第10話 助け

 馬鹿だなあ、とこれから起こることを想像させるようにゆっくりとミシェラの髪の毛を上に持ち上げていく。

 ぎりぎりと髪の毛が鳴る。


 とっさに髪の毛を掴んで守るが、もう一度グルタはミシェラの頬を打った。

 圧倒的な強者の顔で。


 ミシェラは身体が震えるのを感じた。暴力には慣れているつもりだが、これから起こることが怖い。


 誰も助けてくれないのはもう知っているので、声をあげる事もなくただ震えるしかできない。

 こわくなって目をつむると、今度は目を開けるのがこわくなった。


 耳元で、グルタの声がした。


「まだ夜も早い。時間はたくさんあるな、ミシェラ」


 ぞっとする声に心臓の音が早くなり、耳元で大きくなり響く。

 急に優し気にゆっくりと肩を撫でる手が気持ち悪い。


 その動きにこれから起こることが想像され、恐怖に身体がこわばる。


 もう駄目だ。


 そう絶望した瞬間、ドアが開く大きな音がした。何が起きたのかわからない。


 それでも怖くて目を開けられないミシェラは、次の瞬間投げ飛ばされていた。


 ガシャンとけたたましい音を立て、ミシェラは食器棚にぶつかる。ミシェラがぶつかった食器棚からは皿が落ち、次々と割れる音がした。


 痛みを覚えて手を見れば、割れた皿で手を切ってしまったようで、赤く染まっている。

 肩も強く打ってしまったようで、痛い。


 それでも、気持ち悪い手が離れたことにほっとする。


「おやじ……どうして……」


 グルタの驚いた声がしてそちらを見ると、今まで見た事ない恐ろしい顔で村長がミシェラの事を見ていた。


「昼間は魔術師団にすり寄り、今度は俺の息子か……!」

「え……」


 どうしてここに、と思ったが近づいてきた村長におなかを蹴られ、それどころではなくなった。


「グルタ! お前もだ! いくらこの女が誘惑してきたところでお前がのってどうする! 今日は魔術師団が来ている重要な日だという事がわからないのか!」

「でも、親父……。そうだ、ミシェラがどうしても俺の部屋に泊めてくれって言うから、俺は……」

「そうだとしても、今日は駄目だ! 偶然お前と一緒にミシェラが歩いているのを見かけて良かった。今まで機会はたくさんあっただろうに、なぜ今なのだ。こんな女はいつでも好きにすれば良かったじゃないか」

「あんな薄汚い小屋でそんな気になれるかよ……」


 ミシェラの気持ちを全く無視して二人は言い合いをしている。


 誰がそんな男を誘うというのか。

 ミシェラの頬の赤さは目に入らないのか。


 疑問は次々と浮かぶが、結局諦めのため息が出ただけだった。


 とりあえず、助かった。


 村長の話しぶりからして、今日はもう襲われることはないだろう。

 これから暴力を受けるかもしれないけれど、グルタにされることを思えばまだまだましだった。


 二人の言い合いが終われば来るであろう痛みに備え、ミシェラは身体を丸めてうずくまり、目をつむった。


 早く朝になればいいのに。


 何故かハウリーの温かな手を思い出し、涙がにじんでくる。


 いくら痛くても、明日になれば。大丈夫。

 もうすぐ生贄になるから。大丈夫。

 酷い事があっても、暴力はもう知っている痛みだから、大丈夫。


 いつものように丸まっていれば、現実からは離れられる。

 そう繰り返していると、場違いにパンと手を叩く音が響いた。


 暴力とは違う音に驚いていると、続いて間延びした声が届いた。


「はいはい。そこまでだ。手を離せ」


 知った声に恐る恐るそちらを見ると、静かな怒りを滲ませたハウリーが腕を組んで立っていた。


 声はのんびりしているのに、顔を見るとぞっとするほど冷たい。


「馬鹿には一回落ち着いてもらわなくてはいけないな」


 ハウリーが手を掲げると、魔法陣が展開された。

 ミシェラは知らない術式だったが、並んだシンボルは複雑でレベルが高い魔術だとすぐにわかった。


 村長とグルタにはには魔法陣は見えないらしく、ハウリーの手を不思議そうに見ている。


 次の瞬間、ごおおおと大きな音がして、グルタと村長の周り強風が吹き荒れふたりはごろごろと転がった。


 ハウリーのきれいな青と白の髪が名残できた風に揺れて、こんな時なのに一瞬目を奪われる。


 グルタと村長は何が起こったかわからないようで、言い合いも忘れ呆然とした顔でハウリーを見ている。


「スカイラ師団長、外まで派手な音が聞こえましたよ。あーやだやだ。乱暴な男って本当に意味がわかんない。どう考えたって自分の息子が連れ込んでるのに、女の子に当たってるおじさんも意味わかんない」


 やだやだと繰り返しながら、シュシュも後ろから現れた。


 驚いて声も出ないミシェラに、ハウリーは着ていたローブをミシェラに巻きつけた。


「もう大丈夫だ。危険な目に合わせてしまって、すまない」


 まだ状況がわからないミシェラを、ハウリーはぎゅっと抱きしめる。

 その柔らかな手触りと温かさに、やっと恐怖が薄れてきて身体の力が抜けた。


 ハウリーはそのままふわりとミシェラの事を抱き上げる。

 見た目はとてもきれいで細身なのに、軽々と抱えられたことに動揺する。


「ハウリー様……! あの、大丈夫ですので降ろしてください! 重いですよ!」

「重くないし、このままでいろ。どちらかと言えば軽すぎで心配になる。……助けに来るの、遅くなってごめんな」


 ハウリーはミシェラの事をぎゅうぎゅうと抱きしめ、ミシェラの頬に頬を寄せた。


 親密な態度と真摯な声で謝られ、ミシェラはどうしていいかわからなくなってしまう。

 ぺたりとくっついた頬が冷たい。


「あの、いつものことなので本当に大丈夫です」


 いつものこと、という単語にぴくりと眉をあげたけれど、それでもハウリーはミシェラの言葉の続きを待った。


「私、助けに来てくれる人がいるだなんて思ってもみなかったから、驚いてしまって……。でも、本当に嬉しいです。グルタに襲われるのは、生贄になるよりずっとずっと嫌だったから、凄く怖かったんです。ありがとうございます」


 たとえ今だけだとしても、本当にほっとした。


 ミシェラは村長とグルタに聞かれないように、ハウリーに近づき耳元でお礼を言った。ハウリーは目を見開くと、男二人からミシェラを隠すように抱きかかえた。


 グルタに触られたところが気持ち悪い。ハウリーに抱きかかえられているのは全然嫌じゃないのに。


「馬鹿だな。助けるに決まってる。……ミシェラが無事だったから今は許してるけど、こんな家、燃やしてもいいぐらいだ」

「ふふふ。なんですか、それ?」

「本心なんだけどな。気にしないでくれ」

「ミシェラちゃん……本当に良かったわ。怖かったわね」


 シュシュも、抱きかかえられるミシェラの頬にひんやりとした手で触れた。


「なんだ一体! いくら魔術師団とはいえ、突然外部の者が人の家に来てこんな風に魔術まで使うなんて、失礼じゃないか! その子供は俺のものだ。こちらに戻せ」


 グルタがはっとしてハウリーに言い寄る。

 ちらりとハウリーは冷たい目線を送ると、グルタを無視してそのままミシェラを抱えて外へ出た。

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