨てるように、投げやりに答える。「あ、でも痛くない方がいい」

「了解」小悪魔のような笑みが俺に悪寒を走らせた。すっかりいつもの調子ということは、あれだ。

「……あ、待て。その顔は痛いところやるやつだろ⁉︎ オーダーは正確にだろ⁉︎ な⁉︎」

 俺の悲鳴を掻き消すように、悪魔は鼻歌交じりに近づいてくる。止まる気配がない。

「手の上なら尊敬、額の上なら友情──まあ色々あるけど、それ以外はみんな狂気の沙汰なんだってねぇ? ……ああ、そういえば、掌の上なら懇願なんだっけ。失敗したな、僕が最初にキミに示したのは懇願か」

「なんの話か知らないけど勝手に複雑な気分になるのやめてくんねぇ⁉」

「知らないなら知らないままでいいさ。……無知でいる方が幸せなことも、きっとあるよ」

 例えば僕のこととかね、と言って挑戦的に唇を舐めるカルドの目に、もはや憂いの色はない。たとえ孤独でなくなっても彼の魅力は色褪せず、むしろ武器として使うことを選んだであろうその輝きには、更に磨きがかかっていた。……それはもう、息を呑んだ自覚すら奪われるほどに。

「でも僕らには狂気の証明なんて必要ない。繋がりを持つだけで充分すぎるよ。……だから僕たちは、その狭間で果てるまで、健やかに穏やかに笑っていよう」

 彼がそう言った直後、俺の視界に影がかかる。踊りにでも誘うように密着されてわずかにのけ反った重心を、カルドの左腕が受け止めている。支えがそれだけになった身体が右へと傾けられて、露わになった襟元に鋭い痛みが走った。首筋と鎖骨の間らへん、おおよそ怪我の仕方を知らない弱い箇所に、紙の断面を押しつけて真横に滑らせたような如何ともし難い不快感が襲う。

「痛ッ──」

 半ギレの叫びも終わらないうちに、傷口が生温かいもので覆われる。「そっち⁉︎」と声をあげそうになるが、思えば最初の嘘の儀式の時もそうだった。……出血多量の手のひらとはわけが違うが。とはいえ、血は少量でもいいと言っていたからと、刃物についたものを使うのだと勝手に思い込んでいたのは俺の方だった。

 ややあって、喉が動いた。その瞬間。

「──!」

 足元から光が溢れ出す。淡く、しかし目を瞬くほど眩い白い光が、円形に廻っていた。文字列と幾何学模様。以前に後輩が熱心に取っていたノートで見た、魔法陣というやつだ。

 成功──そう悟った瞬間に、一気に肩の力が抜ける。……というか、これは……

「…………ちょ、っと、悪い、」

 肩の力が抜けるというか、全身が重い。視界が悪いし、自分の立っている地平だけが不確かに歪んでいるような気がする。発作ではないけれど、覚えのあるこの感覚は、まさか……

「……え? ちょっと? 響君⁉︎」

 違う、違うんだ。毒とかそういうんじゃなくて、たぶん。

「ただの……貧血、だと、思う……」

 それが俺の最後の言葉だった。


 


 目覚めると、二人の人影が傍らにいた。背中の感触は硬い床。悪い夢のようにも思えるが、少し違う。一人は真っ赤な髪と黒装束が印象的で、呆れたような顔を俺ともう一人とに交互に向け、そのもう一人は両手で顔を覆っては「ゴメンナサイ……ゴメンナサイ……」とひたすらにお経を唱えていた。……なるほど、全く状況が掴めない。

「あの……これは……」

「もうあんたたち世話が焼けすぎ!」上半身を起こしながら恥も何もなく問うと、ルーラがキレた。「これじゃあじゃおちおち別室にもいられないじゃないの!」

「スミマセン……」

 別室……そうだ。契約の儀式は当事者以外の誰かが見るようなものではないからと、別の部屋に移動させられたのだった。藤沢が未だ目を覚まさない状態だったため、移動するのが俺たちになったのだ。となると……

「ルーラはなんでここに……?」

 彼女はあからさまなため息を吐いてから、渋々答えを教えてくれる。

「魔力の気配を感じてからすぐ、リビングから鈍い物音が聞こえてきたから様子を見に来たの。そうしたらあんたは倒れてるしこの男は錯乱してるし……酷い有様だったのよ。死んだとか本人は貧血って言い残してそれきりだとか……結局死んでもないし貧血でもなかったのだけれど」

「え、じゃあ何、原因」

「このバカがあんたの魔力吸いすぎたのよ。契約するとお互いの魔力が足りない方に供給されるようにできているの。だから万年栄養失調みたいな状態のカルドが、一瞬であんたの少ない魔力掠め取ったってだけの話。原因がわかってからはちゃんと吸いすぎたぶんの魔力をあんたに返して、それで目覚めた。いい?」

「ああ……よくわかった」つまり俺は魔力タンクとしては最低ランクで、ついでに言えば人間の魔力切れの症状は貧血によく似ていると。「ありがとうな、色々フォローしてくれて」

「ごめん響君……いきなり迷惑かけて……」

 顔は覆ったままだが、カタコトからは脱したらしい。それにしても、カルドもなんかこう……丸くなったでもないが、自然体でいてくれているようで妙に感慨深い。

「いいって別に。命ならあるし、これぐらい序の口だろ。なんならもっと迷惑かけてくれていいんだからな。家族同然なんだし……」

 自分で言って、ふと我に返ったような気分に陥る。

 家族同然とか、迷惑かけてもいいとか。

 そういうの全部、俺が今まで負い目に感じて、避けてきた全部じゃないか。

 自分が原因でひどい顔させたくないとか考えておいて──いや、今だから家族の気持ちが理解できるのか。「そういう顔」をする理由も心理も、今だからこそ受け止められる。

 それは決して負い目に感じる必要のない感情なのだと。

 大事な人がそこにいるだけでいい。無事でさえいてくれたなら、ほっと胸を撫で下ろし、たったの一言で済む単純な本心を吐露できる。それが純粋な愛情だ。

「──よかった」

 無意識に口から零れたその一言は、どうやらコルクの栓だったらしい。

 心という名の器は既に逆さまで、内容物が美醜を問わずに流れ出す。堰を切ったように止まらない。

「よかったよ、ほんとに……これで本当にお前が苦しまなくて済むんだと思うと…………なんか俺まで泣けてきちゃうな。変な話だけど。……ごめんな? なんか俺ばっかり感情表に出して。俺ほんとにメンタル弱いから、どうにかしないとな、マジで、」

「響君…………」

 ひどい顔を取り繕ってやけに饒舌になる俺のことを笑うでもなく、悪魔はそれを容易く許容してしまう。存分に甘やかそうとするその眼差しは、できすぎた誘惑だった。

「ありがとう。僕のために泣いてくれて」

 優しく抱きしめられて、それだけでもう、何もかもが報われた気になってしまっていけなかった。

 止め方もわからない感情の波が勝手に収まるまで、最愛の悪魔は飽きもせずに隣にいた。

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