3話

 イングリッシュ・デン――それが先輩たちの言っていた『デン』の正体だった。

 そこは英会話部の活動拠点で、横文字の通称があてられているにすぎないごく普通の教室らしい。校舎三階の東端にあることから、朝は明るいけれど夕方は暗いだろう。実際、一二時過ぎ現在の廊下は既に薄暗くて寒々しい。

 デンの扉は――というか慈み野高校のすべての扉は、教室の内側に開く丸ノブ付きの木製だ。明かり取りの窓ガラスは嵌め込まれていないので、一様に中の様子がわからない。

 だが今現在この扉の奥に、一年間弱恋い焦がれた『あの高城先輩』がいることだけは確かなのだ。

 そう思うと心臓が口から飛び出るのみならず、腰が抜けて立てなくなってしまったり、目から鮮血の涙が噴出してしまうかもしれない。……なんだか鉄分の多い話になってしまった。

 とにかくオレは、大袈裟と言われても仕方がないくらいひとつ身震いをしてから、意を決してデンの扉をノックした。

「はい」

 中から聞こえたのは柔らかくて優しそうな女声だった。つい嬉しくなってニンマリと口角が上がる。

 反して、返答を期待していたくせにいざ『誰か』に呼応されると過剰に全身が硬直してしまった。

「あっあああのっ! いいい1C瀬尾といいますがたた高城先輩っは、いらっしゃいますか!」

 盛大にから回ったことだけは確かだ。「カッコ悪ィー」と口パクで自分へツッコむ。

「はーい、待ってねぇ」

 使い込まれた色味をしている真鍮の丸ノブがくるりと回り、間もなくキイと室内の方向へ扉が開いた。きっと先輩がその手で扉を引いたに違いない、に!

「はいはーい、こんにちは。私が高城です」

 麗しい。なんて麗しいんだ高城先輩! ポスターやパンフレットで見た彼女よりもはるかに麗しいじゃないか。あまりにも麗しすぎてオレの目が潰れるかと思った。

 目線高のさほど変わらない身長。黒髪ロングのストレートヘア。着こなした制服はそのお身体によく馴染んでいて、スカートの丈も学年色の線が入った内履きも、同学年の女子たちと比べると格段に収まりがいい。

 ほんのりと丸顔で、しかし小さい。スラリとした首は白いし、胸部や腰にいたっては高校に入学したての同学年女子たちとは違う色香を纏って湾曲している……ように見える。

 そしてなんといっても、先輩はふんわぁりといい匂いがするんだ。甘く爽やかでお上品な薫り。オレは緊張のあまりその匂いをズズズと鼻腔いっぱいに吸い込んでしまった。

「あふぁ、あっ、あの。は、はは、初めましてっ。オレ、1Cの瀬尾っていいますっ」

 吸い過ぎからクラッとはしたものの、慌てて持ち直して事なきを得る。バカかオレは。こんなところで卒倒してどうする。

「瀬尾くんね。もしかして部活見学かな?」

 わあ、耳が最高。憧れの彼女に直接目の前で名字を呼ばれるなんて。喜びのあまりこの場で耳から溶けて無くなってしまいそうだ。

「あっじ実は、き、きょ、今日はその、高城先輩っに、おおお願いがあって。教室に直接お邪魔するよりも土曜のこの時間ならお会いできると聞きましてなのでありますから」

「ふふっ、緊張してるねぇ。大丈夫だよ、もう今日は他に部員たちいないから。ほら、一回深呼吸して落ち着いて」

 また吸って吐いてをしてしまったら、今度こそ先輩のいい薫りで気を失いかねない。耳をゴシゴシして顔をあっちへ向けて、廊下のなんてことのない寒々しい空気をスーハースーハーしてから向き直る。

「すんません。えっと、改めてなんスけど」

 んんっ、と咳払いを挟む。高城先輩の小さな顔を見つめる。

「オレ、実は高城先輩に一目惚れしてこの学校受験しました。学力は足りなかったけどスポーツ推薦で受かって、やっと先輩と同じ高校に通えることになったんス」

「……へ?」

「去年のオープンスクールのポスターに映ってた先輩に逢いたい一心で入学しましたっ。よかったら手始めに連絡先交換してください!」

 ブンッと音がなるほど空気を割いて頭を九〇度に下げる。突き出した右手で肯定の握手を求める。

 オレは昔から、こうと決めたら一直線に行動しないといられない。結果がどうなろうとも、ひとまず事を動かしてその状況変化を期待する。

 きっと、高城先輩は目をまん丸くして驚いているに違いない。断られるかもしれないなんて重々わかっている。だって今初めて顔を合わせたんだ、お互いのことだって何も知らない間柄だ。

 それでも、こうして堂々と彼女に向いて自分のことを印象付けておかなければ、物事ってのは転がっていかないのだ。

「えーっとぉ……」

 困っているな、そりゃそうだ。

 だが困ってくれ。むしろたくさん困れ、高城先輩。オレの存在でたくさん困ってくれ。そうしたらオレのことを、他の男子生徒たちよりも頭ひとつ分くらいは意識するだろう!

「これでいいかな」

「ん?」

 かけられた言葉がよくわからなくて、九〇度に下げた頭をそろそろと上げる。

 優しい笑顔の高城先輩。左手に持っているのはスマートフォン。向けられた画面はQRコード。その中にはメッセージアプリのとあるアカウント情報が組み込まれている。

「これ、私のアカウント。キミの望みは私との連絡先交換でしょ? 瀬尾くん」

 キュンと笑みが深まって、更に「ありがとう、よろしくね」だなんて小首を傾げて言われてしまった。

 ボガーン! オレの単純脳ミソ大爆発! 原因は先輩の笑顔の尊さです!

「えっ、い、いいんですかっ、連絡先交換!」

「うん。だってそれを知りたくて、わざわざ学校がお休みの土曜のこの時間に来てくれたんでしょう?」

「ま、そ、そうなんスけど」

 俺もこのあと部活だから休みとか関係ないっていうか、と続けようとした言葉は全部呑み込んでやった。

 慌ててスマートフォンを取り出して、先輩のQRコードを読み取らせていただく。がたがた震える手先のせいで読み取りに時間がかかってしまった。

 先輩のアカウント情報がオレのスマートフォンに舞い降りる。くぅー……感極まれり!

「スズランのアイコンのやつっスね?」

「うん。私の下の名前、鈴蘭だから」

「マジすか! むっちゃかわいいっス! 超イメージどおり!」

「ふふっ、そうかなぁ?」

 先輩のトーク画面へスタンプを送る。脱力したたぬきが「よろしくお願いします」とくるくる回る、なんともゆるいスタンプだ。即座に『瀬尾丈です』と文字も打ち込む。

「ジョーくん?」

「いえ、タケルです。背丈のタケでタケル。けどどっちでもいっスよ、中学の友達にもジョーって呼ぶやついましたから」

「ううん、タケルくんでしょ? じゃあタケルくんだよ」

 天使。掌を合わせてこのまま天に召される勢いで先輩が清い。

「あ、あざっす! じゃあオレも、すっ、す、鈴――」

「うん、いいよ。けど学校内では名字で呼んでね。今の三年生の中にはそういうの気にする人、多いから」

「わ、わかったっス」

「それ以外は鈴蘭でも鈴でもいいよ」

「は、はいっ、高城先輩っ!」

「ふふっ。はい、タケルくん」

 はぁ、幸せとはこのことだ。きっとオレはこの瞬間を味わうためにこの高校に入学したんだ。

「じゃあオレ、部活行きますっ」

「あ、そうなの? 何部?」

「バドっス。去年の地区大会で準優勝したのが認められて、スポーツ推薦貰えたんです」

「そっか、じゃあ兼部は無理そうだねぇ」

「あ、すんません……部活見学かと思わせちゃったっスよね」

「ううん大丈夫っ。また今度よかったら暇なときに覗きに来てね。体験もウェルカムなんだから」

「たった、体験っ、今度絶対行きますっ!」

 息巻いてそんな調子のいい返事をして、ひとまず高城鈴蘭先輩とのファーストコンタクトは無事終了した。

 スズランの花のように先輩の可憐な笑顔の裏に、あんなに大層な毒気があるだなんて。このときは想像すらしていなかったんだ。


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