幽界探偵

シラヌイ3

第1話

――幽霊

例えば、子供の頃に誰かの口から紡がれた噂。

例えば、書物やインターネットに残された怪談。

そうして体験することはなくとも、一度は耳にする不確かな存在。

証拠も残らず、人の記憶からしか辿ることの出来ないそれは、いつしか空想のものとされていった。

空想と決めつけて尚、退屈を凌ぐために人はそれらを話の種にする。

人が死んだ後を誰も知り得ないというのに。

生者だけが世界に存在するという発言こそ妄信ではないだろうか。

測り知れるものだけがこの世のすべてではないのだから。

話が長くなってしまったね。私は加賀美という者だ。霊界専門の探偵をしている。

霊界とは何か?言葉のまま、現世と黄泉の狭間を指す。

君たちが空想や嘘と疑わない霊たちが現世としている境界線。

気にする事はない。全ては私の妄言。そうだろう?

今は知らずともいつか知り得るかもしれない世界。

もし、そこに迷い込んだ時は私を訪ねるといい。

――九条探偵所

君が望めばそこに姿を現すだろう。そこはどこにでもあって、どこにもない。

近いうち、また会うだろう。では、今度こそお別れだ。


そうして、男の意識は現実へと戻っていった。

高校生にもなって怪談話で盛り上がるなど幼稚だと思っていたが、噂は本当だった。

九条探偵所の加賀美。霊界専門の探偵。

いや、その話を記憶として処理していたにすぎないのだろう。考えすぎだ。

体を起こし、制服に着替え、一階へと降りる。

母が朝食の支度を済ませ、テーブルで仮眠を取っている。

「おつかれさま。ありがとう、母さん」

夜勤からそのまま朝食を作り、力尽きた母の背中に毛布をかけ、起こさないようにそっと箸を手に取る。


くだらない妄想に付き合っている暇はない。

俺は沢山勉強して、いい大学にいって、ちゃんとした仕事に就くんだ。

母さんにこれ以上苦労をかけないように、早く自立しなくてはいけない。

静かに「ごちそうさま」と手を合わせ、食器を水に浸し、荷物を鞄にまとめる。

7時2分。あらゆる動作を静かに意識して、男は学校へと向かう。

「いってきます」

自転車を跨ぎ、汗もそのままに懸命にこぎ続ける。

どうしようもない焦燥感。体の中に燻る不安が胸を痛くする。


いつからだろう、母の寝顔に胸が苦しくなったのは。

いつからだろう、母を失う恐怖が離れなくなったのは。

いつからだろう、母が涙を流しながら夜を過ごすのは。

もう頑張らないでいいんだ。もう無理しなくていいんだ。

次は俺が頑張るから。だから、一人にしないでくれ。苦しまないでくれ。

いつからだろう、素直に喜び、笑うことができなくなったのは。


「太陽君、もう時間だから上がっていいよ」

無心でアルバイトの荷物整理をしていると、時間だと知らされ意識が鮮明になる。

「はい、おつかれさまでした。お先に失礼しますね」

エプロンを外し、息苦しいネクタイを外し、鞄を荷台に乗せる。

――早く帰ろう。母さん明日は休みだから、先に家事やっとかないと

慣れた道のはずだ。もうついてもおかしくない時間だ。

なのに、ペダルを漕ぐ足がどうしようもなく重い。

視界が歪み、紫と青い線が途切れ途切れに映る。

幻覚なのか、疲れているのか。そんな考えても仕方のないことを考えながら足元だけを見つめながら漕ぎ続けていた。

肩を切っていた風は止み、小さく鳴いていたコオロギの声さえ聞こえない。

そこでようやく異変に気付き、視界を上に戻すと、そこはまったく知らない景色。

確かに知っているはずの景色。だというのにその配色はどれも異質である。

赤と紫の草。青い道路。黒い標識。

芸術作品の油絵を彷彿とさせるその世界に太陽は戦慄した。

目の前から黒い靄の掛かった髪の長い女性がゆっくりとこちらへ向かってくる。

顔は見えない。服も白いローブで身を包んでおり、幽霊のイメージ通りである。

しかし、太陽はそれを幽霊だとは思わなかった。

何故か、目の前でゾンビのようにゆっくりと足元を見つめ歩いている者の正体を知っている気がした。

「母……さん?」

「太陽……ごめんね……お母さん、もう疲れちゃった」

そう言ってあげた顔は目が空洞になり、大きく口を開けた不気味な姿の母。

今朝見た夢を思い出し、咄嗟に頭に浮かべる。

――九条探偵所!

すると、先ほどまでなかった風が柔らかく髪を撫で、梅の香りが鼻をかする。

「おや、決心がついたようだね」

全身を茶色に染めた如何にも探偵らしい服装の女性・加賀美は鼻で笑うとゆっくりと母に近づいていく。

「もういいのかい?祓えば姿は見えなくなり、声さえ届かなくなるよ」

「ああ……もういいんだ」

――休ませてあげないと

「そうか、ではお別れだ」

ポケットから短刀を取り出し、腹部を切り裂くように動かす。

体は上下に分かれたが、血は一向に出てこない。当然だ。

――母は既に死んでいるのだから

「太陽、ごめんね。一人にしてごめんね。ごめんね。愛してる。愛してる……」

少しずつ声は小さく、遠くなり。蚊の羽音より小さくなり、消えていった。

線香の匂いだけが残り、太陽の瞳から涙が声なく静かに零れる。

「疲れたろう、母さん。もう……大丈夫だから」

そうして、母は見えなくなった。

仏壇を作り、死を受け入れることにした。

未練がないと言えば嘘になる。だが、後悔はない。

愛してくれていた。その事実が俺の生きる理由になる。

老いて死んだとき、病に倒れた時に、よくやったと言ってもらえるように。

頑張ったねと笑ってもらえるように。

今を頑張って生きるのだ。



太陽という少年の呪いと母の未練がつないだ霊界の物語は幕を閉じた。

この世に魂が残る理由などいくらでもある。

怪異と成れ果てようと、想いさえあれば奇跡さえ可能とする

想いが人の魂とも言う。全てを呪い、殺める霊がいなくとも。

伝えきれなかった想いが、残された者の未練と念が繋がってしまえば、そこは霊界。

他者の介入できない時の止まった精神世界。

それも、所詮は一つの形に過ぎないがね。

私を見つけた時には、既に君は彷徨っていたのかも知れない。

噂を求め、縋りついていたのかもしれない。

ああ、君とはまた会う気がするよ。この世か、霊界か。はたまた別の世界か。

しつこいかもしれないがもう一度。


もし、そこに迷い込んだ時は私を訪ねるといい。

――九条探偵所

君が望めばそこに姿を現すだろう。そこはどこにでもあって、どこにもない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幽界探偵 シラヌイ3 @vivivi06

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ