コイ、ワズライ〜キミに恋した30日間の記録~

ヤスダトモキ

1日目

 その日、私は恋をした――かもしれない。


 本当にこれを恋と呼んでいいのかわからない。

というのも、私は恥ずかしながら生まれてこのかた16年、恋というものをしたことがない。

 一足早くアオハルに目覚めた友人たちが恋バナに花を咲かせている中、私はいかにも有識者といったツラをして、実効性のないアドバイスや、具体性のない共感をすることで生きながらえてきた。誰もその知識の浅さを追及はしてこなかった。

 そんな意識の低さなので、この気持ちが、いつも姉がリビングで垂れ流している甘ったるい海外ドラマが語っている愛と同じなのかと聞かれると、ぶっちゃけ自信はない。


 それでも、私はあの時、足りなかったピースがカチリと音を立ててハマるような、そんな感覚がしたのだ。


 まだほんのりと蒸し暑さの残る自室。

 微妙にほてりの残っている身体を、母がセールで買ってきた3枚2000円のシーツの上に投げ出す。

 蛍光灯が照らす虚空にくたびれた足を投げ出し、いつもより血がぐるぐると流れている頭で、ぼんやりと今日の一日を思い返す。


 私の恋は思ったより普通に、そして突然に始まった。

 初恋って、もっとドラマチックなものだと思ってた。


 相手は隣のクラスの男子。

 顔と名前はかろうじて一致するような、その程度の存在。

 他校の友達に名前を聞かれたら「あー、あいつね。知ってる知ってる」って返せるけど、それ以上は何も話題を提供できず気まずくなる――その程度の関係。


 だった。

 んだよ、昨日まで。


 きっかけは文化祭の実行委員だった。

 我が校の実行委員は各クラス二人ずつが選出される。

 上級生たちはもっと前から準備に取り掛かっているようだが、私のような一年坊は雑用係として文化祭の直前に労働力として招集される。

 その仕事内容は、クラスの出し物のために物品の貸し借りやらゴミ出しやらの連絡事項を伝えるパイプ役というだけではなく、来場者へのパンフレットの配布にゲート設営などの校内装飾、体育館ライブでの入場整理など、全体の運用にかかわる雑用にも駆り出される。

 便利屋――そう彼らは読んでいるが、それは体のいいプロパガンダで、その実態は現代を生きる奴隷階級だ。


 ただでさえ忙しい文化祭前。頻繁に会合に繰り出されるだけではなく、クラスや部活とも関係のない奉仕活動に駆り出されるこの役割は、各クラス、慎重に慎重を重ねて選ばれた生粋の暇人が選出される。

 もちろん、ただ暇というだけではなく、クラスの出し物で中心を担ってくれる人物を失うわけにもいかないので、クラス内カーストにおいて底辺までは行かずとも、適度にどうでもいい存在でなければならない。

 つまるところ、不名誉の見本市と言って差し支えない。


 私はクラス四十名の栄えある暇人戦争のツートップに躍り出た。

 人生において、何かで表彰されたというのは初めてのことかもしれない。

 初めて掴むトロフィーのない勝利はとても苦い味がした。


 ……いや、確かに部活は入ってないかもしれないけど。

 私だって、一応毎日アレしたりコレしたり結構忙しいはずなんだけどな。

 昨日はアレやってたし。一昨日はコレしてたし?

 ――そのアレとかコレとかの中身が全く出てこない私が全面的に悪い。


 そうして今日、実行委員会の会合初日を迎えた。

 初日から事件は発生した。

 大変許しがたいことに、もう一人の実行委員が大事なバレー部の用事があるからと全権を私に委任してきたのだ。

 アレとかコレの言い訳が思いつかない私に、彼を引き留めるだけの力は残されていない。

 今度ジュースを奢らせる約束だけは取り付けたが、どう考えても私の時間は100円じゃ釣り合わない。

 こうして、私はクラスのツートップから、オンリーワンとなった。

 褒めろよ。王者だぞ。


 かくして集められた名誉ある暇人連合は、実行委員の先輩方からありがたい話を聞く。断っておくが、先輩方は何か月も文化祭の準備をしてきているので暇人ではない。家畜を買う大地主のようなものだ。

 各クラスから委員が集められたという割に、席はまばらで、私の相方のような不届きものがしばしばいることが伺える。これが全員バレー部だとしたら、今度ぶっ潰そうと思う。

 物品リストの提出について、飲食店を対象とした衛生管理のチェックシート、当日の美化スタッフのシフト……ワードで作られたであろうプリントを生真面目そうな顔した先輩が淡々と読み上げていく。


 教師という一応人前で喋ることを専門とした職業と違って、プロフェッショナルではない一般生徒の中には、たまに日本を衰退させたいだけと思われる悪魔のように眠い教師と比べても、さらに比べ物にならないレベルの睡魔をバラまいてくるやつがいる。

 そして最悪なことに、いま目の前で話している先輩はまさに魔術師だった。


 私は私なりに、必死に眠気と戦った。

 気を紛らわせることで抗った。


 ……あの人、喋るとき微動だにしないな。ワンチャン、鳥が止まりそう。

 あっちの人は、すごい勢いで舟をこいでる……昔、運動会でやらされたソーラン節を思い出すなあ。

 プリントをよく見ると、担当した人が不慣れだったのだろうか。箇条書きの項目だけすごく浮き上がっていて、レイアウトがぐちゃぐちゃだ……一度こうなったらもうどうにもならないよね、わかる。


 そんなどうでもいいことを考えながら、なんとか意識の崖っぷちに手を伸ばす。

 うっかり聞きそびれて大惨事になると、クラス替えまでの半年間、トイレが友達になりかねない。

 ぶっちゃけ、本当に大事なことはプリントに書いてあるので、意識が飛んでも問題ないのだけど、所詮無力な一年坊、初回の会合で先輩に睨まれたらそれはそれで地獄の一か月間が始まる。

 なんといっても、私のいびきがうるさくない保証などないのだから。

 そうして、私はまるで死にぞこないの落ち武者のように、落ちそうになる首を何度も何度も持ち上げていた。


 そんな時、隣の席の男の子――キミと目が合った。


 目が合ったのは偶然だ。

 特に目を引いたというわけではない。

 なんといっても、全く知らない相手というわけでもないのだ。

 仮にも半年間同じ建物の隣の部屋に通っている。

 一目見れば、隣のクラスの人間であることぐらいはわかる。


 でも、それ以外のことを知っていたわけではない。

 特別イケメンというわけでも、目立つ活躍があるわけでもない。

 ましてや、大財閥の御曹司だとか、他校に名が轟いている不良だとかいうわけでもない。


 はじめて間近で彼を見た。

 勝手に見る分際で失礼だが、まじまじと眺めるほどの存在には見えなかった。

 背は平均よりちょっと高いぐらいで、手足が細長くひょろりとした印象を与える。

 でも、よく見ると肩幅はがっしりとあって、なよっちいって感じはしない。

 暗幕のように真っ黒な髪は、ざっくりと無頓着に短く切りそろえられており、クセが一切ないストレートは少し羨ましい。

 肌はちょっと浅黒くて、釣り目を覆う一重まぶたはやや分厚い。

 色素が薄くて主張の弱い唇が、彼の主張の薄い顔をより一層地味にしている気がする。


 ……うん、カッコ悪くはない。

 私の贔屓目を存分に入れたら結構カッコいいほうだと思うけど、多分理解はされない。

 本当に、どこにでもいる男の子だと思う。


 彼は先輩方の連絡事項を、熱心にポストイットに書き込んでいた。

 一言・二言のメモだけが書かれて、明らかにスペースに無駄があるそれをペタリ、ペタリと余白の多いプリントの端っこへと貼り付けていく。

 ヘビーユーザーのくせに美学が無いようで、貼り付けられた付箋紙たちは、まるで体育の授業の私たちのように、ジグザグにそして不揃いに整列している。


 まだ、この時点では好きになっていないと思う。

 でも、メモを取るのにポストイットを使っている。それだけの何ら罪のない行為に、私の目はくぎ付けになってしまった。


 意味のない行為。

 どうみても不効率。

 世界有数の紙の無駄。

 不器用さのシンフォニー。

 なんちゃって事務マスター。


 いろんな悪口が私の頭の中に浮かんでは消えていった。

 彼だってそんな理不尽に不名誉を浴びせられる謂れなどないはずなのに。

 さっさと見飽きればいいだけなのに、それができなかった。


 そんな私におかまいなく、彼は確立されたスタイルを崩さずメモを書き込んでいった。

 はたして、この人は真面目な人なのだろうか? それともただの変な人なのだろうか?

 どうして、長い人生から見れば取るに足らない会合に向かって、揺るぎなく真剣でいられるのだろうか?

 あくなき興味が次々と首をもたげる。

 会合の退屈さがそうさせたのかもしれない――そう思っていたし、多分最初はそうだったと思う。


 それだけじろじろと見ていれば気付かれるのは当たり前の話。

 ほどなくして彼は私の視線に気づいた。

 視線と視線がふいに交錯する。

 慌てて目を逸らそうとするも、突然の出来事に私の神経回路は、言うことを聞いてくれなかった。


 怪訝な顔でこちらを覗き込む彼。

 バツの悪い顔で苦笑する私。

 ゴミ出しのルールに関して記憶すべき三個の重要なポイントをBGMに、気まずい沈黙が流れた。

 ただでさえ居心地の悪い空間が、コンビニの室外機みたいな息苦しさに変わっていく。


 すると、彼は困惑した表情で「使う?」と目で訴えながら、ポストイットを差し出してきた。


 いやいらんて。

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。


 天然なのか、馬鹿なのか。

 はたまた私がものすごくポストイットが似合う顔をした女なのか――はさすがにないと信じたいけど。


 困惑していてもらちが明かない。

 ただでさえ気まずい状況なのに、余計に気まずくなっても面倒くさい。

 私がぱちぱちと瞬きをして肯定のサインを伝えると、彼は数枚、薄緑色の紙を剥がして、音を立てずに私に寄越した。

 その手は、私のそれよりも一回りか二回り――いや、多分一回り半ぐらい大きくて、弱そうな見た目にそぐわず、骨や血管が浮き出てゴツゴツとしていた。

 思ったよりも、その手は男の子だった。

 恐らく白紙のまま持ち帰り、ゴミ箱に直行するであろう哀れな可燃ごみを受け取った私は、両手の指先をちょんと合わせて感謝のポーズを示す。

 これでこの珍妙な時間は終わりを告げるはず――だった。


 彼はまるで善行をしたと言わんばかりに、ニカっと微笑んで得意気に親指を立てたのだ。


 ……そこそこ長めの導入から、どんなドラマチックなロマンスがあるのだろうかと思った皆さま。

 ご愁傷様でした。

 これでおしまい。

 本当にこれだけのことだ。

 それでも、私の鼓動はかつてない高まりを見せてしまったのだ。


 なんで……って聞かれても、困る。

 私だってくだらないと思う。

 こんなものが初恋だなんて今でも信じたくない。

 空き缶を投げたいなら投げればいいよ。私だって、投げたい。

 投げて、私という人間を砕いてしまいたい。


 彼のまあまあ平凡な顔を思い浮かべる。

 空気の読めない数々の所業を思い返す。

 それだけで私の胸はドキリと高鳴ってしまう。

 意志に反して高鳴る鼓動は、まるで他人の心臓を移植されたような心地を覚える。


 何がよかったかと言われるとわからない。

 こんなものを恋だと認めたくはないのに――ただ、隣にいた変な奴のことが気になってるだけだと、言い切ってしまいたいのに。

 私の中で目覚めた本能が全力でそれを邪魔してくる。


 おい姉よ。

 お前が山ほど見せてきた海外ドラマという英才教育は、どうやら消しカスほどの役にも立たないぞ。

 お前の妹は、誰が聞いても苦笑しそうな間抜けな恋に落っこちてしまったみたいだぞ。


 そう脳内で唱えて、そういえば姉は苦笑するというより爆笑するタイプであったことを思い出す。

 姉は昔からそういう人だ。

 私が高校の入学式に中学の制服を着て出席しようとしたときも、笑いを隠し切れないと言った顔で、黙って見送ろうとしていた。あの時は母が気付いてくれたので、なんとか事なきを得た。

 無性にむかついてきたので、隣の部屋で彼氏と通話してるであろう姉に、壁ごしにありったけの呪いを送る。

 こうすれば恐らく夜寝るとき、足の裏がかゆくなって眠れなくなることだろう。


 気を逸らすためだけの不毛な怒りは長続きしない。

 私は再びごろりと寝転がる。

 身体の熱は収まらない。


 彼に会いたい、話をしたい。

 聞いたこともないその声で、私の名前を呼んでほしい。

 横に並んで、背の比べ合いっこをしたい

 その頬に触れて、その体温を知りたい。

 この身体を捨てて、心の中に住まいたい――はさすがにキモいかなあ。


 いろんな願望が浮かんでは消えていく。

 心の歯車は止まらず、行き場を失った脈動が私の意識を鈍らせる。

 きっと、誰が何と言おうと、これは恋なのだ。

 少なくとも今は、そう信じている。私がそう思うのだから、たぶん、そうなのだ。

 だから、これがたとえいつか忘れらさられる物語だとしても、私は胸を張って言う。


 今日――私はキミに恋をした。


 文化祭まで、あと30日。

 これは、私の恋が始まり――そして、終わるまで闘いの記録だ。

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