第3話

 夢か。

 畳を床にして眠っていた義家は、かすかに瞼を開けた。室内は薄暗く翳っていた。日が暮れようとしているらしい。朝餉あさげの粥をしょくしたまでは頭に残っている。どうやらずっと寝入っていたようだ.

 義家は傍らの几帳を見上げた。部屋中に薬湯の匂いが染みている。それが鼻から這入り込み頭の靄を追い払うと、徐々にはっきりとしてきた。

 途端に咳が出た。胸が潰れそうなほど激しく咳き込み、義家は蛇のように身を逸らす。胸の奥に何かが巣食い、自分の口から這い出ようとしている。おぞましく哀れなもの。それは病という名の物の怪だ。

 ほどなく、自分はこの物の怪に敗れ去る――

 口辺こうへんを抑える手が震えた。まるで枯れ枝のような指だと感じだ。老いまでもが己を殺そうとする。それに抗する手立てはない。出家しても、自分が黄泉路へ旅立つ日をひたすら待つだけだ。

 義家は苦しげに息を吸っては吐いた。涙がこぼれた。これが八幡太郎は恐ろしやと今様にまで詠われ、天下第一武勇之士と称えられた者の成れ果てだとは情けない限りだった。

 次第に咳がやんで、義家は大儀そうに上身を起こした。小さく息をついて、後ろを振り返り、枕元にある文箱へ目をやる。文箱は古めかしく、長い間使われていた痕跡があちらこちらに見られた。それに手を伸ばしかけて、引っ込めた。文箱の中に仕舞った書状は、何遍も読んだ。今更手に取る必要もない。

 しかしもう一度書状を広げて、嘘ではないのか幻ではないのかと確かめたい気持ちもあった。悪あがきだとは感じている。けれど心がざわめいて、気にかかっている。義家は骨と皮だけになった腕を動かし、文箱を開けて、書状を取り出した。昨日早馬がもたらした知らせ。

 義家はため息をついた。やはり、読んだ通りのまま白い巻紙に記されてあった。遠い常陸の国で、息子の一人が叛乱を起こしたと。

 見慣れてしまった文字を目で追いながら、義家は顔が青ざめてゆくのを感じた。お前もか。お前もか。馬鹿者めが。

 義家は書状を文箱に投げ捨てた。胸が苦しい。我が身に巣食う物の怪が、源家へも取り憑いている。我が家をむしばんでいる。息子たちを愚かな所業に追い立てている。このような時、父上ならばどうされただろう。病を押してでも、息子たちの手打ちに向かっただろうか。

 父頼義よりよしの射るような視線が、己へそそがれているような思いに囚われた。いつも厳しく結ばれていた口唇こうしんがのっそりと開いて、太郎と呼んでいる。この有様は何だと。義家は身を硬くした。偉大だった父。北の地での長い長い戦も、父の猛々しかった魂を奪い取ることはできなかった。

 今は亡き頼義の生前が、浮かんでは消えまた浮かんだ。

 何故、思い出すのだろう。義家は額を手のひらで触り、鼻で息を吸い込んだ。薬湯の苦い匂いが巡る。

 ああ、そうか。義家は頷いた。夢だ。夢を見たのだ。

 白い雪が一面を変えていた。くぐもった天上から次々と落ちてきて、戦を困難にさせた奥州での戦い。自分はまだ若かった。その地を支配していた安倍一族は勇猛で、巨木のような大男が、自分と父を追い詰めようとする。だが、勝ったのは我々だった。

 次に壮年の己が出てきた。再び奥州の地を踏んでいる。滅んだ安倍氏に代わって、別の一族が支配していた。その家中で内紛が起こり、安部一族の血を引く男に家督を継がせた。己が武名はいよいよ高まる。しかし都の貴族たちは冷ややかだった。自分への警戒。様々な謀り事。やがて、嫡男が四国で謀反を起こす……

 義家はこめかみを押さえた。朝廷は嫡男を配流にする命を下したらしいが、全く果たされていない。自慢の息子だったが、何が不満で叛乱の狼煙のろしをあげたのか。歳を追うごとに父に似ていった息子は、時折自分を上目遣いに見上げる眼差しが父にそっくりだった。父は不満がある時に、よくそういう目をした。息子は朝廷のどのような命にも粛々と従う源家の棟梁に、歯がゆさでも感じたのか。一人は西国で、また一人は東国で朝廷に反旗した。


 ――父と共に築いた源家のさかえが、朽ちてゆく。


 義家はしばらく動かなかった。いつもは目覚めるだけで飛んでくる家人たちも現れない。

 静かに目を瞑った。少々動いただけで躰が疲れた。本当に自分は老いて、死ぬ身なのだと強く感じた。横になろうと足を滑らせて、何かが肌を擦った。

 義家は懐に手を入れた。すると、短刀が出てきた。


「……これか」


 義家は破願した。護り刀だった。

 これには由来があった。頼義がある夜、夢の中で岩清水八幡宮に参詣し、社壇で霊剣を賜った。目が覚めて枕元を見ると夢で見た霊剣があり、その日、奥方の懐妊が判ったのである。真偽は定かではないが、霊剣は源家の家宝となり、この時に産まれた義家が父から授かった。以来、義家は護り刀として大切にし、どのような時も我が身から離さなかった。

 義家は短刀を撫でた。これも老いた。主人と共に歳を取った。あとは自分の最期を見届けるだけだ。

 ふと、戦で死んだ男を思い出した。幼少時から自分に仕え、常に側にいた家人だ。この護り刀を大切にするよう、くどいくらい説教された。奥州での合戦で男は討ち死にし、自分は護り刀を抱きながら、声をあげて泣いた。

 義家は小さく笑った。あと少しで再会するだろう。恐らく厳めしい顔をして出迎えてくれるに違いない。頭を剃った姿に大笑いするだろうか。

 懐に仕舞おうとして、腕がとまった。

 いつにもまして、薬湯をぜんじた匂いが濃厚で息苦しい。まるで桶一杯に薬湯を入れて、残らず室内にまき散らしたかのようだ。重くなる頭を堪えて、痩せ衰えた指が掴む護り刀を改めて凝視する。


 此処ここに在るはずがない。


 唐突に思い出して、狼狽した。霊剣は病癒祈願のため、出家した時に八幡宮へ奉納したはずだった。己の懐に在るべきではない。

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