青い森のおとぎばなし
おぐりまと
第1章 第2東北「アンバー」エリア
第1話 地下へ落ちる
青い森のおとぎ話
今は昔、東の国のおとぎ話である。
週末、地下行きエレベーターのホームには人が溢れていた。
「風引かないようにね。地下はもうすぐ冬がくるらしいから、お腹出して寝ないようにね。向こうに着いたらすぐに冬服買いに行ってね。お金足りなかったら電話して、すぐ振り込むから。あと、変なもの食べるんじゃないよ、変な病気とかあるってテレビでやってたから、安全な物を選んで買うんだよ、それからあんたはうっかりしたところが本当にあるから、すぐに人に騙されるんじゃないよ、それから、朝はちゃんと起きてご飯食べて、それから......それから......」
あと数分でエレベーターは発車する。しかし、見送りに来たシュウジの母の言葉は終わりそうになかった。扉が開くのを待つ人の列の目など気にせず矢継ぎ早に話していた。
「お母さん、僕はもう子供じゃないんだから大丈夫だよ」
「なに馬鹿なこと言ってるんだい、あんたはまだまだ子供でしょう。背は母さんよりも大きくなったけど中身の方はまだまだ子供じゃない。世間のことなんか全然しらないんだから。この前だってそう、親戚のおじさんに不躾なことを言って揉め事になって。あんたはすぐそうやって反抗するんだから......それからあんたはいつもそうやって......」
「わかった、わかったから。人前で恥ずかしいから、大丈夫、大丈夫だから。」
シュウジの目線の正面には母の頭がある。その髪の中に白髪があることに気づいた。そしてよくよく見てみると、化粧をした母親の顔には、子供の時に見た時よりも皺が増えていた。こんなに近くで面と向かって話しをするのはいつ以来かわからなかったが、自分の母親が歳をとるという当たり前のことに、今になってやっと気がついた。
「それじゃ、お母さんも体に気をつけて」
ピリリリリ、と甲高い発車のベルが鳴りゲートが開いた。列の順に、誰も彼もスーツケースを引きずりのろのろと乗り込んでいく。地下行きの巨大な箱は白色で清潔感があったが、デザイン性に欠けて、まるで都心の研究所のようだった。いまからこの箱に乗り込んで地下に落ちて行くのだとシュウジは思った。肺に血でも溜まってしまったかのように胸が重く、自然と俯き加減で足を進めていく。後ろを振り返ると、目に涙を一杯に溜めた彼の母親がじっと見つめていた。入場券を握り締めた手が白くなっている。さっきまであれだけ小言を言っていたのに今は何も言わずじっと立っていた。
ああ、今さらこんな時になって,,,,,
シュウジは何か母親を安心させる何か気の利いた言葉を発しようとしたが、口が石にでもなってしまったかのように微塵も動かない。口角は重く、両腕の先に重石でも縛り付けられたかのように上げることができなかった。しかし彼は最後に言葉を発したかった。
彼の後ろにもエレベーターに乗る人の列が続いていた。こうなっては仕方ないので、シュウジはだらしなく首を二、三度上下した後、そのまま前を向き、のろのろとエレベーターへ乗り込んでいった。後ろから彼の母親の声はなかった。
こらえきれずシュウジはぽろぽろと涙を流し、また母は唇を真一文字に結んで静かにつらつらと涙を流していた。
「貧乏でごめんね......」
エレベーターに乗り込んでもシュウジはドアの付近に下を向いて立っていた。すれ違う人がひどく迷惑そうな目を向けた。舌打ちをする人もいた。それでもシュウジはドアの内側で黙って立つことしかできず、人にとって邪魔で、田舎物で、世の中に掃いて捨てるほどの、でくの坊のひとりだった。
ピリリリリと甲高いベルの音と共にエレベーターが沈んでいく。彼の母親は両手で苦しそうに胸を抑えながら、それでも声を出さずに涙を流しながら凜と強く立っていた。口は開かない。
シュウジはそれをかすかに横目で見ていた。
ピリリリリと甲高いベルの音と共にエレベーターがさらに沈んでいく。
そのとたん、彼の母親はひまわりのような笑顔を見せた。そう、それは朝食の時の笑顔と同じ様に。まるで明日も会えるかの様に当たり前に、両の眼の端から涙をつらつらと流しながら、気丈に笑っていた。
「お母さん...お母さん......」
シュウジは一秒にも満たない時間、笑顔の母を視界の端で強く捉えた。動くことができず立ちすくしていると、沈む地下行きのエレベーターは、真っ白な壁の連続を写して上へ上へと地上に流れていった。母を見送ってどれくらい時間が経過したのかわからなかった。そうして、ついには立っているのが疲れてしまい、ドアの内側の端にしゃがみこんで膝を抱えて俯いた。彼に声をかける人は誰もいない。
シュウジは、大人になんてなりたくなかった。しかし、彼と地上の母の間にはもう、遠く戻れない距離がある。
シュウジはひとりぼっちになった。
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