第4話

 汗ばんできた手の内で、護り刀の重みが肌に吸いつく。まだ夢を見ているのだろうか。

 義家は顔をあげた。外で小石が転がるような軽い音がした。はじめは風が吹いているのかと思ったが、よく耳を澄ますと、人が囁いているように聞こえてくる。それは足音にも似て、ひたひたと義家の寝所まで近づいてきた。

 誰だと思った瞬間、松明のような火焔が幾つも浮きあがり、義家をぐるりと取り囲んだ。焔は上下に長くなり、天井と床に広がる。瞬く間に一面は火の海と化した。

 義家は肉の削れた面に驚愕を浮かべたが、すぐに念仏を唱えた。忽ち火はよろけ、浪のように大きくうねり、義家の目前に群がると、ひとつの塊となった。

 義家はうっと呻いた。それは鬼となった。

 鬼形の輩は、地獄絵に描かれている姿その者だった。二本の角が頭から生えていて、ざんばら髪に、頬は強張っている。眉は吊りあがり、眼は浮き出て、鼻は大きく、口は耳まで張り裂けている。頭が天井板までとどく巨漢で、布切れを腰に巻いている。腰も足も幹のように太く、病床の義家を踏み潰すなど造作もない。まことに怖ろしい風貌をしていた。

 義家は霊剣を握る手に力を込めた。だが指は空振りをした。手のひらにあった護り刀は、跡形もなく消え失せていた。


「八幡太郎義家、多くの罪無き者を殺したとがにより、地獄へ連れてゆく」


 異形の鬼はぐわっと口をいて、獣のような牙を鳴らすと、腕を振りあげ義家の肩を掴み、まるで子犬を扱うように臥所から曳き摺り出した。義家は床に振り落とされ、胸を押さえながら、咳を吐く。

 鬼か。

 乱れた息を繰り返し、義家は座り込んだまま頭だけをあげた。鬼が義家を見下ろしていた。


「……お前が、儂を連れてゆくと」

「そうだ」


 鬼が頷いた。


「多くの罪無き者を殺した咎は重い」

「……何と」


 義家は鬼の言葉に、深い皺が刻まれた目尻を吊りあげた。


「儂を咎人と申すのか」


 豪胆にも、鬼を睨みあげる。


「確かに儂は病に冒されている。お前に言われるまでもなく、ほどなく死ぬだろう。だが、その名を辱めるようなことを行った覚えなどない」


 声色は痩せているが、張りがあった。

 だが鬼は、義家を吹き飛ばさんかぎりに嗤った。


「何を言うのか! 人を殺め、この世を血でけがした奴めが! お前の背後には屍が累々と横たわっておるわ! 見るがいい!」


 鬼は義家の背後を指した。義家はその指の先を這うように躰をよじって振り返り、青ざめる。そこは広大無辺の暗闇となっていた。道無き道には大勢の屍が打ち捨てられている。どれも血を流し、無残な姿だ。ある者は頸がなく、またある者は腕がなく、足はなく、耳はなく、目はなく。鎧を着込んだ武将に腹巻姿の雑兵たちが、死に際の恐怖を浮かべて重なりあっている。彼らは恨めしげに義家を見つめていた。

 手前には、大楯に四肢を投げ出している男がいた。梔子くちなし色の衣を身につけ、全身が血に染まっている。男は鬼にも負けない悪鬼の形相で、義家を睨みつけていた。

 義家は拳を硬く握って胸に押し当てる。あの男だ。安倍一族の軍勢を率いた猛将で、父と自分を睨みながら死んでいった男だ。


「わかったか! お前は悔いる心もない! 悪趣あくしゅへ落ちるのは当然のことだ!」


 鬼は大きなまなこを動かして言い放った。

 義家は鈍々のろのろと立ちあがった。鬼の腰辺りまでしか身の丈はない。だが正面から鬼に向いた。


「儂は堂々と戦った。蝦夷の兵どもは強く雄雄しかったが、我らが戦い打ち負かしたのだ。何を恥じる必要があるのか」

「まことにそう思うのか」

「無論。儂は己の名を辱めた覚えなどない」

「だが大勢の者たちを殺したのは罪深い。お前を地獄へ連れてゆかねばならない」


 鬼は少しの哀れみも見せなかった。


「そのように神々がお決めになった」


 義家は源家の氏神である八幡神を思った。岩清水八幡宮で元服し、その名も八幡太郎と号した義家には最も尊崇する武の神だった。

 はっきりとした畏れが、じわじわと足元から這い上がってきた。


「神々は、お前がかの地を変えたことに腹を立てていらっしゃる」


 鬼は平然と言った。


「ゆえに、神々はお前を地獄へおとすのだ」


 その声は、矢庭やにわに異なって聞こえた。

 鬼は口を開くと、火焔を吐き出した。人の頭程度の赤い火の玉で、義家の鼻の先で、揺ら揺ら、揺ら揺らと、まるで生き物のように漂う。老武者の衰えた顔立ちが、かすかに浮きあがる。

 義家は漠然とそれを眺めた。松明。篝火。火矢。赤く彩られた戦場の情景が、目前に甦ってくる。


「お前はかの地に深く関わってしまった」


 禍々しく浮かぶ鬼火。自分は以前にも目にしただろうか。


「地獄へ連れてゆく今一つの咎は、その地へ参ったことだ」


 ふいに義家の心が騒いだ。いつぞや似たような言葉を耳にした覚えがある。どこかで聞いた。誰かが自分へ言った。

 義家は頭のてっぺんから足の爪先まで、鬼を何度も何度も眺めた。そのようなはずがないと念じながらも、寝間着を汚した墨のように染みついている。この異様な鬼を知っているわけがないというのに。


「このような浅ましい姿に覚えがあるか」


 しゃがれた声が言った。


「お前たちが我らを斯様かような異形に仕立てたのだ」


 義家は仰け反った。誰かが後ろで束ねた髪を掴んで引っ張った。


「……それは、神々もとめようがない」


 鬼の言葉はくぐもってよく聞こえなかった。だが枯れ木のようにしゃがれた声だけは耳に残った。

 義家は我知らず後ずさった。胸が苦しい。物の怪が暴れている。己を殺して、外へ出ようとしている。護り刀を手放してしまったせいだ。あれほどきつく言われていたのに。護り刀がこの手にあれば、自分で退治して……

 義家はよろめいた。前屈みに倒れ込み、咳を吐く。床に手と膝をついて、背を丸め、何度も吐き出す。物の怪が腹の底から足早に駆けあがってくる。臓腑を喰い破り、喉を蹴って、舌を引き千切り、口を裂いて飛び出るつもりなのだ。

 ふと、御簾越しに格子が上がっているのが見えた。その向こうには広大な中庭がある。池のそばの植木に目が留まった。弓形に反った痩木。枝葉に隠れるようにして可憐な白い花が数えきれないほど咲いている。小さな蕾も見える。それが花開いた。

 頭上で、雷が鳴った。


「出立時刻となった! 八幡太郎義家、お前を連れてゆくぞ! 無間地獄へな!」


 げえっという唸りと共に、義家の口から何かが落ちた。

 火焔だった。

 義家は悲鳴をあげた。鬼が肩を掴み、荒々しく義家をひきずってゆく。


「……様! お許し下され!……」


 鬼が誰かの名を叫んでいる。

 義家は総毛だった。


 ――儂はこの鬼を知っている。知っているぞ!


 そこで、目が覚めた。

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