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こへへい
短話
『天寿を全うする者、天からの救いあり』
数日前に風の噂ならぬ波の噂で、父さんが天に上ったと聞いた。青暗いこの海の底から、天より出でし救いの手に引っ張られたのだとか。そもそも天寿を全うするってなんだよ、と思っているのだけれど、それは天寿を全うした者にしか分からないし、分かった頃には天に上っているため、インタビューすることは叶わない。
上記の説が正しいと仮定するならば、父に会うためには天寿を全うしなければならない。会いたい。急に居なくなるなんて寂しいじゃないか。書き置きくらいしてくれれば、こんなそわそわせずに、今頃友達と泳ぎっこして遊んでいたのだが。ま、蟹である僕は泳げないので横走りするのだが。しかしいつまでも横走りしていては前に進むことはできない。
「と言ってもなぁ、ズワイ君の父さんってまだまだバリバリのズワイガニだろ? まだまだ天寿を全うするとかいう年齢じゃないと思うんだが」
と、僕の悩みを聞いてくれているのは、イシヒラメのイッシー。常に下から目線でモノを語る彼は、物事を俯瞰することが得意なため、こういう主観にまみれている悩みを相談する相手にはうってつけの頼れる友人だ。
そのイッシーが砂から顔を少しだけ出して、蟹のハサミ顔負けの鋭い指摘をした。黒い斑点の柄を持つイッシーは、砂の擬態が精巧でたまに踏んずけてしまうのだが、相談を持ち掛けておいて誤って踏んでしまう無礼はしたくなかったので、ちょぼっと出ている顔に向いて(すなわち対面する形で)、今現在相談に乗ってもらっているという状態だ。
「天寿の定義が曖昧な以上、年齢の程度によって天寿を全うするとは限らないわよ、もしかしたらただ事故に遭ってここに戻って来られないのかも」
前提条件への疑問を呈したのは、上から大きな影を作っていたスズキさん。スズキのスズキさんだ。彼女はこの海について色んな知識を持っており、困った時に色々と教えてくれるお姉さんである。聡明で賢著な彼女ではあるのだが、何故か彼女は色んなところで安く見られているのだ。魚影が大きい割に安いんだよ、と。意味不明だが、彼女にその話題を持ち掛けると激怒するので禁句だなも、いやなのである。
「事故か、確かに父さんを最後に見た場所は深めな海の場所ではあったけれど、でも昔海溝に落ちかけた僕に、甲羅を真っ赤にしそうなくらい怒ったことがあったんだよ。そんな父さんが事故とかに遭うとは、思えないんだ」
正直そうだと信じたいだけだった。捕まる場所や隠れる場所がなければ、ズワイガニは簡単に煽られてどこまでも波に流される。そんなことは、生涯を自分以上に全うしている父さんの方が分かっているはずだと。しかし、事故というのはどんなに警戒していようとも、その警戒網の隙間を縫って突き刺さるものだ。
そんな、確認のしようがない可能性に蟹ミソをフル回転させていると、色鮮やかな触手がにゅるり、と視界に入ってきた。
「なんだか面白そうな話をしているねぇ、俺も混ぜてよ」
ヒョロヒョロと、岩から触手が伸びたのかと思った。だがしかしそれは岩ではなく、その身そのもの。擬態させれば百面相。黄土色の素肌に水色の斑点を柄とするそのタコは、フグと同質の毒を体表に纏う、ヒョウモンダコだった。妖しく近づいて話に入ろうとしていた。
「来るな!」
僕は思わずハサミを向けた。彼の毒は、甲羅で覆っている僕のような甲殻類と違って、魚であるイッシーやスズキさんは直接触れただけでも致命傷になってしまう。僕の警戒を見てか、ヒョウモンダコは接近を止めた。
「おうおう怖い怖い、ああ、そうか」ヒョウモンダコは海底の砂に潜るイッシーの体を見て「イシビラメ君も擬態しているんだったね、いやー分からなかったよ凄い擬態だ」と苦笑いしていた。彼だったなら、イッシーの擬態を分かっていてその毒を触れさせようとしていたとしても疑う余地は持てない。
「そうか? 擬態する者同士だとお互い擬態してるなーって思えるもんだがな、お前の目が粘液で濁っているだけだろ」
「そう喧嘩腰になるなって、俺はあんたに有益な情報を出してあげようとしているってのに」
イッシーが悪態をつくも、それをぬるりと回避するヒョウモンダコ。......しかし、有益な情報だと? 彼は皆を騙してその毒で色んな生き物を苦しめたという悪い噂が絶えないタコだ。信じていいかは分からない。
「情報が不足しているし、まぁ、聞くだけ聞いてやらんでもないが」とイッシー。「そうね、ないよりはましだし言ってみな」とスズキさん。確かに情報が少ないならば、こんな奴の言い分でも一応確認くらいはしてもいいのだろう。僕も皆に賛同した。
おほん、と1つ間を置いてから、たなびく触手の一本をある方向へと向けて、ヒョウモンダコは言った。その目は粘液が纏っているのか、粘っこい笑みだった。
「ここからしばらく、2、3海里向こう側にあるサンゴ礁地帯があるだろう? そこでズワイ君のお父さんを見たと、波の噂で聞いたんだ。もしかしたら、脚の一本でも落ちているんじゃないのかな」
* * *
と、言うことで訪れたサンゴ礁地帯。赤や青や黄に緑と、鮮やかなサンゴが地面に覆われている。その隙間からちらほら見えるのは、サンゴ礁を隠れ家にしている小魚たちだった。泳げるイッシーとスズキさんと違って僕は歩かなければならないため、少し時間がかかってしまった。見る限り平和そのものにも見える場所なのだが、本当に父さんがここにいたのだろうか。
「そんなの、ここを住まいにする魚たちに聞けばいいだろ――――ようあんた」と、イッシーが声をかけたのは、群れを作って遊泳しているスズメダイの一匹だ。
「あらま? ヒラメさんがこんなところにいらっしゃるとは珍しい。何かありましたかな?」
「ここで、ズワイガニを見かけたって聞いたんだけれど、覚えはないか?」
「はて、見たような、見なかったような」
「見た見た、あれだろ、とげとげした甲羅のやつ」
「いやそれはケガニじゃね?」
「そんなことよりはないちもんめしようぜ!」
「今何の話してんの? 今日の晩御飯?」
「うっせぇな! 順番に話せ!」
一匹の丁寧なスズメダイに続き、群れで好き勝手に話すスズメダイ達に、僕は思わずハサミを上げてしまった。その行動にびっくりし、スズメダイの群れの隊列が歪む。
「ちょっと! 刺激しないの!」
「す、すみません」と、スズキさんのお叱りを受けてしゅんとハサミを下した。
動揺を落ち着かせてから、スズメダイ達が慎重に近づいてきて続々と言った。
「我々は頭が小さい故、見覚えと申しましてもわかりません。天敵がいるかどうかとか、そういうのを記憶するのが精いっぱいでして」
「そうそう、この前もでっけぇ魚いたしな」
「何てったっけな?」
「あれだろ、シロナガスなんとかっての」
「それは鯨だろ、あれ魚じゃないらしいぜ」
「じゃなくてほら、
「「「オオカミウオ!?」」」
オオカミウオ。その名を聞いて僕達は戦慄した。それはとても大きい魚で、口は大きく、貝殻やカニの甲羅を容易く砕く顎を持つ怪魚である。それにかみ砕かれてしまったとしたら、確かに戻って来れないのもうなずける。
「あー、そんな名前だっけ? 知らんけど」
「たまに天の遣いも来るからなぁここは」
「天の遣いってなんだよ、お遣いならもう行っただろうが」
「す、すみませんが我々が話せるのはこれくらいです。ご武運を祈っています」
騒がしく話してくれたスズメダイの中をかき分けて、丁寧なスズメダイがそう言った。
そしてオオカミウオを見たのはあっちですよ、と、丁寧なスズメダイは自分の体を使って、ズワイガニを見かけた方角を指し示す。1海里ほどもなく、少し泳いだ先に、サンゴもいない岩場が見えた。
ありがとう。と言って、僕達はその場所に移動した。しかし数日が経過しているためか、しばらく捜索しても脚一本も痕跡がない。僕はヒョウモンダコの言葉に疑いを覚えた。
「嘘だったんじゃないか?」
「ズワイガニかどうかは分からないけれど、スズメダイ曰くケガニサイズの蟹を見たっぽいし、もしかしたらそれがズワイ君のお父さんって可能性はゼロじゃないわ」
「それに天からの遣いが来るかもしれないっても言ってたし、『ズワイ君のお父さんが天に上った』って噂も考慮すると、ヒョウモンダコの言葉は少しだけ信用できるかもしれないしな」
確かに、ヒョウモンダコが嘘を吐いているならば、スズメダイの言っていた言葉と食い違いが生じてもいいのに、それがどうにもなさそうだった。賢いスズキさんとイッシーがそう言うならば、信じてもうしばらく捜索してもいいだろう。と、僕は安心して付近をテケテケと横歩きして周囲を見渡す。
しばらく景色を見渡して手がかりを探していると、岩陰で何かが動いているのが見えた。
「ん?」
良く目を凝らすと、蟹、に見えなくもなかった。細い脚のようなものが岩陰にはみ出ているように見える。だがそれが蟹の、ズワイガニの脚だと思い込んでしまうと、それを確認するために近づかざるを得なかった。横歩きでテケテケと走っていく。
「ズワイガニ! 行くな!」
横歩きなので、前と後ろを見ることが出来たお陰で、急にイッシーがその身を海中でうねらせながら近づいてきたのが見えた。後ろのイッシーに注意を向けるが、何を言っているんだろうか?
「それは、
忠告が、少し遅かった。注意を前方向に向けたころ、その脚のように見えた何かが、みるみる内に黄土色の、それも水色の斑点の柄をしたものへと変色していく。蟹の脚に擬態して、僕を誘い込もうとしていると、遅まきながら気づいてしまった。
「今ですぜ、オオカミウオさん」
ヒョウモンダコの合図と共に、岩陰から大きな顔が露わになった。その口は大きく、中には鋭い牙がうかがえる。そして、その口が大きく開いた!
「くっ!」
ギリギリ逆方向に走ることで、オオカミウオの噛みつきを回避。したと思った。
脚を一本持っていかれた。オオカミウオはその体を岩陰から出して、脚を咥えたまま恐ろしい速さで僕を食らいつこうとする!
「乗れ!」
ひらひらするその身をハサミで挟み、その泳ぎのに乗って逃走を図る。だが、それでもしつこくオオカミウオは追いかけてきた。しかも逃走の方向が悲しいかな、上へ上へと昇ってしまっていた。イッシーも慌てて気づかなかったのだろう。
「
また、あの、蟹。あいつ、今そういったのか?
あいつが、まさかあいつが父さんを?
「余計なことを考えるな! 生きる事だけ考えるんだ!」
イッシーが泳ぎながら、僕に叫んだ。分かっているんだ。イッシーは分かっていて、僕の命のために動いてくれているんだ。挟むハサミに力が籠る。
オオカミウオは筋肉だらけの体で海を泳ぐ。しかし足手まといである僕を連れているため、水の抵抗がイッシーの泳ぎを遅らせているんだ。
「ぐぬぬぬぬぬ~~!!! 絶対に離すなよ!」
イッシーもそろそろ限界だ。このままでは逃げられない。離せば、イッシーだけは助かるだろう。僕のせいで彼も傷つくことはないのだ。そう諦めかけていた時。
「イッシー代わって! 私が引く!」
海上がそろそろというところで、スズキさんが横から泳いで来てくれた!僕は一瞬ハサミを離し――――
ガブ!!
「ぐっ」と唸る。離したハサミとは反対のハサミでスズキさんの尾びれを掴んだ瞬間に、離して疲れたハサミを、オオカミウオに食われてしまった。がぶがぶとかみ砕かれ、オオカミウオはそれを飲み込んだ。
「ハサミと脚で元気百倍だ! さっさとおかわりを寄こしやがれ!」
がばっと大きく開く口。しかしスズキさんの泳ぎによって、その噛みつきを回避することはできた。が、スズキさんはそこまでスタミナがない。勢いは一瞬で失われてしまった。
「く、ごめん、ズワイ君......」
苦しい顔をするスズキさんだった。が、
天の光を遮る、海上の影を。
「頑張ってスズキさん!
その言葉に一瞬戸惑いを見せたスズキさんだったが、同じことに気づいたのか、力を振り絞って海上に泳ぐ。
「食わせんぞ! そいつは俺の獲物だ!」
オオカミウオは焦りを見せ、動くひれに力が入った。ガブガブと噛もうとしてくるが、何とか避ける。
そして――――
「今よ! 行ってらっしゃい!」
スズキさんが最後の力でひれを上に放り出した。その勢いを利用して、僕は海上に上る。その陰から、丸い救いの手が差し伸べられていた。
「くっそぉぉぉぉぉ!!!」
オオカミウオの叫びは、海上の僕にはもう聞くすべがなかった。
* * *
「おおおおお! 言ってた通り蟹がいた!」
一人の男が、網を引き揚げながらテンションを高めていた。岸からおよそ1キロメートルほど離れた海辺に停止させている船の上で、釣りをするもう一人の男に網の中身を見せた。
「いやいやいや、この前見た蟹は潜ってた時に見た奴で、海上に浮いてるのなんて見たことねぇよ! 何で蟹が泳いでんの? すげぇな」
釣りをしている男は、網を持つ男とともに歓喜する。が、即座に困惑を露わにした。蟹が海上付近を泳いでいる。奇妙である。更には大きな魚影が2つほど見えたため、しかも一匹は恐らくオオカミウオという大物な魚なため、蟹なんかに注意を惹かれている場合ではなかった。
「ん? こいつ手脚が何本かもげてる、それに少し小さいし」
奇妙な話をどうしても聞いてほしいのか、釣りをする男に執拗に話しかけた。仕方がなく蟹を見ると、ハサミが一本しかなく、脚が一本欠けている小さなズワイガニだった。わたわたと網の中で暴れているその様子は、まるで親に抱かれるのを嫌がる子供のようである。そこで、釣りをする男はあることを思いついた。
「あんまり可食部少ないし、それエサに使っていい?」
「え、あ~」と、少し悩んでから、少ししか食べられないくらいならもっと大物を目指すべきだろうと思い至り「大物釣れよな」と網の中のズワイガニを渡した。
蟹を持つ手とは別の手で釣り針を持ち、その釣り針を蟹のハサミの関節部分を抉るようにひっかけて、大物を楽しみにして言う。
「オオカミウオっぽい魚影がいてさ、多分この蟹狙ってるんだと思うんだよね、だから今がチャンスだ」
「お、良いね釣ろうぜ、まぁどうせこいつは美味しく食べてやれないわけだし、エサとして有効活用される方が、こいつも幸せだろうしな」
二人は、何の感情の揺れもなく、蟹の気など知る由もなく、ただ大物を楽しみにする、まるでサンタさんからのプレゼントを待ち遠しくする表情で、釣り針が付いた蟹を海にドボン放り投げた。
* * *
「なんで」
なんで。
なんで、こいつらは僕を海に落とすんだ。
抉られた関節部分から血が漏れ、海に濁る。
泳ぐ機能を持たない蟹は本来こんな海で泳ぐことなんてできない。だから、僕はこのまま沈むことしかできない。
いや、沈めるならまだましだろうか。
「ぐははは! 天は俺の味方をしているようだ!」
海上では、ただ沈んでいく僕を狙いすましている、父の仇であるオオカミウオの姿があった。そいつは確実に狙いを定め、周囲にスズキさんやイッシーがいないことを確認して、ガブリとかじりつく。脚がもがれ、静かに海底に沈んでいく。砕かれた甲羅のヒビから、僕の血が、みそが、生命が、オオカミウオの喉に流れていく。
「やはり素晴らしい栄養だ! それも若き蟹のみそ! うまい! うまいぃぃぃぃ!!」
憎たらしい歓喜の叫びを聞きながら、僕は祈った。せめて、こいつに天の裁きが下らんことを。
* * *
「うまい! うまいーーっ!!」
オオカミウオは若いズワイガニのみそに舌つづみを打っていた。数日前にズワイガニの味を覚えて以来、食べたくて食べたくて仕方がなかったのだ。
そんなオオカミウオに取引を持ち掛けたのが、ヒョウモンダコだった。オオカミウオ一匹では広大な海でズワイガニをピンポイントで探すことは困難。なので、騙しのプロであるヒョウモンダコは「天寿を全うする者、天からの救いあり」という噂を利用して、「行方不明になった父が天に上った」と、噂に尾ひれを付けて巧みにオオカミウオのいる岩場まで誘い出したのだ。
食い損ねた蟹の手脚をヒョウモンダコへの報酬にしていたが、もう2、3本くらい食い損ねてやってもいいだろう、とご満悦なオオカミウオだったのだが、口の中にある違和感を覚えた。砕かれた甲羅とは違う、尖った物の感覚。それはハサミの先だろうか? それとも甲羅の棘だろうか? 否。
「体が、引っ張られる!? 何だこれは!?」
オオカミウオはその身を大きく右往左往させてもがく。が、それでも身体の自由が利かない。口に何かが引っかかり、それが上に引っ張ってくる。いくら暴れても、体の自由が戻ることはない。どんどんと上へ上へと。
「くそ、くそ! くそおおおおお!!!!」
叫びは天に届くはずもなく、オオカミウオは、こうして天に
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