物置部屋になった教室に電灯は灯っていない。

 あるのは、半開きになったカーテンが半減させてしまった、弱い太陽の光が微かに足元を照らしているのみだった。

 空間を照らす光の筋が、空中をただよう細かなホコリを照らし出し、その末に誰もいない木目の床をスポットライトのように照らし出していた。


 ――誰も照らさないスポットライト。


 そこに何かがあるわけでもなく、ただ床を照らし出す光。

 それを見た時、ぼくは一瞬動きを止めた。

 紙袋を置いて、頭にあるくま耳カチューシャに手をかけて、そして、そのまま何もせずにその手は降ろされた。

 ぼくはしばらく、ぼんやりとその「誰もいないスポットライト」をじっと眺めていた。

 すると、


「なにしてるの?」


 と言う女の子の声が突然聞こえた……気がした。

 でも、ここにはぼく以外に誰もいないんじゃ――。


「うわぁ!」

「嫌だなぁ。そんなゴキブリを見つけちゃった時みたいな声出されると」


 その声の主は、この薄暗い物置部屋の壁際、いろんな人の荷物と、積み上げられて地獄の針山みたいになった椅子と机のその隙間に、すっぽりとフィットするように、ちょこんと三角座りで読書していた。

 正直、全くと言っていいほど彼女の存在に気づけなかった。

 多分、彼女から話しかけられなかった場合、全く気づかずにスッと物置部屋を後にしていたかもしれない。いや、もしかしたらもう先にこの部屋に入って、そして、気づかずに出ていった人がいるのかもしれない。

 それぐらいに彼女の存在感はこの部屋に馴染んでいた。馴染み過ぎていた。


「……あ、三神さん」

「うん、お疲れ様」

 後ろに三つ編みをたたえた黒髪に、眼鏡をかけている彼女の名前は、三神みかみれん

 同じクラスのクラスメイトで、朝のホームルーム前や授業と授業の間にある休憩時間などによく本を読んでいるのを見かける。

 そして、彼女はどうやら図書委員らしく、昼休みや放課後には図書室にある貸し借りのカウンターに座って、これまた本を読んでいるのを見たことがある。

 彼女は読書が好きらしい。本の虫と言ってもいいぐらいに。

 ……ぼくが知っていることはそれぐらいである。

「三神さん、クラスの準備ってどれぐらい進んでるのか知ってる?」

「うん、知ってるよ。えーっとね、たしか、壁とか窓の装飾は終わったっぽいらしいから、あとは飲み物とかお菓子とかの準備と看板作り、あと椅子とか机を運んで装飾するとかかな……」

「へぇ……もうそこまで進んだんだ! 教えてくれてありがとう」

「いえいえ」

 そう言ってぼくはこの物置部屋を後にしようと出入口に体を向けた瞬間、


「あ、華厳原君ちょっと待って」

 三神さんに呼び止められた。


「ん、なに三神さん」

「華厳原君、ちょっとだけお話しない?」

「ぼくと?」

「うん」

「うーん……?」

 正直なところ、なぜ彼女がぼくと話たがっているのかを推測できていない。

 別に話すのが嫌なわけではないが、そのタイミングが今急に来たということに、ぼくは少し動揺していた。

 今、三神さんと話をせずに別れて、後々に後悔するかどうかを考えてみる。

 ……話してみて後悔するよりも、話さないで後悔する方がダメージが大きいのかもしれない気がする。確かにぼくは今そう思った。

 なので、とにかく話を聞いてみてから――そこからだ。


「いいよ、話そう。今からぼく一人がクラスの手伝いに行っても、大してやることなさそうだし」

「そう、良かった。……まずは、何でそんなに面白い格好しているのかを教えてもらってもいい?」

「あ」

 忘れていた。

 油断していたところに突然声をかけられたという衝撃で、ヘンテコな恰好をしているという事実を。

 そして、今思うと、こんなに変な属性もりもりの人いたら話しかけたくなるのも分かる。

 あぁ、なぜだろう……急に恥ずかしい気がして顔が熱くなるのを感じる。

「ごめん、これ取ってから話してもいい?」

「ふふふ。いいよ」


 くま耳とハナメガネと天使の羽をキャストオフし、一糸まとわぬ――ではなく純粋なメイド服の女装男子へと無事に戻った。

「かわいい」

「そう言われても嬉しくはないけど……一応ありがとう」

「それで……華厳原君は結局のところ、なんでそんな恰好をしてたの?」

「えーっとね、最初は今着ている劇用のメイド服を、でも更衣室はもう女子達が着替えてたから戻れない。だから仕方なくそのままの格好で学校の中を見学してたら、あれよあれよと話しかけられたり、色々くれたりして、そして、それをそのまま受け入れてたら、いつの間にかああなってた」

 ここで流石に「女子の着替えに毎回巻き込まれているんだけど……」とは言い出せないから誤魔化すことにした。

「へぇー! なんか大変だったね」

「うん、なんか変に悪目立ちしちゃったね」

「コホンッ……あの、今から言うことに深い意味はないんだけどさ」

 三神さんは急に居住まいを正し、少し声のボリュームを落とした声で話し出した。


「隣のクラスに佐竹さんっているでしょ、華厳原君と同じ演劇部の」

「うん」

「あのね……その子下着の色って何色か知ってるかなーって?」

「……」


 そんなことを聞かれるなんて一ミリも思ってなかったぼくの脳は、その意味を理解できないままにフリーズした。

 そんな様子を見かねてか三神さんは、

「いや、ごめんごめんごめん! 間違えた! 口滑っちゃって全然関係ないこと聞いちゃった! 忘れて! ごめん引き留めちゃって、もう行っていいよ」

 と何もなかったかのようなそぶりをした。どうやら彼女は、今すぐ忘れてほしいことを口走ってしまったらしい。

 でもぼくはその前に気になったことが一つあった。

「……それを質問するってことは、いつもぼくが出ていく前に女子達が着替え始めちゃうことを知っているってこと?」

「ぇ、え? ……い、いやなんでもないよ。ごめん」

「……そのことについて何か――いや、うん。なんでもない」

「……」

 ――沈黙。

 気まずい気まずい、ただの気まずい沈黙。

 互いに、何かを話そうとしていることが分かっているけど、次の言葉が出なかった。

 そんな中、最初に口を開いたのは三神さんだった。

「……羨ましい」

「え」

「わたしは貴方が羨ましくてたまらない。男でありながら女の子判定みたいになって、更衣室にいても何のクレームも出ない貴方が羨ましくて悔しい」

「……君は女の子なのだから、ぼくよりその場面に遭遇できるし、それに何の違和感もない。なんで、ぼくに羨ましいなんて思うの?」

「分からない」

「……分からない?」

「そう。――でも、わたしには着替えている女の子を直視することはできないし、興奮するとそれどころじゃないぐらいには大惨事になっちゃうから、だから無理なの」

「だから僕に聞くと」

「そう」

「……参ったなぁ」

 プライバシー、とかモラル、とかいう言葉が色々と頭を飛び交う。

「まず見たことあるかないかを教えてよ」

「見たことがあるのかないのかを問われると……正直ある」

「本当! じゃあ教えてよ」

「でも、今ここで他人に言って良いかどうかは分からない、と思ってる」

「えー! ……でも、あれでしょ? 華厳原君だって男の子なんだから、女の子が着替えてるとこ見られて嬉しいんでしょ? 興奮してるんでしょ? その気持ちをお裾分けしてよ! ちょっとぐらいいいでしょ」

「嬉しくないし興奮もしてない。……残念ながらね」

 これについて、決して性欲がないというわけではない。

 ただ、女の子が着替えているのを見て興奮しないし、女の子が裸で立っていたとしても興奮しないだろう。

 ……これが、姉が二人妹が一人いる環境で育ったからかと問われると、はっきり違うと言い切れないのも事実だろうが、とにかく、恋も下心も抱いたことがないことだけは、はっきりしていた。

「ふーん……なんかさ、わたしと華厳原君、これ言ったら失礼かもしれないんだけど、なんかさ、似てるかもしれないって思っちゃった」

「ぼくたちが似てる?」

「うん。もう察しているかもしれないけど、わたしさ、女の子だけど女の子が好きなの」

「いやいや、待って待って。ぼくは別に女の子に恋したことはないけれど、男の子が好きだと思ったこともないんだ」

「じゃあまだ自分自身でも自分がよく分からないってこと?」

「まぁー……そういうことにー、なるのかな?」

「いいじゃん。なんかそういうのいいよね」

「そういうのって?」

「なんか普通になりきれない感じっていうかさ」

「……あんまりよく分かんないや」

「なんか楽しい気分にならない? 似た境遇の人と話すのって」

「それは同意するね」

「でしょ? だからさ」

 三神さんは一拍置いて、視線を一秒ぐらいずらして伏せ、もう一度こっちを見て、

「また今度話聞かせてよ」

「わかった、いいよ。……こっちも聞きたいことがあったら聞いてもいい?」

「もちろん」

 その会話を皮切りに、ぼくは物置部屋を後にし、三神さんは本の中の世界へと別れていったのだった。



「あ、ちょっと待って」

「ん、なに?」

「結局、佐竹さんの下着の色教えてくれないの?」

「三神さん……」

 ぼくは何も言わず、呆れた顔で教室の扉を閉めた。

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